All Chapters of 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜: Chapter 131 - Chapter 140

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130食目

夏の陽射しを受けて、水面がきらきらと揺れていた。 ラッシュガードを羽織ったままの椿の隣で、蓮はようやくいつもの呼吸を取り戻していた。さっきまでの空気の固まり方が嘘みたいに、プールサイドには部員たちの笑い声が広がっている。「よーし、流れるプール行くっすよ!」 若葉が勢いよく手を上げ、そのまま水へ飛び込む。「おい、走るなって」 「若葉、子どもか」 桐生の呆れた声に、周囲から笑いが起きた。「私、先にちょっと飲み物買ってくるね」 マネージャーの一人に声をかけられ、蓮は小さく頷く。「……私も行ってくる」 そう言って椿もプールサイド脇の売店へ向かう。 ほんの数歩、距離が空いた。 その時だった。「あの……」 聞き慣れない声に、蓮が顔を上げる。 少し離れた場所にいた女子二人組が、どこかためらいがちにこちらを見ていた。「すみません、もしかして……天根くん、ですよね?」 一瞬だけ、周囲の空気が変わる。 蓮は小さく首を傾げた。「あの……サッカーの」 もう一人の女子が少し興奮気味に言葉を継ぐ。「さっき気づいて……やっぱりそうだって」 蓮は否定も肯定もせず、静かに視線を向ける。「すごかったです。この間の決勝、見ました!」「ありがとうございます」 短い返答。 それだけで女子たちの顔がぱっと明るくなる。「よかったら、一緒に遊びません?」 少しだけ踏み込んだその言葉に、蓮が一拍だけ視線を動かした。 ちょうどその時、売店の方から戻ってくる椿の姿が見えた。 こちらの様子に気づいたのか、歩幅が少しだけ速くなる。 胸の奥に小さなざわつきを抱えたまま、椿がすぐそばまで来た、その瞬間だった。 蓮が自然に手を伸ばす。 指先が、椿の手を捉えた。「――え」 女子二人の、そして椿の呼吸が止まる。 そのまま蓮は、女子二人へ視線を戻した。「すみません。彼女と来てるんで」 あまりにも自然だった。 まるでそれが当たり前の事実であるかのように。 女子二人が一瞬だけ目を見開き、すぐに「あっ、すみません……!」と頭を下げる。「邪魔しちゃってごめんなさい!」 そのまま人波の向こうへ去っていく。 残された椿は、繋がれた手を見下ろしたまま固まっていた。 指先に残る体温が、妙に熱い。「……蓮くん」「ん?
last updateLast Updated : 2026-08-27
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131食目

全国優勝から数日。 椿は洗い物をしている蓮に話しかけた。「そういえば、明日の夜ご飯なんだけど」「うん?」 蓮は、手を動かしながら顔を上げる。「陽菜も一緒に食べるかもしれないわ。日中、私の家で宿題するから」「別にいいぞ。なんなら勉強も俺の家でやるか? そのほうが都合いいし」「え?」 洗い物を終えた蓮が、椿の正面に座る。 手には先日買ったマグカップを持っている。「はい、これ。食後のお茶」「あ、ありがと。 ……ってそうじゃなくて、どういうこと?」「ん?ああ、宿題のことか?」「そうよ、蓮くんに家でやれば都合がいいって…… あ、まさか」 椿の表情が変わる。 蓮がほんの少しだけ視線を逸らした。「……またなの?」 その一言で、蓮の肩がわずかに固まる。「あれだけ計画的にやりなさいって、いつも言ってるでしょ」「……すまん」 低く落ちた謝罪に、椿が額へ手を当てた。「夏休み入って何日経ったと思ってるのよ」「優勝の余韻とオフで、少し」「少し?」 椿の声が一段下がる。 蓮は素直に口を閉じた。 その様子に、怒るというより呆れた息が漏れる。「……分かったわ。じゃあ陽菜にも連絡して、明日はこっちでやりましょう」「助かる」「本当にそう思ってるなら、明日ちゃんとやること」「わかった」 あまりにも素直に頷くから、椿はそれ以上強く言えなくなる。 窓の外では、夏の夜が静かに深まっていた。 ◇ 翌日の昼過ぎ。玄関のチャイムが鳴る。「はーい」 椿が扉を開けると、そこには案の定という顔をした陽菜が立っていた。「お邪魔しまーす」 片手に宿題のプリント束。 もう片方にはコンビニの飲み物。「で?」 部屋へ入るなり、陽菜の口元がにやりと上がる。「なんで天根くんの家なの?」「……蓮くんも宿題が終わってなかったから」 一瞬の沈黙。 次の瞬間、陽菜が腹を抱えて笑い出した。「あははっ、なにそれ!全国優勝した天才なのに、夏休みの宿題終わってないの?」「笑いすぎよ」「だって面白いじゃん!」 その声に反応して、リビングから蓮が顔を出した。「来たか」 あまりにも普通の声色に、陽菜の笑いがさらに深まる。「あ、天根くん。やっほー。 椿、ごめんねー?二人っきりが良かったよねぇ?」「なっ、別に、蓮くんとはずっ
last updateLast Updated : 2026-08-27
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132食目

