All Chapters of 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜: Chapter 171 - Chapter 180

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170食目

『さあ、全国高校サッカー選手権、決勝戦。常盤台高校対、松蔭高校の一戦がまもなく始まります』  冬の澄んだ空気を裂くように、テレビ中継の実況が響いていた。 『今大会、常盤台は試合を重ねるごとに完成度を高めてきました』 『そうですね。チームの象徴である天根選手にはそれほど数字の結果は出ていませんが、それでも圧倒的な存在感を放っています』 『準決勝でもゴール、アシストこそありませんでしたが、試合そのものを支配していました』 『ええ。もはや司令塔という言葉だけでは足りない。常盤台というチームそのものを成立させている存在ですね』  国立競技場。  冬の全国、その最後の舞台。  スタンドはすでに満員だった。  ベンチへ向かう常盤台の選手たちの表情に、もう硬さはない。  ここまで来た。  あと一つ。  それだけだった。  一方、相手ロッカールーム。  松蔭の監督は、ホワイトボードの前で静かに口を開いた。 「今の常盤台は、天根個人のチームじゃない」  全員の視線が集まる。 「そこを履き違えるな。あいつに気を取られすぎれば、他が刺してくる。だが、野放しにもするな」  マグネットを一つ、中央へ置く。 「最低限の距離を保ってマークにつけ。離しすぎるな。だが、食いつきすぎるな」  選手たちが頷く。  分かっている。  それがどれだけ難しいことか。  だが、やるしかない。 「勝つぞ」 「おう!」  短い声が重なった。  そして――    主審の笛が鳴った。  それが、松蔭にとって長い九十分の始まりだった。  立ち上がり。  蓮は一度、ピッチの中央にゆっくりと向かった。  相手ボランチがついてくる。  だが、距離は絶妙だった。  近すぎず、遠すぎず。  自由は与えないが、飛び込ませない。  明らかに、準備してきている。  その距離を見た瞬間、若葉が小さく笑った。 「いいんすか? ……蓮さん、どフリーですけど」  次の瞬間には、縦パスが差し込まれていた。 「っ!」  慌てて相手ボランチが寄せる。  だが遅い。  常盤台にとって、蓮が左足を振り抜ける距離のマークは、フリーと同義だった。  トラップは不要。  視線を前に向ければ、桐生が抜け出しの準備をしている。    迷いなく振り抜かれた左足から、相手
last updateLast Updated : 2026-09-04
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171食目

 決勝戦を終えた帰りのバスの中は、奇妙なくらい静かだった。    夏冬二冠。  全国制覇。    ピッチでは確かに歓声があった。  抱き合って、叫んで、泣いて、笑って。    ようやく辿り着いた頂点を、それぞれの形で噛み締めていた。    けれど、表彰式が終わり、荷物を積み込み、全員が座席へ身体を沈めた今は、その熱が少しずつ引いていた。  残っているのは、達成感より先に来る、どうしようもない疲労だった。    窓の外では、冬の夕暮れがゆっくりと色を落としていく。  高速道路沿いの灯りが、一定の間隔で流れていた。    前方の席で、桐生が窓に頭を預けたまま目を閉じている。    若葉はスマホで何度も試合のハイライトを見返していたが、今日は珍しく騒がしくない。  再生されるのは、開始三十秒の先制点。    若葉から蓮へ。  蓮から桐生へ。  そしてネットが揺れる。   「……何回見ても、おかしいっすね」  ぽつりと若葉が言う。   「まだ見てんのか」  桐生が薄く目を開けた。   「見ますよ。だって優勝っすよ?」 「明日以降も見られるだろ」 「その言い方、もう終わったみたいじゃないですか」 「終わったんだよ」  桐生は短く言って、また窓の外を見る。   「今日で一区切りだ」  その一言で、若葉の口が閉じた。    三年生にとっては、ここで終わる。  次はない。    その静けさを破ったのは、前方から落ちてきた監督の声だった。   「明日、祝勝会をやる」  全員の視線が自然と前へ向く。   「優勝した。勝って終わった。なら、ちゃんと区切りをつける」  監督は通路側へ身体を向けた。   「桐生たち三年の引退も、そこでやる」  車内の空気が少し変わる。  優勝の余韻だけでは片づけられなかったものに、ちゃんと名前が与えられた。    引退。    若葉がスマホを伏せる。  桐生は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。   「場所は十々だ。時間は明日の夕方。全員来い」  それだけ言って、監督は前へ向き直った。    しばらくして、椿が隣りに座る蓮へ小さく言った。   「祝勝会ですって。楽しんでおいでね」  その声に、すぐ桐生が振り返る。 「何言ってん
last updateLast Updated : 2026-09-04
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172食目

