All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 151 - Chapter 160

195 Chapters

第151話 元妻ではなく、恋人として

 付き合い始めても、会社での呼び方は変わらなかった。私は「深見さん」、景都は「水城さん」。二人きりになれば名前へ戻る。その境目を最初に面白がったのは沙耶だった。 海外案件の会議中、景都がこちらを見た回数まで数えていたらしく、終わったあと「恋人なんだから、もう少し堂々としてもいいのでは」と言われた。「仕事中です」「深見さんも同じ言い訳をしてました」 少し離れたところで景都が「言い訳じゃない」と返す。沙耶は笑って、先にエレベーターへ消えた。 帰り道、会社へ付き合ったことを話すかという話になる。景都は隠したいわけではないが、必要のない人に説明する理由もないという。私も同じだった。 番組の時みたいに、関係へ名前を付けた途端、それを人前へ差し出したいわけではない。「じゃあ、しばらくは二人で知ってればいいね」「灯さんは、たぶん知ってるだろ」「顔見れば分かるって言われそう」 駅へ着く前、コンビニの前で足を止めた。恋人になった最初の日らしいことを何かするべきなのかと景都が本気で考え始めたので、私はアイスの棚を指した。 桃のカップを選び、景都はバニラにした。駅前のベンチで食べる。「一口いる?」 景都が自分のスプーンを止めたので、急にこちらまで意識してしまう。「欲しいなら食べれば」 桃を一口食べた景都は、「甘い」としか言わない。「感想それだけ?」 しばらく考えたあと、「もう一口ほしい」と言うので、笑って容器を寄せた。 夫婦だった頃なら同じスプーンを使うことなど数えもしなかった。今は受け渡すたび、指先の位置まで気になる。知っている身体なのに、関係だけが新しい。 景都が溶けかけた桃を最後まで食べた。ベンチの近くを学生が三人通り、笑い声だけが残った。景都はバニラの蓋を折って小さくし、空いた容器へ入れる。私は桃の容器をその上へ重ねた。二人分のごみが一つになったくらいで、恋人らしいと思う自分がおかしい。景都へそう言うと、「そういうものなんじゃないか」と真面目に返され、また笑った。 駅へ向かいながら、ふいに「恋人なんだよな」と言う。「二人の時な
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第152話 初めての土曜日

 恋人になって最初の土曜、景都は待ち合わせの十五分前に来ていた。理由を聞くと、今日は二本早い電車に乗ったと白状した。 予約はしない約束だった。駅前を歩き、空いていた定食屋へ入り、景都は生姜焼き、私は焼き魚を頼む。会計の話は食べ終えるまでしないことにした。付き合い始めた途端、誰が払うかまで新しい規則にするのが面倒だった。定食屋を出た時、会計はきっちり折半した。景都は何も言わず受け取り、私も理由を説明しなかった。以前なら、誘った側が払う、収入が多い方が払うと互いに理由を並べたはずだ。今日はレシートを二つ折りにして財布へしまうだけだった。本屋へ向かう途中、その何も起きなかった会計の方が、付き合い始めた実感として不思議に残った。 そのあと本屋へ寄った。私は文房具売り場、景都は経営書の棚へ行き、三十分ほど別々に歩いた。 レジ前で合流すると、私が持っている青いボールペン一本を見て、「それだけ?」と聞く。「見る時間が楽しいの」 景都はまだよく分からない顔をした。彼は何も買っていない。休日まで資料の棚を見ていたらしい。 外へ出ると雨だった。折り畳み傘は景都の一本だけ。 二人で入ると、案の定、傘は私側へ傾く。景都の右肩が先に濡れ始めたので、柄を掴んで中央へ押した。「真ん中」「真帆が濡れる」「二人とも少し濡れればいいでしょう」 不満そうな顔をしながらも、景都は戻さなかった。駅まで五分ほど、私の左袖にも景都の右袖にも同じような濃い点が増えていく。 屋根が見えたところで指先が触れた。景都が離そうとする。 私はそのまま手を握った。 彼は一瞬こちらを見たが、理由を聞かなかった。握る力も強めない。ただ歩幅が少し遅くなる。 傘を閉じると、二人の間にまた空気が入った。さっきまで触れていた肩が離れ、思ったより物足りない。 構内で私は半歩だけ景都へ寄った。彼は見たが、何も言わない。 本屋で買ったペンを見せると、試し書きをしたいと言う。改札横の小さな記入台で紙を一枚もらい、景都は「軽い」と真面目に感想を書いた。 その文字の隣に、私も同じペンで自分の名前を書く。 事故も離婚も関
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第153話 シンガポール案件

