Alle Kapitel von 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Kapitel 121 – Kapitel 130

195 Kapitel

第121話 私が決める

 瀬名の死後、字幕だけが変わっている。 『悪女を演じ続けた女性』 『喪失を越えて立ち上がった元妻』 『二人を守れなかった男』  最後に、最終生放送の空いた椅子と、現在の私のインタビュー映像が重なる。  ナレーション案は仮音声だった。 『彼女の死を経て、残された二人は、もう一度互いと向き合い始めた』  そこで再生を止めた。  瀬名は、私たちを復縁させるために死んだのではない。  私は、瀬名の死で景都の愛へ気づいたわけでもない。  愛されていることは、離婚する前から知っていた。ただ、その愛の中で息ができなかった。  少し前の場面へ戻して再生すると、瀬名が廊下で母親へ電話している映像が流れた。固いプリンを買っていく、と笑っている。私も聞いたことのある会話だった。  その直後に、最終生放送の空いた椅子が置かれる。普通の娘だった映像が、死を予告する伏線へ変わっていた。  瀬名が母親を大事にしていたことと、私を傷つけたことは両立する。ところが映像の中では、一方が本当ならもう一方は誤解だったことにされている。  私は再生位置を戻し、同じ三十秒をもう一度見た。編集点を知っても、その間に何があったかまでは戻らない。  制作担当へ電話する。 「直してほしいです。字幕だけじゃなくて、つなぎ方を」 『具体的には、どの部分でしょうか』 「瀬名さんが亡くなったすぐあとに、私と景都の映像が続くところです」  担当者は少し黙り、『追悼企画として、視聴者が理解しやすい軸は必要になります』と答えた。 「瀬名さん、そんなにきれいな人じゃなかったです。私も、あの人が死んで救われたわけじゃない。……その二つを並べるの、やめてください」  電話の向こうで、キーボードの音が止まる。 『では、水城さんとしては、どのような構成を』 「私が代わりの筋書きを出すんですか」  声が強くなった。私は停止画面の瀬名を見たまま、息を整えた。 「少なくとも、私の映像と名前でそれを作らないでください」  担当者は、修正要望を文書でほしいと言った。  通話を切ると、画面には停止した瀬名の笑顔が残っていた。  承諾期限は、あと二日だった。  翌朝、経済ニュースにLATTICE SHIELDの短い回答が載った。 『深見景都氏の私生活および番組企画について、当社からコメントする予
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-28
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第122話 送らなかった報告

 午後の仕様会議では、後輩が新しい持ち手の案を説明していた。私は二度聞き返し、ようやく仕事へ意識を戻す。  映像を止められるかどうかと、止めるべきかどうかは違う。法務なら前者を答えられる。後者は誰にも委ねられない。  灯は「深見さんに聞けば」とは言わなかった。代わりに、承諾期限を書いた付箋を私のノートへ貼った。  期限まで放置すれば、何も言わなかったことが承諾に近い形で扱われる。それだけは嫌だった。  トーク画面を開く。 『未公開映像は、法的に止められる?』  返事は三分後に来た。 『流産のことと未公開映像は止められる。もう放送した映像を全部消すのは難しい。必要なら、できることを整理して送る』  景都らしく、感情より先に「できる」と「できない」を分けた。 『景都は、もう止めるように動いてる?』  入力中の表示が出て、一度消えた。仕事の会議が始まる時間になり、私は画面を伏せた。  会議を終えて画面を開くと、景都から二通届いていた。 『止めたいところを言ってくれ。そこだけ動く』  続けて、『俺自身は出演しないし、俺の未公開映像も使わせない。ただ、君の映像まで俺の判断では止めない』とある。 『守るため』という言葉は一度も書かれていなかった。画面を上からもう一度読む。勝手に理由を足されていない。それだけで、呼吸が少し楽になった。  私を守る力があり、使い方も知っている人が、今回は先に全部を片づけなかった。そのことに、画面を見たまましばらく動けずにいた。 『制作側は、明日までに回答が必要って』 『分かってる』  既読のついた画面を、しばらく見た。続きは来ない。 『急かさないんだ』と打ちかけ、指を止めた。  結局、全部消してスマートフォンを伏せた。  私は試写画面をもう一度開く。  止めるか、残すか。  制作担当とのオンライン面談は、翌日の十八時からだった。  柊プロデューサーも画面に入っている。 「水城さん、まずは試写段階とはいえ、不快な思いをさせてしまったことをお詫びします」 「その話はあとで。まず、使わないでほしい映像を確認させてください」  思ったよりも硬い声が出た。柊が何か言いかけたが、私は修正箇所を映した画面へ目を戻した。  映像を進め、気になった箇所で止めて時刻を伝える。 「ここ。医務室の映像は使わないでく
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第123話 社長は、辞めない

