LOGINその夜。カフェへ戻ってからも。エマの頭から、三作目が離れなかった。十九歳の自分が描いた絵。あの頃は。自分でも上手く説明できなかった。誰かに決められた場所へ進みたくない。けれど、自分がどこへ行きたいのかも分からない。だから。明るい窓の外へ背を向けた。浜中さんは。それを、立ち止まることを自分で選んだ人だと言った。玲は。外へ出たいのに、その方法を知らない人だと思っていた。どちらも。間違いではない。けれど。今のエマが同じものを描くなら。きっと。全く違う絵になる。そのことに気づいた瞬間。身体を起こしていた。時計を見る。午前一時を過ぎている。明日も仕事がある。分かっている。それでも。枕元に置いたスマートフォンより先に。頭の中で色を探していた。この前。玲から渡された顔料。エレナなら選ばなかった、少し濃い色。あれを。使いたい。そう思った。***翌日。仕事が終わると、そのまま海岸沿いの倉庫へ向かった。扉を開ける。昼間に籠もった熱と。油と顔料の匂い。棚には浜中さんから譲ってもらった画材。壁際には。途中まで描いた大きなキャンバス。エマはバッグを床へ置いた。しばらく。絵を見る。以前は。描きたいと思っても。ここへ来ると手が止まった。一色置く。違う。消す。また考える。何を描きたいのか。なぜ描くのか。答えを探すうちに。エレナの頃の自分が後ろから覗いてくるような感覚があった。これはエレナなら描く。これは違う。この色は昔使った。この構図は似ている。気づけば。エレナではないことを証明するために、絵を描いている。だから。苦しかった。でも。今は違った。エマはキャンバスの前へ立つ。筆を取る。玲から渡された顔料を開けた。以前。玲が見ていた色とは違うものを選んだ時。どうしてそちらを。と聞かれた。新しさを生み出したい。あの時。自分でも驚くほど素直に答えた。今なら。もう少し分かる。新しくなりたいわけではない。もう。新しくなっていた。八年。絵を描かなかった時間も。この町へ来てから見た海も。カフェで働いた時間も。子どもたちと描いたことも。浜中さんとの会話も。全部。自分の中に積み上がっている。エレナを消したから。エマになったのではない。
「まだ借りたばかりなので」「本当に生活感がありませんでした」「これから少しずつ増やします」そこで玲が。少し笑う。「エマさんが来ても居心地がいいと思えるものを」エマが玲を見る。「私を基準にしないでください」「努力します」「しないでしょう」「たぶん」認めるものだから。また少しだけ。笑いそうになる。「それに」玲が続けた。「三作目を見せるのも、緊張しました」今度は。エマの笑みが消えた。「エレナさんの作品を?」「はい」玲の視線が。暗い海へ移る。「あの作品をどう感じるのか、エマさんに聞きたかった」静かな横顔。「不思議なんです」「何がですか」「以前は」玲は少し考えた。「エレナの作品を、人に見せること自体があまり好きではありませんでした」エマの指先が僅かに動く。「僕が持っているものを、他人に見せる必要がないと思っていた」知っている。玲は。本当にそういう人だった。「でも最近は、少し変わりました」玲がこちらを見る。「エマさんには見てほしい」胸が締まる。「どう感じるのか聞きたいし。僕があの作品をどう見ていたのかも知ってほしい」少しだけ間を置く。「僕のことを知ってほしいからだと思います」エマは目を逸らした。「……私のことは、何も知らないのに」「そうですね」玲は否定しなかった。「だから知りたいんです」「知らない方がいいこともあります」口から出た言葉に。自分で驚いた。玲も。僅かに表情を変えた。けれど。「何がですか」とは聞かなかった。「分かりました」それだけだった。エマが思わず見る。「聞かないんですか」「今は」玲は穏やかに答える。「エマさんが話したくないことを、無理に聞かない方がいいと思っています」また。胸の奥が苦しくなる。昔なら。聞いた。エレナが何かを隠せば。知りたがった。玲自身。好きな人間のことを把握していない状態が苦手だった。今は。待つと言う。「ただ」玲の声が柔らかくなる。「いつか、話してもいいと思うことができたら」目が合う。「僕に教えてもらえたら嬉しいです」エマは。何も言えなかった。「小さなことでもいいです」玲は続ける。「好きな色でも」胸が跳ねる。「今日みたいに、どういう絵が好きなのかでも」穏やかな声。「カフェで疲れた