 祝勝会を終えてマンションへ戻った頃には、もう日付が変わりかけていた。  冬の夜は静かだった。  優勝した日も、その翌日も、街の温度は変わらない。  エレベーターを降り、いつもの廊下を並んで歩く。  祝勝会の余韻はまだ身体に残っていたが、不思議と気持ちは落ち着いていた。  マンションの廊下は、夜になるとやけに音が響く。  靴音だけが一定の間隔で続いていた。  蓮の部屋の前で、二人は自然に立ち止まる。  鍵を開けながら、蓮が言った。 「俺の部屋でいいよな?話は長くなるかもしれないから」 「ええ。じゃあその前にお風呂済ませてきていいかしら?  焼肉の匂いが染み付いちゃうから……」   「そうだな、そうするか。  済ませたら、いつも通り勝手に入ってきてくれ」 「ええ、わかったわ」  一度分かれて、風呂を済ませる。  先に上がった蓮がソファで待ってると、いつものパーカー姿の椿がやってきた。 「座っててくれ」  蓮はキッチンへ向かい、水を二つ持って戻ってきた。  向かいに座る。  数秒、沈黙。  先に口を開いたのは蓮だった。 「ハンスが来たのは、お前に用がある」 「ええ」 「俺が呼んだ」  椿は静かに頷いた。 「そこまでは聞いてるわ」 「ああ」  蓮はグラスを指先で回しながら続ける。 「去年の夏、覚えてるだろ」 「ドイツに行った時の話?」 「ああ。あの時、ハンスたちはお前にも話をしてた」  椿は小さく息を吐く。  忘れるはずがない。  別ルートでオファーを出したい。  そんな話まで出ていたと聞いている。 「覚えてるわ」 「だから思い出した」  蓮はまっすぐ言う。 「お前が進路で悩んでるって聞いた時に、あれが一つの現実的なルートになると思った」  椿の視線がわずかに揺れる。 「前に言ってただろ。海外で学ぶ道も考えたって」 「……ええ」 「でも、進学先も、実務経験を積む場所も、コネクションもない。だから現実的じゃないって切っていた」  その通りだった。  夢のためのルートとして思い描くことはできても、そこへ辿り着くための道筋が見えなかった。  だから、一度は諦めた。 「でも、椿の夢は国際的な専属管理栄養士になることだろ?  だったら、その最短距離を探すべきだと思った」  蓮の声は
last updateLast Updated : 2026-09-04
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173食目