「瀬名さんの死のあとに、私たちを置かないでください。……あの人が死んだおかげで、やり直せたみたいになる」  瀬名がいなくなれば、景都を選べる。あの夜に浮かんだ考えを、自分の声でもう一度聞いた。  私は瀬名が嫌いだった。流産を使われ、傷つけられたことを今も許せない。それでも、嫌いだった人の死を、恋愛の転換点として綺麗に並べられたくなかった。 「あの人が本当は優しかった、って話にもしないでください。私が全部勘違いしてたみたいになります」 「では、どう記憶していると」 「嫌いでした。でも、母親にプリンを買って帰る人でもあった。……それだけです」  柊は目を伏せ、企画書のページを送った。 「一時間の配信として構成する以上、結論のないまま終えるのは難しいです」 「じゃあ短くしてください。無理に答えを作るくらいなら」  言い切ると、指先が少し震えた。  私は制作の仕事を知らない。見てもらうために何が必要かも、柊の方が分かっている。  ただ、見てもらうためなら何へ変えてもいいとは思えなかった。 「私は出演しません。コメントも出しません。すでに放送した映像まで消してほしいとは言いません。でも、未公開部分を使うなら、今伝えた条件を守ってください」  柊が確認する。 「条件が難しい場合は?」 「私の未公開映像は全部外してください」  柊はペン先を資料へ戻したが、すぐには書き込まなかった。私の映像と景都の映像を、同じ許可で扱えないことをようやく受け止めたようだった。 「深見さんについては」 「景都へ聞いてください。私を通さないで」  柊が少し迷い、「水城さんご自身が、瀬名さんを嫌いだったと話す形なら、単純化は避けられるかもしれません」と言った。 「嫌いだったことを、番組の告白みたいに使わないでください」 「隠したいという意味ですか」 「隠してません。嫌いだった。今だって好きだったとは言えない。……でも、泣いて話さないと本音じゃないみたいにされるのは嫌です」  画面の端に、自分の顔が小さく映っている。怒っているようにも、冷たいようにも見える。どちらに見えるかまで、今は管理しなくてよかった。 「私が出ないと弱くなるなら、私なしで作ってください」  面談が終わると、部屋が急に静かになった。自分の名前と映像をどこまで使わせるか、決めただけだ。何か
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-29
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第124話 君のせいじゃない