夏祭りの前日、夜の空気は昼間の熱をまだわずかに残していた。 夕食を終え、いつものように今日の食事をノートにまとめた後、椿は玄関先でふと足を止めた。ドアノブに手をかけたまま、背中越しに呼びかける。「……蓮くん」「ん?」 リビングから顔を上げた蓮の視線が向く。 言葉は決まっていたはずなのに、いざ口にしようとすると少しだけ喉が詰まる。「明日なんだけど」「夏祭りか?」「うん……その」 椿は視線を逸らし、玄関のたたきを見つめた。「待ち合わせ、したい」 部屋の空気がほんの少しだけ静かになる。 蓮が瞬きをひとつした。「……駅前で?」「う、うん」 椿の声が少しだけ小さくなる。「せっかくだし……ちゃんと」 二人で行くことを、日常の延長ではなく、一つの約束として形にしたかった。 その意図を蓮がどこまで汲み取ったかは分からない。 けれど、次に返ってきた声はいつも通り穏やかだった。「分かった。じゃあ、明日十八時に駅前で」「……うん」 それだけで胸の奥が少しだけ熱くなる。 玄関の扉を開ける前、椿は小さく息を吐いた。「じゃあ、また明日」「ああ。また明日」 いつもと変わらない言葉なのに、今日は少しだけ違って聞こえた。 ◇ 翌日。 玄関の鍵が開く音が聞こえ、蓮は怪訝な顔を浮かべる。 案の定、椿は部屋へと入ってきた。 まだいつものパーカー姿だった。「椿?今日は待ち合わせするんじゃ……」「ええ。その前に、これ」 椿が小さなボトルを差し出した。「……え?」 透明なボトルの中に
last updateLast Updated : 2026-08-27
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133食目

オフ明け最初のグラウンドには、夏の熱がそのまま残っていた。 人工芝の上でボールが乾いた音を立てて転がる。 全国優勝から数日。 短い休養を挟んだ常盤台の空気は、どこか軽い高揚を帯びていた。「よっしゃ、オフ明け一本目いくぞ!」 桐生の声がグラウンドに響く。 その横で若葉がストレッチをしながら、ちらりと蓮を見上げた。「蓮さん、やっぱりこの前からちょっと柔らかくなったっすか?」「何がだ」「いや、空気っすよ」 若葉がにやりと笑う。「夏祭りとかプールとか、最近ずっと橘センパイとイベント続きじゃないっすか」 蓮はペットボトルの水を一口飲んで、淡々と返した。「別にいつも通りだろ」「またまたぁ」 若葉が露骨に楽しそうな顔をする。「優勝した後だし、打ち上げとかしたんすか?」「打ち上げ?」「ほら、橘センパイ料理上手じゃないっすか。豪華なピザとか、そういうお祝いっぽいやつ作るの得意そうじゃないっすか」 一瞬だけ、蓮の視線が止まる。 優勝した夜の食卓を思い出す。 焼き魚。 味噌汁。 炊き立ての白米。 何一つ特別ではない、いつもの献立。「……いや?」 蓮は短く答えた。「いつも通りの食事だったけど」「うへぇ」 若葉がわざとらしく肩を落とす。「相変わらずストイックっすねぇ。普通そういう時ってもっとこう、お祝いっぽいもの食べたくならないんすか? チキンとか、ピザとか」 その言葉に、蓮は少しだけ考えるように黙った。 お祝いらしい食事。 豪華な料理。 確かに、そういう選択肢もあったのかもしれない。
last updateLast Updated : 2026-08-27
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134食目

