Semua Bab 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Bab 31 - Bab 40

195 Bab

第31話 あと六日

「一晩考えた」 「で?」 「余計分からなくなった」  思わず笑った。 「珍しいね」 「かなり困ってる」 「顔に出てないけど」  景都は廊下の先へ一度目をやった。スタッフが運ぶ照明のケースが角を曲がって消える。 「でも、番組が終わって会わなくなるのは嫌だ」 「それは分かるんだ」 「ああ」  その時、廊下の角で靴底が床を擦る音がして、瀬名が台本を胸へ抱えたまま、気まずそうに顔を出した。 「すみません。また聞きました」 「どこから?」 「『会わなくなるのは嫌』くらいからです」 「それ、ほとんど全部じゃん」  瀬名は台本の端で口元を隠した。 「でも安心しました。最終回、きれいには終わらなそうで」 「それ、安心するところ?」 「番組としては困ります」  スタッフに名前を呼ばれ、瀬名は台本を振って先へ走っていった。◇ 夕方、最終生放送で使う選択札が配られた。  白い厚紙に、黒い文字が一つずつ印刷されている。 『復縁』 『別離』 『New Choice』  制作スタッフは、当日の直感で一枚を選ぶよう説明した。人生の続きを決めるには、どれも手にした時の重さが足りない。  机へ三枚を並べると、裏側には備品の管理番号が振られていた。〈復縁〉という大きな言葉にも、紛失確認のための数字がある。その事務的な印字を見た途端、三択から未来を選ぶことが少し滑稽に思えた。  景都は自分の札を伏せたまま、私を見ている。 「見ないでよ」  景都は目を逸らし、伏せたままだった自分の札を裏返した。 「自分のも、ちゃんと考えてよ」 「……どれも違う」 「……私も」  景都は三枚を重ね、手元へ引き寄せた。  少し離れた席で、瀬名が三枚を順番に持ち上げた。 「〈保留〉って札、ないんですね」 「瀬名さんも迷うの?」 「私は選ばれる側ですけど。三枚だけの方が、編集は楽そうだなって」 「夢がないね」 「番組ですから」  スタッフがケースを回収しに来たため、私は三枚を重ねて蓋を閉じた。景都へも、瀬名へも、どれを選ぶつもりかは言わなかった。  番組は、あと六日で終わる。  瀬名が死ぬまでにも、あと六日だった。  翌日のカメラリハーサルでも、昨日配られた三枚の札が机へ戻されていた。スタッフは本番と同じ位置へ『復縁』『別離』『New Ch
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第32話 帰ったら、プリン買ってくね

 いつの間にか隣へ来た瀬名が、空いている椅子へ腰を下ろした。今日は収録衣装ではなく、黒いパーカーに髪をまとめている。 「分かってる。でも、画面だけ見たら選んだように見えるでしょう」 「リハーサル映像まで使われたら、何でもありですね」  彼女は笑い、『別離』の札を持ち上げた。照明に反射しない角度を確かめると、すぐ机へ戻す。仕事として扱えば、ただの厚紙らしい。 「瀬名さんは迷わないの?」 「私は選ばれる側ですから。自分で札を上げるより、ずっと楽ですよ」 「便利な立場」 「そう見えるなら、代わります?」  笑ってはいたが、声にはいつもの棘がなかった。彼女は三枚を順に重ね、裏面の管理番号を見てから元の位置へ戻した。 「この三枚じゃ、どうしても選べない人だっているのにね」 「番組に出ている人が言う?」 「出てるから言うんです。私は悪女、真帆さんは傷ついた元妻。……だいたい合ってるから、余計に面倒なんですよ」  瀬名の指が『New Choice』で止まった。そこに印刷されているのは新しい相手なのか、元夫婦ではない関係なのか、それとも何も選ばないことなのか。制作側の説明には、そこまで書かれていない。 「景都を選ばせたいわけじゃないんでしょう」  私が言うと、彼女は少しだけ目を細めた。 「仕事では選ばせたいです。でも、景都さん本人が欲しいかと聞かれたら、別に」 「じゃあ、何がしたいの」 「時々、真帆さんに勝ちたくなるだけ」  景都が欲しいわけでもないのに、私に勝ちたい。その二つがうまく結びつかずにいると、瀬名は面白がるように笑った。 「真帆さん、私と争ってるつもりなんて、最初からなかったでしょう。……それが腹立つんです」 「何の競争かも分からないのに?」 「分かんないですよ」  瀬名は『New Choice』の角を爪で押した。 「でも、真帆さんが嫌な顔すると……ちょっとだけ、勝った気がする」  スタッフに呼ばれ、瀬名は立ち上がった。机を離れる直前、昨日から何度も触られ、角の反った『復縁』を一度見下ろす。 「真帆さん、それ、本当に選ぶんですか」  答えを待たずに、彼女はスタジオへ戻っていった。  少し離れた席では、景都がカメラ位置の説明を聞いている。私の手がどの札に触れていたか気づいているはずなのに、何を選ぶつもりかとは聞かなかっ
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第33話 終わったら、話す