 景都が黙る。 「瀬名さんの映像まで全部止めたいわけじゃない。公開されたものも、あの人が出たことも、なかったことにはしたくない」 『分かった』 「……そこまででいい?」 『今は。もし向こうが飲まなかったら、その時どうする?』  私は頼みたい範囲を口にした。 「もし向こうが飲まないなら、止めるのは私の未公開映像だけにして。番組そのものまで止めないで」 『君の未公開映像と医療情報について、代理人から伝える。番組全体を止める申し入れはしない』  景都はその先を足さなかった。電話の向こうで、キーを打つ音が一度だけした。 「景都の映像は?」 『使わせない。俺が決めた』 「私に合わせた?」 『違う。私生活を会社の危機管理へつなげる構成だったから』  私はそれ以上、理由まで揃えようとはしなかった。  景都は、私が頼んだ範囲を代理人へ伝えるつもりのようだった。 「期限は明日の正午」 『それまでに回答を取る』 「取れなかったら?」 『君の未公開映像は使わせない。公開済みの映像も、流産の話と結びつける編集は外させる』  私は少し間を置いて、「お願いします」と答えた。  使用を認めない箇所に印を付けた一覧を、景都へ送った。頼んだのは、その範囲だけだった。  送信したあとも、通話は数秒つながっていた。景都の声はなく、遠くで紙をめくる音だけがした。私は先に切り、使用箇所の一覧をもう一度開いた。赤い印を付けたのは、自分の顔が映る場面だけだった。◇ 翌日の午後、制作会社から修正版の概要が届いた。  配信時間は一時間から三十分へ短縮され、未公開の医務映像と流産に関する音声は使わない。私と景都の現在も扱わず、mellow noteとの連動企画も撤回する。最後に、制作判断として配信時期を延期するとあった。  物語の中心を失ったからかもしれない。  それでも、空いた中心へ別の嘘を置かなかっただけましだった。  灯がメールを読み、言った。 「止まったね」 「延期だよ。出すかどうかは向こうが決める」  修正版の箇条書きには、瀬名の公開済み映像や他の出演者の項目が残っていた。私の名前が消えた箇所だけ、行間が少し広く見えた。  夜、景都から一通だけ来た。 『条件どおりで確定した』  私は『ありがとう』と打った。  送信ボタンの上で、指を止めた。
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第125話 静かな午後に、知らない名前

 橙の生地だけ、納期が一週間延びることになった。現地テストの日程を動かすか、別色を先に出すか。机に二枚の見本を並べたまま考えていると、後輩がこちらを見た。 「橙は待ちます。代わりに青を一型増やしましょう。販促写真は撮り直しで」  言い終える前に後輩は頷き、撮影担当へ電話をかけた。私は青の見本を取り直す。こうして番組とは関係のないことで時間が埋まっていくのが、久しぶりだった。  昼過ぎ、部長に呼ばれて会議室へ行くと、海外向け企画書の横に見慣れないロゴの資料が置かれていた。 「久世ホールディングスから、シンガポールの店舗テストに声がかかってる。前に出してた新生活キット、向こうが面白がってるらしい」  生活雑貨だけでなく、不動産やホテルまで抱える企業グループだ。mellow noteが単独で相手をするには少し大きすぎる。その名前より気になったのは、最終ページにあった担当者の略歴だった。  久世沙耶。執行役員、海外事業本部長。  危機管理プロジェクトの欄に、LATTICE SHIELDとの協業実績がいくつも並んでいる。 「来週こっちに来るって。水城さんにも出てほしいそうだよ」  私はページを閉じかけて、もう一度名前を見た。  夕方、景都から電話があった。制作側との確認が終わったという報告を聞いたあと、何気なく久世ホールディングスの名を出すと、受話口の向こうが一拍だけ空いた。 『沙耶さんが来るのか』  下の名前だった。 「知ってるんだ」 『仕事で何度か。久世の海外案件を一緒にやった』  どのくらい、と聞きかけてやめた。質問そのものが、自分の中にあるものを先に白状してしまいそうだった。 「有名な人?」 『優秀だよ。決めるのが速い』  景都はそれ以上足さなかった。私も聞かなかった。  電話を切ってから企画書を開き直す。写真の沙耶は白いジャケット姿で、きれいというより隙がない。結婚していた頃、深見家の年始会で久世という姓を聞いた記憶も戻ってきた。あの頃は、景都が誰と仕事をし、何を嫌っているのかを知るより、彼の機嫌を損ねないことに気を取られていた。  今は違うと自分に言い聞かせたところで、気になってしまうのは止められなかった。  ただ、景都の時間の中に、自分の知らない女の名前がある。  鞄へ資料をしまう時、そのページだけが指に引っかかった。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-30
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第126話 久世沙耶

