All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 31 - Chapter 40

104 Chapters

第31話 あと六日

「一晩考えた」 「で?」 「余計分からなくなった」  思わず笑った。 「珍しいね」 「かなり困ってる」 「顔に出てないけど」  景都は廊下の先へ一度目をやった。スタッフが運ぶ照明のケースが角を曲がって消える。 「でも、番組が終わって会わなくなるのは嫌だ」 「それは分かるんだ」 「ああ」  その時、廊下の角で靴底が床を擦る音がした。  瀬名が台本を胸へ抱え、気まずそうに立っている。 「すみません。また聞きました」 「どこから?」 「“会わなくなるのは嫌”くらいからです」 「それ、ほとんど全部じゃん」  瀬名は台本の端で口元を隠した。 「でも安心しました。最終回、きれいには終わらなそうで」 「それ、安心するところ?」 「番組としては困ります」  スタッフに名前を呼ばれ、瀬名は台本を振って先へ走っていった。◇ 夕方、最終生放送で使う選択札が配られた。  白い厚紙に、黒い文字が一つずつ印刷されている。 『復縁』 『別離』 『New Choice』  制作スタッフは、当日の直感で一枚を選ぶよう説明した。人生の続きを決めるには、どれも手にした時の重さが足りない。  机へ三枚を並べると、裏側には備品の管理番号が振られていた。〈復縁〉という大きな言葉にも、紛失確認のための数字がある。その事務的な印字を見た途端、三択から未来を選ぶことが少し滑稽に思えた。  景都は自分の札を伏せたまま、私を見ている。 「見ないでよ」  景都は伏せた札から目を上げた。 「何を」 「私。札を見て」  景都は三枚へ一度だけ目を落とした。 「……どれも違う」 「それ、私の札なんだけど」  答えの代わりに、景都は自分の札をさらに手前へ引いた。  少し離れた席で、瀬名が三枚を順番に持ち上げた。 「〈保留〉って札、ないんですね」 「瀬名さんも迷うの?」 「私は選ばれる側ですけど。三枚だけの方が、編集は楽そうだなって」 「夢がないね」 「番組ですから」  スタッフがケースを回収しに来たため、私は三枚を重ねて蓋を閉じた。景都へも、瀬名へも、どれを選ぶつもりかは言わなかった。  番組は、あと六日で終わる。  瀬名が死ぬまでにも、あと六日だった。  翌日のカメラリハーサルでも、昨日配られた三枚の札が机へ戻されていた。スタッフは本
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第32話 帰ったら、プリン買ってくね

 いつの間にか隣へ来た瀬名が、空いている椅子へ腰を下ろした。今日は収録衣装ではなく、黒いパーカーに髪をまとめている。 「分かってる。でも、画面だけ見たら選んだように見えるでしょう」 「リハーサル映像まで使われたら、何でもありですね」  彼女は笑い、『別離』の札を持ち上げた。照明に反射しない角度を確かめると、すぐ机へ戻す。仕事として扱えば、ただの厚紙らしい。 「瀬名さんは迷わないの?」 「私は選ばれる側ですから。自分で札を上げるより、ずっと楽ですよ」 「便利な立場」 「そう見えるなら、代わります?」  笑ってはいたが、声にはいつもの棘がなかった。彼女は三枚を順に重ね、裏面の管理番号を見てから元の位置へ戻した。 「こういうの、気持ちを分かりやすくするために作るんでしょうね。札に入らない分は、放送ではなかったことにできるんでしょうね」 「番組に出ている人が言う?」 「出てるから言うんです。私は悪女、真帆さんは傷ついた元妻、景都さんは未練のある元夫。だいたいは合ってるから、余計に厄介なんですよ」  瀬名の指が『New Choice』で止まった。そこに印刷されているのは新しい相手なのか、元夫婦ではない関係なのか、それとも何も選ばないことなのか。制作側の説明には、そこまで書かれていない。 「景都を選ばせたいわけじゃないんでしょう」  私が言うと、彼女は少しだけ目を細めた。 「仕事では選ばせたいです。でも、景都さん本人が欲しいかと聞かれたら、別に」 「じゃあ、何がしたいの」 「時々、真帆さんに勝ちたくなるだけ」  あまりに平然と言うので、返事が遅れた。瀬名はその間を面白がるように笑う。 「自分が競争相手だと思ってなかった顔。そういうところが、ちょっと腹立つんですよ」 「何の競争かも分からないのに?」 「分かんないですよ」  瀬名は『New Choice』の角を爪で押した。 「でも、真帆さんが嫌な顔すると……ちょっとだけ、勝った気がする」  スタッフに呼ばれ、瀬名は立ち上がった。机を離れる直前、昨日から何度も触られ、角の反った『復縁』を一度見下ろす。 「真帆さん、それ、本当に選ぶんですか」  答えを待たずに、彼女はスタジオへ戻っていった。  少し離れた席では、景都がカメラ位置の説明を聞いている。私の手がどの札に触れていたか気づい
last updateLast Updated : 2026-08-14
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第33話 終わったら、話す