 瀬名は衣装の袖口を直しながら、さっきまで電話へ向けていた声より少し低く答えた。 「はい。昔の喫茶店みたいな、卵が強いやつが好きなんです」  私は彼女を見る。「駅前にあるの?」 「期間限定らしくて。明日の帰りに寄れば、まだあると思うんですけど」  明日の帰り。その言葉は、翌日の生放送よりずっと確かな予定に聞こえた。  衣装部屋へ入ると、ラックには最終回用の服が出演者名ごとに分けられていた。瀬名は自分のワンピースを身体へ当て、タグを見た途端に首を振る。 「これ、前のサイズです。変更、伝えてありますよね」  担当者が慌ててタブレットを確認する。 「申し訳ありません。すぐ取り替えます」 「明日本番なので、今日中に一度着たいです。直しが必要なら、その時間もください」  怒鳴りもせず、曖昧にも笑わずに、必要なことを一つずつ伝える声だった。  私の白いセットアップを見て、瀬名は「真帆さんらしい」と言った。 「地味ってことでしょ」 「地味だけど、画面では線がきれいに出ます。褒めてますよ、半分くらい」 「残り半分は?」 「最終回くらい、もう少し分かりやすくすればいいのにって」  衣装合わせが終わると、彼女はマネージャーから送られた翌週の予定を確認した。化粧品ブランドの配信、雑誌撮影、地方イベント。移動時間の横には、施設へ寄る予定らしい短い印がついている。 「番組が終わったら休めるの?」 「移動中に寝ます。アイドルの時よりはましです」 「それ、休みとは言わないよ」 「仕事がない方が困るんで」  瀬名はそう言いながら、サイズ変更の確認メールへ返信した。明日も、その先も、こうして仕事を続けていくのだろう。私はその手元を眺めていた。  夜、母から近所のスーパーで見つけたプリンの写真が届いた。私は冷蔵庫を開け、ヨーグルトしか入っていない棚を見た。共同生活が終われば、瀬名の嫌味も、景都の薄い粥も、朝から向けられるカメラもなくなる。  それを待っていたはずなのに、部屋が静かになる想像だけが、なぜかうまくできなかった。  生放送前日の夜、瀬名は洗面台の鏡に向かってメイクを落としていた。クレンジングを含ませたコットンに、濃い色のリップが少しずつ移っていく。 「流産のこと、明日までに教えて」  鏡の中で彼女の手が止まった。 「急ですね」 「急じゃ
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第34話 最後までカメラを回して

