All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話 要配慮の二行

「直接は話してない。でも、最初に外へ出したのは俺だ」 「それだけ?」  景都は資料へ目を落とした。 「確認してから話そうとしてる。……また待たせることになるけど」  契約書より、景都の前に置かれた薄い資料の方が重く見えた。  次に開かれるページへ、私の名前が書かれている気がした。  翌日、森下が示したのは出演者用の安全管理シートだった。氏名ではなく管理番号が振られ、撮影中に避けるべき薬品、食物、持病、家族関係などを必要最小限で記載する書式になっている。  私の欄には、二行だけ追記されていた。 『過去に妊娠喪失。乳幼児・妊娠関連の演出について刺激を避けること』  文字を読んでも、しばらく意味が入ってこなかった。病院名も時期も書かれていない。それでも、分かる人には十分だった。 「これ、誰が出したの」  森下が答える前に、景都が口を開いた。 「俺だ」 「私、申告してない」 「知ってる。制作の安全担当から、深見家側にも確認が来た」 「深見家側って何」  景都は一度、手元の資料へ目を落とした。 「流産した時、病院や移動の手配を秘書室に頼んだ。危機対応の記録が残っていた」  あの夜、私の身体はすでに深見家の業務記録になっていたらしい。事故でも契約でもないのに、“要配慮”という小さな表示が付いている。 「それを、私に聞かず番組へ渡したの?」 「安全担当だけに、機密指定で。撮影で妊娠や流産のことに不用意に触れられないようにしたかった」  机の上に置かれた管理票には、私の身体のことが短い項目として印刷されていた。読むほど、自分だけが文書の外へ追い出される。 「私に聞いたら、断ると思ったから?」  景都は紙へ目を落としたまま、長く黙った。「……そうだ」 「だから聞かなかった?」  景都の喉が動いた。 「……必要だと思った。嫌がるのは分かってた。でも、出した」  胸の奥が冷えた。私がどう思うかを聞く前に、もう答えは出ていた。  森下が共有経路の図を表示した。本来は医療・安全担当と責任者しか閲覧できない。ところが一時的な権限設定ミスで、演出資料フォルダから、水城真帆に紐づく管理番号の安全シートへリンクを辿れる状態になっていた。瀬名の端末から、そのファイルを開いた記録が残っている。 「景都が直接話したわけじゃない」  安堵は確かにあ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第42話 守るための配慮事項が、漏れていた

 安全管理シートの説明が終わったあとも、景都は席を立たなかった。森下が追加資料を取りに出ると、会議室には空調の音だけが残った。 「まだある」  閉じかけたファイルから手を離す。景都はすぐに話し始めず、机の上の資料を一度だけ揃えた。 「瀬名さんが途中参加することは、事前に報告を受けていた。三人の対立を強く見せる編集になることも、名前も知ってた」  一度に言われたせいで、どこから問い返せばいいか分からなかった。私は企画書の表紙を見た。角に貼られた黄色い付箋には、スポンサー確認済みと書かれている。 「嫌われる役だって、分かってたの」 「番組側は『対立軸』と説明していた。視聴者の反応が瀬名さんへ向く可能性はあった」 「私の印象を良くするために?」  景都は目を伏せたまま答えた。 「離婚後の記事で、君が一方的に悪く書かれていた。スポンサー側が、君の印象を回復させたがっていることも知っていた」  制作側の資料には、私の名前の横へ『共感回復』と書かれている。私が知らないところで、私を救う方法まで決められていた。 「景都は、それをどう思ったの」 「君には不利にならないと思った」 「瀬名さんに不利でも?」  彼の指が、揃えたはずの紙をまた一枚だけずらした。 「そこまで考えてなかった」  流産情報を使うとは知らなかった。瀬名が契約を越えて何を言うかも知らなかった。そうやって『知らなかった』を数えれば、景都を責める理由が少しずつ減る気がした。  