 ミュンヘンの国立スポーツ医科大学。  テーブルの上に置かれた推薦書を、椿はしばらく黙って見つめていた。  紙一枚。  けれど、その重みは知っている。  これはただの進学先じゃない。  自分が思い描いてきた未来へ、現実に続く道だった。 「……確認したいことがあります」  ようやく顔を上げる。  迷いはまだある。だが、逃げるつもりはなかった。  ハンスは穏やかに頷いた。 『もちろん。何でもどうぞ』 「まず、管理栄養士の資格についてです」  最初にそこだった。 「私は最終的に、国際的な現場で選手を支える管理栄養士になりたい。  そのためには、栄養士としての資格も、その先のIOC資格も必要になる。  でも、ドイツ国籍がなくても、そのルートは取れるんですか?」 『問題ない』  一切の迷いのなく、ハンスは即答した。 『国籍が理由で閉ざされる話ではない。  だが前提として認識してほしいのは、日本の管理栄養士の資格ではないということだ』   『どういうことだ?』  蓮の問いに、椿が小さく息を吐く。   「それは理解しています。ドイツだとDGEの資格ですよね。  ……その資格が取れるなら、異論はないです」  そこが曖昧なら、この話は成立しないと思っていた。  だからまず、それを聞いた。 『次の君の質問に先回りして答えよう。この推薦では、我がクラブで実務経験を積んでもらう』  ハンスは続ける。 『君が欲しいのは資格そのものじゃないだろう。  現場じゃないのかな?』  言葉が、静かに刺さる。 『世界最高峰のクラブで、実際に選手を支える環境。  スポーツ医療の最前線。  実務経験として、これ以上の場所はほとんど存在しない』  椿は黙ったまま聞いていた。  それは、否定できない。  管理栄養士の資格を取ることがゴールじゃない。  その先で、誰を支えられるか。  世界で戦う選手の隣に立てるか。  そこまで考えた時、この環境の価値はあまりにも大きい。 「……IOC資格まで考えたら」  ぽつりと、自分の思考を確かめるように言う。 「たぶん、一番近い」  蓮は静かに聞き入っていた。  ハンスが続ける。 『それだけじゃない。ドイツはスポーツ医療の先進国だ。  学ぶ場所としては、この上ないはずだ』  それ
last updateLast Updated : 2026-09-04
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174食目

橘家のリビングには、昼下がりの柔らかい光が差し込んでいた。 テーブルの上には、さっきまで広げられていた推薦書と資料。 ドイツの大学、資格制度、進学後の流れ。 一通りの説明を終えたあと、椿はまっすぐ両親を見た。 賢崇は静かに座り、梓は少しだけ緊張したように手を重ねている。 ここからは、自分の言葉で話さなければいけない。 椿は小さく息を吸った。 「私、前にも話したけど、将来は国際的な現場で選手を支える管理栄養士になりたい」 言葉にすると、不思議と迷いは消えていた。 「ただ資格を取るだけじゃなくて、ちゃんと世界で戦う選手の隣に立てる人になりたい。 そのために、IOC資格まで見据えて考えてる」 賢崇は黙ったまま頷く。 急かさない。ただ、続きを待っている。 「日本で積み上げる道もある。でも、ドイツならもっと近い。 スポーツ医療の最前線で学べるし、実務経験も積める。 今回の推薦は、そのための一番現実的な道だと思ってる」 梓が静かに聞いている。 その目には、驚きよりも、ちゃんと聞こうとする色があった。 「簡単じゃないのは分かってる。 言葉も、生活も、全部変わる。 でも、それでも行きたい」 そこで一度、言葉を切る。 ずっと胸の奥にあったものを、ちゃんと形にするために。 「挑戦させてほしい」 静かだった。 言い切ったあと、部屋の空気が少しだけ止まる。 賢崇が、ゆっくりと口を開いた。 「現実的な話をしよう」 「……うん」 「言語は?」 真っ直ぐな問いだった。 反対ではない。 確認だ。 蓮が先に答える。 「あと一年あります。語学面は俺が責任を持って見ます」 賢崇の視線が蓮へ向く。 「責任を持つ、か」 「はい」 「根拠は?」 「椿なら一年あれば、日常会話以上まで持っていけます。 あとは実践です。そこは俺が相手になります」 梓が小さく笑った。 「それ、毎日ドイツ語ってこと?」 「そのつもりです」 「大変そうねぇ」 「かなり」 椿が即答して、少しだけ空気が緩む。 賢崇は続けた。 「費用は?」 今度はハンスが答える。 『この推薦枠につ
last updateLast Updated : 2026-09-06
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175食目

