All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 11 - Chapter 20

104 Chapters

第11話 何をしたか、全部見せて

 景都は私の向かいへ座った。 「取引先の件は、もう動かさない」 「もうって、どこまでやったの」  灯から届いたメッセージを開き、スマートフォンをテーブルへ置いた。  〈深見さん側から取引先リストについて確認された〉  景都の視線が画面へ落ちる。 「広報同士をつないだ。何社かには説明も入れた」 「何社かって?」 「今、一覧にしてる」 「誰が連絡したの。何を話したの」 「真帆、順番に――」 「またそれ」  景都の口が閉じた。  私は画面を指で押した。 「灯は知ってる。取引先も知ってる。なのに、私は知らなかった」 「説明するつもりではいた」 「いつ?」  答えは返らなかった。  キッチンでは、瀬名がカップを洗っている。水音だけがやけに近かった。 「一覧、できてなくてもいいから送って」 「mellow noteには共有する」 「そうじゃなくて」  言ったあとで、自分でも何が違うのか分からなくなった。  スマートフォンを引き寄せる。画面には、灯の名前が残っている。 「……私にも言ってよ。あとからじゃなくて」  景都の指が、伏せていた端末へ触れた。 「じゃあ、今ある分を送る」  すぐにスマートフォンが震えた。  画面にはファイル名が表示されている。私は開かずに、景都を見た。  景都は何か言おうとして、結局、端末へ目を落とした。  流しに置かれたカップ同士が触れ、小さく鳴った。◇ 昼前には、検索結果の一ページ目が別の景色になっていた。記事が消え、残った媒体も見出しを変えている。  灯が訂正通知を開いたスマートフォンを机へ置いた。送信時刻は午前二時四十八分。 「深見さん側が動かしたやつ」 「見れば分かるでしょ」 「分かってる顔じゃない」  画面を伏せた。  企画室の電話は減り、取引を保留した小売店からも〈予定どおり展開します〉と届いている。仕事だけを見れば、ありがたかった。  昨日まで止まっていたサンプル確認も再開し、後輩たちは通常の声で工場と話している。景都のしたことが、数字だけなら正しかったと分かる。  LATTICEの法務だけでなく、深見家の顧問や広告代理店まで動いているらしい。景都は家を頼らない。けれど一度使えば、私には見えないところで多くの扉が開く。  スマートフォンが震えた。 『今日十九
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第12話 助かった。でも嫌

「時間がなかった。放置すれば、もっと広がってた」  扉の下から差していた廊下の光が細くなった。撤収するスタッフの足音が遠ざかっても、景都の説明は続いた。 「うん」  顔を上げた景都へ、もう一度頷く。 「分かってる。だから、余計に嫌」  資料を指先で押し返したが、紙はテーブルの中央に残った。 「何が」  一枚目の〈本人への事前確認を欠いた〉へ目を落とす。 「この紙、今日初めて見た」 「途中で伝えた」 「景都の途中って、私にはもう終わった後だよ」  景都の口が開きかける。 「次はどこまで――」 「今、それ決めないで」  資料の端を押さえた。 「今日は、新しく動かさないで。この報告は私にも送って」 「会社への説明は」 「私からするよ」  景都はタブレットを開き、共有欄へ私のアドレスを加えた。膝の上のスマートフォンが震える。同じ資料が届いた。  進行中の削除は止められない。それでも新規の依頼は止めると言い、余白へ〈新規停止〉と書く。  その上には、すでに〈完了〉と印字された媒体が並んでいた。  助かった結果も、私抜きで決められたことも、どちらも消えない。  会社では、午前中まで鳴り続けていた電話が減っていた。取引保留の連絡を入れた小売店は予定どおりの展開へ戻り、後輩は止めていた工場への修正データを送れたという。  景都が動かなければ、もっと悪くなっていたかもしれない。  そう考えるたび、胸の奥で何かが小さく縮んだ。感謝すれば、聞かれなかったことまで許すような気がした。怒れば、助かった人たちまで否定することになる。  私は資料を畳まず、そのまま席を立った。  ドアを開けた時、背後で紙を揃える音がした。景都は追ってこなかった。◇ 翌日も、炎上記事は一つ消えると、別の見出しでまた増えた。 『水城真帆の元夫、深見財閥の御曹司だった』  灯が見出しを読み上げ、顔をしかめる。 「まだ言うんだ、財閥って」  深見ホールディングスは上場していないため、外から全体像が見えにくい。その分、記事は古い言葉を好んだ。  深見家。  金融、不動産、物流、医療関連。結婚していた頃、その名前を意識しない日はなかった。  けれど景都自身は大学を出ると家を離れ、深見HDへ入らずに危機管理会社を作った。それがLATTICE SHIELDだ。
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第13話 自分で作った会社

