All Chapters of 俺だけの献立 〜隣のスポーツ栄養士志望が俺の食事を管理するらしい〜: Chapter 191 - Chapter 200

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190食目

 ホテルへ戻った椿の手には、小さな紙袋があった。  焼きたてのパンの匂いが、まだ少しだけ残っている。  先に部屋へ戻っていた蓮は、テーブルの上にそれが置かれた瞬間、小さく眉を上げた。 『……どうしたんだ? これ』  シャワーを終えたばかりなのか、まだ少し髪が濡れている。  タオルを首にかけたまま、蓮が紙袋を覗き込む。  椿はコートを脱ぎながら、なるべく平然と答えた。 『もらったの』 『もらった?』 『ええ。売れ残り、って』  袋の口を開く。  昼間、並べていたパンたちがそのまま入っていた。  店主のおすすめだと言っていたもの。  奥さんが「これはレンが好きだったやつよ」と勝手に入れたもの。  見たことのないパンまで混ざっている。  蓮はひとつ手に取って、少しだけ笑った。 『そうか。一回行ったきりなのに、えらく気に入られたもんだな』 『……そうね』  もらった本当の背景は、まだ言わない。  椿は先にコーヒーを淹れながら、小さく息を吐いた。  言うのは、明日でいい。  二人でソファに座り、簡単な夕食代わりみたいにパンを食べる。  外はもう暗く、窓の向こうには知らない街の夜景が広がっていた。  ホテルの部屋にも、少しずつこの生活の匂いが馴染んできている。 『明日、練習終わりにここのパン屋で待ち合わせしましょ』  椿が何気ない顔で言う。  蓮はパンを一口かじってから頷いた。 『ああ、いいぞ。ここのパン、気に入ったのか?』 『……そんなとこ』  視線を逸らして、コーヒーを飲む。  蓮は少しだけ怪しむような顔をしたが、それ以上は追及しなかった。  代わりに、椿が小さく続ける。 『それに、明日だし』 『明日?』 『……誕生日』  蓮が止まる。  それから、静かに頷いた。 『ああ。そうだったな』 『そうだったな、じゃないわよ。  自分の誕生日でしょう』   『俺はあまり気にしないからな』 『私は気にするの』  その言葉に、蓮が少しだけ眉を上げる。 『……そうか』 『そうよ』  短い沈黙。  椿はなるべく自然を装いながら、続けた。 『だから、明日の夕方以降はちゃんと時間を空けておいて』 『
last updateLast Updated : 2026-09-08
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191食目

 店を出る頃には、空はすっかり夜の色だった。  紙袋を抱えた椿と、その隣を歩く蓮。  石畳に、二人分の足音が静かに響く。  冷たい夜風の中、街の灯りだけがやけに柔らかかった。  パン屋を出たあとも、しばらく二人は並んで歩いていた。  店主と奥さんに散々からかわれたせいで、椿はまだ少しだけ顔が熱い。  隣の蓮は、そんなことを気にしていないみたいに普通の顔をしている。 『……笑ったでしょ』 『少しな』 『少しじゃなかったわ』 『かなり馴染んでたからな』 『働いてるんだから当然よ』 『いや、そういう意味じゃなくて』  その先は言葉にされなかった。  でも、なんとなく分かる。  自分でも驚くくらい、あの店には自然に居られた。  それはきっと、この国でちゃんと生きていきたいと思ったからだ。  しばらく歩いたところで、椿が小さく息を吸った。 『……まだ、少し付き合って』  蓮が視線を向ける。 『帰らないのか?』 『帰る。でも、その前に』  その返事だけで、蓮は何も聞かなかった。 『分かった』  二人はそのまま、駅前の方へ向かう。  ふと、信号待ちで立ち止まった時、少し離れた広場の端で若い男女が立ち止まる姿を蓮の視界が捉えた。  何気ない会話の流れみたいに、自然な動作で。  そのままキスをした。  蓮の視線が、ほんの一瞬だけ止まる。  誰も気にしない。  特別なことじゃないのだろう。 『蓮くん?』  椿の声で視線を戻す。 『ん?』 『何ぼーっとしてるの』 『ああ……いや。別に』  青になった信号を渡りながら、その光景だけが妙に頭のどこかに残っていた。  やがて椿が立ち止まったのは、小さなビルの一角だった。 『ここ』  見上げる。  看板には、キッチンスタジオと書かれていた。 『……ここ?』 『ええ』  蓮は数秒、言葉を失った。 『借りたのか?』 『ディーターさんにお願いして』 『お願いしたのはパン屋じゃなかったのか?』 『一個とはいってないもの。こっちが本命』  椿が少しだけ得意そうに言う。  鍵を開けて中に入る。  広い作業台。  整った調理器具。  使いやすそうなキッチン。  そして、すでに用意されている食材。  そこでようやく、全部が繋がった。 『……誕生日回、か
last updateLast Updated : 2026-09-08
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192食目

