All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 171 - Chapter 180

195 Chapters

第171話 三か月ぶん、知らない

 帰国して最初の週末、景都の部屋へ行った。 三か月しか離れていないのに、知らないものが増えている。冷蔵庫には見覚えのないドレッシング。洗面所には以前なかった整髪料。「これ、使うようになったの?」「出張先でもらって。悪くなかったから」「知らなかった」「俺も、真帆が向こうで買ったものは知らないよ」 スーツケースから、小さなコーヒーカップを出した。 ホテルの近くで買ったものだ。「これ、置いていこうかな」「ここに?」「次来た時、使うから」 景都が棚の空きを見つけようとするのが分かり、私は笑った。「今日はテーブルでいいよ」 手が止まる。「じゃあ、そうする」 午後、景都がそのカップでコーヒーを飲んだ。ホテルの部屋では一人で使っていたものが、彼の手にあるだけで別の物に見える。「使いにくくない?」「普通」「それ、感想として一番困る」 景都はカップを回し、底の小さな傷を見つけた。「ここ、欠けてる」「スーツケースの中で当たったのかも」「まだ使える」「まだ使える」という言い方だけは昔のままだった。私は笑い、欠けたところを指で確かめた。 夕食は私が現地で覚えた炒め物を作り、景都がご飯を炊いた。味付けが濃い、いやこれくらいでいい、と言い合い、結局それぞれの皿で調味料を足す。「辛いの、平気になった?」「少しだけ。景都よりは無理」「俺も昔ほど食べない」 また一つ、知らないことが増えた。 食後、荷物を片づけていると、シンガポールで使っていた小さなノートが出てきた。ページの端には、橙が初めて売れた日や、ひどい雨、現地スタッフが覚えた日本語のことまで書いてある。景都へ話したいことは、こんなにあった。「これ、全部話したら夜が終わるね」 景都が覗き込む。「全部じゃなくていいだろ。真帆が話したいところだけで」 ノートを閉じた。三か月分を全部話さなければ、と気負っていた自分がおかしかった。 ソファに座る
last updateLast Updated : 2026-10-23
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第172話 別々の家へ帰る

 帰国しても、夜になれば私は自分の部屋へ帰った。空港で抱きしめられ、景都の家で夕食を作っても、最後は別々の電車へ乗る。最初の数日は、その切り替わりが妙にぎこちなかった。 ある夜、玄関で靴を履いていると、泊まっていかないかと景都が言った。 迷った。嫌ではない。ただ、帰国の勢いのまま生活まで一つにしてしまうのは、少し怖かった。「今日は帰る」 景都は理由を聞かず、「ああ」とだけ返した。 駅まで歩く途中、信号待ちで横顔を見る。寂しいかと聞くと、「寂しい」と即答された。けれど帰るなとは言わない。その言葉の続きがないことに、肩の力が抜ける。 私も別れる時は寂しい、とだけ返した。青信号になり、人の流れへ入る。景都は次の約束を急いで作ろうとせず、歩幅を合わせた。 それでも、最初は水曜と言っていた次の予定が、話しているうちに明日でもいいことになった。一緒に住まなくても、会いたい日は会える。 自宅へ戻る電車でトーク画面を開く。〈着いたら連絡して〉は来ていない。だから自分から〈帰った〉と送った。数分して〈おかえり〉と返る。 週の半分をどちらかの部屋で過ごすようになっても、自分の部屋へ戻る夜は必要だった。洗濯物を自分の順番で片づけ、好きな音楽を流し、一人分の夕食を作る。景都のいる場所を「戻る家」ではなく、自分で向かう場所のままにしておきたかった。 翌朝、珍しく長めのメッセージが来た。〈昨日、帰ったあと少し寂しかった〉。 〈私も少し〉と返す。だからといって、今夜泊まる約束にはしなかった。 水曜は仕事帰りに駅前で夕食を食べただけ。木曜は会わず、金曜は景都が遅くなるというので私も残業した。予定が合わなければ、そのまま一日が終わる。 土曜の朝、〈昼どうする〉と届く。寝坊した、と返すと十三時に決まった。昼に会い、夕方になったらその時考える。帰る時間まで朝のうちに決める必要はなかった。 その日の夜も、私は自分の部屋へ戻った。玄関の電気をつけると、やはり少し寂しい。水を一口飲み、〈今日は楽しかった〉と送る。 〈俺も。帰ったあと寂しい〉 〈私も〉 今度は「少し」を付けなかった。 景都の部
last updateLast Updated : 2026-10-23
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第173話 恋人の部屋