 瀬名は衣装の袖口を直しながら、さっきまで電話へ向けていた声より少し低く答えた。 「はい。昔の喫茶店みたいな、卵が強いやつが好きなんです」  私は鏡越しに彼女を見る。「駅前にあるの?」 「期間限定らしくて。明日の帰りに寄れば、まだあると思うんですけど」  明日の帰り。その言葉は、翌日の生放送よりずっと確かな予定に聞こえた。  衣装部屋へ入ると、ラックには最終回用の服が出演者名ごとに分けられていた。瀬名は自分のワンピースを身体へ当て、タグを見た途端に首を振る。 「これ、前のサイズです。変更、伝えてありますよね」  担当者が慌ててタブレットを確認する。 「申し訳ありません。すぐ取り替えます」 「明日本番なので、今日中に一度着たいです。直しが必要なら、その時間もください」  怒鳴らない。曖昧にも笑わない。仕事で必要なことだけを、相手が動ける形で伝える声だった。  私の白いセットアップを見て、瀬名は「真帆さんらしい」と言った。 「地味ってことでしょ」 「地味だけど、画面では線がきれいに出ます。褒めてますよ、半分くらい」 「残り半分は?」 「最終回くらい、もう少し分かりやすくすればいいのにって」  衣装合わせが終わると、彼女はマネージャーから送られた翌週の予定を確認した。化粧品ブランドの配信、雑誌撮影、地方イベント。移動時間の横には、施設へ寄る予定らしい短い印がついている。 「番組が終わったら休めるの?」 「移動中に寝ます。アイドルの時よりはましです」 「それ、休みとは言わないよ」 「仕事がない方が困るんで」  瀬名はそう言いながら、サイズ変更の確認メールへ返信した。数日後ではなく、明日以降も当然続いていく生活の手つきだった。  夜、母から近所のスーパーで見つけたプリンの写真が届いた。私は冷蔵庫を開け、ヨーグルトしか入っていない棚を見た。共同生活が終われば、瀬名の嫌味も、景都の薄い粥も、朝から向けられるカメラもなくなる。  それを待っていたはずなのに、部屋が静かになる想像だけが、なぜかうまくできなかった。  生放送前日の夜、瀬名は洗面台の鏡に向かってメイクを落としていた。クレンジングを含ませたコットンに、濃い色のリップが少しずつ移っていく。 「流産のこと、明日までに教えて」  鏡の中で彼女の手が止まった。 「急ですね」
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第34話 最後までカメラを回して