大きな窓の向こうは、もう真っ暗だった。海は見えない。ただ、波の音だけが遠くから届いている。「では、送ります」玲が車の鍵を手に取った。「お願いします」玄関を出ると、夜の空気は思っていたより涼しかった。昼間の熱を残した地面に、海からの風が流れている。玲は駐車場まで歩くと、助手席の扉を開けた。「どうぞ」「ありがとうございます」乗り込む。東京から持ってきてもらったという玲の車。革の匂い。低いシート。運転席へ回り込む玲の姿を見ながら。エマは、妙な懐かしさを覚えた。昔も。よく、こうして玲に送ってもらった。アトリエから。展示会場から。食事のあとに。もう八年も前のことなのに。助手席から見る玲の横顔は、それほど変わっていない。エンジンがかかる。「寒くないですか」「大丈夫です」玲が車を出す。少しして。「ワイン、二杯くらいでした?」エマは横を向いた。「数えていたんですか?」「見ていたので」あまりにも自然に返される。エマは少し黙った。「……本当に最近、隠さなくなりましたね」「何をですか」「私を見ていることです」言ってから。少しだけ後悔した。普段なら、こんな言葉は選ばない。やはり。ワインで少し気が緩んでいる。玲の指が、ハンドルの上で僅かに動いた。「隠した方がいいですか?」「そういう意味ではありません」「では、見ていても?」エマは玲を見る。穏やかな顔をしている。「そうやって、都合よく解釈しないでください」玲が小さく笑った。「すみません」全く反省していない声だった。***夜の海岸線を、車が静かに走っていく。街灯は少ない。建物が途切れるたび。暗い海が窓の向こうに現れる。車内には音楽もない。低いエンジン音と。時折、タイヤが道路の継ぎ目を踏む音だけ。しばらくして。玲が口を開いた。「今日は来てくださって、ありがとうございました」「それは、もう聞きました」「何度でも言いたいので」「……そうですか」「はい」玲の口元が少し緩む。「浜中さんと一緒なら来ていただけるかもしれないと思っていました」エマが横を見る。「だから浜中さんも誘ったんですか?」「それだけが理由ではありません」すぐに否定する。「浜中さんとは展示の話もしたかったですし、エマさんが信頼している方なのも分
浜中さんを見送ったあと。広いリビングには、急に静けさが戻った。さっきまで人の声で満ちていた空間が、今は波の音だけを遠くに残している。テーブルには飲みかけのグラス。空になった皿。窓の向こうには、夜の海。玲は少し離れた場所に立っていた。人前であれだけ真っ直ぐに気持ちを口にした人とは思えないほど、今は慎重にエマの様子を見ている。「……少し、歩きますか」玲が聞いた。「テラスなら、風もあります」エマは一瞬迷って。頷いた。「はい」二人で外へ出る。潮風が、少し火照った頬に気持ちよかった。ワインを飲んだからだろうか。いつもより。玲との距離を強く意識する。それでも。逃げたいという感覚は、不思議と薄かった。***しばらく海を見てから。エマは何気なく玲へ聞いた。「そういえば」「はい」「神崎さん、ホストなのにご自身ではお酒を飲まれなかったんですね」玲が少しだけ目を瞬いた。「気づいてたんですか」「ずっと炭酸水でしたよね」「はい」少し間を置いて。玲は何でもないことのように言った。「自分でエマさんを送りたかったので」エマは玲を見る。あまりにも自然に言われて。一瞬、返事に困った。玲も。そこで自分の言葉の響きに気づいたらしい。「……変な意味ではなく」珍しく、少しだけ急いで補足する。「浜中さんと来られるのは分かっていたので。帰りに、もし少しお時間をいただけたらと思っていただけです」エマは思わず笑った。「今さら補足するんですね」「今のは必要かと思いました」「人前ではあれだけ言ったのに?」玲が苦笑する。「人前で言ったからこそです。これ以上は警戒されたくないので」その言葉が。少し可笑しかった。本当に。最近の玲は。押すところと引くところを覚え始めている。それがまた。エマには困る。「……ああいうこと」エマは海へ視線を戻した。「人前で言われるのは困ります」ようやく。言わなければと思っていたことを口にする。玲の表情がすぐに真面目になった。「すみません」今度は、迷わず謝った。「本当に。あの場では、結衣さんとのことだけ否定すればよかったですね」「はい」「でも」玲は少しだけ言葉を止める。「エマさんに誤解されたままなのが、嫌だったんです」胸の奥が、小さく動く。「だからって」「分かって