だからこそ、知っていた部分が痛かった。 「仕事なら、誰にしわ寄せが行くかまで見るでしょう」  企画書の〈対立〉という文字へ指を置いた。 「私のことになると、そこ、見なくなるんだね」  景都は紙を揃え直そうとして、やめた。 「……見なかった。君への反発が、瀬名さんへ行くのを」  そこまで明確に言われると、今度は私の方が目を逸らしたくなった。 「私のためなら、誰が嫌われてもよかった?」  景都はすぐには答えない。謝罪を探しているのではなく、自分の当時の判断を見直している顔だった。 「……そこまで考えてなかった。君への反発が減るなら、それでいいと思ってた」 「同じだよ」  景都は反論せず、机の端からずれていた資料を直しかけた。指は紙へ触れたまま止まり、結局、斜めのまま残された。 「……結局、同じ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第43話 景都は、知っていた

 文字だけ見れば、三人とも商品だった。それでも、救われる側へ置かれている自分の欄が一番気持ち悪かった。私が何を話し、どんな顔をすれば視聴者の同情を取り戻せるかまで、矢印で整理されている。 契約説明の記録では、瀬名には〈対立役〉であること、炎上を含む反応、追加報酬まで説明されていた。ただし、私の印象回復が主目的だとは明示されていない。 マネージャーの記録には、収入の安定を望み、母親の施設費用を負担していたことも残っている。 それが契約を受けた理由のすべてかは、記録にはなかった。 母親、施設、プリン。その三つを並べれば、瀬名を被害者にする物語は簡単に作れる。お金が必要だったから嫌われる役を引き受けた。だから本当は優しい人だった。 けれど、流産のことは契約にない。私を傷つけた言葉まで、生活費のためだったことにはできない。「嫌な女でした」 口にすると、景都が私を見る。「死んだからって、そこまで良い人に直さなくていいよね」 誰へ許可を求めたのか、自分でも分からない。森下は答えず、景都もすぐには何も言わなかった。 企画書の余白には、放送後の反応予測が書かれている。真帆への同情、景都への好感、瀬名への反発。実際の視聴者コメントとほとんど同じだった。「私だけ、助けられる側に置かれてた」「俺は止めなかった」 景都の声は低かった。「君が叩かれなくなるなら、それでいいと思ってた。瀬名さんの方は……見てなかった」「私が望んだわけじゃない」 景都は何も返さなかった。 返事がないまま、企画書の『共感回復』がさらに他人事に見えた。 傷ついた元妻と、嫌われる悪女。企画書の中で、私たちは別々の役名にされていた。 だからといって、好きになれるわけではない。 ただ、彼女を嫌った感情まで制作側の成果物にされたようで、腹が立った。 回収された予備媒体には、瀬名の事前収録インタビューが最初から最後まで残っていた。告発映像も、事故を予告する言葉もない。本人が自分の仕事について話し、スタッフへ何度か言い直しを求める、ただの未編集デー
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第44話 私のために用意された女

 森下は“本人の判断が悪かった”とは言わない。 「でも、瀬名さんは間に合うと思った」 「短絡経路なら一分未満です。戻りの扉を開ける権限がないことも、床が濡れていることも、本人は知らなかった可能性が高い」  私はもう一度、未編集映像を再生した。瀬名がカメラの外へ向かって「今の答え、前だけ使わないでくださいね」と念を押している。声は苛立っているが、特別な決意はない。  ここだけ見れば、瀬名は自分の言葉を守ろうとして死んだことになる。番組に切り取られるのを嫌がり、原本を確認しに行って、その途中で事故に遭った。  でも、たぶん本人はそんな大げさなことを考えていなかった。確認を済ませたら本番へ戻って、あとで私と話して、母親にプリンを買うつもりだった。 「私に何か残そうとしたわけでもないんですね」 「そのような記録はありません」 「番組を暴こうとしたわけでも」 「確認できません」  特別な意味が一つずつなくなっていく。