 帰る朝は、不思議なくらい静かだった。  数日しかいなかったはずなのに、もうこの部屋の空気に慣れてしまっている。  窓の外からは、まだ冷たいドイツの朝の光が差し込んでいる。   『ほら、早く起きなさい』   『……もう少し』 『もう少し、じゃないわよ。あなたが起きないと私も出られないんだけど』    蓮の腕の中で、椿が不服そうな声を上げる。   『帰り支度もあるんだから、いい加減起きなさい』    渋々、といった様子で蓮が体を起こす。  遅れて椿も体を起こした。   『……おはよう』 『おはよう。随分だらけてたわね』 『昨日準備したんだから、今朝はのんびりでいいだろ』 『だめよ。忘れ物がないか確認しとかないと』  そう言い合って、二人は帰り支度を始める。    カーテンを開けると、薄い光が差し込まれ、スーツケースの影を床に落とした。  椿はそのままベッドの端に座って、最後の荷物を確認する。  パスポート。  財布。  スマホ。  充電器。  来た時と同じ確認なのに、気持ちはまるで違う。 『……大丈夫そうか?』  隣で自分のキャリーを閉じながら、蓮が言う。 『大丈夫そうね。あとは着替えるだけ』 『ほら、言ったじゃないか』 『余裕持って行動するのが大事なのよ』  そう返しながらも、もう一度だけパスポートケースを開く。  その様子に、蓮が小さく笑った。 『結局そこが神経質なのは変わらないな』 『変わらなくていい部分もあるの』  来た時は、不安の確認だった。  今は違う。  ちゃんと、また来るための確認。  椿はパスポートケースを閉じると、再びカバンにしまった。  その後着替えを終えて、チェックアウトのためにロビーへ降りると、すでにハンスが待っていた。 『おはよう、二人とも』  相変わらず隙のない笑顔で、ハンスが軽く手を上げる。 『空港まで送りにきたよ』 『助かる。チェックアウト済ませてくる』  蓮が短く返し、椿を伴ってロビーへ向かった。  チェックアウトを済ませた後、二人と荷物を載せた車が走り出す。  見慣れ始めた街並みが、窓の外を流れていく。  しばらくして、椿が前を見たまま口を開いた。 『……ハンスさん』 『ん?』 『空港へ行く前に、少しだけ寄ってほしいところが
last updateLast Updated : 2026-09-08
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193食目