「五分で済むなら、真帆さんはこんな顔してないです」 返しかけた言葉を飲み込む。流産情報の出所だけではない。契約の範囲、景都への気持ち、なぜ私に勝ちたいと言ったのか。自分でも整理できていない問いを、全部この人へ差し出そうとしている。 瀬名はクレンジングの蓋を閉め、鏡越しではなく私を振り返った。「放送が終わったら話します。契約でやったことと、私が勝手に言ったことも。その時、真帆さんがまだ聞きたいなら」「今じゃ駄目なの?」「今は話しません。いつ話すかくらい、私に決めさせてください」 敬語のままだったが、声は低い。「真帆さんに今聞かれても、答えたくないです」 私たち、とひとまとめにされたことへ反発しかけた。その時、瀬名のスマートフォンが震えた。翌朝七時入りの連絡だった。「早すぎ。生放送のあと、地方のマネージャーとも打ち合わせあるのに」「帰ってから?」「オンラインで。だから、終わったらちゃんと話します。逃げる暇もないし」 冗談めかして笑い、彼女は洗面台に散らばった化粧品をポーチへ戻した。遺言のような重さは、どこにもなかった。仕事予定の隙間へ、私との話を一つ差し込んだだけだった。 部屋へ戻ってから、私は聞きたいことをメモへ書いた。流産の情報をどこで知ったのか。景都から聞いたのか。契約には何があったのか。なぜ私に勝ちたいと言ったのか。 五つ目の行だけ、何も書けなかった。 明日の夜には答えがあると思っていたから、最後の質問は、その時に決めればいいと思っていた。 最終生放送の朝、瀬名はスタジオ脇のモニター前から動かなかった。事前収録インタビューの編集版が再生され、画面の中の彼女が『仕事なので、やることはやります』と言ったところで映像が切れる。「この後、ありますよね」 制作担当の柊は手元の進行表を見た。「尺の都合で落としました。意味は変わっていません」「変わってます。私は『言ってないことまで言ったことにしないでください』って続けた」「今夜は水城さんと深見さんの選択が中心です。瀬名さんの説明を長く入れると――」「長くしろとは言ってません。前だけ使ったら、何でも受け入れたみたいになるでしょう」 周囲でケーブルを運んでいたスタッフの手が、一瞬だけ遅くなった。瀬名も自分の声が大きくなったことに気づき、息を整える。「すみません。でも、そこは直して
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第35話 あと五分しかない

「番組の札で決めないだけ。放送が終わったら、本人と話すから」  瀬名は少し驚いたあと、口元だけで笑った。 「やっと番組から降りるんですね」  私は選択札のケースを閉じ、「瀬名さんに言われたくない」と返した。 「私は最後まで仕事しますよ。降りるなら、終わってからです」  スタッフが修正版の書き出しに時間がかかると伝えに来た。予備素材は保管場所が変わり、関係者通路の先にあるB管理室へ移されたという。 「遠くないですか」 「本番前に確認するなら、今のうちです」  瀬名は時計を見てから、まだ再生中のモニターへ目を戻した。 「出力が間に合わなかったら、予備の方を見ます。場所、あとで送ってください」  私はそのやり取りを、選択札の説明と同じ程度にしか聞いていなかった。足元には出演者ごとの立ち位置を示す色テープが貼られ、私、景都、瀬名の間隔まで決められている。  放送が終われば、その印の外で話せると思っていた。  生放送まで五分を切ると、スタジオの時間だけが急に細かく刻まれ始めた。メイク担当が最後の粉をはたき、ADが差し替え台本を抱えて走る。床に這うケーブルを避ける靴音と、インカムから漏れる声が、同じ場所でいくつも重なっていた。  私は椅子に座り、伏せた選択札へ手を置いていた。厚紙の角が掌に当たる。裏返せば『復縁』と書かれているが、本番で上げるつもりはもうなかった。  景都は二席離れた場所にいる。目が合うと、何か言いかけてやめた。私が札を上げないつもりだとは、まだ話していない。それでも彼は席を立たず、答えを取りに来なかった。 「瀬名さん、どこですか」  スタッフの声が飛んだ。さっきまでモニター前にいた彼女の椅子が空いている。 「予備素材の確認。B管理室へ行ったみたいです」 「今から? あと五分ないよ」  柊は進行表から顔を上げず、「間に合わなければ途中から入れます。番組は予定どおり」と答えた。誰か一人が欠けても、生放送の秒数は待ってくれない。  私は空いた椅子を見た。瀬名なら戻る。放送後に話すと約束した。母親へプリンを買い、翌週には地方へ行く。今日ここで戻らない理由など、一つも思いつかなかった。  後になって、あの数分の記録を何度も見ることになる。防犯カメラには、瀬名が関係者通路を早足で進む姿が残っていた。担当ADへ送ったメッセージは二行
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第36話 嫌いだった女が死んだ夜