それでようやく、彼女の死を誰かの物語にしなくて済む気がした。  森下が媒体の映像を止め、事故当日の控室映像へ切り替えた。画面の瀬名は、近くのスタッフに残り時間を尋ねていた。 『四分五十秒です』 『じゃあ、行って戻れますね』  言い終えると、彼女はすぐに立ち上がる。カメラがまだ回っていることも気にせず、椅子の背へ掛けていた上着を取った。  その程度の判断で、人は近道を選ぶ。大きな悪意も、自己犠牲も要らない。  森下が次の資料を開く。戻り扉の権限不足、前夜からの雨、保守経路の排水不良。  あと五分だった理由は分かった。  死ななければならなかった理由だけは、最後までなかった。  事故の大枠が確定した日、森下は原因を一つずつ読み上げた。  B管理室の戻り扉に対するカード権限の不足。警備アラートの初動遅れ。前夜の雨による床面の濡れ。生放送までの時間不足。そして瀬名自身が、正規の非常階段ではなく保守用短絡経路を選んだこと。  どれか一つだけなら、死ななかった可能性がある。けれど、どれか一つだけを“犯人”と呼べる材料もなかった。 「現時点で、誰かが故意に転落させたと示す証拠はありません」  森下は感情を挟まずに言った。 「安全管理上の責任は、制作会社、設備管理、警備会社それぞれにあります。補償と是正は続きます。ただ、他者が瀬名さ
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第45話 あと五分だった理由

 仕事の答えだった。 「瀬名さんは戻らない。私が嫌ったことも、安心したことも消えない。それは、なかったことにできないよ」 「ああ。俺には直せない」  景都がそう認めたことで、かえって息がしやすくなった。  森下は事故資料を閉じた。 「新たな事実が出ない限り、他者関与を前提とした調査はここで区切られます。設備と運用の是正報告は別途続けます」  資料は閉じた。最後まで、誰か一人の名前に行き着くことはなかった。  会議室を出る時、景都が「送ろうか」と聞きかけてやめた。その言葉が途中で消えたことに気づき、私は自分から言う。 「今日は電車で帰る。でも、駅まで一緒に歩いて」  彼は理由も距離も確認せず、鞄を持って立ち上がった。  誰かに突き落とされたという証拠は、見つからなかった。  その無力な結論を、私は初めて一人で抱えなくてよかった。  事故の調査が一区切りした翌日、私は景都を駅前のファミレスへ呼び出した。重い話をするには、隣の席で子どもがポテトを床へ落とし、店員が笑って拾っているくらいの場所がよかった。  水のグラスが置かれるのを待ってから、私は言った。 「もう、私を守らないで」  景都は眉を寄せ、ほとんど間を置かずに首を振った。 「それは無理だ。何かあったら、たぶん俺は動く」 「そうやって、すぐ条件を足すところ」 「何もしない、は無理だ」  彼は水へ手を伸ばしたが、私の顔を見てグラスを戻した。  スマートフォンをテーブルへ置いた。 「会社に電話する前に、まず私にかけて」 「出なかったら」 「その時は、その時。今から全部決めないで」  景都の指がグラスの縁から離れる。 「私の分まで答えないで」  景都が眉をひそめた。「怖い?」  私は水のグラスを見た。 「また、知らないうちに終わってるのが嫌」  注文を取りに来た店員の前で、会話が途切れる。私はハンバーグを頼み、景都はメニューを長く見た末に焼き魚定食を選んだ。 「魚、食べるんだ」 「食べる。出張先ではよく頼んでた」 「結婚してた頃は、知らなかった」 「君が知らないことは、たぶん他にもあると思う」  夫婦だったのに知らないことが、こんな場面で一つ増える。私にも、景都が知らない現在の好みがあるのだろう。  料理が来るまで、彼はスマートフォンを出さなかった。ポ
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第46話 殺した人はいない