 次の土曜、景都が私の部屋へ来た。 以前泊まった時とは違い、今日は夕食を食べる約束しかしていない。玄関へ入った景都が、脱いだ靴の向きを直そうとして手を止める。 靴の向きくらい気にしなくていい、と言うと、「基準が難しいな」とぼやいた。私にも分からない、と笑いながら中へ入る。 テーブルには、景都がこの家に来た時に使うカップを一つ出してある。景都が持ち上げた。「これ、俺の?」「この家に来た時だけ」「持って帰ったら?」「それは嫌」 自分でも驚くほど早く答えてしまい、笑った。 夕食のあと、ソファで映画を見る。途中から眠気に負け、気づけばエンドロールだった。頬の下には景都の肩がある。「起こしてよ」「よく寝てた」 夫婦だった頃にも同じことはあった。それなのに、今は寝顔を見られたことまで気恥ずかしい。 テレビを消してから、私はしばらくリモコンを手の中で転がした。「今日、泊まる?」 景都の返事が一拍遅れる。顔を見ると、迷っているというより言葉を選んでいる。「……泊まりたい」 それで決まり、景都はソファではなく私の隣で眠ることになった。 照明を消すと、暗闇の中で手の甲が触れた。景都は握らず、そのままにしている。私は自分から小指を掛け、それから指を絡めた。「今日は寝るだけだからね」「……かなり残念だけど、分かった」 正直すぎて笑う。 夜中、一度だけ目が覚めた時、絡めていた指は離れていた。安心したはずなのに物足りなくなり、布団の中を探す。眠っている景都の手へ触れると、指が反射のように動き、軽く握り返された。 朝になっても、そのことを二人とも口にしなかった。 朝食は近所のパン屋で買った。景都がクリームパンを選び、私は塩パンを取る。結婚していた頃には知らなかった組み合わせが、今では同じ買い物袋へ入っている。 食べ終わる頃、景都が昨夜の映画について話し始めた。「私、半分くらい覚えてない」「三分くらい寝てた」
last updateLast Updated : 2026-10-24
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第174話 台所の幅

 次に景都が泊まった朝、台所がひどく狭く感じた。コーヒーを淹れようとした私の背中へ、冷蔵庫を開けた景都の肩がぶつかる。前の家はもっと広かった、と言うと、卵を取り出しながら「広すぎた」と返された。 フライパンを探す手が上の棚へ伸びたので、足元の引き出しを指した。前の家では上だったらしい。塩の場所も、皿の大きさも、ゴミ袋のしまい方も違う。朝食を一つ作るだけで、二人の手は何度も同じ場所へ伸び、そのたび片方が引いた。 包丁でトマトを切ると、皮の上で刃が一度滑った。景都の視線が手元へ落ちる。「切れにくいな」「知ってる」 買い替えた方がいい、と続きかけた気配だけがあり、言葉にはならなかった。私はそのまま刃を研ぎ器へ通し、もう一度トマトへ当てる。今度はさっきより素直に入った。 食後、二人で皿を洗った。流しの前を入れ替わろうとして、また肩がぶつかる。景都が台所を見回し、「二人で使うには狭いな」と言った。 蛇口を止めた手が、そのままになった。景都も気づいたらしく、すぐ先の予定を並べるようなことはしなかった。「……その話、いつかはしたい」 濡れた皿を布巾へ置きながら、景都は「その時に」とだけ返した。 片づけが終わると、私は台所の真ん中で両腕を広げてみた。後ろを通ろうとした景都が足を止める。「やっぱり二人は無理」「身体で測るものなのか」 笑って腕を下ろす。家を見るなら一緒に見よう、と今度は私から言った。景都は日程を聞かず、頷いただけだった。 帰ったあと、さっきまで狭かった台所が急に広くなる。一人分のコーヒーを淹れると、マグを置く場所にも誰の腕も入ってこない。物件サイトを開きかけたが、白い検索欄を見たところで閉じた。次に会った時、同じ画面を二人で開けばいい。 コーヒーは、景都がいる間に淹れたものより少し濃かった。豆も水も同じなのに、一人分になるといつもの加減へ戻る。 昼過ぎ、景都から店頭の包丁の写真が届いた。〈買ってない。見ただけ〉と、先回りする一文までついている。 電話をかけると、近くに店があっただけだと弁解された。画面には値札まできれいに写っている。
last updateLast Updated : 2026-10-24
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第175話 喧嘩しても、帰らない

