ホテルへ戻った椿の手には、小さな紙袋があった。 焼きたてのパンの匂いが、まだ少しだけ残っている。 先に部屋へ戻っていた蓮は、テーブルの上にそれが置かれた瞬間、小さく眉を上げた。 『……どうしたんだ? これ』 シャワーを終えたばかりなのか、まだ少し髪が濡れている。 タオルを首にかけたまま、蓮が紙袋を覗き込む。 椿はコートを脱ぎながら、なるべく平然と答えた。 『もらったの』 『もらった?』 『ええ。売れ残り、って』 袋の口を開く。 昼間、並べていたパンたちがそのまま入っていた。 店主のおすすめだと言っていたもの。 奥さんが「これはレンが好きだったやつよ」と勝手に入れたもの。 見たことのないパンまで混ざっている。 蓮はひとつ手に取って、少しだけ笑った。 『そうか。一回行ったきりなのに、えらく気に入られたもんだな』 『……そうね』 もらった本当の背景は、まだ言わない。 椿は先にコーヒーを淹れながら、小さく息を吐いた。 言うのは、明日でいい。 二人でソファに座り、簡単な夕食代わりみたいにパンを食べる。 外はもう暗く、窓の向こうには知らない街の夜景が広がっていた。 ホテルの部屋にも、少しずつこの生活の匂いが馴染んできている。 『明日、練習終わりにここのパン屋で待ち合わせしましょ』 椿が何気ない顔で言う。 蓮はパンを一口かじってから頷いた。 『ああ、いいぞ。ここのパン、気に入ったのか?』 『……そんなとこ』 視線を逸らして、コーヒーを飲む。 蓮は少しだけ怪しむような顔をしたが、それ以上は追及しなかった。 代わりに、椿が小さく続ける。 『それに、明日だし』 『明日?』 『……誕生日』 蓮が止まる。 それから、静かに頷いた。 『ああ。そうだったな』 『そうだったな、じゃないわよ。 自分の誕生日でしょう』 『俺はあまり気にしないからな』 『私は気にするの』 その言葉に、蓮が少しだけ眉を上げる。 『……そうか』 『そうよ』 短い沈黙。 椿はなるべく自然を装いながら、続けた。 『だから、明日の夕方以降はちゃんと時間を空けておいて』 『
Last Updated : 2026-09-08 Read more