 危険な時に黙って見ていてほしいわけではない。次に何か起きても、景都はきっと動く。その時、私のことまで勝手に片づけないでほしかった。  店を出る時、景都は会計票を取ろうとした。私は先に自分の分をレジへ置く。 「今日は別々で」  景都は会計票から手を離した。  外へ出ても、彼は追ってこなかった。  望んだ通りだったのに、駅までの道で私は一度だけ背後を確かめた。  瀬名和恵さんのいる施設を訪ねたのは、その三日後だった。景都から一緒に行くかと聞かれたが、一人で行くと答えた。彼は理由を尋ねず、「分かった」とだけ返した。  ロビーには折り紙の花と美容室の予約表が並び、消毒液に混じって甘い整髪料の匂いがした。受付横の棚には入居者が使う色見本が置かれ、白髪染めの番号が手書きで書き込まれている。  和恵さんは窓際の椅子に座り、古い美容雑誌を膝へ置いていた。 「莉子のお友達?」  最初にそう聞かれ、私は名刺を出しかけてやめた。 「番組で、一緒に仕事をしていました」 「テレビ? 莉子、テレビ好きだったから」  本人が出ていたのに、その言い方が少し可笑しい。和恵さんは私の髪を見て、「毛先が乾いてる」と美容師の顔で言った。 「莉子も、よく自分で前髪を切ってね。私が直すと怒るの」 「お母さん、美容師なのに?」 「母親は別みたい」  笑ったあと、和恵さんは急に真顔になった。 「莉子、意地悪だった?」  正しい答えを探す癖が出た。優しかったです、と言えば嘘になる。意地悪でした、と母親へ返すこともできない。 「撮影の前に、私の服を直してくれました」  口から出たのは、それだった。 「莉子が? 裁縫、下手なのに」 「下手でした。縫い目が斜めで、玉止めも大きくて」 「自分の袖は糸が出たままだったでしょう」 「はい。人の服だけ直してました」  和恵さんが声を上げて笑う。私も思わず笑った。死んだ人の話をしているのに、笑っていいのか分からなかったが、彼女は気にしていない。 「昔からそう。人のことには口を出すのに、自分の部屋はぐちゃぐちゃ」  瀬名が母親へ買うと言っていたプリンの話をすると、和恵さんの顔が明るくなった。 「固いやつ。私が好きだったの」 「瀬名さんは?」 「どっちだったかな。あの子、甘いものなら何でも食べた気もする」  娘の好みを、
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第47話 もう、私を守らないで

 一度目の呼び出しで出た彼は、「終わったのか?」と聞いた。 「どうして知ってるの」 「今日行くと言ってた。時間までは聞いてないよ」  言ったことを忘れていた。景都は覚えているのに、私の行動を確認する連絡はしてこなかった。その違いに気づくと、少しだけ話しやすくなった。 「和恵さん、元美容師だった。私の髪を見て、毛先が乾いてるって」 「ありそうだな」 「会ったことあるの?」 「ない。施設の資料に職歴があった。俺は金曜に行く」  信号が赤になり、横断歩道の前で足を止める。電話の向こうでは、紙を置くような小さな音がした。仕事中だったのかもしれないが、景都は急かさない。 「瀬名さんが意地悪だったかって聞かれた」  しばらく沈黙が続いたあと、何と答えたのかと尋ねられた。 「服を直してくれた話。答えになってないよね」 「和恵さんは、それで何か言ったのか?」  電話の向こうで、景都が何かを置く小さな音がした。私も施設でもらった紙袋を膝から下ろす。 「裁縫が下手だったって笑ってた」 「それなら、和恵さんは答えが欲しかったんじゃなくて、話したかったのかもな」 「また分かった顔する」  電話の向こうで景都が息を止める。 「……したか」 「した」  口元が緩んだ。 「私も、景都に答えを聞こうとした。何て言えばよかったと思う、って」 「俺は瀬名さんをよく知らない。だから、決められない」 「景都でも、知らないことあるんだ」 「ある。増えた」  青信号になり、人の流れに押されて歩き出す。 「プリン、持っていかなかった。瀬名さんの代わりみたいで嫌だったから」  景都は否定せず、自分もまだ何を持っていくか決めていないと言った。 「じゃあ、向こうを見てから自分で決めて」 「ああ。そうする」  電話を切る前、何か聞きかけてやめた。「また」とだけ言って通話を切った。◇ 金曜の夜、景都から短いメッセージが届いた。 『面会、終わった』 『何を持っていったの』 『髪型の雑誌』  理由を尋ねると、ロビーの美容室予約表を見て、和恵さんが次の髪型を決めていないと知ったからだと返ってきた。プリンの代わりを探したのではない。瀬名の母親ではなく、今そこにいる和恵さんを見て選んだものだった。  返事を書きかけて、やめた。  金曜の夜、和恵さんの施設か
