All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 161 - Chapter 170

195 Chapters

第161話 失敗した夜に

 シンガポールへ来て二週目、私は最初の大きなミスをした。現地向け資料の数字を一か所、古い版のまま提出した。販売数の予測値で、意思決定そのものを変えるほどではない。それでも訂正版を出し、関係者へ説明する必要があった。 現地スタッフは責めなかった。「次から二重確認しましょう」と言われた方が、かえって胃に残った。 ホテルへ戻っても仕事の画面を閉じられず、版履歴を何度も見直していたところへ景都から電話が来た。時差は一時間しかない。こちらがまだ起きていると分かっていたらしい。「失敗した」 最初にそれだけ言う。 景都は理由を聞く前に、「うん」と返した。「何か言ってよ」『今、何を言ってほしい?』 困る質問だった。大丈夫と言われても腹が立つし、原因分析を始められたら電話を切ると思う。そう言うと、受話口の向こうで笑う気配がした。『じゃあ、聞いてる』 私は確認を急いだこと、数字の差し替えを後回しにしたこと、現地スタッフがすぐ修正してくれたことを、順番も整えず話した。途中で同じことを二度言った気もする。景都は訂正しなかった。 全部吐き出す頃には、机の上の訂正版をもう一度開けるくらいの余裕が戻っていた。『真帆』「何」『今日、電話に出てくれてよかった』「景都からかけたんだけど」『出てくれたから』 言い直さないところが、今は好きだった。「明日、ちゃんと謝って直す」『うん』「解決策は……明日なら聞くかも」『その時は言う』 電話を切る前、自分から「会いたい」と言った。仕事の相談だったはずなのに、最後だけ別の話になったことが恥ずかしい。 景都は驚かず、『俺も』と返した。 通話後、明日の修正手順を書いた。数字の再確認、現地担当との二重チェック、送信前の版管理。三つだけ。増やしすぎると、今度は確認すること自体が仕事になる。 電話のあと、ホテルの窓を開ける。夜の湿った空気が入り、机の紙が一枚めくれた。現地スタッフに訂正を頼んだメールは、まだ送信済みフォルダの一番上にある。消した
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第162話 会いたい

「会いたい」と言った翌朝、景都からメッセージが来た。 〈来てほしい、という意味?〉 画面を見たまま、しばらく考える。昨日はただ声を聞きたかった。飛行機に乗って来てほしいとまで思ったわけではない。 〈昨日は声が聞きたかった〉 送ってから、もう一通だけ足した。 〈でも、いつか来てほしい〉 返事は早かった。 〈いつならいい〉 景都らしくて笑う。来週末なら日曜だけ休める可能性があるが、まだ現地の予定が固まっていない。 〈仕事見てから決める〉 〈分かった〉 その日の店舗テストで、橙が初めて一つ売れた。二十代くらいの女性が青と迷った末、バッグの中で見つけやすいからと橙を選んだ。 嬉しくなって沙耶へ写真を送ると、〈おめでとうございます。あと百九十九個ですね〉と返る。腹が立ち、景都にも同じ写真を送った。 〈橙、一個売れた〉 〈よかったな〉 夜の通話で沙耶の返事を話すと、景都は「らしいな」と笑った。 そこで、自分から日曜は休めそうだと伝えた。 電話の向こうで空気が変わる。『行きたい』「仕事は?」『土曜の夜便なら、月曜朝に戻れる』「もう調べてたでしょ」 しばらく黙ってから、昨日少しだけ見たと白状した。 一泊だけになる。それでもいい、と言う。「助けてほしいわけじゃないよ」『分かってる』「会いたいだけ」 返事までに、ほんの短い間があった。『それが一番嬉しい』 フライトを聞くと、本当に無茶な日程だった。土曜深夜に着き、日曜夕方には空港へ戻る。「無理はしないで」と言いかけると、『そこは俺が決める』と被せられた。反射的に言い返しかけて、口を閉じる。受話口の向こうで、何かを閉じる小さな音がした。 通話を切ったあと、同じ便を検索した。座席表まで開き、窓側がまだ空いているのを見てから画面を閉じる。来てほしいと言ったのは私で、乗るかどうかまで私が決めることではない。 ホテルの机では、橙の販売記録が一件だけ増えていた。その
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第163話 来てほしい

