出発の朝は、思っていたよりずっと静かだった。 まだ空気の冷たい早朝、マンションの廊下にスーツケースの車輪の音だけが響く。 椿は歩きながら、何度もパスポートの入ったケースを確認していた。 「……大丈夫よね」 もう三回目だった。 隣で、自分の黒いキャリーを片手で引きながら、蓮が小さく息を吐く。 『大丈夫だ。パスポート、財布、スマホ。そこがあればなんとかなる』 『しょうがないじゃない。初めてなんだから』 まだぎこちないドイツ語で、椿が答える。 再三確認したパスポートを丁寧にしまい、ようやくいつもの歩調に戻った。 空港へ向かう電車の中でも、椿はどこか落ち着かない。 膝の上に置いたパスポートケースを何度も撫でる指先に、それがよく出ていた。 蓮は窓の外を見ながら、淡々と言う。 『だから、緊張しすぎだ』 椿が小さく睨む。 『するに決まってるでしょ。初めての海外。飛行機は初めてじゃないけど、こんな長距離は初めてだから』 『飛行機は座ってるだけだ』『だとしてもその長さの感覚がわからないのよ。乗り換えだって初めてだし』 蓮は少しだけ笑った。 『まあ、離陸したら諦めがつくか』 『ひどい励まし方ね』 それでも、そのやり取りで少しだけ肩の力が抜けた。 空港は朝から人で溢れていた。 大型モニターに並ぶ出発便。 スーツケースを引く人々。 日本語と英語が混ざるアナウンス。 椿は自然と歩幅が小さくなる。 『……すごい』
Last Updated : 2026-09-06 Read more