 マンションのエントランスを抜けて、見慣れた廊下を歩く。  ほんの数日空けただけなのに、不思議なくらい懐かしかった。  キャリーケースの車輪が、静かな廊下に小さく響く。 『……やっぱり、飛行機の長旅は慣れないわね』  隣を歩く椿が、小さく息を吐く。 『そのうち慣れる。というより、慣れないと困るだろ』  蓮も短く返した。 『どうかしら……そこは一向に慣れる気がしないわ……』  エレベーターが四階につくのを待ちながら、椿は再び小さく息を吐いた。    エレベーターを降り、二人並んで自室の前に立つ。  鍵を開けながら、椿が言った。   『荷物だけおいてくるわ』 『わかった。それなら、鍵開けとくな』  そう言って、蓮も部屋に入る。  久しぶりの静かな部屋。  荷物を置いて、一度だけ大きく息を吐く。 「……やっぱり落ち着くな」  ドイツで見た景色。  大学。  練習場。  パン屋。  空港。  全部がまだ身体の中に残っている。  けれど、このマンションの空気に触れた瞬間、それらがちゃんと“持ち帰ったもの”になった気がした。  荷物を置いていると、椿もすぐに部屋に入ってきて、そのまま真っ直ぐキッチンへ向かった。  冷蔵庫を開ける。 『……うん、予想通り』 『何がだ?』 『ほぼ空』  振り返りもせずに答える。 『数日空けてたんだから当然ね。  むしろ何か残ってたら嫌よ』 『それはそうだな』  椿はそのまま中を確認しながら、足りないものを淡々と口に出していく。 『卵、牛乳、ヨーグルト。  あとは調味料も……』  ドイツに行って、あれだけ濃い時間を過ごした。  それなのに、帰ってきて最初にやることが、冷蔵庫の確認なのが妙にらしかった。  椿がメモを書き終えて、振り返る。 『蓮くん、買い物付き合って』 『ああ。もちろんだ』  二人でまた部屋を出て、近くのスーパーへ向かった。  夕方のスーパーは、仕事帰りの人たちで少し混んでいた。  野菜売り場。  肉コーナー。  乳製品。  カゴを持って歩きながら、蓮が小さく言う。 『スーパーに来ると、途端に帰ってきたなって感じがするな』  椿が隣で頷く。 『そうね。やっぱり全然違う』 『ドイツのスーパーも面白かったけどな』 『ええ。でも、あっち
last updateLast Updated : 2026-09-08
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194食目

 朝、目を覚ますより先に、キッチンから小さな音が聞こえていた。 包丁がまな板を叩く音。 フライパンに火が入る音。 味噌汁の湯気が立つ気配。 薄く目を開けた蓮は、数秒だけ天井を見上げて、それから小さく息を吐いた。「……もう学校か」  身体を起こして時計を見る。 まだ、いつもより少し早い。 それでももう椿は起きている。 顔を洗いにリビングへ出ると、案の定、エプロン姿の椿が朝食と弁当の準備をしていた。『おはよう』 振り返らないまま、声だけが飛んでくる。『おはよう。早いな』『あなたが遅いのよ。 新年度初日なんだから、寝坊したら許さないわ』 そう言いながらも、声は少し柔らかい。『弁当、久しぶりだな』『数日ぶりで大げさね』『いや、わりと本気で。いつもありがとな』 椿がようやく少しだけ振り返る。『……いいから、早く着替えてきなさい』 それだけ言って、また前を向く。 でも、耳が少し赤い。 その後、身支度を整え、食事を終える。 弁当を鞄に入れ、玄関で靴を履く。『いってきます』『……いってきます』 二人で同時に部屋を出た。 春の朝の空気はまだ少し冷たい。 マンションのエントランスを抜けて、駅までの道を並んで歩く。 自然に、椿が腕を組んできた。『新年度だな』 歩きながら、蓮が言う。『ええ。勝負の年ね』『椿なら余裕だろ』『そういう慢心が、足元を掬われるのよ』『慢心じゃない。事実だ』『なお悪いわ』 即答だった。 そのやり取りに、二人で少しだけ笑う。 三年生。 サッカーも、進路も、将来も。 全部が現実になる年だった。 駅を越えて、学校へ向かう。  次第に、人のざわめきも増していく。 追い越していく生徒たちの視線が、自然と二人に集まる。 『なんか、見られてるな』 『そう? 元からじゃないかしら』 『そう言われればそうか。ならいいか』  そうして、二人は話しながら歩き続ける。  今日の練習の話。 昼休みの食事場所の話。 進級テストの話。  話が尽きることはない。  二人が会話に花を咲かせていると、前から大きく手を振る姿が見えた。「おはよー……って、どしたの? 二人とも」 陽菜だった。 近づいてきた瞬間、じっと二人を見て、目を細める。『陽菜、おはよう。 あとでドイ
last updateLast Updated : 2026-09-25
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195食目