「五分で済むなら、真帆さんはこんな顔してないです」  返しかけた言葉を飲み込む。流産情報の出所だけではない。契約の範囲、景都への気持ち、なぜ私に勝ちたいと言ったのか。自分でも整理できていない問いを、全部この人へ差し出そうとしている。  瀬名はクレンジングの蓋を閉め、鏡越しではなく私を振り返った。 「放送が終わったら話します。契約でやったことと、私が勝手に言ったことも。その時、真帆さんがまだ聞きたいなら」 「今じゃ駄目なの?」 「今は話しません。いつ話すかくらい、私に決めさせてください」  敬語のままだったが、声は低い。 「真帆さんに今聞かれても、答えたくないです」  さらに言い募ろうとした時、瀬名のスマートフォンが震えた。翌朝七時入りの連絡だった。 「早すぎ。生放送のあと、地方のマネージャーとも打ち合わせあるのに」 「帰ってから?」 「オンラインで。だから、終わったらちゃんと話します。逃げる暇もないし」  冗談めかして笑い、彼女は洗面台に散らばった化粧品をポーチへ戻した。地方のマネージャーとの打ち合わせと、私との話。どちらも放送後に済ませる予定らしかった。  部屋へ戻ってから、私は聞きたいことをメモへ書いた。流産の情報をどこで知ったのか。景都から聞いたのか。契約には何があったのか。なぜ私に勝ちたいと言ったのか。  五つ目の行だけ、何も書けなかった。  明日の夜には答えがあると思っていたから、最後の質問は、その時に決めればいいと思っていた。  最終生放送の朝、瀬名はスタジオ脇のモニター前から動かなかった。事前収録インタビューの編集版が再生され、画面の中の彼女が『仕事なので、やることはやります』と言ったところで映像が切れる。 「この後、ありますよね」  制作担当の柊は手元の進行表を見た。 「尺の都合で落としました。意味は変わっていません」 「変わってます。私は『言ってないことまで言ったことにしないでください』って続けた」 「今夜は水城さんと深見さんの選択が中心です。瀬名さんの説明を長く入れると――」 「長くしろとは言ってません。前だけ使ったら、何でも受け入れたみたいになるでしょう」  周囲でケーブルを運んでいたスタッフの手が、一瞬だけ遅くなった。瀬名も自分の声が大きくなったことに気づき、息を整える。 「すみません。でも、そ
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第35話 あと五分しかない

「番組の札で決めないだけ。放送が終わったら、本人と話すから」  瀬名は少し驚いたあと、口元だけで笑った。 「やっと番組から降りるんですね」  私は選択札のケースを閉じ、「瀬名さんに言われたくない」と返した。 「私は最後まで仕事しますよ。降りるなら、終わってからです」  スタッフが修正版の書き出しに時間がかかると伝えに来た。予備素材は保管場所が変わり、関係者通路の先にあるB管理室へ移されたという。 「遠くないですか」 「本番前に確認するなら、今のうちです」  瀬名は時計を見てから、まだ再生中のモニターへ目を戻した。 「出力が間に合わなかったら、予備の方を見ます。場所、あとで送ってください」  私はそのやり取りを、選択札の説明と同じ程度にしか聞いていなかった。足元には出演者ごとの立ち位置を示す色テープが貼られ、私、景都、瀬名の間隔まで決められている。  放送が終われば、その印の外で話せると思っていた。  生放送まで五分を切ると、スタジオの時間だけが急に細かく刻まれ始めた。メイク担当が最後の粉をはたき、ADが差し替え台本を抱えて走る。床に這うケーブルを避ける靴音と、インカムから漏れる声が、同じ場所でいくつも重なっていた。  私は椅子に座り、伏せた選択札へ手を置いていた。厚紙の角が掌に当たる。裏返せば『復縁』と書かれているが、本番で上げるつもりはもうなかった。  景都は二席離れた場所にいる。目が合うと、何か言いかけてやめた。私が札を上げないつもりだとは、まだ話していない。それでも彼は席を立たず、答えを取りに来なかった。 「瀬名さん、どこですか」  スタッフの声が飛んだ。さっきまでモニター前にいた彼女の椅子が空いている。 「予備素材の確認。B管理室へ行ったみたいです」 「今から? あと五分ないよ」  柊は進行表から顔を上げず、「間に合わなければ途中から入れます。番組は予定どおり」と答えた。誰か一人が欠けても、生放送の秒数は待ってくれない。  私は空いた椅子を見た。瀬名なら戻る。放送後に話すと約束した。母親へプリンを買い、翌週には地方へ行く。今日ここで戻らない理由など、一つも思いつかなかった。  後になって、あの数分の記録を何度も見ることになる。防犯カメラには、瀬名が関係者通路を早足で進む姿が残っていた。担当ADへ送ったメッセージは二行
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第36話 嫌いだった女が死んだ夜