翌朝、橘家の空気は不思議なほど静かだった。 昨日までの進路の話が重かったからかもしれない。あるいは、話すべきことをすでに話し終えたからかもしれない。 窓の外には冬らしい白い光が差し込み、カーテンの隙間から入る朝日がリビングの床を細く照らしている。遠くで車の走る音がかすかに聞こえるだけで、家の中には梓が朝食の支度をする小さな物音しかない。 蓮は客間の布団を整え、軽く肩を回してから廊下へ出た。 昨日、あれだけ大きな話をした直後だというのに、身体は妙に軽かった。緊張が解けたというより、進むべき先が言葉になってしまったことで、余計な迷いが削ぎ落ちた感覚に近い。 廊下の先、トレーニングルームの扉が開いている。 そこに立つ賢崇と目が合った。 「起きていたかい」 「はい」 「久しぶり少しだけ、見ようか」 蓮は短く頷き、そのまま中へ入る。去年の冬休みの間、何度も使った部屋。 鏡、マット、チューブ、バランスボール。最初にここへ入った時とは違って、今はどこに何があるかも、何をどう使うかも身体が覚えている。 賢崇はマットを足元へ引き寄せた。 「股関節から確認しようか」 「はい」 蓮は言われるままに座り、脚を開く。呼吸を整え、骨盤を立てる。 去年なら、そこから先は意識して身体を作りにいかなければいけなかった。だが今は違う。力を入れ過ぎずとも、自然に可動域が開いていく。 賢崇が横から角度を見て、小さく息を吐いた。 「うん。しっかりと広がってきているね」 「自分でも分かります」 「分かるだろうね。ここまで来ると、柔らかいというより使える身体になってる」 蓮はその言葉を反芻する。 柔らかいだけなら、意味はない。ピッチで使えなければ意味がない。 だが今の身体は違う。接触を受けても潰れず、潰れかけても戻せる。この一年間で、それはもう感覚じゃなく結果になっていた。 賢崇は続けて、片膝立ちの姿勢を取らせた。体幹を捻る。肩甲骨を開く。支持脚側の臀部に力を乗せる。確認は一つ一つ短いのに、その全部が冬休みの積み重ねを思い出させる。 「こっちも問題ないね。むしろ前より余裕がある。 試合の動画も見させてもらったよ」 穏やかな声音だった。 「決勝でも、最後まで軸が死ななかった。あれは可動域だけじゃない。戻せる身体になった
last updateLast Updated : 2026-09-06
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176食目

二月に入ると、学校の空気は少しだけ浮つく。 受験真っ只中の三年生たちの張り詰めた空気とは別に、一年と二年の教室には、どこか落ち着かないざわめきが増えていた。 理由は単純だ。 バレンタインが近い。 昼休み、教室の窓際。 椿は弁当箱を開きながら、小さくため息をついた。 「……今年もこの時期がやってきたわね」 向かいに座る陽菜が、すぐに笑う。 「あー。バレンタインね」 「そう。蓮くん、また増えるんでしょうね……」 「そんなことよりさ、最近の椿、全く隠さなくなったよねー」 まるで分かりきっていたような顔だった。 「ちょっと。そんなことって。 結構一大事なのよ?」 「知ってる知ってる。去年も大変そうだったもんね。 今年は立場も変わったから、より複雑?」 椿は、箸を止めた。 そう。去年は、純粋に栄養管理の問題だった。 大量のチョコレート。糖質、脂質、摂取タイミング。試合期に近い以上、全部を好きに食べさせるわけにはいかない。 だから管理した。 それだけのはずだった。 でも今年は違う。 違うことを、自分が一番よく分かっている。 「おーい? 椿さんや?」 陽菜が、わざとらしく首を傾げる。 「……うるさい」 「あー。つめたーい」 楽しそうに笑う。 「去年は“管理栄養士として”だったけど、今年は“彼女として”も、気になるんじゃない?」 「陽菜」 「はいはい」 完全に面白がっている。 椿は味噌汁の蓋を閉じて、深く息を吐いた。 「別に、独占したいとか、そういう話じゃないの」 「うん」 「ただ、明らかに食べきれない量を持ってこられても困るし」 「うん」 「変な手作りでお腹壊されても困るし」 「うん」 「……あと」 「あと?」 数秒、沈黙。 椿は視線を逸らした。 「……知らない子から、あんまり距離近く来られるのは、ちょっと嫌」 陽菜の笑みが、更に深まった。 「まぁ、かわいい」 「うるさい!」 「いやいや。ちゃんと言えて偉いなって」 「褒めなくていい」 「でも天根くん、絶対そういうの気にしなさそう」 「気にしないでしょうね」 「だよねぇ」 二
last updateLast Updated : 2026-09-06
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177食目