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第48話 嫌いなままで、いい

 景都は少し眉を寄せ、水のグラスから手を離した。 「別に」  視線だけが卓上へ落ちる。 「俺は、まだ嫌いだ」 「……そうなんだ」 「でも、君の服を直したのも、母親にプリンを買ったのも、たぶん本当だ」  私は膝の上で指を組み直した。 「嫌いなのに?」 「ああ」 「変なの」  景都がようやくこちらを見た。 「君もだろ」  少し笑ったところへ蕎麦が運ばれ、会話がいったん途切れた。景都の器には葱が少ない。 「葱、減らしたの?」 「今は少ない方が好きなんだ」 「結婚してた頃は、知らなかった」 「俺も、君がブラックコーヒーを飲むようになったのを知らなかった」  瀬名の話をしていたのに、いつの間にかコーヒーの話になっていた。 「事故のこと、もう新しい証拠を探さない?」 「是正と補償は続ける。ただ、君のために別の犯人を探すことはしない」 「うん。それでいい」  自分で言って、ようやく瀬名の死を追う時間が終わるのだと分かった。蕎麦湯の白い湯気が、二人の間で細くほどけた。私は湯呑みに手を添えたが、すぐには口をつけなかった。  景都は蕎麦を食べながら、私の次の言葉を待っている。事件も契約もなくなれば、会う理由は私たち自身しか残らない。 「景都。今度は、事故じゃなくて、私たちの話をしたい」  彼の箸が止まった。 「いつがいい」 「まだ決めてない。でも、逃げないで話したい」  景都は、予定を決める代わりに一度だけ頷いた。  蕎麦屋を出る時、次に話すのは瀬名のことではない。そのことだけは、二人とも分かっていた。  事故の確認が一段落して三日、景都から連絡は来なかった。私も送らなかった。  これまでは、瀬名の事故記録を確認する、森下との面談時間を合わせる、制作会社から届いた資料を読む――会う理由には、必ず他人へ説明できる名前がついていた。  土曜の朝、洗濯機の回る音を聞きながらスマートフォンを開く。景都とのトーク画面は、前に会った蕎麦屋の住所で止まっていた。  前に自分で切り出した「私たちの話」が、画面の上に残っていた。  そう言ったのは私なのに、いつ話すのかまでは決めなかった。送信欄へ何度か文字を入れては消し、結局、短く打つ。 『今日、会える?』  既読はすぐについた。 『会える。何時がいい』 『午後。場所は会ってから決
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第49話 答えなくていい質問

「どこへ行こうか?」 「歩きながら決めない?」  景都は空を見上げた。雲は薄く、午後の日差しが駅前のビルのガラスに白く反射している。 「雨は降らないらしい」  天気まで確認しているところは変わらない。けれど景都は先に歩き出さず、私が商店街の方へ向くのを待った。  休日の通りは思ったより人が多かった。店先のワゴンを避け、焼きたてのパンの匂いがする角を曲がる。何軒か飲食店の前を通ったのに、どちらも「ここにしよう」と言わないまま歩き続けた。  一往復して、結局、駅から近いファミリーレストランへ入った。窓際は親子連れで埋まり、奥の壁際だけが空いている。私はそちらへ向かった。 「ここでいい?」 「ああ」  景都は向かいの椅子を引いた。理由は聞かなかった。  注文したのはコーンスープとサンドイッチ。景都はメニューをほとんど見ず、コーヒーだけを頼んだ。 「昼、食べたの?」 