 景都が来る週末が近づくほど、仕事中まで日曜のことを考えた。 どこへ行くか。何を食べるか。景都なら調べ尽くして来るに決まっているので、先に〈店、予約しないで〉と送る。〈分かった〉。続けて〈観光プランもいらない〉。少し間があって〈努力する〉。 金曜の夜、通話で聞いた。「何軒調べた?」『十二』「多い」『予約はしてない』 得意そうな顔が画面に映り、笑ってしまった。 土曜の夜になっても、私は空港へ行くつもりはなかった。ホテルで待てばいい。それなのに時計を見るたび到着時刻を確かめ、結局、仕事を終えるとそのまま空港へ向かった。 到着ロビーは人で混んでいた。黒い鞄を引いた景都が自動扉の向こうから現れる。出張の時と変わらない服なのに、こちらを見つけた瞬間だけ歩き方が変わった。「来ないと思ってた」「私も」「どうして来たの」 答えは考えていなかった。「会いたかったから」 景都が足を止める。右手が上がりかけ、そのまま宙で止まった。 私は一歩近づいた。 それだけで十分だったらしい。腕が背中へ回る。 最初はほんの短く触れるだけのつもりだった。ところが、シャツとコートの間に残った景都の匂いを吸い込んだ途端、離れる理由を忘れた。「……来てよかった」 耳元で言われる。 私は返事の代わりに、背中の布を少しだけ掴んだ。 人の流れは絶えず横を抜けていく。番組のカメラも、意味をつけるスタッフもいない。知らない人たちは、抱き合う二人を一度見てもすぐ忘れていく。 その匿名さがありがたかった。 顔を上げると、景都の目の下には移動の疲れが出ていた。髪も少し乱れている。「寝られた?」「二時間は」 それで十分なはずがないのに、景都は目の前にいる。呆れて笑ったら、鼻の奥がつんとした。 ホテルへ向かう電車では、肩が何度も触れた。三週間前なら気にしただろう距離を、今日はどちらも戻さない。 景都の鞄から仕事用端末の角が見えている。「持って
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第164話 六時間だけの再会

 景都がシンガポールにいられるのは、日曜の夕方までだった。 朝、ホテルのロビーへ下りると、彼はもうコーヒーを飲み終えている。「何時に起きたの」「六時」 昨夜着いたのは日付が変わる頃だった。時差が少ないから、と本人は言うが、理由にはなっていない。 外へ出て朝食の店を探す。景都は何気ないふりで交差点の向こうを指した。「そこ、朝からやってるらしい」「十二軒のうちの一つ?」 景都の足が止まった。近かっただけだと言い張る顔が、もう嘘をついている。 結局、その店はやめて、通りの角にあった小さな食堂へ入った。景都が写真だけで選んだ麺は、思っていたよりずっと辛かったらしい。一口目で咳き込み、水を渡すと無言で半分ほど飲んだ。「調べればよかった?」 涙目のまま睨まれる。「今日はそれでいい」 午前中は街を歩き、昼過ぎに店舗テストをしている売り場へ寄った。休日だから仕事はしないと言ったはずなのに、景都は商品棚の前で足を止める。「今日は恋人として来たんじゃないの」「恋人が作ったものくらい見たい」 棚には青、灰、橙が並ぶ。「橙、一個売れたところ」「あと百九十九個?」「久世さんの真似しないで」 言い返した私まで笑ってしまった。六時間は、そうしているうちに思っていたより早く減った。 空港へ向かう車では、景都が眠った。短い滞在に無理をしたのが分かる。私は自分の上着を肩へ掛ける。 途中で目を開けた景都が、それを見て笑った。「真帆がそういうことするんだな」「私だってするよ。まだ知らないだけでしょ」 景都は否定せず、上着を肩に掛けたままもう一度目を閉じた。 出発ロビーへ着く。搭乗口まで行けるのは景都だけだ。「来るの、大変だったでしょう」「来てよかった」 その返事を聞いて、今度は私から腕を伸ばした。抱きしめる時間は昨夜より短かった。それでも、離れる時の方が身体に残る。「次は私が帰る番」 急がなくていい、仕事をしてこい、と言われる。
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第165話 海の向こうで喧嘩する

