All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話 仕事まで守らないで

 最後にもう一度聞く。  彼女は鏡越しに私を見た。 「景都さんから聞いたんじゃないって言ったら、真帆さんは信じます?」  答えられなかった。  瀬名はベージュの一本だけを持って部屋を出た。メイク台には赤いリップが残り、照明の下で、使われるのを待つように立っていた。  景都が、次の撮影予定を組み直していた。  正確には、制作側へ変更案を出している。夜間撮影を減らす。私が会社へ移動する時間を確保する。炎上対応の取材は一か所へまとめる。  柊から渡された修正版には、赤字が何か所も入っていた。私の名前の横には〈負荷軽減〉と書かれている。文字だけを見れば、配慮だった。  資料を持ったまま共同生活棟を探すと、景都はリビングで電話をしていた。 「広告枠はそのままでいい。出演者の拘束だけ減らす」  こちらに気づき、指で一分待てと示す。  その仕草まで腹が立った。私の予定を先に変えておきながら、話す順番まで彼が決める。  電話が終わるのを待たず、修正版をテーブルへ置いた。紙の角が炭酸水の瓶へ当たり、小さな音を立てる。 「これ、私に聞かずに出したの?」  景都は赤字へ目を落とした。 「撮影負荷が高い。体調も崩したし、指も治ってない」  仕事はできると返すと、彼は〈できるかどうか〉とは別だと言いかけた。 「それ、本当に真帆さんが欲しいもの?」  後ろから瀬名の声がした。  冷蔵庫の前で炭酸水の蓋を開けている。瓶の中で気泡が一斉に立ち上がり、静かな部屋へ細かな音が広がった。  景都は横から入るなと低く言ったが、瀬名は気にせず、撮影を減らしてほしいと私が頼んだのか尋ねた。  資料の上では、夜間撮影が三回から一回へ減り、会社へ行く時間が確保されている。正直に言えば助かる。  けれど、助かる予定を誰かに先に決められることと、自分が望んだことは同じではない。 「……まだ、自分でも分からない」  瀬名は「ほら」と言いかけ、景都に名前を呼ばれて口を閉じた。代わりに、自分は撮影が増えたので追加報酬を求めたとだけ話した。 「欲しいもの、言わないと分からないので」  私に言われたくないと返すと、彼女は素直に頷いた。 「ですよね」  炭酸水を持って部屋を出る。廊下へ消えるまで、瓶の中では気泡が上がり続けていた。  景都は資料へ目を落とした。 「この変
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第22話 世界には、強い人

 しばらくして、景都の指が外れた。 「……分かった」  本当に分かったのかと確かめると、彼はすぐには答えなかった。 「納得はしてない。でも、その資料にはもう手を出さない」  手を出したい気持ちも、自分が正しいと思っていることも、引っ込めてはいない。ただ、資料から手だけを離した。◇ 夕方、私は灯と予定表を見直した。  夜間撮影は三回から一回へ減らす。会社への移動時間を九十分確保する。炎上取材は一か所へまとめる。景都が作った変更案と、結果は大きく変わらない。  それでも、誰と相談し、どこを残すかは自分で決めた。  制作へ送ったメールの宛先を確認する。CCには灯と柊だけを入れた。  送信ボタンを押すと、画面の右下に〈送信済み〉と表示された。  景都の名前は、そこにはなかった。  翌朝、灯が会議室のドアを閉めるなり、タブレットを私の前へ滑らせた。  画面には、主要取引先の広報担当から転送されたメールが並んでいる。差出人の会社名はどれも違うのに、文面の末尾には同じ一文があった。  〈番組に関する事実確認が必要な場合は、LATTICE SHIELDからも説明可能との連絡を受けています〉 「深見さん側から入ったらしい。うちが取引している会社、ほぼ全部」 「取引先のリスト、渡した?」 「渡してないよ。公開情報と過去のリリースを拾えば分かるけど……普通、そこまでやる?」  灯は呆れたように言ったが、私には景都が調べている姿を簡単に想像できた。会社名を一覧にし、影響の大きい順へ並べ、必要な窓口だけを選ぶ。