「深見さんが御曹司なのは事実ですよね」 「家の長男なのは事実だ。LATTICEは別だ」  仕事になると、景都の言葉は短くなる。相手の言葉から余分な部分を落とし、残った事実だけに返す。  結婚中、深見家の集まりへ何度か出た。広い庭。玄関に並ぶ運転手。名刺だけ知っている役員たち。景都はそこでは必要以上に喋らず、帰りの車へ乗るとすぐネクタイを緩めた。 『息苦しい』  あの時、私も同じだと笑った。  柊が、私を玉の輿と呼ぶ記事にも触れようとした時、景都はすぐに遮った。結婚前から私が働いていたこと、離婚時の財産分与まで説明しかける。 「景都。そこまで言わなくていい」 「でも事実が違う」 「私のお金の話まで、あなたが説明しないで」  景都の口が閉じた。  長机の上には、私たちの離婚を番組用に整理した年表まで置かれている。二人しか知らない生活が、見出しと数字へ変えられようとしていた。  柊は数秒待ち、家柄の事実確認だけにすると決めて資料を閉じた。  打ち合わせが終わると、景都は廊下へ出た。私は後を追った。 「さっき止めたこと、怒ってる?」 「怒ってないよ。あれは君自身の話だから」 「でも、私が止めなかったら、財産分与まで全部説明するつもりだったでしょう」 「間違ったまま広がるのを止めたかった」  廊下の壁には撮影の日程表が掛かっている。景都のポケットで、スマートフォンがまた震えた。 「それでも」  景都はポケットへ目を落としたが、電話には出なかった。 「……分かった。財産分与の話は出さない」  いつもの返事だった。理解したのか、ただ止めると決めたのかは分からない。  LATTICEへ深見家の資本が入っていないことを確かめると、景都は最初からだと答えた。よく作れたね、と口にすると、眉が少し上がる。 「それでも、LATTICEは俺が作った」  結婚式の招待状では、深見家の肩書きをどこまで入れるかで揉めた。景都は最後まで会社名だけでいいと言い、父親側の秘書を困らせた。  電話がもう一度鳴った。私が頷くと、景都は少し離れて応答した。 「森下、会議には戻る。資料はそのまま残しておいて」  さっきまで言葉を探していた人の声が、途端に迷わなくなる。仕事の顔へ戻るところを、私は五年前にも何度も見ていた。◇ 翌朝、番組側の打ち合わせのため
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第14話 予約投稿なら、寝ていても出る