「朝倉さんに会ってから、思い出したんです」玲の言葉が、まだ部屋の中に残っているようだった。「誰かに会いたいと思うことも、その人のことで予定を変えたくなることも」少しだけ笑って。「ほかの男性と話しているだけで、面白くないと思うことも」誰かが小さく息を呑んだ。黒木がわずかに視線を逸らす。浜中さんは、しばらく玲とエマを見比べていた。そして。「若いのう」場を和ませるように、朗らかに笑った。「そんなことをそこまで真っ直ぐ言われたら、エマさんはやっぱり困るだろうに」周囲から、ようやく柔らかな笑いが起きる。玲も少し苦笑した。「すみません」「神崎さんは謝ってる顔じゃないけどねえ」「言ったこと自体は後悔していないので」その返事に、また笑いが広がった。エマは何も言えず、グラスへ視線を落とした。困る。本当に困るのに。玲が人前でも、朝倉エマへの気持ちを少しも恥じなかったことが。胸の奥を熱くしていた。そんなエマを横目に見て。浜中さんが、今度は少しだけ声を真面目にした。「まあ、皆さんも」人々の視線が集まる。「エマさんは三年前にこの町へ来てから、ずっと静かに暮らしてる人だからね」エマが顔を上げた。浜中さんはこちらを見ず、そのまま続ける。「本人が話したくないことまで聞かない。余計なところへ広げない。それくらいは、町の人間として守ってあげてください」胸の奥が、じんと熱くなった。この人は。事情を知らない。エマが何から逃げてきたのかも。何を隠しているのかも。それでも。静かに暮らしたい人なのだと。それだけで守ろうとしてくれる。「もちろんです」黒木が先に答えた。ほかの美術館関係者も頷く。「間違っても週刊誌には話さないようにしないとね」誰かが冗談めかして言った。「それは本当にお願いします」玲が珍しく即答する。笑いが起きた。「神崎さんの方が切実ですね」「僕のことはどう書かれても構いませんが、朝倉さんは困りますから」また。自然に言う。エマは思わず玲を見る。玲もこちらを見た。目が合う。すぐに逸らす。それだけで、胸が落ち着かなくなった。***その後。会は静かに終わっていった。一人。また一人。挨拶をして帰っていく。三作目も、再び人の少ない部屋へ戻されたらしい。大きな窓の外は、もうすっかり夜だっ
「ああ」玲は、驚きもしなかった。「結衣さんのことでしたら、交際していません」あまりにも即答だった。女性が少し目を丸くする。「そうなんですか?」「はい。昔からの知人です。それ以上の関係ではありません」きっぱりと。曖昧さを残さない。エマは。なぜか少しだけ胸が軽くなった自分に気づいて。すぐにグラスへ視線を落とした。何を。安心しているのだろう。「じゃあ、今は特定の方はいらっしゃらない?」別の男性が興味深そうに聞く。玲は一度。僅かに考えるように黙った。それから。視線が動いた。真っ直ぐ。エマへ。心臓が。嫌な音を立てる。「お付き合いしている方はいません」そこまでは。普通だった。「ただ」玲の声が。ほんの少し柔らかくなる。「今、好きな方はいます」一瞬。周囲が静かになった。誰かが玲を見て。その視線を追う。一人。また一人。エマへ。視線が集まってくる。逃げたい。そう思った時には。玲が続けていた。「皆さんは、僕がエレナ・カワサキの公式作品を、最後の一枚を除いて保有していることをご存じかと思います」突然出た名前に。エマの呼吸が浅くなる。何人かが頷いた。この場にいる人間なら。知らない方が珍しい。玲がエレナ・カワサキの作品へ異常なほど執着してきたこと。市場へ出れば買い。貸し出しもほとんど行わず。最後の一枚を今も探していること。「僕は、彼女を亡くしてから」玲は静かに続けた。「仕事以外のことに、ほとんど興味を持てなくなりました」周囲から笑いは消えていた。玲自身が。それを口にすることの重さを。皆が感じ取ったのだろう。「仕事はします。人にも会います。食事にも行きますし、誘われれば必要な場所には顔を出します」穏やかな声。「でも」玲の視線が。またエマへ戻る。今度は。逸らさない。「その人が何を考えているのか知りたいとか」エマの指先に力が入る。「何が好きなのか。何を見ているのか。今日どうしているのか」玲は。少しだけ笑った。「そういうことを、自分から知りたいと思うことはありませんでした」胸が。苦しくなる。知っている。それが。どれほど玲らしくないことなのか。エレナだった自分は。誰より知っている。「そんなエレナ以来に初めてです」玲が言った。「仕事以外の時間を