 恋人になって三日後、シンガポールの店舗テストが正式採用になった。さらに現地から、五日間の立ち会いを三か月の短期プロジェクトへ延ばしたいという話が来る。 販売検証、商品の改良、次期ラインの立ち上げ。商品企画から一人、営業から一人。候補の先頭に私の名前があった。「やりたいです」 部長へ答えた時には、もう決まっていた。景都に相談してから考えよう、とは思わなかった。 その夜、蕎麦屋で条件書を見せる。三か月と聞いた景都は箸を置いた。「行きたいんだね」「うん」「ああ」 それだけなので、かえって落ち着かない。「何か言わないの?」と聞くと、困った顔をされた。 しばらく考えたあと、「寂しい」と言う。 思っていたよりまっすぐで、胸に入る。「毎週会いたい。三か月、画面だけなのは嫌だ」「じゃあ行かないでって言う?」「それは言いたくない」 蕎麦が届く。湯気で一度、景都の顔が隠れた。「本音なら、行ってほしくない。でも、行きたい真帆を止める方が嫌だ」 私はすぐ返せなかった。箸で葱を沈める。 三か月は長い。付き合ったばかりなのに、次の土曜も、その次も会えない。寂しいと思われることは嬉しいのに、それを理由に断れば、あとで自分へ腹を立てるのも分かっていた。「毎日連絡する?」「疲れてたらしなくていい」 景都が一度頷きかけて、言い直した。「でも、できる日はしたい」「私も」 帰宅して、正式条件を机へ広げる。三か月という数字の下には、現地でやる仕事が細かく並んでいる。売場を見たい。客が手に取るところを見たい。その気持ちは景都の顔を思い出しても消えなかった。 カレンダーへ出発予定日を仮入力する。文字を保存したあと、同じ月の土曜がいくつも空白になる。 少し寂しくなり、景都へ〈やっぱり長いね〉と送った。 〈長い〉 すぐ返る。その短さを見てから、条件書へもう一度目を戻した。 しばらくして、景都から〈着いた?〉と来た。〈着いた〉と返し、しばらくして〈三か月、たぶん喧嘩もするね〉と送
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第154話 行ってほしくない

 シンガポール行きが正式に決まった。三か月。途中で一度だけ帰国する予定はあるが、業務次第では動く。  航空券と滞在先の説明を受けた夜、私は景都の部屋へ行った。付き合い始めてから初めて、仕事の用事ではなく「家に行きたい」と自分から言った。  玄関で靴を揃えかけると、景都が「そのままでいい」と言う。 「珍しい」 「今、靴はどうでもいい」  リビングには飲み物も菓子も用意されていなかった。以前なら、私が座る前に必要なものが全部並んでいただろう。  ソファに腰を下ろし、私は航空券の控えを膝へ置いた。 「行ってほしくないって、もう一回言って」  頼んでから、自分でもずいぶん面倒なことを言ったと思った。  景都はすぐには答えず、両手を膝の上で組み直した。 「行ってほしくない」  胸の奥が縮む。 「空港まで見送りに行ったら、そのまま手を引いて連れ帰りたくなると思う」  そこまで言ってから、彼は息を吐いた。 「でも、行くなとは言わない。帰ってきてとは言う」 「それは言って」  今度は私の方が早かった。  景都は隣へ座った。拳一つぶんほど空いているのが可笑しくて、私は肩を寄せる。彼の身体が一瞬だけ固くなり、それからゆっくり力を抜いた。 「三か月、長いね」  窓の向こうで、隣のマンションの明かりが一つ消えた。 「長い」 「帰ってきた時、私が変わってたら?」  景都は少し考え、こちらへ肩を預ける。 「また知る」  短い返事だった。 「俺も変わるかもしれないし」  シャツ越しに呼吸が伝わる。結婚していた頃にも、同じ肩へ寄りかかったことはある。それでも今は、「行ってほしくない」と言われながら、自分の決めた仕事へ向かえる。  帰る支度をすると、景都は玄関まで来た。靴紐を結んでいる間、背後が静かすぎて振り返る。 「何?」 「あと何回会えるか数えてた」  思わず笑った。 「数えないでよ」  そう言いながら、私も残りの土日を頭の中で並べていた。  廊下へ出ると、さっきまで触れていた肩の温度がすぐに消えた。だからといって、残りの日を全部特別な予定で埋める気にはならない。夕飯を食べ、くだらない話をし、仕事で遅れれば別の日にする。そのくらいの普通を持って行きたかった。  エレベーターの扉が閉じる直前、景都が「真帆」と呼ぶ。  顔を上げる
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第155話 それでも、行きたい