夏祭りから数日。 全国優勝後の短いオフも終わり、常盤台は次の大会へ向けて練習を再開していた。 その日の練習を終えてマンションへ戻った蓮は、郵便受けに入っていた広告をまとめて取り出しかけ、その下に重なっていた一通の封筒へ指を止めた。 飾り気のない白い封筒。 表には天根蓮の名前が印字され、差出人の欄には日本サッカー協会と記されている。 「……そんな時期か」 蓮は封筒を広告の束から抜き取り、折れないよう手に持ったままエレベーターへ乗り込んだ。 玄関を開けると、出汁の香りとともに包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。 「おかえりなさい」 「ああ、ただいま」 キッチンから顔を出した椿が、蓮の手にある封筒へ目を留めた。 「それ、何?わざわざ別に持ってるなんて珍しいわね」 「代表の招集だと思う」 蓮は荷物を置き、食卓へ向かう。 椿も火を弱めてから近づき、テーブルへ置かれた封筒と蓮の顔を交互に見た。 「代表って……日本代表?」 「ああ。世代別だけどな」 「……そんな普通に言うことなの?」 「ジュニアの頃から何度も見てきた封筒だからな」 蓮にとっては、季節ごとに繰り返されてきた招集の一つに過ぎない。 ジュニア、ジュニアユースと年代が上がっても、選考の時期が近づけば同じような封筒が届き、クラブの予定が合えば指定された場所へ向かってきた。 椿も蓮が世代別代表へ呼ばれてきたことは知っている。 だが、こうして実際に招集状が届く場面を見るのは初めてだった。 「こんなふうに届くのね」 「昔から変わってないな」 「開けてみたら?」 「ああ」 蓮は封を切り、中に入っていた数枚の書類を取り出した。 代表候補合宿への招集通知。 集合日時と場所、合宿期間中の予定、持参物が記載され、その後ろには参加承諾書が添えられている。 上から順に確認し、蓮は書類をテーブルへ置いた。 「十二日から四日間。集合は大阪だな」 「もうあまり日がないじゃない」 「毎回こんなものだぞ」 「蓮くんにとってはそうでも、私は初めてなの」 椿は少しだけ眉を寄せると、書類へ手を伸ばす代わりに、テーブルの上へ置かれていた献立用のノートを開いた。 「今週の練習予定は?」 「明日から少し落とす。監督には
last updateLast Updated : 2026-08-28
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135食目

十二日、大阪府内のトレーニング施設。 受付を済ませた蓮が指定されたロッカールームへ入ると、すでに半数ほどの選手が着替えを始めていた。 知らない顔の方が少ない。 ジュニア時代の代表活動で一緒だった選手。国内の大会で何度も対戦した選手。ドイツにいた頃、遠征先で同じピッチに立った選手もいる。 蓮に気づいた一人が、ベンチへ座ったまま軽く手を上げた。 「蓮、ロッカー奥だぞ」 「ああ、ありがとう」 「久しぶり。一昨年の遠征以来か?」 「そうだな」 「インターハイ優勝、おめでと」 「ああ」 短く言葉を交わすと、相手は隣の選手との会話へ戻り、蓮も指定されたロッカーへ荷物を置いた。 高校二年生が混ざっていることを、誰も話題にしない。 蓮が年齢より上のカテゴリーへ呼ばれることは、ジュニア時代から代表活動へ参加している選手にとって珍しい光景ではなかった。 着替えを終えた選手から測定室へ移動し、体重や筋量、柔軟性を確認する。昼食を挟んだ後にオリエンテーションが行われ、午後には最初のトレーニングが始まった。 「二人組、余ってるやついるか?」 「蓮、こっち」 声をかけられ、蓮はボールを持った選手の正面へ入る。 始まったパス交換の速度は、高校の練習より明らかに速い。 それでも、どちらかが相手へ合わせて弱めることはない。受ける前に次の位置を確認し、足元へ入った瞬間にはもうボールを離している。 蓮の左足から鋭いボールが放たれる。 相手はインサイドで勢いを殺し、そのまま同じ速度で返してきた。 「相変わらず速えよ」 「止められるだろ」 「別問題だよ」 会話を続けながらも、足元のボールは止まらない。 周囲でも同じようにパスが行き交い、笛が鳴ればすぐに次のメニューへ移っていく。 寄せは速く、接触も強い。 少しでも判断が遅れれば、その時点でボールを失う。 だが、蓮にとって未知の速度ではなかった。 身体をぶつけられても軸を戻し、受ける前に見つけた場所へボールを逃がす。味方もその意図を読み、次の選択肢へ繋げていく。 二日目の午後、紅白戦が行われた。 蓮は中央へ入り、周囲の流れに合わせながら立ち位置を変える。 試合全体を自分へ寄せる必要はない。ボールが入れば最短で前へ進め、他の選手が前
last updateLast Updated : 2026-08-28
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136食目