 カウントの途中から声が消え、指だけが折られていく。  瀬名の椅子は空いたままだった。さっきまで聞こえていた彼女の声が、舞台袖にもない。私は入口を見たが、照明の向こうをスタッフが横切っただけだった。  夜九時四十分、『RE:PAIR FINAL LIVE』の赤い表示が点いた。瀬名が戻らないまま、生放送が始まった。  司会者は「到着が少し遅れています」と笑って説明し、客席から軽いどよめきが起きた。建物の中にいるはずなのに、と私は思ったが、カメラはすぐに大型モニターへ切り替わった。  この一か月の映像が流れる。景都と私の間へ瀬名が入り、編集された画面の中では、最初から三人が同じものを奪い合っていた。机の下で、私は『復縁』の札から手を離した。  今日は上げない。放送が終わったら景都と話す。瀬名から流産情報の出所を聞き、そのあとで自分の答えを決める。  CMまで一分というところで、袖を出入りするスタッフが増えた。柊がインカムを押さえ、何度も同じ名前を呼んでいる。客席では司会者の合図に合わせ、まだ拍手が続いていた。  奥で、金属のものが倒れたような音がした。 「CM、入れて」  柊の声から、番組用の穏やかさが消えた。景都が先に立ち上がる。スタッフの一人が設備区画から走ってきて、名前を言わずに「人が落ちた」と告げた。  それでも、誰のことか分かった。  控室へ移動するよう促される中、私は選択札を握ったまま立ち尽くした。景都が設備区画へ向かう。追おうとして、一歩も動けない。  その時、ほんの一瞬だけ思った。  瀬名がいなくなれば、景都を選べる。  浮かんだ考えは、言葉になるより先に身体を冷たくした。誰にも聞かれていないのに、口を押さえた。  しばらくして景都が戻ってきた。顔を見ただけで、確認が終わるまで黙っている時の彼ではないと分かった。 「瀬名さんは?」 「今、搬送された」 「生きてるの」  景都は一度だけ息を吸った。 「心肺停止だ」  手から札が落ちた。白い床に『復縁』の二文字が上を向く。私は拾えなかった。◇ その夜、瀬名莉子は死亡した。二十七歳だった。  事情聴取でスマートフォンを提出すると、警察官は瀬名とのトーク画面を開いた。最後に送った『消えて』という三文字が、照明の白い机の上で必要以上に黒く見えた。  番組から消えてほ
last updateLast Updated : 2026-08-16
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第37話 ほっとした、と言った