 出発まで二週間になると、仕事は急に詰まった。現地向けの仕様書、価格表、店頭テストの質問票。昼休みにパスポートのコピーを取り、夜はホテル周辺の地図を見る。 景都に聞けば、空港からホテルまでの安全な移動手段も、通信会社も、病院も一度で揃う。今回は自分で調べた。 それでも夜十一時を過ぎると、用事もないのに電話したくなる日がある。 資料を閉じたあと、景都へ発信した。『どうした』「用事はない」 少し間があって、『そういう電話、珍しいな』と笑われる。 今日何をしていたのか聞くと、物流会社との会議、採用面接、昼の蕎麦の話が返ってきた。相変わらず昼は週に何度も蕎麦らしい。 私も現地で毎日違うものを食べてみる、と話す。辛いものも試すと言えば、胃を壊すなと返される。「そこから先、店は調べなくていいからね」『調べてない』 間が怪しい。 問い詰めると、ホテル周辺だけは見たと白状した。 笑っているうちに、電話をした理由がなくてもよくなった。 切る前、景都が私の名を呼ぶ。『それでも、行きたいんだよな』 確認というより、自分へ言い聞かせる声だった。「うん。行きたい」 しばらくして、『じゃあ、ちゃんと行ってきて』と返る。 そこからもう一拍置いて、『帰ってきて』。「帰るよ」 通話を切ったあと、スーツケースの横へ座った。三か月分には小さい気がして、また中身を出す。 景都ならもっと効率よく詰めるだろう。私は余計な文房具や、着るか分からない薄手のシャツまで入れてしまう。それでも、自分で選んだ荷物の方が落ち着く。 机の端に、景都が以前店の住所を書いた小さなメモがあった。持っていく理由はない。捨てる理由もなく、財布の奥へ入れた。 自分でも少し恥ずかしいので、景都には言わない。 スーツケースを閉じる。ファスナーの音が部屋に大きく響いた。三か月後、この中身がどう変わって戻るのかは分からない。 スーツケースを閉じたあと、現地用に買ったノートを一冊開いた。最初のページへ出発日と店舗名だけを書く。帰国日を
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第156話 恋人だから

 出発前の最終会議で、景都はLATTICE側の担当として出席した。私はmellow noteの席で、現地の連絡フローを確認する。緊急時は久世ホールディングス、次に自社、必要に応じてLATTICE。景都の名前は一覧の三段目だった。  沙耶は全員へ同じ注意をした。問題が起きても、最初から危機管理会社へ投げないこと。現地チームが自分で判断する場所を残すこと。  そこからなぜか、私と景都へ視線が移る。 「深見さん。仕事の相談は連絡網の順番どおりに。……寂しくて電話する分は、私の管轄外です」  会議室が妙に静かになった。景都が咳払いをする。私は資料へ顔を伏せて笑いを堪えた。  会議後、エレベーターで二人きりになる。 「向こうへ行ったら、寂しくて電話すると思う」 「してほしい」  返事が早い。 「仕事の相談じゃなくても?」 「そっちはむしろ歓迎する」  一階へ着くと、外は夕方の雨だった。ビルの庇を出たところで景都はいつものように車道側へ回りかけ、途中で止まる。  私は先に傘の中央へ入り、空いた側を顎で示した。  歩き始めてから、もし向こうで失敗したらどうする、と聞く。 「話を聞く。解決策は、真帆に頼まれたら考える」 「頼まなかったら?」  景都は雨の向こうを見て、少し嫌そうな顔をした。 「かなり我慢する」  二人で笑う。  車が水を跳ねた時だけ、景都の手が私の腕へ触れる。危ない場面まで遠慮されるのは面倒なので、「今のは引っ張っていい」と言うと、「その線引きが一番難しい」と返された。 「私も分からないよ」  それ以上、規則にはしなかった。  駅へ着く頃には、景都の右袖も私の左袖も同じくらい濡れていた。改札の明かりの下で互いの袖を見て、今日は同じくらいだね、と私が言う。  景都は濡れた肩を一度払っただけだった。  ホームで電車を待つ間、濡れた傘を二人の間に置いた。床へ落ちた水が細い円を作る。景都は私のスーツケースの話をしかけ、口を閉じた。また荷物の確認が始まるのかと思い、私は自分から「荷物、たぶん多すぎる」と言った。景都は「知ってる」とだけ返し、笑った。言ってほしいことはこちらから出せばいい。そのくらいなら、三か月離れても続けられそうだった。  電車が来ると、景都は私より先に乗り込まず、開いたドアの脇へ寄った。私は濡れた傘を畳み直し
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第157話 出発前の夜

