All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 181 - Chapter 190

195 Chapters

第181話 戻して

 景都の家での三泊は、私の部屋より静かだった。物が少ないぶん、私が持ち込んだものは何でも目につく。 洗面所へ化粧水を置き、寝室のハンガーへ部屋着を一枚掛ける。それだけで、自分の色が景都の部屋へ入り込んだように見えた。 二日目の夜、仕事から戻ると、化粧水の位置が変わっていた。棚の左端から右端へ移され、ほかの物と高さまで揃っている。朝は慌ただしくて気づかなかったのに、歯を磨こうと洗面台へ立った瞬間、そこだけ妙に整って見えた。鏡の前には景都の整髪料と歯磨き粉が一直線に並び、その端へ私の瓶まで収まっていた。「これ、動かした?」 台所から景都が顔を出した。「倒れそうだったから」 思ったより強い声が出た。「戻して」 景都はすぐ洗面所へ来て、「ごめん」と言いながら瓶を元の位置へ戻した。 そこで見ると、本当に少し傾いている。 私は瓶を持ち上げ、自分で棚の中央へ寄せた。 景都が鏡越しにこちらを見る。「そこなら倒れない」「うん」 それだけで終わった。 翌朝、コーヒーの匂いで台所へ行くと、景都が洗面所の棚を一度だけ見た。手は伸ばさない。 歯を磨きながら、私は鏡越しに言った。「本当に落ちそうな時は、支えてくれていいよ」「難しいな」「私も」 景都が笑う。私も歯ブラシをくわえたまま笑いそうになった。 その夜も化粧水は、私が置いたところにあった。 景都が料理をしている間、私はソファで仕事のメールを返した。以前なら、彼の部屋で自分だけ別のことをしているのが落ち着かなかったと思う。「ご飯できた」 端末を閉じてテーブルへ行くと、二人分の皿が並んでいる。盛り付けはやけに整っていた。「人参まで向き揃ってるけど」 景都が自分の皿を見る。「……無意識」 私は自分の皿の一つだけを反対へ向けた。 景都は何も言わず、そのまま食べ始める。 翌朝、洗面所で化粧水を手に取り、使い終えて昨日と同じ場所へ戻した。景都は寝癖のついたまま、コ
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第182話 未来の話

 二度目の試し同居が終わった頃、景都から駅前の喫茶店へ呼ばれた。自宅ではなく店を選んだ時点で、いつもの夕食ではないと分かる。 席へ着いても、注文した飲み物が来るまで景都は仕事の話をしなかった。私は紅茶のティーバッグを揺らしながら、重い話なのかと聞く。景都は「たぶん」と答え、コーヒーカップへ触れた手をすぐ離した。「一緒に住む話の前に、聞きたいことがある。真帆は、もう一度結婚したいと思う?」 胸の奥が一度だけ強く鳴った。答えを探している間に、「今すぐじゃなくていい」とだけ続く。それ以上は助け舟を出さなかった。 昔のプロポーズでは、家も式も家族への説明もほとんど景都側で整っていた。私は「はい」と言えば、その中へ入れた。今日は指輪も日付もない。ただ、自分がしたいかどうかだけを聞かれている。 その方が、ずっと怖かった。 景都はどうなのかと聞くと、「したい」と迷わず返った。念のため「私と?」と聞けば、眉を寄せて「ほかに誰がいるんだ」と言う。その顔が可笑しくて笑ったあと、紅茶の表面へ目を落とした。「私は……まだ、うまく言えない」 景都が口を開きかけたので、手を上げる。「今、手伝わないで。自分で言いたい」 しばらくして出てきたのは、結婚という言葉ではなかった。「この先も、景都と一緒にいたい」 景都は数秒黙って頷いた。店内では隣の学生が試験の話をし、コーヒーマシンが蒸気を吐き、店員が皿を重ねている。世界はいつもの夕方のままなのに、テーブルの上にだけ「結婚」という言葉が残った。 会計で景都が財布を出した時、いつものように半分払おうとして、今日はやめた。「今日は奢って。結婚の話した日のコーヒーくらい」 景都は一瞬驚き、それから素直に払った。 店を出てからも、婚姻届や家族や名字の話はしなかった。返事の日を約束することもなく、次の試し暮らしの日だけをいつもの調子で相談した。 帰りの電車で結婚という単語を何度か頭の中で繰り返す。一度目は、名字が変わることも、家へ入ることも、景都の家族に会うことも一つの流れになっていた。今度は、その流れをばらして見られる。
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第183話 今日じゃなくていい