朝のキッチンには、まだ少しぎこちないドイツ語が響いていた。 湯気の立つ味噌汁。焼き上がった鮭。卵焼きを切る包丁の音。 いつもの朝食の風景に、不自然なほど流暢ではない会話が混ざっている。 テーブルに弁当箱を置きながら、椿が振り返った。 『今日、練習、ある?』 『いや、ない。卒業式の後はそのまま解散だ』 『ない、のね。わかったわ』 短く返して、椿は牛乳を冷蔵庫から取り出す。 その横顔は平静を装っているが、数日前から始まったこの“毎日ドイツ語生活”に、まだ完全には慣れていないのが分かる。 蓮は食卓につき、水を一口飲んでから口を開いた。 『ああ、それから。 悪いけど、今日は夜飯いらない』 椿の手が止まる。 「……ん?」 蓮は少しだけ言い直した。 『今日の夜。ご飯、不要』 数秒。 椿はじっとこちらを見て、それから小さく息を吐いた。 『ああ、そういうことね』 ようやく理解したらしい。 「最初からそう言ってくれれば早いのに」 『練習だ』 椿が少しだけ困ったように笑った。 『そうね。でもまだ慣れないわ』 そう言いながらも、椿の口元にはわずかに笑みがある。 今日が何の日か、言葉にしなくても分かっていた。 三年生の卒業式。 桐生たちが、本当に学校を去る日だった。 椿は味噌汁をよそいながら言う。 『いってらっしゃい』 『ああ』 『それから』 『ん?』 『水分は多めに取ること。 塩分と脂質が多いから』 蓮は少しだけ笑った。 『了解』 何よりも先に、栄養管理の会話が流暢になっていく椿に、思わず笑いが溢れる。 彼女なりのプライドなのだろう。そう思った。 卒業式は、思っていたよりずっとあっさりしていた。 涙がないわけじゃない。 泣いている後輩もいたし、保護者席にはハンカチを目元に当てる姿もある。 それでも、桐生はいつも通りだった。 式が終わって、体育館の外。 花を持たされ、後輩たちに囲まれながらも、相変わらず声は大きい。 「おい若葉! 泣くなって! まだ死んでねえだろ!」 「泣いてないっすぅぅぅ!」 「大泣きじゃねぇか!」 そんなやり取りに周囲が笑う。 その輪の少し外で、蓮は立ち止まっていた。 タイミングを見計らうようなことをする柄
last updateLast Updated : 2026-09-06
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178食目

