試合当日の朝、橘家のキッチンにはいつもより少しだけ早い時間の静けさが残っていた。窓の外は薄曇りで、春先の光は白く広がるだけでまだ温度を持たず、コンロの上で湯気を立てる味噌汁と焼き上がった鮭の匂いだけが室内を先に起こしている。蓮は椅子を引いて席につくと、並べられた朝食へ一度視線を落とし、向かいで手際よく弁当箱の蓋を閉めている椿を見た。「分かってると思うけど、今日は出ない」 椿は手を止めずに、「ええ」とだけ返す。「ベンチにも入らない」「それも聞いてるわ」 言葉は淡々としていたが、輪ゴムをかける指先だけが少し強く動いた。蓮はそれを見てから味噌汁に口をつける。「だから、今日は来ないだろ」 椿はようやく顔を上げた。目が合う前に一度だけ弁当箱を自分の方へ引き寄せ、そのまま当然のように言う。「行くわよ。試合に出ないからって、あなたが動かない保証がないもの」 椿は言い切ってから、自分の前の皿に箸を伸ばした。「それに」と続ける声は平坦で、そこに余計な温度を乗せないようにしているのが分かる。「試合に出ない日ほど、消耗の種類は読みにくいの。立ちっぱなしになるかもしれないし、考え続けるかもしれないもの」「そうか」 蓮は鮭をほぐしながらそれ以上は言わなかった。来るなと言えば来ない相手ではなく、来る理由もまた、理屈の上で成立している。なら来るんだろう。 現に椿は何もなかったように味噌汁の椀を取り、いつも通りの速度で食べ始めている。 けれど、蓮がご飯を半分ほど進めたところで、椿は不意に視線を上げる。「不満はないの?試合に出ないことへの」「ないといえば嘘になるが、今回は納得の行く理由だからな」「そう」 椿は一瞬だけ箸先を止めた。「あなたが出ない試合を、ちゃんと見るのは初めてだわ」 蓮は返事の代わりに味噌汁を飲んだ。椿もそれ以上は言わず、食卓には箸の触れる音だけが残る。出ない試合だと自分で言っておきながら、そう口にされると妙に輪郭が立つ。 今日、自分はピッチの外にいる。その
Last Updated : 2026-08-21 Read more