 テレビ収録当日の朝。  蓮が食卓へ置かれた味噌汁に手を伸ばしながら、向かいに座る椿へ声をかけた。 「今日、椿も来るか?」 「……どこに?」 「テレビ局」  椿の箸が止まる。 「どうして私がテレビ局へ行くのよ」 「事前の打ち合わせで、一人くらいなら連れてきてもいいと言われたから」 「それで、どうして私なの?」 「他に連れていく相手もいないし」  あまりにも当然のように返され、椿は言葉を失った。  「見学できるらしいぞ」 「それは分かったけど……」 「来ないのか?」 蓮は味噌汁を飲みながら、返事を待っている。 世代代表に選ばれた本人より、自分の方がテレビ出演を大事に捉えている気がしてならない。けれど、蓮を一人でカメラの前へ座らせる不安もあった。 「……行く」 「そうか」 「その代わり、聞かれたことにはちゃんと答えるのよ?」 「だから、普段から答えてるだろ」 「それが不安なのよ」 椿のため息をよそに、蓮は何も問題がないように朝食を続けていた。 ◇ 昼過ぎ、二人は都内のテレビ局へ到着した。 受付で名前を伝えると、蓮には出演者用、椿には見学者用の入館証が渡される。案内された控室では、監督と番組スタッフがすでに待っていた。 「天根くん、本日はよろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 「先日の代表合宿とインターハイについて伺います。難しい質問はありませんので、普段通りに答えていただければ大丈夫です」 「分かりました」 蓮が頷く。 その後ろで、椿と監督の視線が重なった。 「……大丈夫でしょうか」 「わしに聞くな」 二人の小声は、進行表を読んでいる蓮には届かなかった。 「橘。あとは任せるぞ。わしは部活に向かう」 「あ、はい。見ていかないんですか?」 「わしはどうもテレビ収録という環境が苦手でな。わしにも出演の話が来たが断った」 「そうなんですね……わかりました。何かあればご連絡します」 「そうしてくれ。この番号にかけてくれればいい」 監督は、椿に連絡先を渡し、先に帰っていった。 ◇ 収録が始まると、蓮は司会者の正面に置かれた椅子へ座った。 その隣には、五人組アイドルグループ『LUMINA』のセンター、鳴海美羽が座っ
last updateLast Updated : 2026-08-28
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137食目

 控室の扉が閉まるのを待って、椿は大きく息を吐いた。 「ほら、やっぱり全然喋れなかったじゃない」 「質問には全部答えただろ」 「答えが短すぎるのよ。最初の質問なんて、司会者の人、あなたが続きを話すと思って待ってたでしょう?」 「待ってたなら、そう言えばよかっただろ」 「普通はあれで終わると思わないのよ」 蓮は首を傾げたまま、テーブルに置かれた水へ手を伸ばした。本人には何が問題だったのか、まだ理解できていないらしい。 「鳴海さんが途中から入ってくれなかったら、どうなってたか……」 「鳴海は質問が途切れなかったぞ」 「あの子が上手かったの。あなたの返答から使えそうなところを拾って、次の質問に繋げてたでしょう」 「そうなのか」 「そうよ。テレビに出る人って、やっぱりすごいのね」 椿は感心しながら、収録中に何度も蓮の言葉を拾った少女を思い出していた。 質問の角度を少し変え、蓮が答えられる範囲を探りながら、短い言葉を視聴者に伝わる形へ置き換えていく。客席や司会者の反応まで見ながら会話を進める姿は、同い年とは思えないほど場慣れしていた。 「助けてもらったなら、ちゃんとお礼を言いなさいよ?」 「ああ。次に会ったら言う」 「もう会わないみたいに言ってるけど、このあと挨拶に行けば――」 その時、控室の扉が軽く叩かれた。 「失礼しまーす」 返事を待つより早く扉が開き、話題にしていた本人が顔を覗かせる。 「蓮、お疲れさま」 収録中とは違い、すでに天根ではなく名前で呼んでいた。 美羽の後ろには、バッグと上着を抱えた女性が立っている。首から下げた入館証には、マネージャーと記載されていた。 「美羽、次の移動まで十五分しかないから」 「分かってる。飲み物、車に置いておいて」 「でも、このあと取材も――」 「聞いてるから。先に戻ってて」 美羽は手に持っていた台本まで重ねて渡すと、女性の返答を待たずに控室へ入った。マネージャーは一度だけ時計を確認し、抱え直した荷物とともに扉の向こうへ消えていく。 「さっきは助かった」 蓮が椅子に座ったまま言うと、美羽は満足そうに笑った。 「本当だよ。私がいなかったら、収録、半分の時間で終わってたかも」 「短くなるなら、その方がよかったんじゃない
last updateLast Updated : 2026-08-28
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138食目