本人にとっては、特別なことですらないのだろう。  午後の商談では、先方は番組の話を一度も出さなかった。新作ポーチのファスナーを何度も開閉し、秋冬向けの灰色をもう少し青くできないかと相談された。私も縫製見本を裏返し、内布の色と納期だけを答えた。  いつもの仕事が、いつもの形で進んだ。  商談後に受信箱を開くと、保留になっていた発注のうち二件が再開へ変わっていた。助かったと思う。その事実と同じ重さで、腹が立った。◇ 夜、駅前のカフェへ景都を呼び出した。  閉店まで一時間もない店内には、コーヒーマシンを洗う水音が響いている。景都は仕事帰りらしく、椅子の横へ黒い鞄を立てた。私が見せたメールを読み終えても、驚いた様子はなかった。 「取引先まで連絡
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第23話 私には、強すぎた人

「昨日、私より先に部長と話したでしょう」 「必要だと思った」 「そこ。私が会社へ着く前に、もう話が終わってた」  景都はしばらく黙った。反論より先に、次の対策を探している顔だった。 「……次に同じことが起きたら、動く前に君へ連絡する」 「今、次の話にしないで」  彼の口が止まった。答えの代わりに、冷めかけたコーヒーを一口飲む。  少ししてから、商談はどうだったと聞かれた。 「予定どおり終わった。保留も二件、戻ったよ」 「そうか。……それは、よかった」  そこだけは、素直に受け取れた。 「うん。助かったことまで否定するつもりはないよ」  テーブルの中央に置かれた伝票を、私は自分の側へ引き寄せた。景都が手を出すより先に、コーヒー一杯分の金額を確かめる。  仕事を守られた日の夜くらい、これだけは自分で払いたかった。  四社合同の対応会議は、LATTICE SHIELD本社のガラス張りの会議室で行われた。  番組スポンサー、配信局、制作会社、そして景都の会社。テーブルには社名入りの資料と人数分の水が置かれ、空調の音だけが不自然に大きく聞こえる。mellow noteへの影響も議題に含まれるため、私は最初の三十分だけ同席することになっていた。  景都は私の隣ではなく、長机の中央に座った。 「削除要請の基準を一本化します。事実誤認、個人情報、業務妨害。この三つです。番組や出演者への感想は対象にしません」  スポンサー側の役員が、企業イメージへの影響を理由に批判投稿も含めたいと言った。景都は資料の該当箇所へペン先を置いたまま、顔を上げる。 「視聴者に都合のいい意見だけ残せば、その事実自体が次の批判材料になります。虚偽と批判は分けるべきです」  声を荒らげたわけではない。それでも、役員は続きの言葉を探すように資料へ目を落とした。  制作側の柊が、出演者情報へ外部企業の監修を入れるのは難しいと指摘すると、景都は判断権には触れないと答えた。管理方法と事故対応だけを契約へ追加し、今日中に法務案を出す。相手が断りそうな理由を一つずつ拾い、先回りして解決策を示していく。  家では郵便物を大きさ順に揃え、旅行の予定を分単位で組む人だった。その同じ癖が、この部屋では誰も声を挟めないほど正確に働いている。 「水城さんの勤務先については、こちらで継続対応
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第24話 言わない私も、ずるかった

 会議で何人もの反対を押し切った人が、そこだけは聞き返さなかった。  数歩離れてから、私は彼の名前を呼んだ。景都の社員証が胸元で揺れ、すぐに止まる。 「景都、大丈夫?」 「……何が」  さっきまで、どんな質問にも間を置かなかった。その人が私の一言だけに答えられない。 「朝から何も食べてないでしょう。会議の水も開けてなかったし」  視線が、手にした未開封のボトルへ落ちた。 「このあと時間があれば食べる」 「ちゃんと――」  口にしかけて、やめた。  景都の手元には、まだ会議資料が開いたままだった。スマートフォンの画面には、次の予定らしい通知が出ている。 