 帰国して、互いの部屋で過ごす日が増えた頃、帰宅時間のことで大きく言い合った。 新商品の撮影が延び、二十二時を過ぎると伝えていたのに、二十一時半に〈まだ?〉、二十二時には〈終わった?〉と景都から届いた。仕事中の画面へ同じ名前が続けて出るだけで、監視されているような息苦しさが戻った。 電話すると、声が強くなる。「一回、遅くなるって送ったでしょう」 景都は心配だったと言う。予定より遅れている、と。「迎えに来るって言われてないのは分かってる。でも、聞かれるだけでも嫌な時ある」 受話口の向こうが静かになった。「今日はもういい」 そこまで言って切りかけ、指を止めた。「……でも、明日会う予定は変えないから」 少し間があって、『分かった。明日会おう』と返った。 翌日、カフェで顔を合わせても気まずさは消えていなかった。景都は昨日のメッセージを見せながら、連絡が途切れると番組の事故を思い出し、最悪のことを考える癖が残っていると話した。 理由を聞けば怒りが全部なくなるわけではない。ただ、何も考えずに束縛していたわけでもなかった。「一回送ったら、しばらく待って」 景都が何時まで、と聞きかける。「そこまで決めたくない」 彼は額へ手を当てた。「難しいな」「私も難しい」 店員が料理を運んできたので、話はいったん切れた。まだ完全に納得できないまま、同じ皿から唐揚げを一つ取る。景都も、謝ったから終わりという顔をしていなかった。 その不格好な夕食の方が、きれいに仲直りするより信頼できた。 店を出たあと、景都は今日は一人で帰った方がいいかと思っている、と言った。「駅までは一緒に来て」 腹が立っていても、そばにいてほしい時はある。 二人で駅へ向かった。景都は何度か口を開きかけ、結局黙った。 駅へ向かう途中、景都のスマートフォンが一度震えた。仕事の通知らしく、画面を確認してすぐ戻す。私も何も聞かなかった。怒りが消えていないままでも、同じ道を歩ける。改札の前で靴音が止まるまで、そのことだけは
last updateLast Updated : 2026-10-25
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第176話 今度は二人分

 仕事が詰まった週の終わりに、風邪をひいた。熱は高くないのに喉がひりつき、冷蔵庫を開けても食べたいものが浮かばない。 景都には〈今日は会えない〉とだけ送った。薬はあるか、何か食べたかと返ってきて、〈まだ〉まで打ったところで画面を伏せる。少しして、〈食べられそうなもの持っていく〉。以前なら、その一文とほとんど同時に玄関へ向かっていたかもしれない。 私はしばらく迷ってから、〈来て〉と返した。 一時間後、景都の紙袋に入っていたのは米と卵、スポーツドリンクだけだった。「買いすぎてないね」「かなり我慢した」 何を、と聞くと、加湿器、と真顔で返ってくる。笑った拍子に咳き込み、景都はそれ以上何も言わず台所へ入った。 鍋に米と水が落ちる音がする。木べらが底を擦り、蓋の隙間から湯気が上がった。ソファに身体を預けたまま、その音を聞いているうちに、少しだけ眠ったらしい。 起こされた時には、テーブルに茶碗が二つ並んでいた。 粥は、やはり薄かった。 一口食べて塩の瓶へ手を伸ばすと、景都の手も同じ方へ動き、途中で止まった。私が瓶を引き寄せて二度振る。そのあとで、景都も自分の茶碗へ一度だけ足した。「そっちも入れるんだ」「今日は少し」 同じ鍋からよそったのに、味はもう違う。そのことが妙に可笑しかった。 食べ終わる頃には、熱より眠気の方が強くなっていた。茶碗を流しへ運ぼうとすると、景都が立ち上がる。「いい。寝て」 寝室へ向かい、数歩進んだところで背後から端末を閉じる音がした。帰るつもりなのだと分かり、振り返る。「……いて」 景都はもう一度ソファへ腰を下ろし、端末を開いた。キーを叩く音は、寝室の扉を半分閉めるとほとんど聞こえなくなった。 夕方に目を覚ますと、景都はまだいた。窓の外を見ながら端末を閉じている。「帰らなかったんだ」「いてって言われたから」 あまりにそのままの返事に、笑うとまた咳が出た。 帰り際、鍋に残った粥を夜に食べると言う。景都が保存容器へ手を伸ばし、こちらを見る。私は顎で鍋を示した
last updateLast Updated : 2026-10-25
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第177話 泊まる理由はいらない