 カウントの途中から声が消え、指だけが折られていく。  瀬名の椅子は空いたままだった。さっきまで聞こえていた彼女の声が、舞台袖にもない。私は入口を見たが、照明の向こうをスタッフが横切っただけだった。  夜九時四十分、『RE:PAIR FINAL LIVE』の赤い表示が点いた。瀬名が戻らないまま、生放送が始まった。  司会者は「到着が少し遅れています」と笑って説明し、客席から軽いどよめきが起きた。建物の中にいるはずなのに、と私は思ったが、カメラはすぐに大型モニターへ切り替わった。  この一か月の映像が流れる。景都と私の間へ瀬名が入り、編集された画面の中では、最初から三人が同じものを奪い合っていた。机の下で、私は『復縁』の札から手を離した。  今日は上げない。放送が終わったら景都と話す。瀬名から流産情報の出所を聞き、そのあとで自分の答えを決める。  CMまで一分というところで、袖を出入りするスタッフが増えた。柊がインカムを押さえ、何度も同じ名前を呼んでいる。客席では司会者の合図に合わせ、まだ拍手が続いていた。  奥で、金属のものが倒れたような音がした。 「CM、入れて」  柊の声から、番組用の穏やかさが消えた。景都が先に立ち上がる。スタッフの一人が設備区画から走ってきて、名前を言わずに「人が落ちた」と告げた。  それでも、誰のことか分かった。  控室へ移動するよう促される中、私は選択札を握ったまま立ち尽くした。景都が設備区画へ向かう。追おうとして、一歩も動けない。  その時、ほんの一瞬だけ思った。  瀬名がいなくなれば、景都を選べる。  浮かんだ考えは、言葉になるより先に身体を冷たくした。誰にも聞かれていないのに、口を押さえた。  しばらくして景都が戻ってきた。顔を見ただけで、確認が終わるまで黙っている時の彼ではないと分かった。 「瀬名さんは?」 「今、搬送された」 「生きてるの」  景都は一度だけ息を吸った。 「心肺停止だ」  手から札が落ちた。白い床に『復縁』の二文字が上を向く。私は拾えなかった。◇ その夜、瀬名莉子は死亡した。二十七歳だった。  事情聴取でスマートフォンを提出すると、警察官は瀬名とのトーク画面を開いた。最後に送った『消えて』という三文字が、照明の白い机の上で必要以上に黒く見えた。  番組から消えてほ
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第37話 ほっとした、と言った

 廊下へ出る前に、スタッフが選択札を返してくれた。受け取った覚えだけが曖昧で、角が掌へ食い込んでいるのに放せなかった。  聞けるはずだった言葉だけが、どこにも残っていなかった。  翌朝、ニュースを開くと瀬名の名前が出ていた。名前の横には年齢まである。それでも、昨日まで同じ建物にいた瀬名莉子が死んだのだと、すぐには思えなかった。  事情を聞かれた部屋の机には、私が送ったメッセージを印刷した紙が置かれていた。『消えて』。警察官は送信した時刻と口論の経緯を確認し、私は番組の演出や流産の発言について、同じ説明を何度も繰り返した。  扉の向こうでは、革靴の足音と低い声が途切れない。LATTICE SHIELDの法務、深見家の顧問弁護士、制作会社との連絡担当。私が頼んでいない人たちが、景都の一言ですでに動いていた。  廊下へ出ると、彼は電話を切ったところだった。 「真帆。法務から説明を――」 「何をするつもり?」 「警察へ必要な資料を出す。制作側の記録も保全させる」 「私のメッセージが原因じゃないって説明するの?」  景都の眉が寄る。 「記録を残す。君が送った文も含めて、実際にあったことを出す」  それは分かっている。景都が証拠を消す人ではないことも知っている。それでも、もう私の代わりに全部引き受けるつもりでいる、その顔が怖かった。 「私のことまで、もう大丈夫みたいに言わないで」 「君が転落させたわけじゃない」 「知ってる」  景都が黙った。  言うつもりはなかったのに、一度出した言葉が止まらない。 「人が落ちたって聞いた時、ほっとした」  喉が詰まり、次の言葉だけが小さくなる。 「これで景都を選べるって。ほんの一瞬だけ」  景都が口を開く。 「今、違うって言わないで」  声が廊下へ響き、通りかかった職員が足を緩めた。彼のスマートフォンが震えたが、画面を伏せたまま出なかった。 「出て」 「今は――」 「鳴ってる。私のせいみたいに、止めないで」  景都は二歩離れて電話に出た。必要な指示だけを短く伝え、すぐに戻ってくる。その手際のよさを見ていると、事故も炎上も警察対応も、いずれ処理可能な項目へ変わる気がした。  けれど、私の中に浮かんだ安堵だけは、担当者も期限も置けない。 「今日は帰って。私は一人で帰る」 「タクシーだけ手
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第38話 泣けない見送り