 結婚という言葉を出してから一週間、景都は何も急がなかった。指輪を見に行こうとも、家へ話そうとも言わない。待たせているのは自分なのに、こちらの方が落ち着かなくなった。 夕食の途中、「何で何も言わないの」と聞くと、景都は箸を止めた。「真帆が、もう少し話したいって言うのを待ってる」 味噌汁を一口飲む。少し冷めていた。「景都は、結婚したいんだよね」「ああ」 理由を聞くと、すぐには答えなかった。家族になりたい、何かあった時に近い立場でいたい。それだけなら、また守る話に聞こえると思ったのかもしれない。「朝、同じ台所にいたい」 意外なところから始まった。「喧嘩しても、別々の家へ帰らずに話したい。出張から帰る場所を同じにしたい」 指輪や式より先に、眠そうな景都がコーヒーを淹れている朝が浮かぶ。 私は箸を置いた。「私、名字を変えるの嫌かもしれない」 景都はすぐ方法を探そうとする顔をしたが、何も言わなかった。「結婚したいとは思う。でも、今日決めたくない」 その瞬間、景都の肩から力が抜けるのが分かった。「残念?」「かなり」 正直なので笑う。「でも、今日じゃなくていい」 食後、景都が皿を洗い、私が布巾で拭いた。結婚の話をした直後なのに、やっていることはいつもと同じだ。私は水城真帆という名前を、布巾の端を絞りながら頭の中で一度書いてみる。 離婚してこの名前へ戻した時、息ができるようになった感覚を覚えている。景都と結婚したい気持ちと、また名前が変わる怖さは、どちらも本当だった。 景都は洗った茶碗を水切り籠へ置く。「今日はもう、その話やめる?」「うん」 それだけで終わった。 食器を拭き終えたあと、景都は冷蔵庫から水を出し、私にもいるかと聞いた。その問いに少し安心して、半分だけもらい、グラスを戻した。冷蔵庫の音も、濡れた布巾の感触も、いつもの夜と同じだった。 帰る時間になって、景都は玄関で靴を履きながら「次に話す時まで、調べものしない」と宣言した。何を調べるつもりだったの
last updateLast Updated : 2026-10-29
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第184話 名字の話

 結婚を考え始めると、急に現実的なことが増えた。最初に引っかかったのは名字だった。 仕事では水城真帆として積み上げてきた。離婚してから戻した名前でもある。「深見に戻すの、嫌かもしれない」 景都へ言うと、「仕事では水城のままでいいだろ」と返ってきた。「そういうことじゃない」 言ったあとで、自分でもうまく説明できないことに気づく。 前に深見になった時は、自分で選んだつもりだった。けれど離婚して水城へ戻した時、ようやく自分の名前へ戻った気もした。 景都はそこで黙った。「じゃあ、変えない方がいい」と言いかけ、口を閉じる。法律上どちらかが変える必要があることを思い出したらしい。「俺が変える案もある」「今すぐ結論にしないで」 思わず笑った。 二人で制度を調べる。仕事では旧姓を使えること、戸籍上はどちらかの姓にすること。画面の説明は簡単なのに、自分の名前をそこへ当てはめると急に重い。「俺、真帆が深見になった時、嬉しかったよ」 景都が言う。「でも、真帆が何を手放すかは考えてなかった」 その言葉で、古い名刺を思い出した。 翌日、自宅の引き出しから本当に一枚見つける。〈深見真帆〉。紙はきれいなままなのに、知らない人の名刺みたいだった。 捨てずに机へ置く。 会社ではいつものように書類へ〈水城真帆〉と署名した。何百回も書いた名前なのに、一画ずつ意識する。 景都へ写真を送ると、〈会社ではこれからも水城さんって呼ぶ〉と返ってきた。 〈家でそれやったら怒る〉 〈分かった〉 少しして、〈じゃあ家では真帆〉。 問題を解決した顔が目に浮かび、笑ってしまう。 夜、景都が姓の変更手続きを本気で調べ始めたので、スマートフォンを取り上げた。「今日は、そこまで」 不満そうだったが、しばらくして「じゃあ何もしない」と言う。 端末をテーブルへ伏せる。古い名刺と今の名刺を並べてみると、どちらにも同じ顔写真が使われていた。 古い名刺は結局捨てず、仕事机の引き出しへ戻した。
last updateLast Updated : 2026-10-29
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第185話 二人の場所