 夏休み明けの朝。 窓の外では蝉の声が途切れることなく降り注ぎ、キッチンには味噌汁の湯気が静かに立ち上っていた。 焼き鮭。 だし巻き卵。 きゅうりの浅漬け。 炊き立ての白米。 夏休みの間と何も変わらない朝の食卓。 向かいに座る蓮は、最後の一口を口に運びながら小さく息を吐いた。「……うまい」「それ、毎朝言ってるわよ」 椿が少しだけ呆れたように返す。 けれど、その声は柔らかい。 短いオフの間に積み重なった時間が、朝の光景少しだけ変えていた。「ごちそうさま」 蓮が箸を揃えて置き、そのまま立ち上がる。 椀を重ね持ち、そのままキッチンへ向かう。 蛇口から流れる水の音。 蓮が袖を少しだけまくり、手際よく皿を洗い始める。 その背中を見ながら、椿はふと時計へ視線を向けた。 普段なら家を出ている時間だ。 けれど今日は、なぜか足が動かなかった。 椅子に座ったまま、蓮の背中を見ている。 水音の向こうで、蓮がふと振り返った。「……椿?」「え?」「今日はまだいるんだな」 一瞬だけ、言葉に詰まる。「……うん」 理由なんて、自分でもよく分からない。 ただ、もう少しだけこの時間を続けていたかった。 皿洗いを終えた蓮が手を拭きながら時計を見る。「そろそろ出るか」「......そうね」 それから、蓮が何でもないことのように言った。「一緒に行くか?」 その一言に、胸の奥が小さく跳ねる。「……うん」 答えた声が、少しだけ柔らかくなる。 玄関の鍵を閉める音が、夏の朝に小さく響いた。 並んで歩き出す通学路は
last updateLast Updated : 2026-08-28
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139食目

 一限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室の空気が一気に緩んだ。 椿はノートを閉じながら、小さく息を吐く。 黒板の内容はきちんと写している。 先生の説明も聞いていたはずだ。 それなのに、頭のどこかがまだ朝の通学路に置き去りになっていた。 指先に残る温度。 校舎前で離れた手。 去り際の、あの一言。 ――また放課後な。 あれからまだ一限しか終わっていない。 なのに、もう放課後のことを考えてしまっている自分がいる。(……集中しなさい、私) 自分に言い聞かせるようにペンを持ち直したところで、隣から陽菜が身を寄せてきた。「椿、今日ずっと上の空じゃない?」「そんなことないわよ」 即答した。 だが、その速さがもう怪しいと言わんばかりに、陽菜がにやりと笑う。「してるしてる。さっき先生に当てられそうになった時も、一瞬反応遅れてたし」「……考え事してただけ」「へぇ、でもー」 意味深に目を細める。「朝から顔、ちょっと緩んでるよ?」「陽菜……」「そんなに朝の登校が嬉しかったんだ?」「……うるさい」 小さく返した瞬間、机の中のスマホが短く震えた。 椿の肩がわずかに跳ねる。 陽菜の目が輝く。「え、何その反応。もしかして」「違うわよ」「まだ何も言ってないよー?」「顔が言ってるのよ」 言いながらスマホを取り出し、画面を見た瞬間。 呼吸が止まる。【昼、一緒に食うか? 中庭とかで】「……っ」 心臓がひとつ、大きく跳ねた。 放課後を待っていたはずなのに。 まだ半日も経っていないのに。 昼も、一緒に。
last updateLast Updated : 2026-08-28
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