 久世沙耶は、写真で見たより背が高かった。会議室へ入るなり部長へ挨拶を済ませ、そのまま私の前へ来る。差し出された手より先に、視線はテーブルの試作品へ落ちていた。 「水城真帆さんですね。写真より実物の方がいい」  褒められたのは商品だった。それなら話しやすい。沙耶は引き手を指で起こし、戻し、もう一度片手で開けた。三ミリ細くした部分をすぐに見抜き、なぜここだけ変えたのかと聞く。市場規模、返品率、現地の湿度、想定価格。資料を最初から順に追うのではなく、必要な数字だけ拾い、曖昧なところへ細い付箋を貼っていく。  厳しい。でも、仕事はしやすい。そう思えたのは前半の三十分までだった。  海外テストの危機対応にはLATTICEも入る、と沙耶が言った。番組騒動で商品と私生活が結びついた以上、念のためだという。しかも概要はすでに深見景都へ渡してある。  ペン先が止まった。「景都に?」と口にしたあとで、呼び方が早かったことに気づく。沙耶の目が一瞬こちらへ上がったが、何も言わず「ええ、深見さんに」とだけ返した。  胸の中で、また先に動いたの、と反射しかける。けれど確認すると、依頼したのは久世側で、景都が私の知らないところから割り込んだわけではなかった。 「それなら、私の会社側の仕事とは別ですね」  声が硬くなったのは自分でも分かった。沙耶は気を悪くした様子もなく、資料の角を揃えた。 「聞いていた通りです」  誰から、と尋ねると、「深見さんからではありません」と返ってくる。その先回りの方が、かえって気になった。  会議後、廊下で二人になった。沙耶は次の予定を端末で確認しながら、景都とは仕事で長いのだと話した。必要なことしか言わない男なのに、私のことになると必要の線が変わる、と。  エレベーターのボタンへ伸ばした指が止まる。「どういう意味ですか」 「判断が速くなりすぎるんです。最悪を見つけると、ほかを待たずに止めようとする」  私が何度も怒った先回りを、沙耶は仕事の判断として話している。否定する言葉は、私にもなかった。 「仕事をするなら、知っておいた方がいいと思っただけです。来週また」  扉が閉まり、自分の顔が薄く映る。会社へ戻る途中、鞄の中で試作品の引き手を一度つまんだ。沙耶は三ミリを見ただけで、その理由まで聞いた。景都のことばかり意識していた自分が少し悔し
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-30
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第127話 あなたがいると、彼は鈍る

 その日の夜、景都と駅前の蕎麦屋で会った。混んだ店の端へ押し込まれるように座り、私は温かい蕎麦、景都は冷たい蕎麦を頼んだ。  注文が通ってから、今日久世沙耶に会ったことを話す。景都は箸袋を開く手を止めたが、どうだった、と聞いただけだった。 「優秀だった。腹が立つくらい」  そこから、LATTICEへ先に概要が渡っていたこと、私のことで景都の判断が速くなりすぎると言われたことを順に話した。景都は途中で弁解せず、久世側からの依頼で、自分からは何も動かしていないとだけ確認した。  蕎麦が届く。七味の蓋を開けたところで、どうでもいいはずのことが口から出た。 「沙耶さん、って呼ぶんだね」  景都の眉が上がる。「昔から家同士の付き合いがあるから。仕事では久世さんだよ」 「ふうん」  七味を振りすぎた。湯気に混じって辛い匂いが上がる。景都が「気になる?」と聞いたので、素直に頷くのが悔しいまま、「……気になるよ」と答えた。  彼は一拍置き、「俺は何もない」と言った。 「そこまで聞いてない」 「聞かれる前に言っておきたかった」  昔なら、その先回りにも腹を立てたかもしれない。今日は湯気の向こうで、不器用だと思うだけだった。  食べ終えた器の底には、七味の赤い粒がいくつか残っていた。景都の方はほとんど汁が残っていない。結婚していた頃にも何度も一緒に蕎麦を食べたはずなのに、彼が七味を使わないことを今さら思い出した。沙耶が知っている景都と、私が知っている景都を比べ始めれば、たぶんきりがない。レジへ向かう景都の背中を見ながら、その競争だけはしたくないと思った。  店を出ると、沙耶から次回会議の資料が届いていた。体制案には久世沙耶、LATTICE SHIELD、その下にmellow noteの商品企画として私の名前がある。景都は画面を覗かなかった。何が来たのかとも聞かない。 「仕事の資料」  こちらから言うと、「そう」とだけ返った。数歩歩いてから、やはり言っておこうと思った。 「沙耶さんのことでも、ほかのことでも。私が困ったら、自分で言うから。先に片づけないでね」  景都の足がわずかに遅れた。「……かなり難しい」 「知ってる」 「でも、やる」  そこから先を条件にしなかった。信号待ちで並び、青へ変わると私が先に一歩出る。景都の靴音がすぐ隣へ追いついた。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
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第128話 昔から知っている人

