All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 141 - Chapter 150

195 Chapters

第141話 不利になる提案

 海外テスト開始の一週間前、久世側から新しい条件案が出た。現地で問題が起きても、商品企画の責任者である私を前面には出さず、久世の広報が一括対応するという。  資料の私の名前の横には〈メディア対応対象外〉とある。  誰が希望したのか聞くと、沙耶自身だった。景都は関わっていない。  その事実にほっとした自分が、少し嫌だった。  沙耶は現地メディアの記事一覧を画面へ出す。番組事故、景都との関係、復縁説。商品より恋愛の見出しが並んでいた。 「あなたが出れば、商品よりこちらが聞かれる。プロジェクトとしては不利です」  理屈は分かる。  だから余計に腹が立った。 「提案としては受け取ります。でも、私抜きで決定しないでください」 「感情的になっています?」  頬が熱くなる。 「なってます」  そこだけは否定しなかった。 「でも、私が出ることで本当に損失が出るなら、数字で見せてください。過去記事があるから外す、だけなら納得しません」  会議室の空調が低く鳴る。  沙耶はしばらくこちらを見たあと、資料を自分の側へ引いた。 「分かりました。数字を出します」  会社へ戻る電車で、景都へ電話しようとしてやめる。今日はまだ愚痴にする段階ではない。灯へ資料を送り、明朝までに広報データを出してもらうことにした。  スマートフォンを閉じる前、景都から〈今日は会議だった?〉と届く。  〈うん。ちょっと腹立った〉  すぐに〈聞く?〉。  〈まだいい。自分で話してみる〉  既読がつき、それ以上は来なかった。  窓へ映る自分の顔は、会議中より疲れている。正しいことを言い返せても、傷つかないわけではない。  担当から外す案が一度でも現実になったことが悔しい。  それでも、担当から降りる気にはなれなかった。  会社へ戻ると、灯がまだ席に残っていた。送った資料を開き、問い合わせ件数と記事流入のデータを拾い始める。私はジャケットを脱ぎ、椅子の背へ掛けた。怒っているのか怖いのかと聞かれ、どっちも、と答える。灯はそれ以上慰めず、「じゃあ数字で殴ろう」とキーボードを叩き始めた。その乱暴な言い方に少し笑い、私も隣でファイルを開いた。  数字を拾う作業は二時間ほど続いた。灯が帰る前、ペットボトルの水を一本机へ置いていく。私は礼を言い、ぬるくなった水を飲んだ。明日の会議で
last updateLast Updated : 2026-10-08
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第142話 降りるのは、私じゃない

 翌朝、灯がまとめた数字を久世側へ送った。私が映った記事の閲覧数は確かに高い。けれど商品ページへの流入はむしろ増え、購入中止や取引停止へつながった形跡もない。海外では私生活の記事自体、ほとんど読まれていなかった。  会議室でその数字を示すと、沙耶は黙ってグラフを追った。 「現地で同じとは限りません」 「だから、問題が出た時に止めてください。出る前から私だけ消すのは違います」  広報責任者が視線を往復させる。私は商品サンプルを一つ手元へ寄せた。 「私が降りれば記事は静かになるかもしれません。でも、それで『元夫との関係があるから外された』と書かれたら、それが事実になる。それに、私はこれを作った人間です。現地で使われるところまで見たい」  最後は数字ではなかった。言ってから、感情論だと切られるかと思った。  沙耶はもう一度資料を上から見直し、画面を閉じた。 「担当はそのままにします。ただし私生活の質問が増えたら、広報はこちらで止めます」 「そこはお願いします」  会議が終わり、ほかの人が先に出る。廊下で沙耶が追いついてきた。エレベーターへ乗る直前、広報責任者が追いかけてきて、修正版の体制表を渡した。現地担当の欄に自分の名前が残っている。紙の端はまだプリンターの熱を持っていた。 「自分が外される話になると、急に強いですね」 「そうですか」 「もっと早く、そのくらい言えばよかったのに」  誰に、とは聞かなくても分かった。 「昔は、言い返せなかったんです」 「今は?」 「……今も怖いですけど、言うようにはしてます」  沙耶が笑う。「面倒ですね」 「自覚あります」  ビルの出口で別れる前、今度は私から聞いた。 「久世さんも、景都に言えばよかったんじゃないですか。好きだったなら」  仕事の顔が一瞬だけ消えた。 「言って、選ばれなかったら困るでしょう」  それだけ残して、沙耶は車寄せへ向かった。彼女が車へ乗るのを見送り、私は温かい体制表を鞄へ入れず、駅へ向かう間も、手に持っていた。  会社近くのコンビニでブラックコーヒーを買った。結婚していた頃なら苦くて飲めなかった味だ。蓋を開け、一口飲む。やっぱり苦い。でも捨てるほどではない。  窓際の立ち飲み台で、今日使った資料をもう一度開いた。私の名前は担当欄に残っている。沙耶の言葉は腹立たし
last updateLast Updated : 2026-10-08
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第143話 景都の拒絶