 放課後、新年度最初の部活動。 新年度が始まり、教室の空気は少し変わった。クラス替えの話、進路希望調査、最後の大会という言葉。どこを歩いても、去年までとは違う空気がある。 けれど、このピッチの中は、大きくは変わらない。 ただ一つ違うのは、自分たちが最上級生になったことだった。 ピッチの中では、新年度最初として、全員が集められていた。 前に立った監督が、全体を見渡す。「春休み中は特に決めず進めていたが、改めて新キャプテンを発表する」 空気が少しだけ引き締まる。 とはいえ、誰も大きくざわつかない。 予想がついていなかったわけではない。 去年の冬、選手権が終わってからも、実質的に蓮が前に立つ場面は増えていた。 練習の整理、紅白戦の修正、細かい確認。 桐生がいなくなったあと、自然とそこに立っていたのが蓮だった。「卒業していった桐生たちの代と、わしらコーチ陣の満場一致で決まった」 監督は一拍置いて、真っ直ぐ前を見る。「……天根、前へ」 蓮は短く息を吐いて、一歩前に出た。「はい」「お前がこの一年、チームのキャプテンだ。 この一年間で、お前の主将像を見せてみろ」「……わかりました」 監督は腕を組んだまま続ける。「異論があるものは?」 周囲を見回す。 当然、誰も手を挙げない。 むしろ、ここで異論が出る方が不自然だった。 若葉も腕を組んだまま、当然という顔で見ていた。「……いなさそうだな。 天根、何かあるか?」 全員の視線が集まる。 蓮はわずかに目を伏せた。 春の芝はまだ少し薄く、でも確かに新しい季節の色をしていた。「……俺は、言葉で多く語るタイプではないです。 ピッチ上で、皆を導きます」 静かな声だった。 少しだけ間を置いて、続ける。「目標は、無敗です」 数人が小さく息を呑んだ。 優勝ではない。 無敗。 その言葉の重さを、全員が理解する。 監督がわずかに口元を上げた。「優勝ではなく、無敗ときたか」「勝つのは前提です」 蓮は視線を逸らさない。「昨年王者として、より強いチームにしましょう」 静かな言葉だった。 だが、その重さは十分に伝わる。 監督が小さく頷いた。「よし。じゃあ始めるぞ」 全員が一斉に動き出し、空気が切り替わる。 今日の練習は、新チームの連携強化に向けて、紅白戦が組まれ
last updateLast Updated : 2026-09-25
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172食目