 出発前夜、景都の部屋で夕食を食べた。泊まるつもりはない。明日は朝五時半に家を出るし、スーツケースも自宅の廊下に置いたままだ。  テーブルには景都が買った惣菜と、私が持ってきた桃のゼリーが二つ。特別な夜にしたくなくて、いつもと同じ夕食を選んだはずだった。  景都は空港へ送るとは言わない。その代わり、食事の途中から荷物の確認が始まった。予備の充電器、パスポートのコピー、海外保険。二つ目までは黙っていたが、三つ目で笑ってしまう。 「もう普通に確認してるじゃん」  箸が止まった。 「今日はいいよ。明日から三か月会えないんだから、今日くらいは世話焼いて」  その一言で、景都の顔から力が抜けた。そこからは変換プラグや常備薬の話をし、最後には寝不足で飛行機へ乗るなと言われた。たぶん無理、と答えると、やはり眉を寄せる。  十時を過ぎ、帰ろうと立ち上がった。景都の手がこちらへ動きかけ、止まる。私は鞄を置き直し、その胸へ入った。  思っていたより強く抱かれ、苦しくなって背中を叩く。力はすぐ緩んだ。 「離せとは言ってない」  シャツには、いつもの洗剤の匂いがした。三か月は長い、と言うと、耳の近くで「ああ」と返る。壁の時計は十時二十三分。秒針の音だけが、妙に近かった。  涙は出なかった。その代わり、帰る支度が遅くなる。財布を確かめ、靴紐を結び直し、玄関でまた忘れ物を思い出す。もう帰らないと、と自分で言ったのに、どちらもすぐにはドアを開けなかった。  廊下へ出ると空気が冷たい。数分前まで触れていた肩の温度が、服の内側から急に消えた。  エレベーターへ乗る直前に振り返る。 「行ってくる」 「行ってらっしゃい」  明日の朝にもメッセージは送る。それでも、その言葉だけは今ここで聞いておきたかった。  駅へ向かう途中、景都から〈着いたら一度だけ連絡して〉と届いた。〈一回って決めなくていい〉と返す。しばらくして、〈じゃあ、したくなったら〉。  電車の窓には、眠そうな自分の顔が映っていた。寂しそうでも、泣きそうでもない。その普通の顔のまま飛行機へ乗れることに、むしろ安心した。  自宅の玄関を開けると、スーツケ
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第158話 空港までは

 翌朝、景都は約束どおり空港へ来なかった。 家を出る前に届いたのは、〈行ってらっしゃい〉の一通だけ。タクシーの中から〈行ってきます〉と返し、それ以上は送らなかった。 空港は朝から混んでいた。荷物を預け、保安検査の長い列へ並ぶ。前の家族連れでは、子どもが何度も床へ座り込み、そのたび母親が手を引いている。 景都がいたら、短い列を調べて、ラウンジの位置まで確認し、私の鞄にも手を出しただろう。 今はいない。 困るほどではない。ただ、搭乗券を持つ手が少し余った。 ゲート変更の表示が出たので、自分で新しい搭乗口へ移る。窓の向こうに機体の翼が見え、写真を一枚撮った。 〈ゲート変わった。ちゃんと着いた〉 返事はすぐだった。 〈了解〉 二文字だけなのが物足りなくて、〈それだけ?〉と送る。しばらくして、 〈気をつけて。着いたら、元気なら連絡して〉 と届いた。 元気なら。 その一言が妙にうれしくて、今度は〈うん〉だけ返した。 搭乗が始まる少し前、電話が鳴る。「どうしたの」『声だけ聞きたかった』 空港のアナウンスが重なり、何度か聞き返す。「空港まで来なくてよかった?」『よくない。行きたかった』 笑ってしまった。『でも、真帆が一人で行きたいって言ったから』「ありがとう」 向こうで景都が息を吐く。搭乗開始の表示が変わった。『帰ってきて』 胸の奥を軽く掴まれたような気がした。「帰るよ」『行ってらっしゃい』 今度は文字ではなく、声だった。 電話を切ったあと、隣では女性が家族とビデオ通話をしていた。画面の子どもが「早く帰ってきて」と繰り返し、女性は笑いながら「仕事してくるね」と答えている。 私は搭乗券を鞄へしまった。 帰ってきてほしいと思われながら、行っていいと言われる。その二つは、どちらかに整理しなくても一緒に持てるらしい。 機内でシートベルトを締め、スマートフォンを機内モードへ変える。通信が切れる瞬間
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第159話 ホテルの窓から