「……会議が終わったら何か食べて」 「そうする」  本当に食べるのかは怪しかった。  景都は資料を揃え、腕時計を見る。 「次、もう始まる?」 「すぐ」 「じゃあ、行きなよ」  景都は鞄を取ったが、その場から動かなかった。 「十九時には終わると思う」 「うん」  それだけ返しても、まだこちらを見ている。 「終わったら連絡していい?」  思わず顔を上げた。 「……仕事の話?」 「違う」  答えだけは早かった。  少しだけ可笑しくなった。 「起きてたら返す」 「分かった」  会議室の壁には、LATTICEの行動指針が小さく掲げられている。  〈Protect before impact〉  事故が起きる前に守る。そのために作られた会社と、私が息苦しくなった結婚生活が、同じ人の中から生まれていた。  それでも、廊下の先へ戻っていく背中を、私は以前より長く見ていた。  会議の翌日、撮影は予定より早く終わった。  共同生活棟のテラスでは、スタッフが照明ケーブルを巻き取っている。風が吹くたび、テーブルに残された紙カップの蓋がかすかに鳴った。景都はその一つを手で押さえ、私が向かいへ座るのを待っていた。 「昨日の会議、格好よかったよ」  口にした瞬間、少し恥ずかしくなった。景都の目がわずかに動く。 「……そう」 「でも、あの部屋で景都が話すたび、みんな黙ってた」  景都は紙カップを押さえたまま、こちらを見る。 「昔は、それが頼もしいって思ってた」  風に煽られた髪を耳へかける。 「家でも、ずっとあんな感じだったんだよね」  景都の指がカップの縁で止ま
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第25話 離婚届の前の日

 その先の言葉がうまく出てこない。助けてほしかった。けれど、助け方まで決められたくなかった。口にすれば矛盾して聞こえることを、私は結婚していた頃にも説明できなかった。 「できないなら、私から『助けて』って言いたかったんだと思う」  景都は反論しなかった。親指だけが、紙カップの継ぎ目を何度もなぞっている。 「善意だった」  しばらくして出てきたのは、それだけだった。 「知ってる。私が危ないと思ったことも、放っておけなかったことも」 「なら――」 「知ってる。……でも、知ってるから平気になるわけじゃない」  彼の唇が閉じた。  彼は何も言わず、テーブルを見ている。 「今日は、ここまでにしたい」 「まだ聞きたいことがある」 「私も、まだ言えるほど分かってない」  景都はすぐには頷かなかった。それでも、いつなら話せるのかとは聞かなかった。  風が止み、押さえられていた紙カップの蓋も動かなくなる。  その沈黙なら、今は置いていける気がした。  瀬名に言われた言葉が腹立たしいのは、少しだけ当たっていたからだ。  欲しいものを言わない。助けてとも頼まない。それで相手が気づかなければ、愛されていないと思う。景都の欠点を数えるより、その中に自分の癖を見つける方がずっと居心地が悪かった。  翌日の撮影後、廊下の窓際で景都を見つけた。外は雨で、ガラスには室内の照明が薄く映っている。彼は次の収録資料を読んでいたが、私が近づくとタブレットを閉じた。 「昨日の続き、少しだけいい?」 「聞く」 「そういう、会議を始めるみたいな顔しないでよ」  景都は困ったように眉を寄せた。普通にしてと言いかけて、私はやめた。景都にとっての普通が何なのか、私もよく知らなかった。 「私も、ずるかったと思う」 「結婚していた時のこと?」 「うん。流産した夜、景都に来てほしかった」  彼の表情が変わった。閉じたタブレットを持つ指に、わずかに力が入る。 「君は、病院には来なくていいと言った」 「言ったよ。仕事へ行ってって、私から言った」 「だから行った」 「分かってる。でも、本当は来てほしかった」  雨粒が窓を斜めに流れ、景都の顔へ重なって見えた。 「何で、そう言わなかった」  責める声ではなかった。だから余計に答えにくい。 「言ったら来るって分かってた
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第26話 追ってこなかった理由