 久世ホールディングスの創業記念会に、mellow noteも招かれた。仕事上の付き合いだと思っていたのに、会場へ着くと取引先だけでなく久世家と深見家の親族までいる。「聞いてないんだけど」 景都へ小声で言うと、彼も会場を見回した。「俺も。父が来るとは聞いてない」 沙耶は壇上の挨拶を終えるとすぐ来て、家の会になっていることを自分もさっき知ったと謝った。珍しく、本当に困った顔だった。 そこへ年配の女性が近づき、沙耶の肩へ手を置く。「景都さんも来てくださったのね。沙耶とは仕事ばかりで、昔のお話も進まなくて」 空気が止まった。 縁談のことだと分かる。 沙耶が止めるより早く、景都が「その話はありません」と言った。 女性は昔の話だと笑って流そうとしたが、景都は重ねた。「今もありません。沙耶さんと結婚するつもりは、昔も今もないです」 胸が強く鳴る。沙耶の顔も硬くなった。 景都がさらに説明しようとするので、私は袖へ指を掛けた。「そこまででいい」 口が止まる。 女性は気まずそうに別の客へ向かった。 残った沙耶が深く息を吐く。「本当に容赦がないですね」「悪かった」「謝るなら、昔の縁談の時に言ってください」「正式に来る前に断ったはずだ」「そういうところです」 二人のやり取りがあまりに昔からの知人らしく、少し笑いそうになる。 沙耶がこちらを見た。「今のを見ても、彼があなたの前で弱くなると思います?」「弱くなるというより、雑になることはあります」 景都が何か言いかける。「前よりはまし」 今度は沙耶が笑った。 その後、会場では、何人かから形式的な挨拶を受けた。〈お久しぶりです〉と言われても、誰だったか思い出せない人もいる。結婚していた頃なら、失礼がないよう景都へ小声で確認していた。今日は名刺を受け取り、分からない人はそのまま分からないままにした。知らないことを恥ずかしがらずに済むだけで、会場でも前ほど息が詰まらなかった。 
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第144話 私を選ぶのは、私

 記念会の翌日、ネットには沙耶と景都が同じ会場にいる写真が出た。少し後ろには私も写っている。見出しは〈深見家と久世家、再び接近か〉。  灯は訂正を出すか聞いたが、断定記事ではないので放っておくことにした。気にならないわけではない。ただ、すべてを訂正して回ることにも疲れていた。  昼、沙耶から〈昨日はすみませんでした。母には私から話します〉と来る。  〈大丈夫です〉まで打ち、消した。  代わりに、〈私も驚きました。でも、久世さんの責任ではないと思います〉と送る。  夕方、沙耶が追加契約の署名で会社へ来た。手続きが終わっても席を立たず、「昨日、悔しかったです」と言う。  断られたことではないらしい。 「ずっと、あなたがいなければ深見さんは私を見てくれると思ってました」  沙耶はペンを机へまっすぐ置いた。 「でも私、自分から好きだって言ったこと、一度もなかったんです。……待ってただけで」  私は契約書の自分の署名を見る。少し右上がりの字だった。 「私も、似たことしてました」 「知っています」 「そこは言わなくていいです」  二人で笑う。  沙耶は鞄を持ち、「私は深見さんを選ばないことにします。今さらですけど」と言った。 「私に宣言するんですか」 「負けを認めるみたいで嫌なので、そういう意味ではありません」  ドアの前で一度振り返る。 「水城さんも、選ばれるのを待つだけにしない方がいいですよ」  一人になった会議室で、契約書をもう一度見る。  名前を書くのは簡単だ。恋愛になると、同じ一行が急に書けなくなる。  沙耶が帰ったあと、会議室の椅子を元へ戻した。彼女が座っていた場所だけ机の上に細い水滴の輪が残っている。ティッシュで拭きながら、自分の返事を急に作る必要はないと思う。沙耶が今日一つ決めたからといって、私まで同じ速度で進む必要はない。ただ、決めないことを選び続けている自分へは、そろそろ目を向けた方がよさそうだった。  夜、景都から〈今日はありがとう〉と来た。何の礼か聞くと、昨日、言いすぎるところを止めてくれたことへの礼だった。  〈止められて腹立たなかった?〉  〈少し。でも止まってよかった〉その返事を読み、スマートフォンを伏せる。  帰宅後、沙耶のメッセージをもう一度読み返した。母へ話す、と書かれた一文だけを見て、彼女
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第145話 沙耶の最後の条件