 一緒に住む家を探し始めたのは、結婚を決める前だった。内見へ向かう電車で「順番、逆かな」と口にすると、景都は窓の外を見たまま、「一回、普通の順番で失敗してる」と言った。否定できず、私は笑った。 最初の物件は広すぎた。景都は収納と防犯を気に入り、私は駅から遠いのが嫌だった。二つ目は駅に近い代わりに台所が狭く、並んで立っただけで肩がぶつかる。今の私の部屋より広い、と言われたので、「比較するところ、そこじゃない」と返した。 三つ目は少し古かったが、窓が大きかった。午後の光が床へ長く伸びている。窓際へ立ったまま「ここ、好きかも」と言うと、背後で資料の紙が鳴った。「今、数字はいい」 紙の音が止まる。振り返ると、景都は資料を閉じていた。 家具のない部屋には、以前の家の革張りのソファも、景都の今の生活用品も、私の小さな棚もない。どちらかの暮らしへ片方が入り込むのではなく、まだ誰の癖もついていない空間だった。「ここなら、二人で選んだ場所にはなるね」 景都は窓の方を見たまま頷いた。まだ決めない、と念を押すと、「分かってる」と返る。以前なら、そのあとに比較条件が三つくらい続いたはずだった。 玄関で不動産担当が鍵を閉める。まだ私たちの鍵ではない。それでも、どちらかが先に帰っていて、もう一人があとからこの扉を開ける場面だけは自然に浮かんだ。 近くのコンビニで飲み物を買い、建物をもう一度見上げる。知らない人の洗濯物がベランダで揺れていた。「ここで喧嘩したら、逃げ場ないね」 景都は少し考えてから、「外、歩けばいい」と言った。別の家へ帰る、という答えではなかった。 駅へ向かう途中、彼はソファの話を始めた。家も決まっていないのに早い、と笑い、大きい革張りだけは嫌だと伝える。「覚えておく」と言ったきり、スマートフォンは出てこなかった。 駅へ着く頃、景都が「窓の向き、南だったな」と言った。資料を閉じても、方角は覚えていたらしい。私は改札へカードをかざした。 翌週、別の物件を二つ見た。新しい方は窓が小さく、駅前の部屋は電車の音がリビングまで届く。帰りの車内で、景都が「あの窓、大きかったな」と呟いた。私も同じ部屋を思い出していた。
last updateLast Updated : 2026-10-30
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第186話 瀬名の母へ

 家探しを始めた頃、瀬名和恵さんの施設から連絡が来た。以前渡した連絡先を職員が見つけ、「テレビの人に会いたい」と和恵さんが話しているという。 景都へ伝えると、一緒に行くつもりらしく予定を確認し始めた。今回は一人で行く、と言うと、手が止まった。理由は聞かれなかった。 施設の窓際で、和恵さんは美容雑誌を読んでいた。私を見るなり「莉子のお友達?」と前と同じことを聞く。番組で一緒だった水城です、と名乗ると、今度は顔より先に髪を見た。「少し切った?」 毛先が軽くなった、と言われて触れてみる。瀬名の話より先に、自分の髪の話をしていることにほっとした。 雑誌を閉じた和恵さんが、ふいに「莉子、忙しい?」と聞いた。職員が口を開くより先に、「忙しかったです。ずっと仕事してました」と答えた。嘘ではない。 プリンを買ってきたかと聞かれ、今日はないと答えると、「じゃあ次ね」とあっさり返された。その声に責める響きはなかった。 しばらく、雑誌の髪型を一緒に見た。和恵さんはモデルを指して「これは莉子には似合わない」と笑う。私は赤いリップと、踵の減った白いスニーカーを思い出した。 帰り際、和恵さんが手を取る。「莉子、意地悪だった?」 前なら別の話へ逃げたかもしれない。今日は、握られた手をそのままにした。「意地悪でした。何度も腹が立ちました」 和恵さんは驚かず、「昔から口が悪かったから」と笑った。つられて笑い、声が収まっても、握られた手はそのままだった。 施設を出て駅まで歩く途中、景都へ電話した。終わった、と伝えると、向こうでは椅子を引くような音がした。「今度、プリン持っていこうかな」 景都はすぐ賛成も反対もせず、「真帆が持っていきたいなら」とだけ言う。 駅前の売店には、固いものも柔らかいものも並んでいた。今日は買わずに通り過ぎる。次に会う日まで、どれにするか決める必要はない。 改札の手前で、和恵さんに「莉子、忙しい?」と聞かれた時の顔がまた浮かんだ。もう来られないと伝える方が正しかったのかもしれない。それでも今日は言えなかった。 そのことを景都へ話すと、受話口の向こうでしばらく音が
last updateLast Updated : 2026-10-30
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第187話 固いプリン