 風邪が治った週末、景都が私の部屋へ来た。夕食を食べ、映画を一本見終わる頃には二十三時を過ぎていた。雨も降っていないし、終電もまだある。「今日は帰る?」 聞いてから、帰ってほしいわけではないことに気づく。 景都が時計を見る。「真帆が帰ってほしいなら」「そうじゃなくて」 そこで言葉が止まる。泊まる理由がないからこそ、言いにくかった。 私はテレビの消えた画面を一度見てから、「泊まっていく?」と聞いた。 景都はすぐ喜ぶのを我慢したような顔をした。「理由は?」「ないよ。恋人なんだから、それでいいでしょう」 自分で言って頬が熱くなる。景都はようやく笑った。 寝室へ入る。前に泊まった時は手をつないだだけだった。今夜はもう少し近くなりたい気持ちと、急に怖くなる気持ちが同時にある。 景都の手が頬へ向かい、触れる手前で止まった。 そこだけは、言葉にしてほしかった。「触れていい?」「うん」 キスはゆっくりだった。離れたあと、景都は続きを急がない。「……もう一回」 今度は私から近づいた。 どこまで進むかを先に決めなかった。身体が硬くなれば止まるし、近づきたくなればこちらから触れる。夫婦だった頃より手間がかかる。けれど、その手間が嫌ではなかった。 夜更け、景都の額が私の額へ触れたまま止まる。「ゆっくりで」 それだけ言うと、肩から力が抜けた。 やがて照明を消した。景都の呼吸が隣にある。このまま朝を迎えられることが嬉しかった。 目が覚めると、カーテンの隙間が白くなっている。景都はまだ眠っていた。腕が私の腰へ回っている。 抜けようとすると、寝ぼけたまま少しだけ力が入る。私は動くのをやめた。 しばらくして景都が目を開け、慌てて腕を離した。「ごめん」「今はいい」 自分からもう一度肩へ頬を寄せる。 次にいつ泊まるかは決めなかった。朝食のことも、今日どこへ行くかもまだ決まっていない。 朝食は冷蔵庫にあった
last updateLast Updated : 2026-10-26
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第178話 同じ朝を選ぶ

 別の朝、先に起きた景都が台所でコーヒーを淹れていた。寝室を出ると、二つのカップから湯気が上がっている。「勝手に台所使った?」「コーヒーだけ」 前科がある、と言うと粥のことだとすぐ通じた。 私は自分のカップへ牛乳を少し入れる。ブラックを飲むようになったけれど、朝はまだ薄い方がいい。「今は入れるんだな」「朝だけ」 覚えようとする顔をするので、「記録しなくていい」と笑う。 朝食はパンと卵。景都がフライパンを使い、私は皿を出す。二人で動くと、もともと狭い台所がさらに狭い。背中が何度か当たり、互いに「ごめん」と言うほどでもないので、そのままになる。 卵を皿へ移す時、私が何気なく言った。「一緒に住んだら、ここじゃ無理だね」 景都の手が止まる。 私は言ってから、思ったより平気だったことに気づいた。「景都の家も、二人で住むには景都すぎるし」「景都すぎる?」「物がなさすぎる」 彼は反論しようとして、やめた。 未来の話が出ても、今日は答えを決める気にならない。それでよかった。 食後、景都が皿を洗う。洗剤の量が多いので横から口を出すと、「これくらい普通」と言う。「多い」「昨日の油が残ってる」「すすぐ水が増えるでしょ」 甘い言葉より先に、洗剤の量で言い合っている。少し前なら、こういう朝を想像するだけで「復縁」の二文字が重くのしかかった。 今はただ、台所が狭いと思う。 景都が帰る支度をする。玄関で、次にいつ泊まるかを決めかけたので、私は首を振った。「その時、泊まりたくなったらでいい」 景都は少し考えてから頷く。 ドアが閉まると、部屋は一人分の広さへ戻った。シンクの横には、二つのカップが伏せてある。 片づけようとして、ベッドの片側に残った皺へ目が止まる。すぐ直さず、そのまま洗濯機を回した。 昼近くになって、景都から〈コーヒー、牛乳入れるの忘れてた〉と来た。〈自分で入れたから平気〉と返すと、すぐ〈そうだった〉と届く。朝の台所で見たことを、一つずつ
last updateLast Updated : 2026-10-26
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第179話 一緒に住む?