 景都は歩きながらタブレットを受け取り、画面を一度見ただけで別の判断を返す。私に気づいたのは、そのあとだった。 「待たせた。会議が少し延びた」 「三分だけ。謝るほどじゃないよ」  社員へ向けていた顔が、わずかに崩れた。それだけで、周囲の視線がこちらへ集まるのが分かった。  会議が始まると、制作側の懸念事項が画面に映された。炎上対応、夜間撮影、スポンサー説明、番組継続。景都は上から順に読まず、出演者保護を最初へ移した。  柊が、番組継続も出演者保護へ関係すると反論する。 「収録を続ける理由に使うなら違う。安全確認が終わるまで夜間撮影は減らす。スタッフ動線も見直す」 「制作側の運用です」 「事故が起きればスポンサーも止まる」  景都は感情を語らない。数字と責任の所在を示し、反対する側にも根拠を求める。  私は資料の端へ触れた。  夫だった頃、景都が会社でどう働くのか、ほとんど知らなかった。帰宅時間が遅い。電話が多い。休日もパソコンを開く。知っていたのは、それくらいだ。  目の前の景都は、私が知っていた夫より速い。  誰が何を持ち、誰へ返すのか、迷わず割り振る。広告代理店側との折衝も、自分が引き受けると即座に決めた。深見HDを経由する案が出ると、LATTICEの案件だから関係ないと一言で切った。  会議後、廊下へ出ると、社員が途切れず景都へ資料を持ってきた。相談は短く、答えも短い。それでも誰も聞き返さない。彼の説明が足りないのではなく、会社では前提が共有されているのだと気づいた。 「本当に、深見家の名前は使わずに通すんだね」  景都は通り過ぎる社員へ一度視線をやり、「必要なら使う。でも、今はその必要がない」と答えた。 「昨日はLATTICEと家は別だって、あんなに言ってたのに」 「だからだ。これはLATTICEの案件で、家に借りを作る必要はない」  境界が明確だった。 「仕事だと迷わないね」  景都は何のことか分からない顔で次の会議通知を見た。十分後に移動すると言われ、私は笑いかけてやめる。  廊下の向こうに瀬名がいた。スタッフと並び、景都の仕事ぶりを見ている。口元に小さな笑みがあった。 「景都さん、真帆さんの前だと説明が足りないですね。今の会議なら、誰に何をさせるか全部言うのに」  景都は返事をしなかった。 「社長、森下
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第15話 昨日、私の服を直した人

「感情で消したくなる前に、時間まで決めちゃうんです。夜中に、これ出したくないってなることあるので」  出さなければよいのではないかと言うと、瀬名は「仕事なので」と明るく答えた。  メールまで送信予約を設定している。マネージャーへの連絡も、下書きでは忘れるから、送る時間まで決めるらしい。合理的なのか、投げやりなのか分からない。  着信が入った。画面に〈母〉と表示される。  瀬名はすぐ通話へ切り替えた。 「もしもし。今仕事。……うん。プリン? また?」  相手の声は聞こえない。瀬名は、固いものだろうと確かめ、今日遅くなるから明日ではだめかと尋ねた。最後に〈はいはい〉と短く笑って切る。撮影中の笑い方よりずっと短く、声も低かった。 「今の電話、お母さん?」 「そうです。毎回、同じ固いプリンを欲しがるんです」  そう言いながら通販サイトを開き、配送先を確かめる。住所欄に施設名が見えた。  私が見ているのに気づいたのか、瀬名の指が止まる。 「母、施設にいるんです」  それ以上は説明しなかった。私も聞かなかった。 「終わっても忙しいんだね」 「暇になったら困ります。休みたいとは思いますけど、仕事が来なくなったらもっと困るので」  笑いながら言う。その顔は、悪女役の瀬名より普通だった。  スタッフが迎えに来た。 「瀬名さん、次お願いします」  立ち上がる時、スマートフォンが机から滑りかけた。私は反射的に押さえた。  瀬名は礼を言って受け取り、私が予約投稿を使わないのかと尋ねた。仕事のアカウントは広報が管理していると答えると、他人へ言葉を預けても平気なのかと首を傾げる。 「灯に任せてるから。あの人なら、勝手に変な言葉を足さないと思う」 「へえ。私は無理です。誰かに預けた時点で、自分の言葉じゃなくなる気がして」 「そこまで自分で決めたいのは、どうして?」  ドアの前で振り返った瀬名は、少し考えてから言った。 「あとで気が変わっても、誰かに書かされたって言いたくないから」  スタッフに促され、彼女は出ていった。  衣装の肩が引っかかったのは、撮影開始の十分前だった。  控室の鏡の前で腕を上げると、内側の縫い糸が一本だけ張り、今にも切れそうになっている。表からは見えない。けれど、このまま料理撮影で腕を動かせば、肩口が開く。  灯はスタ
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第16話 キスは、していなかった