「会議の前に。君に合わせて抜いたわけじゃない」  言い終えてから、景都は少しだけ眉を寄せた。先回りして弁解したことに自分で気づいたらしい。その顔がおかしくて、私は小さく笑った。  料理が届くまで、二人とも仕事の話さえしなかった。隣の席では子どもがストローの袋を丸め、母親に何度も広げられている。食器の音と店内放送が途切れず、黙っていても沈黙だけが目立つ場所ではなかった。  事故資料も契約書もないテーブルは思ったより広い。景都のスマートフォンは伏せられたまま、私のバッグも足元に置いたままだった。  運ばれてきたコーンスープを一口飲む。舌の先に熱さが残り、そのあとから甘みが来た。  病院で看護師が買ってくれたものは、こんな味だっただろうか。蓋も開けないまま冷えた紙カップしか、もう覚えていない。  スプーンで浮いたコーンを一粒だけ沈める。話そうと思ってここまで来たのに、喉の奥が急に狭くなった。 「流産した日のこと、一度ちゃんと話したい」  景都の指が、コーヒーカップの取っ手から離れた。 「……聞かせてくれ」  それ以上、景都は何も足さなかった。  私はもう一口飲もうとして、やめた。スプーンの先から一滴が落ち、白い器の縁に薄い跡を残す。どこからなら話せるのか、自分でも分からない。  けれど最初に浮かんだものだけは、五年前から変わっていなかった。  流産した夜、最初に思い出
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第50話 瀬名を好きにならなくていい

「看護師さん。景都が帰ったあとに持ってきてくれた」  帰った、という言葉を口にすると、彼の顔がわずかに固くなる。  あの夜、景都は一度は病院へ来た。医師の説明を聞き、入院書類へ目を通し、私の身体に差し迫った危険がないと確認したところで、会社から電話が入った。  病室の照明は半分だけ落とされていた。廊下を走るワゴンの車輪の音と、ナースステーションから聞こえる低い話し声。その中で、景都のスマートフォンだけが何度も震えていた。 『行って。私は大丈夫だから』  自分の声まで覚えている。強がったつもりもなかった。本当に、その時はそう言うしかないと思っていた。 「私、仕事へ戻ってって言ったよね」 「ああ。言った」  今のスープの表面に細い湯気が揺れている。五年前の紙カップには、いつから湯気がなくなったのかも覚えていない。 「だから行った?」 「それだけじゃない。顧客情報が漏れたかもしれなくて、主要契約も止まりかけてた。俺が抜けたままだと――」  説明が会社の規模へ広がる前に、私は手を上げた。 「待って。会社のことは、あとで聞く」  景都の口が閉じた。続きを飲み込むように、一度だけ喉が動く。 「先に、私の話していい?」 「ああ」  私はスプーンを持ち直した。 「あなたがいなくなったあと、看護師さんがスープを置いてくれた。飲めなかったけど、冷めても捨てられなかった」 「どうして?」 「分からない」  答えてから、病室の小さな台を思い出した。透明な水差し、薬の袋、丸められたティッシュ。その端に紙カップだけが場違いなくらい普通の顔で置かれていた。 「捨てたら、本当に一人になる気がしたのかも」  口にしてみても、それが五年前の私の気持ちだったのか、今になって付けた理由なのかは分からなかった。  景都からは、会議へ入るというメッセージが届いた。終わったら戻る、と書いてあった。 「それを見て、仕方ないって思った。仕事へ行っていいって言ったのも私だし、景都は戻るって書いてたから」 「戻れなかった」 「うん。朝まで待った」  スプーンを持つ指に力が入り、陶器と金属が小さく触れた。周囲の話し声に紛れる程度の音なのに、景都の視線が私の手へ落ちた。 「あの『大丈夫』、景都には都合がよかったでしょう」  景都はすぐ否定せず、テーブルの木目を見た。
last updateLast Updated : 2026-08-23
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