 廊下へ出る前に、スタッフが選択札を返してくれた。受け取った覚えだけが曖昧で、角が掌へ食い込んでいるのに放せなかった。  聞けるはずだった言葉だけが、どこにも残っていなかった。  翌朝、ニュースを開くと瀬名の名前が出ていた。名前の横には年齢まである。それでも、昨日まで同じ建物にいた瀬名莉子が死んだのだと、すぐには思えなかった。  事情を聞かれた部屋の机には、私が送ったメッセージを印刷した紙が置かれていた。『消えて』。警察官は送信した時刻と口論の経緯を確認し、私は番組の演出や流産の発言について、同じ説明を何度も繰り返した。  扉の向こうでは、革靴の足音と低い声が途切れない。LATTICE SHIELDの法務、深見家の顧問弁護士、制作会社との連絡担当。私が頼んでいない人たちが、景都の一言ですでに動いていた。  廊下へ出ると、彼は電話を切ったところだった。 「真帆。法務から説明を――」 「何をするつもり?」 「警察へ必要な資料を出す。制作側の記録も保全させる」 「私のメッセージが原因じゃないって説明するの?」  景都の眉がわずかに寄る。 「記録を残す。君が送った文も含めて、実際にあったことを出す」  それは分かっている。景都が証拠を消す人ではないことも知っている。それでも、もう私の代わりに全部引き受けるつもりの顔をされると、その顔だけは怖かった。 「私の分まで、終わった顔しないで」 「君が転落させたわけじゃない」 「知ってる」  景都が黙った。  言うつもりはなかったのに、一度出した言葉が止まらない。 「人が落ちたって聞いた時、ほっとした」  喉が詰まり、次の言葉だけが小さくなる。 「これで景都を選べるって。ほんの一瞬だけ」  景都が口を開く。 「今、違うって言わないで」  声が廊下へ響き、通りかかった職員が足を緩めた。彼のスマートフォンが震えたが、画面を伏せたまま出なかった。 「出て」 「今は――」 「鳴ってる。私のせいみたいに、止めないで」  景都は二歩離れて電話に出た。必要な指示だけを短く伝え、すぐに戻ってくる。その手際のよさを見ていると、事故も炎上も警察対応も、いずれ処理可能な項目へ変わる気がした。  けれど、私の中に浮かんだ安堵だけは、担当者も期限も置けない。 「今日は帰って。私は一人で帰る」 「タクシ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第38話 泣けない見送り

 遺影の瀬名は髪が短かった。番組で使われた宣材写真より若く、笑う時に片方の目だけ細くなる。私の知らない顔だった。  後ろの席へ座ると、景都は隣ではなく、一つ空けた椅子を選んだ。昨日、帰ってと言ったからだろう。香典や車の手配についても何も聞かない。彼が何もしないことを、私は何度も確認してしまった。  読経の間、誰かのすすり泣きが途切れなかった。私は泣けない。  流産のことを言われた。景都との間にも入ってきた。何度も腹が立って、『消えて』と送った。死んでほしかったわけじゃない。そう思おうとするほど、画面に打った三文字だけが浮かんだ。涙は出なかった。嫌いだったからなのか、まだ何も分かっていないからなのか、自分でも分からなかった。  見送りが終わり、参列者が少しずつ立ち上がった。入口近くで、年配の女性が職員に支えられている。瀬名と同じ目元をしていた。 「お母さん?」  近くにいた番組スタッフへ小声で尋ねると、瀬名和恵さんだと教えられた。施設から職員が付き添ってきたらしい。  和恵さんは遺影を見ず、手の中のハンカチを何度も四角く畳み直していた。 「莉子、仕事?」  職員が何か答えたが、私には聞こえなかった。  帰ったらプリンを買うと言っていた瀬名の声が、葬儀場には似合わないほど普通に蘇る。胸の奥がざらつき、私は外へ出ようとして立ち上がった。 「真帆」  景都が呼ぶ。手は伸ばさない。 「少し、外へ出るか?」 「うん。ここにいると、何か思わなきゃいけない気がする」  彼は理由を聞かず、私の後ろから建物を出た。  冬の空気が頬に冷たく、室内で息を浅くしていたことに初めて気づく。景都は歩幅を合わせるだけで、コートを着せようとも、車を呼ぼうともしなかった。 「事故対応、どこまで動かしてるの」 「制作側と設備側の記録だけ押さえてる。君のことは、君が言うまで何もしない」 「本当に?」 「ああ」  すぐ安心できる答えではない。それでも、今日は先回りされた形跡がなかった。  中へ戻る前、和恵さんがまた「莉子、忙しかったでしょう」と職員へ言うのが聞こえた。私は近くまで行き、何を名乗るか迷った末に頭を下げる。 「はい。ずっと、仕事の予定を確認していました」  和恵さんは私を見て、小さく笑った。  それ以上は何も言えなかった。優しかったとも、友達だっ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第39話 戻れなかった扉