 断る間もなく、私の指から針を取る。彼女は肩口を裏返し、細い糸を三針ほど通した。手つきは早いが、糸目は揃っていない。玉止めも大きく、商品なら検品で戻す程度には雑だった。 「……縫い目、ちょっと雑じゃない?」  思わず口にすると、瀬名は鏡越しに笑った。 「じゃあ、自分でやります? その包帯の手で」  包帯の巻かれた指を見て、私は礼だけを言った。瀬名は糸を歯で切ろうとし、灯に無言でハサミを差し出される。叱られた子どものように肩をすくめ、今度は素直に刃を使った。  鏡で見る限り、外からは何も分からない。 「どうして、わざわざ直したの? 放っておけばよかったのに」 「糸が出たままなのが気になっただけです。真帆さんのためじゃありません」 「でも、私のことは嫌いなんでしょう?」  瀬名は針をケースへ戻し、蓋を閉じた。 「嫌いな人の服から糸が出てたら、放っておくものなんですか。真帆さんの普通、狭いですね」  親切にされた直後なので、言い返しにくかった。◇ その日の撮影は、三人で夕食を作る企画だった。作業台には色の揃った食材と、番組ロゴの入った調味料が置かれている。景都が野菜を切り、私が味付けをし、瀬名は時折カメラへ話を振った。 「景都さん、真帆さんの好きな味、覚えてます?」  景都は包丁を動かしたまま、「薄め」と答えた。  私は鍋の味を見て、塩を少し足した。 「今は、もう少し濃い方が好き」  包丁の音が止まる。  景都はいつから変わったのか尋ねたが、私は覚えていなかった。離婚してからの五年で、味覚が変わったのかもしれない。あるいは結婚中から、本当はそうだったのかもしれない。  瀬名は鍋の湯気越しに私たちを見た。 「元夫婦って、古い情報をいっぱい持ってるんですね」  景都は反論しなかった。  私も、彼が今どんな味を好むのか知らない。結婚していた頃、何を出しても〈大丈夫〉としか言わなかった。好き嫌いがなかったのではなく、伝える必要がないと思っていたのかもしれない。  皿を食卓へ運ぶ時、瀬名の袖から糸が一本出ているのに気づいた。 「そこ、糸」  彼女は自分の袖を見て、指で内側へ押し込んだ。 「自分の袖は切らないの? さっきから出たままだよ」 「自分のは、別に。見えなくなればそれでいいので」  さっき私の服を直した手が、自分のほつ
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第17話 言わなかった方が、痛い

 契約は大丈夫なのかと聞くと、制作側と確認を取ったという。景都は近くを通るスタッフが機材ケースを押していくのを待ち、それから声を落とした。 「あの予告の場面、瀬名さんとは接触してない」  意味を測りかねて黙っていると、景都の眉がわずかに寄った。 「キスはしてない。顔を近づけただけだよ」  聞かずに済んだことへ、身体のどこかが先に緩んだ。包帯の下の指だけが、遅れて痛みを思い出す。 「本当に、一度も触れてないの?」 「ああ。瀬名さんも同じ説明をする」  階段の上で靴音がした。瀬名が手すりへ片手を置き、ゆっくり下りてくる。撮影衣装の上に薄いカーディガンを羽織り、袖口には昨日押し込んだ糸がまだ残っていた。  私がキスをしていなかったのか確かめると、彼女は景都へ一度だけ目を向け、あっさり頷いた。 「顔を近づけただけです。触れてません。さっき、制作からもう話していいって言われました」  予告の画角は、景都も公開まで知らなかったらしい。それでも撮影されたこと自体は知っていた。私が映像を見ることも、誤解することも予想できたはずだった。 「瀬名さんは、あれを撮られるの、嫌じゃなかったの?」  瀬名へ尋ねると、彼女は少し意外そうに目を瞬いた。 「嫌でも仕事なので。断ったら、次がなくなるかもしれないし」  同じ答えだった。拒絶にも承諾にも聞こえない、そこから先へ入らせない言葉。 「私が誤解するって分かってた?」  瀬名は袖口の糸をつまみ、また内側へ押し込んだ。 「分かってました。でも、番組なので」  便利だと言うと、彼女は否定しなかった。 「便利ですよ。何でも番組のせいにできますから」  軽い口調だったのに、その言葉だけは誰かへ投げたのではなく、自分の足元へ落ちたように聞こえた。  瀬名は階段を上がっていった。残された廊下では、スタッフが最後のライトを消している。一つ暗くなるたび、床の影の向きが変わった。 「だったら、どうして黙ってたの」  景都は答える前に、通路へはみ出したケーブルを靴の先で壁際へ押した。誰かがつまずく可能性を、話の途中でも放っておけない。 「制作と確認が取れるまで待った。途中で違うことを言う方がまずいと思った」  その間、私は予告の十二秒だけを見ていた。  流産した夜も、景都は正しい順番を選んだ。会社の危機対応が終わ
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第18話 悪女には、契約がある