 思わず笑うと、景都もわずかに口元を緩めた。夫婦だった頃にも、彼は慰めるための嘘だけはつかなかった。 「瀬名さんに、何も言わないのに守られるって言われた」  景都の表情から、わずかな笑いが消える。 「気にしなくていい。あの人の言い方は――」 「ほら、また消そうとするでしょ」  彼の言葉が途中で止まった。 「あの人の言い方は嫌い。でも、全部外れてるって言い切れない。……それが腹立つの」  廊下の端で、清掃員がモップを動かしていた。濡れた床を避けるため、私たちは窓際から動けない。 「私も何も言わなかった。景都が気づくか、試してた」  景都は、私を慰めも否定もしなかった。  雨が弱くなるまで、私たちは濡れた床の手前に並んで立っていた。  離婚届を置く前日の朝、冷蔵庫には一枚の紙が貼られていた。  白い扉の中央。丸い灰色の磁石。景都の字で、病院名と〈14:00〉という時刻が書かれている。三週間延ばしていた再診の予約だった。 「十四時で取った。車も出す」  ネクタイを結びながら、景都はいつもの予定確認と同じ調子で言った。 「その時間、会社にいるよ」 「休めるように連絡してある」  次の一言には間があった。「誰に?」という問いだった。 「君の部長。事情は必要な範囲だけ伝えた」  景都は結び終えたネクタイを直し、冷蔵庫の紙へ一度目をやった。胸の奥が、遅れて冷たくなった。 「どうして私を通さず会社へ言うの」 「通院を三週間延ばしてる。医師からも早い方がいいと言われただろ」  私は冷蔵庫の紙へ目を逸らし、「だからって、私の予定を全部決めないでよ」と返した。  景都の指が、鞄の持ち手に掛かったまま止まった。 「今は無理して出社する必要はないと思う」 「そういう話じゃないよ」  私が紙へ手を伸ばすのを見て、景都はようやく眉を寄せた。 「じゃあ、何が嫌なんだ」  答えられなかった。病院へ行けば、もう妊婦ではない身体を改めて確認される。会社へ行けば、いつもどおり新商品の会議がある。どちらも嫌で、どちらを選ぶかだけは自分のものにしておきたかった。  私は冷蔵庫から紙を剥がした。磁石が床へ落ち、鈍い音を立てる。  景都は屈んでそれを拾うと、紙の皺を指で伸ばし、同じ場所へ貼り直した。  その動作を見た時、もうここでは暮らせないと思った。
last updateLast Updated : 2026-08-11
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第27話 今も、君が欲しい

 景都は何か言いかけて、結局そのまま口を閉じた。  それで終わるつもりらしい。私は眉を寄せる。 「待って。そこで終わらないで。まだ話したい」  景都は一瞬、何をすればいいのか分からない顔をしたあと、椅子へ座り直した。  再診には結局行った。景都がそのことを知っていたのは、先に連絡を入れた私の部長から、休暇処理が完了したと秘書へ返事があったためだという。 「私が知らない間に、会社から景都のところまで話が回ってたんだね」 「休暇の確認だと思ってた」 「景都にはただの確認でも、私は怖かった」  彼は言い返さなかった。  前日の夜、私は冷蔵庫の中まで片づけていた。景都が買った無糖の炭酸水を二本だけ残し、自分用のヨーグルトや調味料は捨てた。生活の中から、自分の分だけを抜き取るような片づけ方だった。 「冷蔵庫、見なかった?」 「中までは見てないよ」 「見てたら、何か気づいたかもしれないのに」  景都はしばらく黙り、静かに尋ねた。 「……冷蔵庫まで見ればよかったのか」  返事ができなかった。たぶん、見てほしかった場所は冷蔵庫ではない。  ただ、あの日の通院予定を私以外にも知る人間がいた。その事実だけが、瀬名の知っていたことへ細い線を伸ばしていた。  最終週の質問カードは、白い封筒に一枚ずつ入れられていた。  三人でテーブルを囲み、瀬名が最初の封筒を開く。カードへ目を落とした彼女の口元から、いつもの笑いが少しだけ消えた。 「『離婚した相手を追いましたか?』。……最終週らしい質問ですね」  柊はカメラの横で頷いただけだった。  