 景都が帰国して一週間後、遠距離になって初めて喧嘩をした。 きっかけは、現地テストの延長だった。帰国が二週間ほど遅れる可能性が出たものの、まだ決定ではない。だから私は言わなかった。 ところが、その話は沙耶からLATTICEへ先に共有された。 夜の通話で、景都の声がいつもより硬い。『どうして言わなかった』「まだ決まってなかったから」『決まってなくても、帰る日が変わる話なら聞きたかった』「仕事の途中経過を、全部報告する必要ある?」『全部じゃない。帰る日の話だよ』 胸の奥が反発する。「だったら、私が言う前に沙耶さんから聞いたことまで私にぶつけないで」『ぶつけたいわけじゃない』「声がそうなってる」 受話口が静かになった。 私も言いすぎたと思った。けれど、ここで早く丸く収めるためだけに謝るのも嫌だった。「今日は切る。今話すと、もっと嫌なこと言う」 名前を呼ばれたが、しばらくして景都は「分かった」と言った。 通話を切る。 ホテルの部屋は、急に広くなった。 何度かトーク画面を開いた。〈ごめん〉と打てば終われそうで、だからこそ送れなかった。前の結婚でも、喧嘩を終わらせるためだけの謝罪を使ったことがある。何に腹が立っていたのか分からないまま、話だけ閉じた夜があった。 翌朝、景都から一通届く。 〈昨日は言い方が悪かった。帰国が延びるのが嫌で、先に怒った〉 言い訳ではなく、嫌だったことが先に書いてある。 昼まで考えてから返した。 〈私も、決まってないなら言わなくていいって一人で決めた。景都が寂しがるのを見るのが面倒だったのかも〉 送ってから、ずいぶん嫌な言い方だと思った。 けれど取り消さなかった。 〈面倒でも言う。景都も、嫌なら嫌って言って〉 返事は〈言う〉の二文字だけだった。その夜は電話をしなかった。 次の日の朝、〈おはよう〉が届いた。 私は〈おはよう。今日は店舗二つ〉と返した。送信したあと、昨夜の履歴を読み返すことはしなかっ
last updateLast Updated : 2026-10-20
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第166話 声だけでは足りない

 帰国延期は結局、一週間で済んだ。 それでも最後の月に入る頃には、通話の回数が少し減っていた。互いに仕事が忙しく、話したいことがないわけではないのに時間だけが合わない。 ある夜、現地オフィスの休憩室で一人残っていると、景都からビデオ通話が来た。 画面の向こうも会社だった。ネクタイを外し、白いシャツの袖を肘まで折っている。「まだ会社?」『真帆もホテルじゃないだろ』「休憩室」 二人とも帰っていない。 顔を見た途端、会えないことの方がはっきりした。「声だけで平気だと思ってたんだけどな」『平気ではある』 景都が椅子へ深く座る。『でも、足りない』 私は画面へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。その動きを見たらしい景都がカメラへ掌を向ける。手だけ大きく映ったのがおかしくて、笑ってしまった。「何してるの」『そっちこそ』 結局、私も画面へ掌を重ねた。 位置は少しずれている。画面の上ならガラス一枚ぶんの距離なのに、本物の手は何千キロも離れている。「帰ったら最初に何したい?」 景都は考えた。『抱きしめたい』「それだけ?」『その先まで言う?』 頬が熱くなり、私は視線を資料へ逃がした。「今日はいい」 景都が笑う。 今なら聞いても嫌ではない気がした。でも、帰国した日のために残しておきたかった。 しばらく、どうでもいい話をした。会議室の空調がまだ直らないこと。こちらでは自動販売機の甘いコーヒーにようやく慣れたこと。 通話の終わりに景都が「おやすみ」と言う。「そっちも帰って寝てね」『真帆も』 画面が暗くなると、黒いガラスに疲れた顔が映った。口元だけが緩んでいた。 机へ戻ろうとして、もう一度スマートフォンを見た。さっき掌を重ねた場所に指先が触れる。子どもっぽいと思いながらも、すぐには離せなかった。 休憩室の外では清掃員が床を磨いている。仕事はまだ残っている。 私は端末を持ち直して立った。
last updateLast Updated : 2026-10-20
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第167話 景都が来る日