 遺影の瀬名は髪が短かった。番組で使われた宣材写真より若く、笑う時に片方の目だけ細くなる。私の知らない顔だった。  後ろの席へ座ると、景都は隣ではなく、一つ空けた椅子を選んだ。昨日、帰ってと言ったからだろう。香典や車の手配についても何も聞かない。彼が何もしないことを、私は何度も確認してしまった。  読経の間、誰かのすすり泣きが途切れなかった。私は泣けない。  流産のことを言われた。景都との間にも入ってきた。何度も腹が立って、『消えて』と送った。死んでほしかったわけじゃない。そう思おうとするほど、画面に打った三文字だけが浮かんだ。涙は出なかった。嫌いだったからなのか、まだ何も分かっていないからなのか、自分でも分からなかった。  見送りが終わり、参列者が少しずつ立ち上がった。入口近くで、年配の女性が職員に支えられている。瀬名と同じ目元をしていた。 「お母さん?」  近くにいた番組スタッフへ小声で尋ねると、瀬名和恵さんだと教えられた。施設から職員が付き添ってきたらしい。  和恵さんは遺影を見ず、手の中のハンカチを何度も四角く畳み直していた。 「莉子、仕事?」  職員が何か答えたが、私には聞こえなかった。  帰ったらプリンを買うと言っていた瀬名の声が、葬儀場には似合わないほど普通に蘇る。胸の奥がざらつき、私は外へ出ようとして立ち上がった。 「真帆」  景都が呼ぶ。手は伸ばさない。 「少し、外へ出るか?」 「うん。ここにいると、何か思わなきゃいけない気がする」  彼は理由を聞かず、私の後ろから建物を出た。  冬の空気が頬に冷たく、室内で息を浅くしていたことに初めて気づく。景都は歩幅を合わせるだけで、コートを着せようとも、車を呼ぼうともしなかった。 「事故対応、どこまで動かしてるの」 「制作側と設備側の記録だけ押さえてる。君のことは、君が言うまで何もしない」 「本当に?」 「ああ」  すぐ安心できる答えではない。それでも、今日は先回りされた形跡がなかった。  中へ戻る前、和恵さんがまた「莉子、忙しかったでしょう」と職員へ言うのが聞こえた。私は近くまで行き、何を名乗るか迷った末に頭を下げる。 「はい。ずっと、仕事の予定を確認していました」  和恵さんは私を見て、小さく笑った。  それ以上は何も言えなかった。優しかったとも、友達だっ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-17
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第39話 戻れなかった扉