私が離婚届を置いて家を出たことを確認されたあと、質問は景都へ向いた。照明の熱で、テーブルの上の水滴がゆっくり乾いていく。 「深見さんは、水城さんを追いましたか」  景都はカードを見たまま、数秒黙った。 「追っていません」  知っていた答えなのに、収録用のマイクを通すと別の事実のように聞こえた。 「どうしてですか」  柊に促され、景都は私を見る。 「……これ、どこまで言っていい」 「今さら私に確認するの?」 「俺だけの話じゃないから」  嫌だとは言わなかった。景都は、玄関に離婚届があり、私の荷物がほとんどなくなっていたことを話した。 「追うなという意思表示だと思いました」  瀬名が「普通はそう見え
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第28話 選ばれたかった

「それで、分かった?」  景都は手の中の送信機を見下ろし、スタッフへ渡した。受け取ったスタッフが離れるまで、答えは返ってこなかった。 「君を選びたい。それは分かった」 「それって、復縁したいということ?」 「復縁したいのかは、まだ自分でも分からない」  思わず顔を見ると、景都は視線を逸らさなかった。 「君を選びたい。でも、前の家に戻るところまで考えると……違う気がする」  以前の景都なら、そこで無理にでも続きを言ったはずだ。今は言葉が足りないまま、私を見ていた。 「じゃあ、離婚した時は。止めたくなかったの?」 「止めたかった」  今度も間を置かず返ってきた。 「追えば、連れ戻せるとは思った」 「じゃあ、どうして」  景都はすぐに答えなかった。 「……追ったら、そのまま連れて帰ると思った」 「どこへ?」  景都はそこで黙った。 「……前の家に。たぶん」  廊下の端で、撮影用の質問カードがスタッフの手から箱へ戻されていた。〈追った〉か〈追わなかった〉か。カードの上では二つに分かれることも、実際の気持ちはその間にいくつも残る。  私は景都が追ってこなかった理由を、まだ全部理解したわけではない。  ただ、愛していなかったからではない。その一つだけは、あの即答を信じてもいいと思った。  翌日の夜、共同生活棟のキッチンには私と景都しかいなかった。  ほかの出演者は屋外撮影へ出ており、冷蔵庫のモーター音と、蛇口から落ちる水滴の音だけが続いている。私は冷蔵庫からペットボトルを出し、扉を閉めようとした。 「昨日の続き、今してもいい?」  景都から切り出した。 「まだ残ってるの?」 「俺の中では残ってる」  私は扉から手を離した。庫内の明かりが消え、ステンレスの表面へ二人の姿がぼんやり映る。  景都は少し考えたあと、逃げ道のない言い方をした。 「今も、君が欲しい」  ペットボトルの蓋を回しかけた手が止まる。 「それ、物に言う言葉みたいで嫌なんだけど」 「分かってる。言い方がよくないのも。でも、ほかに一番近い言葉がない」 「好きとか、愛してるとかは?」  問い返した自分の方が先に目を逸らした。 「好きだ。今も」  景都は一度息を吸った。 「でも、それで戻れとは言えない」  簡単に聞こえたと伝えると、景都は短く息を
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第29話 選ばれたあとを、考えてなかった

「欲しいって言われても、それだけじゃ戻れないよ」 「ああ」 「……それで終わり?」  景都の視線が少し下がった。 「終わりにはしたくないんだ」 「じゃあ、どうしたいの」 「どうしたいのか、まだ自分でも分からない」  その時、背後で扉が開いた。  瀬名が空のグラスを持って立っている。私たちと目が合うと、少しだけ気まずそうに眉を上げた。 「すみません。聞くつもりはなかったんですけど、最後の方だけ」  景都の顔が険しくなる。 「どこから聞いてた」 「真帆さんが欲しい、くらいからです。結構前ですね」  瀬名は平然と冷蔵庫を開け、炭酸水を取り出した。 「安心してください。