 放課後、部活を終えて校門を出る頃には、空はもう夕方の色に変わっていた。 春とはいえ、日が落ちるとまだ少し風が冷たい。 バッグを肩にかけ直しながら、蓮はいつもの帰り道を歩いていた。 新年度の最初の練習。 部活の空気も、チームの編成も少しずつ新しい形に馴染み始めている。 キャプテンになったからといって、急に何かが変わるわけじゃない。 やることは同じだ。 練習して、考えて、勝つ。 ただ、その中心に立つだけ。 そう考えながら、駅前を抜けてマンションへと帰る。 その途中で、見慣れた後ろ姿が視界に入った。 スーパーの自動ドアを抜けていく、長い黒髪。「……珍しいな」 蓮は小さく呟いて、そのまま後を追った。 店内は夕方らしく、仕事帰りの人たちで少し混んでいる。 買い物かごを手にした椿は、野菜売り場の前でじゃがいもを見ていた。『今帰りか?』 後ろから声をかけると、椿が少しだけ肩を揺らして振り返る。『……びっくりした』『ああ、悪い。驚かせるつもりはなかった』『別に、大丈夫よ』 そう言いながら、かごにじゃがいもを入れる。『進路について先生と話してたの』『そうか。……あ、かご持つよ。 それで、先生はなんて?』 自然に隣へ並びながら聞く。『驚かれたわよ。 冬休みで進展しすぎじゃないかって』『あー、まあそうか。 突然だったしな』 ドイツへ行って、大学を見て、現地で生活して。 ただ考えていた未来が、急に現実味を持った。『一応、海外ルートの話は前からしてたけど』 椿は牛乳を手に取って、賞味期限を確認する。『実際に見に行ってきたって言ったら、さすがにね……』 少しだけ苦笑して、それから視線を上げた。『あ、そこの卵入れてちょうだい』『了解。十個入りのでいいよな?』『ええ』 迷いなく手に取って、かごに入れる。『でも、ちゃんと話せてよかったわ。 曖昧なまま三年始めたくなかったし、先生も気にしてたし』『止められはしなかったんだな』『そうね。元々、先生の方から海外進学の話もしてくれてたから。 ただやっぱり、準備の大変さは言われたわね』『まあ、それはそうだろうな』『ええ』 二人でそんな話をしながら売り場を回っていると、少し離れたところから、年配の女性たちの声が聞こえてきた。「あらー、新婚さんかしら」「日本人みた
last updateLast Updated : 2026-09-25
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197食目

 春の公式戦。 新シーズンの幕開けとして行われる、県内独自の一戦。  昨年のインターハイ予選王者と、選手権予選王者がぶつかる、いわば王者決定戦。 ただし昨年、その両方を制したのは常盤台だった。  だから今年の相手は、選手権予選準優勝校――明誠高校。 スタンドには、新年度最初の公式戦らしいざわめきが広がっていた。 夏冬二冠。  天根蓮。  桐生海翔。 去年の常盤台の象徴を、誰もがまだ覚えている。 だからこそ見られる。  今年の常盤台は、去年を超えられるのかを。 ピッチに立ちながら、蓮は静かに前線を見渡した。 左には黒木。  右には三上。  中央には佐倉。 能力は足りている。  問題は、まだ完成していないことだった。 去年のような、迷いのない前線ではない。  だが、それでいい。 最初から完成している必要はない。  ここから作る。 審判の笛が鳴り、試合が始まった。 序盤から、主導権は常盤台が握っていた。 ボールは蓮を経由せずに回る。 声だけではない。  立ち位置、視線、身体の向き。 それだけで、蓮が周囲の景色を揃えていく。  ボールに触れずとも、今年の常盤台の中心に蓮はいた。 前半十分。 中盤で若葉がボールを受ける。  一瞬だけ顔を上げる。 中央。  佐倉が、相手CBの間へ滑り込むように裏へ抜けた。「そこ!」 迷わず、若葉が通す。  鋭い縦パス。 佐倉が身体を入れながら受ける。  そのままワントラップ。 右足を振り抜く。  シュートはDFの足に当たり、わずかに軌道を変えてゴールへ吸い込まれた。「よしっ!」 歓声が上がる。  佐倉が拳を握り、若葉も小さく息を吐いた。 蓮も小さく頷く。(今の形も悪くない。……ただ、まだ。もっと良くなる。) 前半二十五分。 今度は、蓮が中央で前を向く。  視界の中に、全部が入る。 黒木が左から中へ絞る。  三上が右で幅を取る。  その間を、佐倉が斜めに走る。 そこだった。  蓮の左足が、迷いなく振り抜かれる。 後ろから、佐倉の求めた一点へ、寸分違わず差し込まれる。 相手GKからすれば最悪だった。 ちょうど黒木の身体が視界を遮り、一瞬だけボールを見失う。  気づいた時には、もう足元へ届いている。 若葉が思わず声を漏らした。「うわ
last updateLast Updated : 2026-09-25
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198食目