 海外テストの出発日が正式に決まった。三週間後。現地滞在はまず五日間で、結果次第では長期展開の話もある。 最終契約の打ち合わせで、沙耶が危機対応の条件を一つ追加した。現地で問題が起きても、商品担当が単独で会見へ出ず、久世とmellow noteの広報確認を入れる。私だけではなく担当者全員、LATTICEにも同じ条件だという。 景都は資料を読み、妥当だと頷いた。「珍しく意見が合いましたね」 沙耶が言うと、景都は「仕事だから」と真顔で返す。先に笑ったのは私だった。 会議の最後、沙耶から現地の連絡先一覧を渡された。一番上が彼女自身、その下がmellow note、LATTICEはさらに下にある。「何かあったら順番どおりに、とは言いません。ただ、深見さんが全部止めようとしたら私にも連絡してください」「信用されてないね」「実績がありますので」 景都が何も返せず、私はまた笑った。 会議後、エレベーターで沙耶と二人になった。数字が一階へ近づく間、彼女は資料を鞄へしまいながら、これで仕事上はしばらく終わりだと言った。 扉が開く直前になって、こちらを見ないまま続ける。「深見さんを、あまり待たせない方がいいですよ」「またその話ですか」「最後です。あの人、待つのが下手だから」「知ってます」「ならいいです」 ロビーへ出ると、景都が数歩離れた場所で電話をしていた。こちらに気づいても近づかない。沙耶との話が終わるまで、その位置から動かなかった。 車寄せでは運転手が傘を開き、誰かを待っている。以前なら、景都も電話を切った瞬間にこちらへ来て、次の予定を確認したかもしれない。 今日は私が歩き出すまで待っていた。 電話が終わり、目が合う。私は先にロビーの自動ドアへ向かった。景都が追いつく。「腹減った?」 最初に出てきたのがそれだったので、少し笑う。「かなり」 近くのサンドイッチ店へ入った。出発まで三週間しかないのに、話したのはパンの具と明日の会議の時間くらいだった。 サンドイッチ店では、景都がいつもの
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第146話 仕事で勝つ

 シンガポール向けの最終サンプル評価で、改良した三種類のポーチをテーブルへ並べた。高湿度対応の生地、裏側を厚くした引き手、現地の棚幅に合わせて五ミリ縮めた外寸。 前回より評価はいい。ただ一つ、沙耶が橙へ赤い反対票を入れた。「現地の照明だと色が沈みます。青と灰を先に出した方がいい」 悔しくて、実店舗の照明データを出す。シミュレーション上は許容範囲だった。「数字ではね」 沙耶は橙の試作品を窓際へ持っていった。「私は現地の棚を知ってます」「でも、この色は残したいです」 言ってから、それだけでは仕事の理由にならないと分かる。 景都は危機対応側の席にいるが、口を挟まない。 私は試作品を手に取り、角度を変えて見る。「本投入は青と灰にします。橙だけ、通常の二割で店頭テストを続けさせてください。売れなければ切ります」「二割?」「それ以上は要りません」 沙耶はもう一度光へかざし、頷いた。「それなら賛成」 会議が終わり、廊下へ出る。 私が会議の感想を聞く前に、景都が「俺に聞く?」と言った。「今日は聞きたい」「よかった。全部残すって意地張るかと思った」「そこまで子どもじゃない」「引き手三ミリで俺に怒ってた」「あれは景都が正しかったから腹が立ったの」 二人で笑う。 そこへ沙耶が追いつき、橙が売れたら謝る、売れなかったら私が謝る、という話になった。 握手をして別れる。 会社へ戻ると、後輩が橙のサンプルを見て「これ残ったんですね」と嬉しそうに言った。「二割だけ」と返し、テスト数量を共有表へ入力する。橙の欄だけ数字が小さい。惜しい気持ちは残ったが、入力した二割を消そうとは思わなかった。 帰宅前、サンプル棚の照明を一段落として橙を見た。昼間より沈んで見える。沙耶が言ったことは、やはり間違っていなかった。それでも二割だけ残した判断まで間違いとは思わなかった。 帰りの電車で、橙の試作品を膝に置いた。二割という数字は自分で決めた。愛着は残っている。それでも、全部残すか
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第147話 帰り道に残った言葉