 帰国まで三週間というところで、現地店舗の一つにトラブルが起きた。商品棚の一部が破損し、客が軽い怪我をした。mellow noteの商品が原因ではなかったが、同じ棚に置かれていたため、写真だけが先にSNSへ広がった。 久世側が現地対応を始め、LATTICEもリモートで入る。景都から私へ直接連絡は来なかった。仕事の連絡は正式なルートを通す、と決めたことを守っている。 それでも、私は自分から電話した。「今、話せる?」『話せる』 資料を前にしたまま、しばらく言葉が出ない。「……怖い」 仕事の事故について、初めてそう言った。 番組の時みたいに、また何かが大きくなる気がする。怪我は軽いと聞いているし、商品が原因ではないことも確認中だ。頭では分かっている。景都も同じ事実だけを返し、「大丈夫」とは言わなかった。 私は机の端を指で押さえた。「来てほしい」 受話口の向こうが静かになる。『仕事で?』「違う。恋人として」 言った途端、目の奥が熱くなった。『分かった。行く』 仕事は調整するが、無理なら無理だと言う。そのことだけ確かめて、景都は電話を切った。 翌日の夜便で来ることになったと沙耶へ話すと、「今度は水城さんが呼んだんですね」と眉を上げた。「はい」「なら私から止める理由はありません」 景都が到着するまで、私は現地スタッフと事故資料を整えた。抜けていた時刻を埋め、写真の番号を振り直し、最後のページへ自分で署名する。 翌日の会議で、景都はLATTICEの席へ座った。私の隣ではない。必要な質問をし、私の提案にも一度反対した。 会議後、廊下へ出て二人きりになる。 景都は何も言わず、こちらを見て腕を少し開いた。その中へ入り、シャツに頬をつける。飛行機とホテルの匂いが混じっていた。「仕事の邪魔しないでね」「それは俺も言いたい」 少し笑う。明日の会議では、また意見がぶつかるかもしれない。 ホテルへ戻る車の中では、どちらも事故の話をしなかった。景
last updateLast Updated : 2026-10-21
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第168話 抱きしめない

 景都が来てから二日で、事故対応は落ち着いた。商品への影響はなく、棚の施工不良が原因だと分かる。SNSの誤解も訂正され、店舗テストは一部再開した。 仕事中の景都は私を特別扱いしなかった。会議では「水城さん」と呼び、ほかの担当者と同じように質問し、私の再開案にも反対した。「一日早いと思います」「安全確認は終わってます」「客が戻るまで空けた方がいい」「売場は一日閉めるだけでも損失になる」 最後は久世側が一日延期を選んだ。 会議室を出たところで、「恋人に反対票入れられた」と言うと、景都は「仕事だから」と笑った。分かっている。少し言いたかっただけだ。 エレベーターへ乗ると二人きりになる。景都が壁へ背を預けたまま、「抱きしめたい」と言った。 さっきまで会議で反対していた人の口から出ると、頭の切り替えが追いつかない。「ここ会社のエレベーター」「だから我慢してる」 本当に何もしない。 ホテルへ戻る車でも、仕事の資料を一度確認したあとは窓の外を見ていた。 部屋の前でカードキーを出す。溝へうまく入らず、一度落としかけた。景都の手が動いたが、ドアには触れない。 私は扉を開けて身体を横へずらした。景都はすぐには入らず、こちらを見ている。「入って」 それでようやく足を踏み入れた。 部屋へ入っても、すぐキスはしなかった。景都は窓際へ荷物を置き、水を一杯飲む。私はベッドの端へ座ったまま、まだ会議室にいるような身体の硬さが抜けない。「五分、何も話したくない」 景都は拳一つぶんの間を空けて、隣へ腰を下ろした。 エアコンの音だけが続く。五分が過ぎたかは分からない。 肩の力が抜けてきた頃、私から手を伸ばした。景都の指が、その手を握り返した。 仕事の話は、その夜ほとんどしなかった。ホテルの朝食がまずかったこと、東京は雨らしいこと、飛行機で眠れなかったこと。 手をつないだまま、景都の爪の端に小さな傷があることに気づいた。飛行機で荷物を出す時に引っかけたらしい。消毒するほどではない、と言うので、水をもう一杯注いだ。景都
last updateLast Updated : 2026-10-21
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第169話 帰る日を決める