 翌日の撮影で、景都はいつもより静かだった。  三人で今後の選択を話す企画のため、リビングのソファはカメラへ向けて角度を変えられていた。脚を引きずった跡が床に薄く残り、テーブルには中身の減らない水が三つ並んでいる。  柊プロデューサーは、昨日までと比べて気持ちが変わったかと順番に尋ねた。  瀬名は迷わず「変わっていません」と笑い、景都も同じ答えを短く返した。私の番になると、グラスの底へ照明が透け、テーブルに歪んだ輪を作っていた。 「まだ、分かりません」  何が分からないのかと重ねられ、私はグラスから目を上げた。「気持ちも、景都とどうしたいのかも。全部です」  キスについて事実が分かったのだから、気持ちも整理されたはずだという流れを、制作側は欲しがっている。けれど、誤解が解けたからといって、誤解していた時間まで消えるわけではなかった。 「分かったから、すぐ決められるわけじゃないので」  景都がこちらを見る。私は見返さなかった。◇ 撮影が終わると、スタッフがソファを元の位置へ戻した。先ほどまでの脚の跡へぴたりとは戻らず、床に二重の線が残った。  景都は廊下で待っていた。 「昨日、黙った理由だけ言わせて」  私は返事をせず歩き出した。景都も隣へ並ぶ。歩幅を合わせるため、いつもより少し遅く歩いているのが分かった。  番組とスポンサーの間で、何を開示できるか揉めていた。景都が先に否定すれば、違約として扱われる可能性があった。だから制作側の確認が取れるまで言えなかった。  説明は理解できた。理解できたことと、納得できることは別だった。 「キスしてないって言えなかったのは分かった。でも、私があの映像を見てることは知ってたでしょ」  景都は頷いた。  窓の外には撮影用の車が停まり、スタッフが荷物を積んでいる。後部扉は開けたままで、黒いケースが一つずつ奥へ収まっていった。 「曖昧なことを言って、間違っていたら」 「間違うこと、そんなに嫌? 私に対しても、正解が出るまで黙るつもりだったの?」  景都の足が止まった。 「君に言うことだけは、できるだけ間違えたくないんだ」  それは真面目な答えだった。だから余計に、私たちの間から外れていた。  仕事なら曖昧な情報を出さない方がよい。取引先や法務へ伝えるなら、確定事項だけを並べるべきだ。 「私
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第19話 契約にない言葉