 評価会の帰りに景都と駅まで歩いた時のことを、家に戻ってから思い返した。乾いた風が強く、街路樹の葉が何度も歩道へ落ちる。 「楽しそうだったな」 「沙耶さんと喧嘩してたように見えたけど」 「仕事の話で本気になってる時の方が、最近楽しそうだ」  景都の肩へ一枚、茶色い葉が落ちた。  取ろうとして手を伸ばし、一瞬だけためらう。景都が気づいて肩をこちらへ向けたので、つまんでコートのポケットへ入れた。 「沙耶さんに言われた」 「何を?」 「景都に、ちゃんと答えた方がいいって」  足音が一度ずれる。 「沙耶さんが?」 「仕事で使えなくなると困るからだって」  景都が笑った。「らしいな」  駅前の信号が赤になる。  私は横断歩道の白線を見たまま聞いた。 「今も、私を選びたい?」 「今も」  答えは早い。  番組も瀬名のことも終わり、仕事で会う理由がなくなっても、と重ねる。 「会いたい」 「沙耶さんみたいな人がいても?」  そこで初めて、景都がこちらを向いた。 「それ、今日の話に関係ある?」 「少し」  青信号で動き始めた人たちから一拍遅れて、私たちも渡り始めた。景都は何度も、君を選ぶと言ってきた。向こう側へ着いてから、私は「ちゃんと考えたい」と言った。  責める声は返ってこなかった。改札が見えてくると、景都の目が電光掲示板へ向かいかけ、私の方へ戻る。  私は顎で表示板を示した。「見れば?」  そこでようやく景都が時刻を確認した。次の電車は一分遅れていた。たった一分なのに少し得をした気がして、駅の入口までゆっくり歩いた。  ホームへ下りる階段で、さっき取った葉がコートのポケットに入ったままだと気づいた。捨てようとして、わざわざ持ち帰るほどでもないと笑う。ごみ箱へ落とすと、乾いた音もしなかった。沙耶に言われた言葉も、景都の返事も、今夜すぐ答えへ変える必要はない。電車のドアが開き、私は先に乗った。  電車の中では、景都から新しい連絡は来なかった。私も送らない。さっき「ちゃんと考えたい」と言ったばかりだ。その続きを、今また景都の返事で埋めたくはなかった。コートのポケットには、もう葉は残っていなかった。  帰宅して靴を脱ぐと、歩きすぎた足が少し痛んだ。答えを決めなかった夜なのに、前より疲れていない。考えることを先延ばしにしたのでは
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第148話 もう、曖昧にはしない

 翌日、仕事帰りに一人でパン屋へ寄った。塩パンを一つ取り、隣のクリームパンで手が止まる。景都が好きだと知ってから、何度か買おうとしてやめていた。 今日は一つ取った。 部屋へ戻り、二つ並べる。景都を呼ぶ予定はない。それでもクリームパンを見ていると、昨日、自分で言った「ちゃんと考えたい」が戻ってくる。 選ぶと言えば、すぐ何かが決まる気がして怖かった。 でも、何も決めず会い続けることにも、逃げ道がある。 スマートフォンを開く。 〈今、電話できる?〉 すぐ着信が来た。「早い」『電話していいって意味だろ』 声を聞いた途端、用意していた言葉が崩れた。「景都。私ね……前の夫婦に戻りたいわけじゃない」 景都は黙っている。 前の家も、何でも先に決められる生活も嫌だ。でも会わなくなるのも嫌だ。仕事がなくても会いたいし、ほかの人を探すつもりもない。 そこまで一気に言ってから、息を吐く。 景都が私の名を呼ぶ。「今、答えは言わないで」『分かった』「明日、会って話したい。電話じゃなくて」『分かった』「店は決めないでね」 今度の「分かった」だけ、少し遅れた。何か検索していたのだろう。 電話を切る。 クリームパンを半分に切り、一つだけ食べる。残りは袋へ戻した。少し潰れた。 トーク履歴を遡る。店の地図、雨の予報、仕事の写真。復縁という文字はほとんどないのに、私たちはずっと会っていた。 明日、未来を全部決めるつもりはない。 ただ一つ、自分から言うことを決める。 冷蔵庫へクリームパンを入れ、扉を閉めた。 夕食は塩パン半分とスープだけになった。冷蔵庫へ入れたクリームパンのことが気になり、何度か扉を開けそうになる。明日渡すと決めたからといって、恋人になると決めたわけではない。そんな自分への言い訳が可笑しい。食器を洗い終え、テーブルを拭く。明日の服だけ決め、スマートフォンは伏せたままにした。 寝る前、冷蔵庫を開けてクリームパンを確かめ
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第149話 名前をつける前の質問