 事故対応が落ち着いたところで、現地側からプロジェクト延長を打診された。 さらに二か月。次期商品の立ち上げまで見てほしいという。条件は悪くない。仕事としても魅力があった。 返事は一晩もらった。 ホテルへ戻り、景都と通話をつなぐ。「延長、どう思う?」『真帆は?』 先に返されて、少し笑った。「やりたい気持ちはある。でも、帰りたい気持ちもある」『今はどっち?』 窓の外へ目を向ける。見慣れたはずの夜景が、今日は少し遠い。「……帰りたい方」 画面の景都の顔が緩む。「今、喜んだでしょ」『かなり』「隠してよ」『無理』 笑ってしまった。 予定分のテストは終わる。次の立ち上げは別の担当者でもできる。それでも、ここまで触ってきた仕事を途中で渡すことには抵抗が残った。「帰ったら、結局『深見さんがいるからでしょう』って言われそうで、それが嫌なんだよね」 景都は少し考えた。『言わせておけばいい。ここまでやったのは真帆だろ』 帰る理由に景都が入っても、ここでやった仕事まで彼のものにはならない。私は、その二つまで一緒にしていた。 翌朝、現地責任者へ延長辞退を伝えた。引き継ぎは別担当へ。帰国日は予定どおり。 沙耶から電話が来たのは、その日の夕方だった。『残ると思ってました』「私も迷いました」『深見さんが理由ですか』 一瞬だけ言葉に詰まる。「理由の一つではあります。でも、それだけじゃないです」『なら、いいと思います』 沙耶らしい返事だった。 帰国まで十八日。 引き継ぎ資料には、橙を手に取る客の傾向や、店舗ごとの照明差、現地スタッフがよく使う言い回しまで書いた。自分しか知らないことを抱えたまま帰れば、次の人が困る。 夜、ホテルの机には航空券の控えと、引き継ぎ用のファイルが並んだ。景都へ〈予定どおり帰る〉と送る。 すぐに既読がついたが、返事はなかなか来ない。
last updateLast Updated : 2026-10-22
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第170話 迎えに来て

 帰国前夜、荷物を詰めながら景都へ電話した。三か月で増えたのは現地資料と試作品、買いすぎた文房具、それからホテル近くの店で買った小さなコーヒーカップだった。「明日、何時に着くか覚えてる?」『十九時四十分』 出発の時は一人で空港へ行きたかった。今は違う。シャツを畳み直しながら、「迎えに来て」と言った。 受話口が一瞬静かになり、すぐに『行く』と返る。仕事のことを聞くと、終わらせると言う。無理なら、と続けかけてやめた。来るかどうかまで私が決めることではない。 翌日、飛行機は二十分遅れた。入国審査を抜け、荷物を受け取り、到着ロビーへ出る直前になって急に緊張する。 ガラスの向こうに景都がいた。スーツの上へコートを着て、到着表示と出口を交互に見ている。私を見つけた瞬間だけ歩く速度が上がり、最後の一歩で止まった。「おかえり」「ただいま」 景都の右手が上がりかける。私はスーツケースの持ち手を離し、そのまま腕の中へ入った。最初に強く締まった力がすぐ緩んだので、「もっと強くていい」と言う。 今度は遠慮のない腕が背中へ回った。空港の人波の中で、帰ってきた実感だけが遅れて追いつく。 外へ出ると、景都は自然にスーツケースへ手を伸ばした。階段だけ、と頼むと、その範囲で持つ。家まで送るかと聞かれた時も、今日は送って、とそのまま言えた。 信号待ちで「疲れた?」と聞かれ、「平気」と答えた数分後には、助手席の背もたれへ頭を預けていた。景都は何も言わなかった。 窓の外には、三か月前と同じ東京の灯りが流れていた。私はシートに身体を預けたまま、次の角を曲がるまで目を閉じた。 次に目を開けた時、車はもう家の近くまで来ていた。景都が荷物を玄関まで運ぼうとしたので、エントランス前で持ち手を取る。「ここからは自分で持つ」 景都はそのまま手を離した。 自動扉が開く。振り返ると、まだ車の横に立っていた。「上がっていく?」 口にした自分の方が緊張した。景都は時計を見ずに頷いた。 部屋へ入り、持ち帰ったコーヒーカップを箱から出す。景都が「増えたな」と言うので、「三か月ぶん」と返す。
last updateLast Updated : 2026-10-22
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