 次の打ち合わせは、久世ホールディングス本社で行われた。窓の向こうに湾岸の倉庫群が並び、会議室のガラスには薄い冬空が映っている。  沙耶は開始五分前に現れ、私の向かいへ座った。その二分後、景都がLATTICEの担当者を二人連れて入ってくる。 「久しぶり」 「先月の物流事故以来か」  それだけのやり取りだったのに、二人の間には私の知らない案件名が自然に転がった。ホテル火災、不正アクセス、物流停止。誰かが思い出を語るような親しさではない。むしろ仕事の話だからこそ、説明を省ける時間が積もっている。  秘書が飲み物を確認すると、沙耶は景都を見る前に「深見さんはブラックで」と告げた。  長く一緒に仕事をしていれば、そのくらいは覚える。  そう思った直後、結婚していた私は景都が生姜焼きを好きなことすら知らなかった、と気づいた。 「水城さんは?」  沙耶に呼ばれ、顔を上げる。 「ブラックでお願いします」 「意外。甘い方がお好きかと」 「昔はそうでした」  向かいでは景都が一瞬だけこちらを見る。その視線を追わず、私は資料を開いた。  会議が始まると、沙耶は容赦がなかった。現地店舗で返品が二割増えた場合の生産調整、宗教行事と販促時期が重なった時の差し替え日数、色別在庫の切り方。答えられることは答え、分からないところは持ち帰る。景都が口を挟む場面はなかった。  一時間半後、資料を閉じる頃には、最初に感じたざらつきの一部が仕事へ変わっていた。  エレベーター前で、沙耶が隣に立つ。 「あなたと深見さん、思っていたより仕事では別々に動くんですね。もっと彼が口を出すのかと思っていました」 「出させません」  思ったより早く返したせいか、沙耶の口元がわずかに動いた。 「それなら安心しました。仕事ができる人を、恋愛の事情で外すのは嫌いなので」  褒められたはずなのに、『恋愛の事情で外す』という言葉が残った。私がここで仕事を続けられるかも、景都とのことで測られていたのだろうか。  ロビーへ下りると、景都は社員と数字を確認していた。沙耶がその輪へ入り、二人で資料を覗き込む。説明のいらない会話を聞けば、胸の奥がざらつかないわけではない。  それでも、さっき私は景都を通さず、沙耶と直接やり合った。商品企画の担当者として言い返せたのだと思うと、知らない時間の長さ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
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第129話 席は、そこじゃない