 一緒に住む話を最初に口にしたのは、景都ではなく私だった。 日曜の午後、私の部屋で洗濯物を畳んでいた。前夜に泊まった景都の白いシャツが一枚混じっている。「これ、持って帰る?」 景都は畳みかけたタオルから顔を上げた。「次に来る時着るから、ここに置いていきたい」 クローゼットを開ける。私の服の端に、一着ぶんくらいの空きがある。「一枚なら」 シャツを掛けると、たったそれだけで並びが変わった。 景都がまたタオルを畳み始める。私はクローゼットを閉めずに、その白い袖を見ていた。「ねえ。一緒に住む?」 景都の手から、タオルが床へ落ちた。「今?」「今すぐ引っ越すって意味じゃない」 思わず笑う。 考えたことはあるかと聞くと、帰国してからずっとあるらしい。「早い」「言わなかった」 そこは確かに変わった。 私も最近考え始めた。泊まるたび荷物を持って移動するのが面倒で、洗面所へ歯ブラシが増え、クローゼットへシャツが一枚入った。 ただ、前の家へ戻るのは嫌だった。景都も同じだと言う。彼の今の部屋へ私が入るのも、どこか違う。 景都が「じゃあ、新しい家?」と言った途端、胸が強く鳴った。 彼の手がスマートフォンへ伸びかける。「まだ探さないで」 指が止まる。「……分かった」 本当に画面を開かなかったので、また笑った。 一緒に住めば、靴の向き、冷蔵庫の期限、寝る時間で、きっと何度も腹が立つ。好きだから全部許せるとは思わない。むしろ、毎日いれば今まで見えなかった嫌なところも増えるだろう。 それでも、喧嘩のたび別の家へ帰るのではなく、同じ場所で機嫌の悪い時間を過ごすことを想像した。 怖さはあった。少し嬉しくもあった。 景都は落としたタオルを拾い、最初から畳み直す。角を合わせる癖は相変わらずだ。「今夜は検索しないでね」「分かってる。かなり我慢してる」 その返事で十分だった。 夕方、景都が帰ったあと、
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第180話 三泊だけ

 同居を決める前に、三泊だけ試すことにした。場所は私の部屋。景都の家の方が広いが、普段の暮らしへ彼が入った方が、困ることも分かりやすいと思った。 金曜の夜、景都は小さなバッグ一つで来た。「それだけ?」「三泊だから」「出張みたい」「仕事用の鞄じゃない」 少し得意そうだった。 初日は何も起きなかった。問題が見え始めたのは翌朝からだ。 洗面台へ行くと、景都の歯ブラシと整髪料が、私の化粧品の横へきれいに並んでいる。「そこ、私が使う」 景都は棚を見て、すぐ自分のものを端へ寄せた。 昼には冷蔵庫を開けた彼が、賞味期限の切れたヨーグルトを手にしている。「それ、昨日までだよ」「一日なら平気」「捨てた方が――」「勝手に捨てないで」 景都の手が止まり、ヨーグルトは元の場所へ戻った。 夕方、洗濯物を干していると、今度はハンガーの間隔を直し始める。「それ、何してるの」「乾きやすいように」「今はそのままでいい」 また手が止まった。 日曜の昼、景都が台所で自分のマグカップを探しているのを見て、私の方が場所を教えた。「上の右」と言うと、迷わず取る。その動きだけは、もう初日より自然だった。 三日間で慣れたこともある。 朝、先に起きた方が湯を沸かす。相手がシャワーを使っている間は洗濯機を回さない。仕事の電話が来たら、別の部屋へ移る。 誰が決めたわけでもないのに、二日目からそうなっていた。 三泊目には、二人とも少し疲れていた。 生活の中では、会話になるほどでもないことが多すぎる。歯ブラシの場所、期限の切れたヨーグルト、タオルの畳み方。恋人として会うだけなら見えなかったものばかりだ。「一緒に住むの、無理かもね」 冗談半分で言うと、景都の顔が本気で曇った。「三日で決める?」「冗談だよ」「かなり焦った」 笑った。 夜、景都が仕事用端末を開いた時にも一度揉めた。「一緒にいるのに仕事?」
last updateLast Updated : 2026-10-27
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