一九九〇年七月二十三日。 予約表に記された「水瀬」の二文字を、いのりは何度も見返した。 巌の娘夫婦。 幼い娘、一名。「……お母さんだ」 八年後の一九九八年、母は再びペンション調を訪れ、理人に命を救われる。 けれど二人は、その夜が初対面ではなかった。 いのりは予約表の間に挟まっていた写真を取り出した。 夏のペンション。玄関前には巌とその家族が並び、少し離れた場所に理人が立っている。 その足元。 十歳にも満たない少女が、理人の手を握っていた。「お母さん……」 写真の裏には、短い記録が残されていた。 ――巌の孫。 ――変な子。「初対面の子どもに何書いてるのよ」 思わず突っ込んでから、続きを読む。 ――俺を見るなり、 ――「前にも会ったことある?」と聞いてきた。 いのりの笑顔が消えた。 その日の宿直記録も残っていた。 夕食後、少女は一人で受付へ来た。支配人になっていた理人は帳簿をつけていたらしい。『おじさん』『……まだお兄さんでいいだろ』『おじさん』『何だよ』 少女は受付台から顔だけを出し、理人をじっと見つめた。『前にも会ったことある?』『ないと思うけど』『ほんと?』『お前が赤ん坊の頃に会ってたら知らない』 少女は首を傾げたあと、不思議なことを言った。『夢の中にいた人に似てる』 理人の筆跡が、そこで一度止まっている。 いのりは息を潜めて続きを読む。『どんな夢だ?』『湖』『それから?』『暗いところに、光があるの』 理人は何も答えなかった。 一九八三年二月十八日。 真冬の湖に現れた、細い光。 あの記憶が脳裏をよぎったのだろう。 ――偶然だと思うことにした。 ――子どもの夢だ。 ――それ以上の意味を持たせる必要はない。「理人さんらしくなったね」 昔の理人なら、すぐに湖や鈴との関係を調べたかもしれない。 でも、この頃の彼は違う。 不可思議なものを見ても、それを理由に誰かの人生へ踏み込まない。 少女はさらに聞いた。『おじさん、ここにずっといるの?』『たぶんな』『待ってる人いる?』 今度は、長い沈黙があったらしい。『……いないよ』 いのりの胸が少し痛んだ。 嘘だ。 そう思った直後。 理人は言い直していた。『いや。違うな』『いるの?』『大切な人はいる。でも、待っ
Terakhir Diperbarui : 2026-09-14 Baca selengkapnya