「発報から初動まで四分二十二秒です。一度、機材搬入による誤検知として処理されています」 森下と景都の声だけが仕事の速度になる。私は赤い線の終点を見た。人が一人死んだ場所も、図面では小さな丸印だった。「誰かに行けと言われた記録は?」「ありません。第三者が追った、押したという映像も、現時点では確認されていません」 媒体は回収されている。ただし内容と、瀬名が何を確かめたかったのかは照合中だった。「自分の発言を残したかったんでしょうか」「行動は確認できますが、動機は断定できません」 番組を告発しようとした。私へ何か伝えようとした。そういう物語なら、いくらでも作れる。本人がいなければ、どれも否定されない。 説明が終わり、会議室を出ると、景都が自販機の前で止まった。「水、いるか」「いらない」 彼は自分の分も買わなかった。光ったボタンだけが、選ばれないまま並んでいる。「……本当に、誰もいなかったんだね」「今確認できている映像には」 光ったままの自販機のボタンを見た。「もっと、分かりやすいものだと思ってた。人が死んだ理由って」 景都は自販機のボタンから手を離した。「調査は森下に任せる。俺が入ると、先に答えを決めそうだ」 私は何も言わなかった。 会議室の扉が閉まり、モニターの赤い線も見えなくなる。 それでも、本番まであと五分しかないのに、瀬名があの近道を選んだことだけは頭に残った。 事故に第三者が関与した痕跡は、今のところ確認されていない。 防犯映像に瀬名以外の人影はない。保守用経路の床は前夜の雨で濡れ、戻り扉は権限不足。警備アラートは一度誤検知と判断され、確認が遅れた。 一つずつなら、人を殺すほどの不備には見えない。それらが同じ五分間へ重なり、最後に瀬名の身体へ集まった。「映っていないだけかもしれませんよね」 森下は可能性を否定しなかった。ただ、誰かが押した、追った、閉じ込めたと示す記録はないと言った。「犯人がいた方が、楽だったのに」
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第40話 悪女とは、書いていない

「いい」 景都はそのまま建物を出た。車の鍵を一度手に取ったが、ポケットへ戻した。私たちは行き先も決めずに歩いた。「扉の設定は、翌週に直す予定だったんだよね」「報告にあった」「どれか一つでも間に合ってたら?」「事故は起きなかったかもしれない」 権限設定、雨、警備、残り時間、瀬名自身の判断。『かもしれない』が多すぎて、誰か一人の名前へ変えられない。 歩道の端で、車が水を跳ねた。「危ない」と景都が言う。私は一歩内側へ避けた。 誰か一人の名前は、どこにも出てこなかった。 次に森下が開いたのは、瀬名の契約書だった。 瀬名の契約書は、拍子抜けするほど普通の書式だった。出演料、拘束日、追加撮影、SNSでの告知回数。ページ下部には彼女の署名があり、どの文字も乱れていない。 森下が別紙を開く。紙の左端には、何度もファイルから出し入れされた細い跡がついていた。「追加報酬の対象として、“演出上の役割への協力”が定められています」 具体例には、景都との距離を縮める、私の反応を引き出す、三者の対立を強調する、と並んでいた。炎上時の投稿方針まで、番号を振って書かれている。「悪女とは書かないんですね」「契約上は『New Choice』『対立軸』です。制作側の口頭説明では、より直接的な表現が使われた記録があります」「キスも仕事?」「身体接触を求める条項はありません。接近して見える演出への協力までです」 景都が私を見たが、何も言わなかった。 私はページをめくった。瀬名が何度も「仕事です」と言っていた声が戻る。番組に言わされたのなら、あの女を嫌った自分も少しはましになる――そう考えかけ、紙の端を強く押さえた。「流産の発言は?」 森下は台本、指示書、収録メモの一覧を表示した。「いずれにも記載がありません。制作側が発言を求めた記録もない」「じゃあ、本人が勝手に言ったのか」「発言自体については、そうです。ただし、情報をどこで得たかは別問題です」 契約にない言葉だった。その事実は、全部
last updateLast Updated : 2026-08-18
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