 翌日の夕方、景都と駅前で会った。店は決めず、歩きながら探した。結局入ったのは以前一度だけ使った喫茶店で、私は奥の席へバッグを置いた。  昨日の続きを話すために来たのに、注文を終えると急に喉が狭くなる。景都は何も促さず、コーヒーの湯気が薄くなるのを待っていた。 「私、景都が好きだと思う」  言ってから、自分で逃げ道を残した言い方だと分かった。  景都も気づいたらしい。「思う、なの?」と聞く。 「今そこ突っ込む?」  少し間を置いて、言い直した。 「……好き」  景都は目を伏せた。笑ったのかと思ったが、口元は動いていない。「嬉しい」とだけ言う。  そこからは、付き合ったら何が変わるのかという話になった。復縁という言葉はまだ嫌だ。前の家にも戻りたくない。結婚や同居まで、今ここで続けて考えたくない。  景都は反論せず聞いていた。 「俺は、真帆が誰と会ってるか知りたくなると思う」 「全部教えろって言う?」 「言わないようにする」 「できる?」  彼はしばらくカップを見てから、「かなり努力する」と言った。  笑ってしまう。私も、黙っていなくならないようにする。たぶん、と付けたら、そこは突っ込まれた。  コーヒーミルの音で会話が途切れる。店員が隣のテーブルから皿を下げていく。私は水を飲んだ。 「付き合ったら、何が変わるんだろうね」  景都はすぐには答えなかった。 「会いたい時に、会いたいって言えるようになる」  その言葉が、思っていたより深く入った。  これまで会うたび、事故の確認、仕事の相談、昔の話と、必ず理由があった。用事がなければ連絡してはいけない気がしていたのは、関係に名前がなかったからだけではない。欲しいと言うことそのものを、ずっと怖がっていた。  恋人という名前を付けたからといって、未来まで順番に決まるわけではない。泊まる日も、住む場所も、結婚するかどうかも、その時になってまた考えればいい。  そう思えたところで、まだ最後の一言だけが喉に残った。  店の窓の外では、自転車が何台か続けて通った。赤信号で止まる人、急いで渡る人、喫煙所へ向かう人。それぞれ勝手な方向へ進んでいる。カップの底に残ったコーヒーは、もう湯気も立てていなかった。景都は私が次を言うのを待っていた。待たれることに慣れていないせいで、急かされていないのに
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第150話 名前をつける朝

 翌朝、昨夜と同じ喫茶店で待ち合わせた。景都は先に来ていた。ブラックコーヒーの横に空の小皿があり、朝食はまだだという。 私は一昨日パン屋で買ったクリームパンをバッグから出した。半分だけ残して冷蔵庫へ入れていたせいで、少し固くなっている。「食べる?」 景都は受け取り、文句も言わず一口かじった。 昨夜、最後まで出なかった言葉を言うために来た。分かっているのに、カップの取っ手を指でなぞって時間を使う。「前の暮らしに戻りたいわけじゃないんだ」 景都がパンを置く。「奥さんだった頃へ戻りたいわけでもない。今の私のままで、景都と一緒にいたい」 そこまで言うと、もう逃げにくかった。「だから……私と付き合ってください」 入口のベルが鳴り、新しい客が笑いながら入ってくる。コーヒーマシンが大きな音を立てた。店の朝は何も変わらない。 景都だけが数秒動かなかった。「聞こえた?」「聞こえた。……俺が言うつもりだった」「遅い」 掠れた声なのがおかしくて、少し笑った。「昨日も言おうとした」「私が先に言いたかったの」 景都がようやく息を吐く。「俺も、真帆と付き合いたい」 大げさなことは起きなかった。コーヒーは少し冷め、冷やしたパンは硬いままだ。それでも、胸の奥に詰まっていたものだけがほどけていく。 景都がテーブルへ手を置いた。こちらへ伸ばしてはこない。 私は指先をその手へ重ねた。夫婦だった頃には数えなかった程度の触れ方なのに、今はその距離を自分で詰めたことが分かる。「今日から?」「今日から」「記念日、覚える?」「ああ」 即答なので笑う。 景都が残りのクリームパンを食べながら、「硬い」と今さら言った。「一昨日のだから」「それ先に言えよ」「食べたあとで言っても遅い」 注文した追加のコーヒーが届く頃には、さっきの言葉がもう少し現実になっていた。恋人になったからといって、景都の顔が
last updateLast Updated : 2026-10-12
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