 次に和恵さんの施設へ行く時、駅前の喫茶店で固いプリンを二つ買った。一つでいいはずなのに、ショーケースの前でなぜか二つと頼んでしまった。 景都へ写真を送る。 〈これ、固いかな〉 〈見た目では分からない〉 正しい返事がおかしくて、スマートフォンをしまう。 和恵さんはプリンを見ると目を細めた。「莉子、買ってきた?」 プリンなら持ってこられた。でも、瀬名が帰ってきたことにはできない。「今日は、私が買ってきました」「あら、そう」 それだけでスプーンを持つ。一口食べて、首を傾げた。「莉子が買うのより甘い」 どこのを買っていたのか尋ねると、「忘れた」と返ってくる。あまりに軽い一言で、私はようやく止めていたスプーンを動かした。 もう一つのプリンを開け、向かいで食べる。「あなた、莉子の友達?」「友達ではなかったです」「じゃあ嫌い?」 スプーンが止まった。「……嫌いでした」 初めて、和恵さんの前でそう言った。「でも、撮影の前に私の服を直してくれたことがあります」 和恵さんは声を上げて笑った。「裁縫、下手だったでしょう」「すごく。縫い目も斜めで」 二人で笑う。 プリンは確かに甘かった。瀬名が予約投稿を並べ、明日の仕事も来週の撮影も当然あると思っていた夜を思い出す。帰りにプリンを買うつもりだった人の予定が、そこで途切れた。 甘いプリンを食べても、流産の時に言われた言葉までは薄くならなかった。 施設のロビーへ戻ると、職員が今日はよく食べたと喜んだ。私は普段の和恵さんがどれくらい食べるのか知らない。 今日は一緒にプリンを食べた。それだけで帰ることにした。 施設を出る時、和恵さんは私の名前をもう忘れていた。職員から「また来てください」と言われ、私は曖昧に頷く。次に来る約束をその場で作る気にはなれなかった。外の空気は冷たく、紙袋の底にプリンの容器がぶつかる。駅へ向かう道で、その軽い音だけが何度もした。 駅へ向かう途中、景
last updateLast Updated : 2026-10-31
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第188話 死んだ人を、きれいにしない

 瀬名の命日が近づくと、番組制作会社から追悼企画の連絡が来た。 以前なら、企画そのものを止めたいと思った。今度の提案書には、事故映像を使わないこと、家族の同意を取ること、未公開映像は出演者本人へ確認することが明記されている。 最後まで読んでから、出演はインタビューだけなら、と返した。 ただし、瀬名を「本当は優しかった人」にする企画なら出ない。 打ち合わせでそのまま伝えると、担当者が追悼番組なので表現には配慮したいと言った。「私、嫌いだったことも話します」 少し空気が止まる。「死んだから全部よかったことにするなら、私が話す意味ないです」 結局、企画はドキュメンタリー寄りへ変わった。 収録の日、鏡の前でマイクを付けられる。番組出演時と似た機材なのに、今日は泣いてほしいとも、怒ってほしいとも言われない。話したくないことは話さなくていい、とだけ確認された。 私は、瀬名が服のほつれを雑に縫った話をした。流産のことを口にされ、本気で憎んだことも話した。母親へ固いプリンを買う予定だったことも。「許しましたか」 インタビュアーに聞かれ、少し考える。「許したかどうかは、まだ分かりません」 そこで一度、手元の水を飲んだ。「嫌いだった人が死んだからって、好きだったことに直さなくてもいいとは思えるようになりました」 編集確認では、その部分も残っていた。 制作側から強すぎないかと聞かれたが、そのままにしてもらった。優しかった場面だけを並べれば、瀬名はまた誰かに都合のいい役になる。 編集室では、瀬名が笑っている映像が何度も再生された。使う場面を決めるたび、同じ笑顔が少しずつ違う意味に見える。私は一度だけ「ここは長くしないで」と頼んだ。本人が生きていた時の雑さまで、映像の中から消えてしまいそうだった。担当者は尺を数秒縮めた。 収録後、景都がスタジオの外で待っていた。「疲れた」 最初にそう言うと、車を呼ぶのではなく、「歩く?」と聞かれた。「歩きたい」 二人で裏口から出る。黒い機材ケースが壁際へ積まれていた。以前なら、あの
last updateLast Updated : 2026-10-31
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第189話 誰も死なない土曜日