 瀬名は吹き出した。 「そこだけは、答えるのが早いんですね」  それ以上は立ち止まらず、私たちを追い越していった。丸めた紙が歩くたび脚へ当たり、乾いた音を立てる。  廊下の案内表示が〈撮影中〉から〈準備中〉へ差し替えられた。札を入れ替えるスタッフの手元を見ている間も、正しい言葉はどちらからも出なかった。  私は先に一歩だけ進んだ。  すぐ後ろで、景都の靴音も続いた。隣へ戻る気配はなかった。  瀬名が〈悪女〉を演じていると知ったのは、本人の説明より先に、進行表の赤い付箋からだった。  撮影の合間、スタッフがテーブルへ置いた紙に、太いマーカーで二行書かれていた。 『瀬名→景都 距離を詰める』 『真帆の反応拾う』  隠すつもりがあるなら、出演者の目に入る場所へ置かない。私が読んでいると、横から手が伸び、紙を持ち上げた。 「見ました?」  瀬名は困った様子もなく、付箋を剥がさないまま進行表を二つ折りにした。  悪女役は契約なのかと尋ねると、彼女は周囲を確かめた。カメラは回っていない。廊下でスタッフが次の撮影について話しているが、こちらへ注意を向けてはいなかった。 「盛り上げたら、追加があります」  金のことかと聞くと、「ほかに何が」と返ってくる。景都へ近づくことも、キスに見える予告も、番組が欲しがる画の一部だった。  瀬名は進行表の下から、二つ折りの紙を出した。契約書の複製らしい。発言の方向性、景都へ近づく場面、最終選択前の揺さぶり。瀬名の名前の横には追加報酬の金額が印字されているが、そこだけは指で隠した。 「そんな役を引き受けて、嫌にならないの?」 「嫌ですよ。毎回、平気なわけじゃない。でも断って仕事が来なくなる方が困ります」  控室で見た施設の住所が浮かんだ。けれど、母親と金を勝手に結びつけるのはやめた。  金額を聞いてよいかと尋ねると、彼女ははっきり断った。 「金額も、やっぱり契約で言えないの?」 「違います。そこは、私が言いたくないだけです」  初めて、契約以外の理由で線を引いた。 「流産のことも、台本?」  折り目を揃えていた指が止まる。 「あれは台本じゃありません。私が勝手に言いました」 「だったら、誰から聞いたの。そこだけは教えて」 「今は言いません。ここで話したら、全部切り取られて番組に使われるから」
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第20話 それ、本当に真帆さんが欲しいもの?

 立ち上がった背中へ、もう一つだけ聞く。 「この前、私の服を直したのも契約?」  瀬名は振り返らなかった。 「あれは、私が勝手にやっただけです。契約にはありません」  彼女が持っていった進行表に、その項目はなかった。  テーブルには、剥がれかけた赤い付箋の粘着跡だけが残っていた。  瀬名は、私を傷つけたかったらしい。  〈たぶん〉が付いている分だけ、その言葉は行き先を失っていた。悪意なら悪意で、理由があると思いたかったのかもしれない。◇ 翌日、メイクルームで二人きりになった。  鏡の周囲には丸い照明が並び、顔の影を均等に消している。机には何本ものリップが立てられ、瀬名は本番用の赤を選んでいた。どの色も似て見えるが、彼女は一本ずつ手の甲へ当て、映り方を確かめている。 「昨日の話、まだ終わってないよね」  瀬名は忘れたふりをしたが、私が流産の話だと言うと、鏡越しに目を細めた。  誰から聞いたかは、まだ言わない。その代わり、なぜ私へ口にしたのかを聞くと、今度はあっさり答えた。 「腹が立ったからです。真帆さんを見てると、どうしても」  瀬名は椅子へ深く座った。背もたれに体重を預けると、鏡の中の顔が少し遠くなる。  私が何も言わないことが腹立たしいのだという。景都に会いたいとも、助けてとも、好きとも言わない。それでも景都は来る。記事は消え、番組は傷ついた元妻として私を撮る。 「私だって何も感じてないわけじゃない。あなたに見せてないだけ」 「そうかもしれません。でも、見えないものは私には分からない」  瀬名は否定しなかった。リップの蓋を開け、また閉める。小さな音が二度続いた。 「でも、黙ってても来るんですよね。私、言わないと何も来なかったから」  そこまで言って、鏡から目を逸らした。 「……今のなし」  何が来なかったのか尋ねると、「聞かないで」と返ってくる。敬語が少し崩れた。  私は黙った。丸い照明に囲まれた鏡の中で、瀬名だけが暗い場所へいるように見えた。  しばらくして、彼女はリップを一本ずつ並べ直した。赤を端へ寄せ、ベージュを戻し、また赤へ触れる。 「仕事、選んでいられなかったんです。嫌われても、お金になるなら。画面に出られるなら……やりました」  最後だけ声が小さくなった。蓋を閉め損ね、金属の筒が鏡の前を転がる。
last updateLast Updated : 2026-08-08
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