春休みの初日、学校は驚くほど静かだった。 三年生がいない。 たったそれだけなのに、校舎の空気はまるで違って見える。 グラウンドへ向かう途中、昇降口の前でふと足が止まる。 いつもなら桐生たちが当然のようにいた場所に、今日は誰もいない。 卒業した。 言葉にすればそれだけだが、その空白は思っていたより大きかった。 「蓮さーん!」 後ろから、明るい声が飛ぶ。 振り返ると、若葉がジャージ姿のまま駆けてくる。 相変わらず朝から元気だった。 「おはようございます!」 「ああ、おはよう」 「なんか、変な感じっすね」 若葉も校舎の方を見た。 「桐生先輩たちがいないの、まだ全然慣れないっす」 「そうだな」 「でも」 そこで、少しだけ表情を引き締める。 「だからこそ、って感じもします」 蓮は何も言わず、その続きを待った。 「来年は、本当に自分たちなんだなって」 若葉の視線は、まっすぐだった。 泣いていた卒業式の顔ではない。 ちゃんと、前を見ている顔だった。 蓮は小さく頷く。 「ああ。そうだな」 「……はいっす」 短い返事。 それで十分だった。 グラウンドへ向かう足取りが、少しだけ変わっている。 桐生たちがいない。 でも、それで止まるわけじゃない。 次は、自分たちの番だ。 午後。 椿の部屋には、紙の山ができていた。 大学の資料。 願書。 必要書類。 資格制度についてまとめたノート。 そして、開いたままのドイツ語テキスト。 春休みに入ったからといって、急に暇になるわけではない。 むしろ逆だった。 夢だったものが、手続きに変わっていく。 パスポートの期限確認。 戸籍謄本。 成績証明。 推薦関連の書類。 一つずつ現実になっていくたびに、逃げ道が消えていく。 「……本当に行くのね」 誰に言うでもなく、小さく呟く。 ずっと遠かった。 海外で学ぶこと。 世界で戦う選手の隣に立つこと。 思い描くことはできても、自分の人生に本当に接続されるとは思っていなかった。 けれど今、机の上にあるのは空想じゃない。 ちゃんと、自分の名前が書かれた未来だった。 スマホが震える。 画面を見る。 【蓮くん:夕方、
last updateLast Updated : 2026-09-06
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179食目

マンションの廊下には、まだ少しだけ冷たい空気が残っていた。 玄関の扉がほぼ同時に開く。 蓮が先に鍵を閉め、隣を見る。 椿はいつもより少しだけ身軽な格好だった。買い物に出るだけなのに、どこか落ち着かないのが分かる。 『……そんなに緊張することか?』 「いきなりドイツ語で話し始めるのやめて。びっくりするわ」 ビクッと肩を揺らした椿が、ジトっとした目を蓮に向ける。 最近ではすっかりお決まりになったやり取りだった。 2人の会話はなるべくドイツ語で。 最初に言い出したのは蓮だが、今では椿の方が真面目に付き合っている。 『緊張するわよ。 海外、行く準備、人生で初めてなんだから』 『まあ、そうか』 『蓮くんは慣れてる?』 『慣れたくて慣れたわけじゃないがな』 そう言いながら歩き出す。 椿も隣に並ぶ。 駅までの道。 朝の住宅街は静かで、二人の足音だけがやけに響いた。 少しして、蓮が口を開く。 『電車、何時?』 椿が一拍遅れて反応する。 『……九時、三十二分』 『よし。間に合うな』 『でも、人前だと、ちょっと恥ずかしい』 『何がだ?』 『ドイツ語で話すの』 そう言われて周囲を見る。 確かに、通学中の学生や通勤途中の会社員が、時折こちらを見る。 高校生の男女が、朝からぎこちないドイツ語で会話している。 目立たない方がおかしい。 蓮は少し考えてから言った。 『そのうちこれが当たり前になる』 『それはそうだけど……』 椿は呆れたようにため息を吐いたが、口元は少しだけ緩んでいた。 大型ショッピングセンターに着く頃には、人の流れもかなり増えていた。 春休み最初の土曜日。 家族連れも多く、館内は朝から賑やかだった。 『まず、どこから?』 案内板を見上げながら椿が聞く。 『スーツケースだろ』 『うん。最優先だものね』 『ああ。後回しにすると、結局一番困る』 迷いなく専門店へ向かう。 店内には大小さまざまなスーツケースが並んでいた。 黒、ネイビー、シルバー、赤。 機能性重視のものから、明らかに見た目を優先したものまで幅広い。 椿はしばらく無言で見回していたが、やがて小さく言った。 『……思ったより大きい』 『海外用ならこれくらいは必要だぞ?』
last updateLast Updated : 2026-09-06
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