 追悼番組の収録が終わった翌週、景都と何も予定のない土曜を過ごした。 朝に会い、買い物をして、昼は蕎麦。 午後は家具屋へ寄った。家もまだ契約していないのに、ソファへ座り比べる。「気が早いかな」「俺に言う?」 大きな革張りはやめた。私の部屋にある低いタイプは、景都には小さすぎる。 何台目かへ腰を下ろす。「これ硬い」「俺は好き」「じゃあ却下」「二人の家だろ」「私が座る時間の方が長いかもしれない」「比率で決める?」「そういうこと言うから嫌なの」 笑いながら次へ移った。 夕方、スーパーへ寄る。 景都が玉ねぎを手に取り、「カレー?」と聞く。「今日はカレーじゃない」「じゃあ何」「まだ決めてない」 野菜売り場を一周するうち、結局鍋にすることになった。 誰も怪我をしない。 警察も弁護士も出てこない。 ただ、白菜が高いとか、豆腐はどちらを買うとか、そんな話だけで一日が終わっていく。 公園のベンチで紙コップのコーヒーを飲んだ。「今日、何も起きなかったね」 景都が変な顔をする。「何か起きてほしかった?」「違う。事故も会議も、誰かの死もない日」 風で木の葉が動く。 景都はしばらく紙コップを見ていた。「こういう日、増やしたい」 胸の奥が温かくなる。 私は返事の代わりに、彼の紙コップと自分の紙コップを並べて写真を一枚撮った。 顔も手も写っていない。 あとで見れば、何の日か分からないかもしれない。 それくらいでよかった。 公園を出たあと、景都が買い物袋へ手を伸ばした。私がそのまま持っていると、それ以上は何も言わず、隣で歩幅だけ合わせた。 交差点で袋が脚へ当たり、持ち直した時だけ「重い?」と聞かれた。「まだ平気」 それで終わる。 夜は私の部屋で鍋を食べた。味が薄いと言う景都へ塩を渡し、私はそのまま食べる。同じ
last updateLast Updated : 2026-11-01
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第190話 二人で選ぶ輪

 指輪を見に行こうと言い出したのは私だった。記念日でも、誕生日でもない平日の仕事帰り。「今日?」「見るだけ」 予約はしていない。駅ビルの店へ入り、用途を聞かれた時だけ少し緊張した。「結婚指輪を見に来ました」 景都は何も訂正しない。 細いもの、幅のあるもの、石が入ったもの。何本か試すうち、景都が私の好みばかり探していることに気づいた。「自分のも選んで」「俺は何でも」「それは禁止」 店員が笑う。 仕方なく景都も自分の指へ何本か通す。仕事中に邪魔にならないか、なくさないかと、考えることが妙に実用的だ。 私は細い丸みのあるもの、景都は少し幅のある艶消しが気になった。 店員が、お揃いでなくても一組にできると言う。 同じ形ではない二本がトレーの上へ並ぶ。私はしばらくそれを見ていた。 景都の左手を、指輪を選ぶために初めてじっくり見る。長い指、紙で切ったらしい小さな傷。夫婦だった頃にも知っていた手なのに、知らない時間の跡が増えている。 私の手にも仕事でついた傷がある。「今日、決める?」 景都が聞く。「見るだけって言ったでしょう」 候補はあった。でも買わなかった。 店員がサイズを測る時、景都は指を真っすぐ差し出しすぎて、「力を抜いてください」と二度言われた。私は横で笑う。私の番になると、今度は自分の指が妙に硬い。店員は慣れた手つきでリングゲージを入れ替えた。結婚という言葉より、金属が指の節を通る感触の方が現実的だった。 景都は候補の型番を覚えようとし、私は「写真撮ればいいじゃん」と笑った。 彼はようやくスマートフォンを出した。 店を出る前、もう一度二本を並べてもらう。形は違う。内側の刻印だけは、同じ日にしてもいいかもしれないと話した。 帰りの電車で、景都が毎日つけるかと聞く。「仕事によるかな」 少し残念そうな顔をする。「景都も外す時あるでしょう」「ある」 それなら同じだ。 指輪を買うことより、外す日があることまで
last updateLast Updated : 2026-11-01
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