私も景都さんのこと、欲しくないので」 「誰も聞いてない」 「大事な確認かと思って」  彼女はグラスへ炭酸水を注ぎ、「すぐ戻りますから」と言いながら、なぜかキッチンの端にあるスツールへ腰を下ろした。  景都の手は、キッチン台の端に置かれたままだった。私へ伸びてもこないし、答えを急がせもしない。  欲しいと言った人が何も取ろうとしない。その距離だけが、言葉より長く残った。  瀬名は炭酸水のグラスを持ったまま、キッチンの端から動かなかった。撮影は終わっているのに、天井の照明だけが明るく、三人の影を床へ薄く落としている。  私は追い出す気にもなれず、景都へ向き直った。 「どうして番組に出たの。私に会いたいだけなら、ほかにも方法はあったでしょう」  景都は即答しなかった。冷蔵庫のモーター音が止み、瀬名のグラスの中で炭酸だけが細く弾けている。 「君に選ばれたかった」 「私に?」 「ああ」 「それで、私が〈復縁〉を上げたら?」  景都の口が開き、閉じた。 「……そこから先は?」 「考えた。前の家が浮かんだ」 「それ、戻るってこと?」  景都は冷蔵庫へ視線を逃がした。炭酸の弾ける音だけが続いた。  私はもう一度聞こうとして、やめた。 「……戻ることになるのか、自分でも分からない」  私はテーブルに残った水滴を指で押し広げた。何か言ってほしいのに、すぐ答えられても腹が立ちそうだった。 「景都、仕事ならそんな顔しないよね」 「仕事じゃないよ」  瀬名がグラスの縁へ口をつけたまま、小さく笑う。 「恋愛番組ですからね」 「瀬名さんは黙ってて」 「はい」
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第30話 答えは、まだない

『君に選ばれたかった』は、五年前なら泣いて喜んだかもしれない。  今も嬉しかった。悔しいくらいに。  でも、その一言の先に何があるのかは、まだ見えなかった。  翌日の夕方、庭では夜の撮影に備えて照明が組まれていた。黒いスタンドの位置が変わるたび、芝生に落ちる影も長くなったり消えたりする。  景都は屋外テーブルでスマートフォンを見ていたが、私が近づくと画面を伏せた。会議通知が一件残っているのが見えた。 「昨日の続き、聞いていい?」 「まだあるのか」 「あるよ。私が〈復縁〉を上げたら、そのあとどうするの」  景都は答えず、庭の端でスタッフが持ち上げた照明を見た。白い光が一度だけ私たちのテーブルを横切る。 「前の家には戻らない」 「そこは即答なんだ」 「そこだけは」 「じゃあ、どこ?」  今度は返事がない。  私は紙カップの継ぎ目を爪でなぞった。 「私、瀬名さんじゃないって分かれば、それで戻れると思ってた」  景都がこちらを見る。 「今は?」 「……もう考えなくて済むと思ってた」 「何を?」 「分かんない。瀬名さんのこととか、景都のこととか。……全部」  笑うつもりはなかったのに、息だけが少し漏れた。景都は笑わなかった。  庭の端でケーブルを巻く金具が、乾いた音を立てる。 「番組が終わっても、会いたい」  毎日同じ家にいるのに、その言葉だけは初めて聞いた気がした。 「復縁しなくても?」 「ああ」 「それ、私が断る側になるじゃん」  景都が黙った。  伏せたスマートフォンが短く震える。 「会議、行かなくていいの」 「あとでいい」 「珍しい」  景都の親指が、スマートフォンの縁で止まった。 「……断る?」 「今それ聞く?」 「聞きたくないけど、聞いた」  ちょうどその時、試験中の照明が一斉に落ちた。庭が一瞬だけ夕方の暗さへ戻る。  景都の顔が見えなくなっても、視線だけは外れていない気がした。  数秒後に白い光が戻る。彼はまだ同じ姿勢で座っていた。  私は返事をせず、潰しかけた紙カップから指を離した。折れた跡だけが残った。遠くで、照明スタンドを引きずる音がした。誰かの靴音が、庭の外で止まった。  最終週の撮影前、誰もいない廊下で景都に呼び止められた。  スタッフは機材をスタジオへ運んでおり、床に
last updateLast Updated : 2026-08-13
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