 シンガポールへ着いたのは夕方だった。空港からホテルまで現地スタッフの車に乗り、高架道路と街路樹が窓の外を流れていく。 部屋へ入ると、まず会社のグループチャットへ〈到着しました。明日八時半集合です〉と送った。 それからカーテンを開ける。 高層ビルの間に、小さなプールと車列が見えた。写真を撮り、景都へ送る。 〈着いた〉 〈お疲れ。元気?〉 〈元気。暑い〉 〈水飲んで〉 思わず笑って電話をかけた。「そこは言うんだ」『水くらいは言わせて』 スーツケースを開けながら、景都の声を聞く。東京では昼に蕎麦を食べたこと、夜はまだだということ。私も機内食を半分残していたので、「ちゃんと食べて」と言ったところで、お互い様だと笑われた。 窓際の椅子へ座る。 向こうには景都の部屋があり、こちらには知らない街の明かりがある。その距離が急に可笑しくなった。「景都」『うん』「今、会いたい」 言ったあと、口にした自分がいちばん驚いた。 受話口の向こうが静かになる。『俺も』 それだけでよかったのに、照れ隠しに余計なことを言う。「すぐ飛行機とか調べないでね」『まだ調べてない』「まだ?」 笑う気配が返った。 そのあと景都は、部屋の安全やホテルの設備を聞きそうになっては、別の話へ変えた。窓から何が見える、と聞かれたので、道路の車列や向かいのビルの明かりを説明する。景都も東京の窓から見える夜景を話した。 同じ時間に、別々の窓を見ているだけなのに、さっきより声が近く聞こえた。 通話を切ると、エアコンの低い音が戻ってきた。会いたい気持ちも残ったままだった。 机へ明日の資料を広げる。英語と数字の見出しを数ページ追うたび、さっき送った窓の写真を開きたくなった。それでも資料は少しずつ先へ進んだ。 その夜はカーテンを少しだけ開けて眠った。 朝、強い光で目が覚める。東京とは一時間しか違わないのに、空気も匂いもまるで違う。 景都へ〈おはよう〉と打ちかけ
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第160話 毎日じゃなくていい

 現地での一週間目は、予定より忙しかった。店舗テストの初日から青だけが予想以上に減り、橙はほとんど動かない。返品理由の聞き取りまで始まり、ホテルへ戻るのは毎晩十時を過ぎた。 景都とは毎日話すつもりでいた。 三日目、そのつもりのままベッドへ倒れ込み、朝まで眠った。 起きてスマートフォンを見ると、着信履歴はない。メッセージが一通だけ残っていた。 〈寝てると思う。起きたら水だけ飲んで〉 昼休みに、〈電話してくれてもよかったのに〉と送る。 少しして〈起こしたくなかった〉と返る。私は〈会いたかったかも〉と送った。今度は既読がつくまで少し時間がかかった。 〈俺も。でも毎日じゃなくていいって言ったのは俺だから〉 その律儀さがおかしくて、机に伏せて笑った。 その夜は珍しく早くホテルへ戻れたので、こちらから電話する。『今日は元気?』「元気。橙が全然売れない」 久世が喜びそうだな、と返され、明日絶対言われる、と笑った。景都がそのまま分析へ入りかけた気配がしたので、先に止める。「今日は解決策いらない。代わりに東京の話して」 受話口の向こうで一拍置いてから、『分かった』と返った。 会社の近くに蕎麦屋ができたこと。会議室の空調が壊れたこと。沙耶から橙の売上データが送られてきて、メールの最後に〈残念でしたね〉と書いてあったこと。「腹立つ」『だろうな』 二人で笑った。 翌日も、その次の日も、通話は前日の続きから始まった。挨拶より先に橙の売れ行きを話す夜もあれば、蕎麦屋の話だけで終わる夜もあった。 連絡がない夜は、やはり何度か画面を見た。見たことを恥ずかしがるのもやめた。仕事が終われば声を聞きたい。それくらいは、もう認めてもいい。 ホテルの机には、現地スーパーで買った小さなノートがある。仕事のメモの端に、景都へ話したいことが増えていた。 橙を手に取った客のこと。突然降った雨。現地スタッフが日本語で「お疲れさま」と言ったこと。 ページの端には、話すかどうかも決めていない言葉がいくつか残った。次の通話で忘れていれば、それまで
last updateLast Updated : 2026-10-17
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