 海外テストの説明会は、久世ホールディングスのホテルで開かれた。壇上にはスクリーンと三つの椅子が並び、久世沙耶、深見景都、現地事業責任者の札が置かれている。mellow noteの席は二列目の端だった。  商品説明は私がする予定だ。案内された席を見て立ち止まっていると、背後から沙耶が来た。事情を聞いた彼女は壇上を見上げ、スタッフへ椅子を一つ増やすよう頼んだ。 「商品を作った人が二列目なのは変でしょう」  礼を言うと、「仕事の配置です」と返される。ところが別のスタッフが、増やした席を景都の隣へ置こうとした。 「水城さんは商品側です。私の隣へ」 「でも、報道写真では――」 「誰の写真のための席ですか」  声は静かだった。スタッフが口を閉じたところへ景都が会場へ入り、状況を聞いて「真帆の席は商品説明の位置でいい」と言う。名前を呼ばれた瞬間、近くの記者が顔を上げた。  私は彼の袖を軽く引いた。「今、そこは説明しなくていい」  景都はそれ以上言わなかった。  説明会が始まる。耐久試験について話す間、景都は一度も口を挟まない。質問が危機対応へ移れば、今度は私が黙った。それぞれの担当へ話題が渡っていく。壇上に四人並んでいても、同じことを答える必要はなかった。  終わったあと、記者の一人が、景都との関係が今回の採用に影響したのではないかと尋ねた。景都が動く気配だけが視界の端に入る。 「採用理由は久世ホールディングスへ聞いてください。私は、採用されたあとの仕事で答えます」  重ねて質問される前に、沙耶が「彼女を選んだのは私です」と引き取った。  写真撮影の準備が始まり、スタッフが椅子の間隔を数センチずつ直していく。私はその手元を見ていた。誰の隣に置くかだけで、本人の言葉より先に関係を説明されることがある。番組では立ち位置のテープがそうだった。  スタッフが余った椅子を畳み、壁際へ運ぶ。私の札は沙耶の隣に残った。  控室へ戻る途中、増やされた椅子のせいで通路が少し狭くなっていた。スタッフが「すみません」と言いながら位置を直す。私は自分の名札を外し、裏側に付いた両面テープを指で丸めた。ゴミ箱へ捨てようとしたテープは、指からなかなか離れなかった。  会場を出る前、私は自分の椅子を一度だけ振り返った。もう名札は外され、ただの黒い椅子へ戻っていた。  その日
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-02
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第130話 私の仕事から外さないで

 説明会の翌朝、部長の机に久世側から修正版の体制案が届いた。海外テストの現地責任者から私の名前が消え、営業部の主任へ変わっている。  部長も初めて見たらしく、すぐ先方へ確認を入れた。三十分後、沙耶本人から電話が来る。 『商品評価は変わっていません。問題は、水城さんと深見さんの関係が記事の中心になり始めたことです』  昨日の記者質問は、すでに〈元夫の会社が後押しする海外進出〉という見出しになっていた。商品について書かれたのは二行だけだという。 「だから、私を外したんですか」 『企画は残します。現場担当だけ替える。会社としては合理的です』  理屈が分からないわけではない。それでも、自分の名前が消えた欄を見ていると、指先が熱くなる。 「正式決定の前なら、一日ください。私が現地担当である必要性を資料にします」  電話の向こうで短い間があり、『感情論では通しませんよ』と返ってきた。 「仕事の資料を出します」  景都へ連絡すれば、久世側で誰が何を決めたのかすぐ分かるだろう。連絡先を開きかけた時、部長が「深見さんには聞かなくていいの」と言った。 「これは私の仕事なので」  午後いっぱい、返品率、引継ぎ日数、現地バイヤーとの打ち合わせ履歴を並べた。私が外れれば再説明に最低三週間。テスト開始も一週間遅れる。数字へ変えていくと、腹立たしさは消えなくても手は動いた。  自分がいなければ困る、と証明する作業は思った以上に疲れた。必要とされたいと叫んでいるような気がして、途中で何度か画面を閉じたくなる。それでも、誰かに「彼女を残してやって」と言ってもらうよりはましだった。  資料を作っている途中、後輩が缶コーヒーを机へ置いてくれた。開けるのを忘れ、気づいた時には缶の表面から冷たさが消えている。誰かに頼れと言われれば、簡単に聞こえる。けれど今ほしいのは答えではなく、明日の会議へ持っていける根拠だった。数字を一つ直すたび、感情だけで残りたいわけではないことを自分にも言い聞かせた。  夜十時、資料を送信する。肩が固まっていて、立ち上がった途端に首の後ろが痛んだ。  その時、景都からメッセージが来た。  〈久世から担当変更の話を聞いた。俺からは何も言ってない〉  先に動かなかったことを知らせる一文だと分かった。  〈ありがとう。明日、自分で話す〉  少し迷い、
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-02
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