「発報から初動まで四分二十二秒です。一度、機材搬入による誤検知として処理されています」  森下と景都の声だけが仕事の速度になる。私は赤い線の終点を見た。人が一人死んだ場所も、図面では小さな丸印だった。 「誰かに行けと言われた記録は?」 「ありません。第三者が追った、押したという映像も、現時点では確認されていません」  媒体は回収されている。ただし内容と、瀬名が何を確かめたかったのかは照合中だった。 「自分の発言を残したかったんでしょうか」 「行動は確認できますが、動機は断定できません」  番組を告発しようとした。私へ何か伝えようとした。そういう物語なら、いくらでも作れる。本人がいなければ、どれも否定されない。  森下は、事故に第三者が関与した痕跡は今のところ確認されていないと説明した。  防犯映像に瀬名以外の人影はない。保守用経路の床は前夜の雨で濡れ、戻り扉は瀬名のカードでは開かなかった。警備アラートも、機材搬入による誤検知と一度判断され、確認が遅れていた。  一つずつなら、そこで人が死ぬとは誰も思わなかったのだろう。同じ五分間に重なったことで、瀬名は戻ってこなかった。 「映っていないだけかもしれませんよね」  森下は可能性を否定しなかった。ただ、誰かが押した、追った、閉じ込めたと示す記録はないと言った。 「犯人がいた方が、楽だったのに」  誰かを憎めれば、私が送った『消えて』も、事故を知った瞬間の安堵も、その人から少し離せる気がした。  景都の指が資料の端で止まった。 「俺も、原因が一つなら、どこを直せばいいか決められる」 「処理できるから?」 「そうだと思う」  言い直して飾らなかったことが、今はありがたかった。 「……でも、瀬名さんは戻ってこないよ」 「ああ」  慰めではなく、彼自身にも向けた返事だった。机の上では、設備図の角だけが空調の風で揺れていた。  どちらにも都合のよい名前は、資料のどこにもなかった。◇ 説明が終わり、会議室を出ると、景都が自販機の前で止まった。 「水、いるか」 「いらない」  彼は自分の分も買わなかった。光ったボタンだけが、選ばれないまま並んでいる。 「……本当に、誰もいなかったんだね」 「今確認できている映像には」 「もっと、分かりやすいものだと思ってた。人が死んだ理由っ
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第40話 悪女とは、書いていない

「いい」  景都は車の鍵を一度手に取ったが、ポケットへ戻した。私たちは行き先も決めずに歩いた。 「扉の設定は、翌週に直す予定だったんだよね。どれか一つでも間に合ってたら?」 「報告にはそうある。どれか一つでも間に合っていれば、事故は防げたかもしれない」  権限設定、雨、警備、残り時間、瀬名自身の判断。『かもしれない』が多すぎて、誰か一人の名前へ変えられない。  歩道の端で、車が水を跳ねた。「危ない」と景都が言う。私は一歩内側へ避けた。  後日、森下から瀬名の契約書を見せてもらった。拍子抜けするほど普通の書式だった。出演料、拘束日、追加撮影、SNSでの告知回数。ページ下部には彼女の署名があり、どの文字も乱れていない。  森下が別紙を開く。紙の左端には、何度もファイルから出し入れされた細い跡がついていた。 「追加報酬の対象として、〈演出上の役割への協力〉が定められています」  具体例には、景都との距離を縮める、私の反応を引き出す、三者の対立を強調する、と並んでいた。炎上時の投稿方針まで、番号を振って書かれている。 「悪女とは書かないんですね」 「契約上は『New Choice』『対立軸』です。制作側の口頭説明では、より直接的な表現が使われた記録があります」 「キスも仕事?」 「身体接触を求める条項はありません。接近して見える演出への協力までです」  景都が私を見たが、何も言わなかった。  私はページをめくった。瀬名が何度も「仕事です」と言っていた声が戻る。番組に言わされたのなら、あの女を嫌った自分も少しはましになる――そう考えかけ、紙の端を強く押さえた。 「流産の発言は?」  森下は台本、指示書、収録メモの一覧を表示した。 「いずれにも記載がありません。制作側が発言を求めた記録もない」 「じゃあ、本人が勝手に言った」 「発言自体については、そうです。ただし、情報をどこで得たかは別問題です」  契約にない言葉だった。その事実は、全部が演出だったという逃げ道を塞いだ。瀬名自身の悪意や苛立ちが混じっていた可能性は残る。死んだからといって、そこまで仕事へ書き換えることはできない。 「端末のアクセスは?」 「警察の確認が終わった範囲から照合しています。制作会社の共有フォルダに、瀬名さんの閲覧履歴が一件ありました」 「流産のことが書い
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