 監督が去ったあとも、蓮はしばらく座ったまま動かなかった。 視線を落としたまま、思考を巡らせる。 ――選手の中の情報まで広げろ。 監督の言葉。 コートの中の情報ではなく、選手の中。 最適とはなにか。 選手の中とは何を見るべきなのか。 そして、その情報をどう扱うかがまだ整理できていない。 技術。 癖。 得意な形。 苦手な角度。 そこまで含めての、最適。 思考を巡らせながら視線をあげると、スタンドにいる椿の姿が目に止まった。 ふと、椿との会話が思い出される。『蓮くんってさ、誤魔化す時、絶対目線を右に逸らすわよね ……癖なの?』 あの時は適当に流した。 でも、確かにそうだった。 自分でも意識していない、無意識の動き。 それを、椿は見ていた。 見て、把握して、扱っていた。『はいはい。キッチンは私の領域なんだからどいて』『陽菜に理論を教えないのかって? ……私のはだいぶ独自性高いから。 陽菜には陽菜のやり方があるでしょうし』 同じやり方は通用しない。 人が違えば、最適も違う。得意とする戦場も変わってくる。 それらを理解して初めて、最適なパスは生まれる。「……癖、か」 小さく呟く。 思考が、静かに収束していく。 笛が鳴り、後半が始まった。 立ち上がり、蓮は中央にポジションを取り、周囲を見渡す。 前半と同じ配置。 同じ動き。 同じはずの景色。 だが、見ている場所が違っていた。 黒木の位置取り。 三上の踏み込み。 佐倉の体の向き。 動きの速さではない。 その前。 動き出す“前の準備”。 佐倉は、完全に裏へ抜ける前に、わずかに重心を落とす。 その瞬間、必ず一度ボールを収める形に入る。 三上は逆に、踏み込む瞬間に体が前へ流れる。 だから裏への一歩は速いが、後ろから来る球には合わせづらい。 黒木は違う。 視線を切ってから動く。 だから受ける位置が多少ズレても修正できる。 同じ“前線”でも、全員違う。 当たり前のことだった。 だが今まで、その違いは“例外”として処理していた。 桐生は違った。 桐生だけではない。ドイツのユースで組んでいたFWたちもそうだった。 どの形でも、打てた。 どのボールでも、合わせた。 だから自分は、“正しい場所”だけを見ていればよかった。 だが、今
last updateLast Updated : 2026-09-25
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199食目

 夜、帰宅した時には、すでにキッチンから音がしていた。 包丁がまな板を叩く音と、火にかけられたフライパンの小さな油の弾ける音が、静かな部屋に広がっている。 手洗いを済ませて、部屋に入る。 手を洗う間も、今日の試合の光景がずっと頭に残っていた。 どこかワンシーンじゃない。 試合を通して見た景色がずっと残っている。 桐生は抜け出して視界が開けている時。 佐倉は、ペナルティエリア前でディフェンダーを背負っている時。 黒木はペナルティエリアの角で仕掛け、三上はハーフラインから長めに加速を取る。 ただポイントに落とすだけじゃない。選手の領域や癖を含んで初めて最適は作られる。 蓮は、キッチンに立つエプロン姿の少女に目を向ける。 彼女がいたから、今日の試合の中であの光景にたどり着けたのだと強く思う。『おかえりなさい』 その彼女が、煮込み中の鍋の前から声をかけてくる。『今日、どこか痛めたの? 足の振り方がいつもと違ったけど。 巻き込むように振ってたわよね』 これだ。 彼女はこういう些細な変化にすぐ気づく。『ただいま。別にどこか痛めたわけじゃない。 見方を変えたんだ、ピッチの中の』『見方?』『ああ。もっと深く、個人の中まで』 落し蓋をした椿が、蓮の方へと寄ってくる。『……? まぁでも、いい変化みたいね。 新年度からずっと難しい顔してたけど、今はすっきりしてるわ』 覗き込むように見上げる椿に、蓮は小さく微笑んだ。『椿のおかげだ』『……わたし?』『ああ。なかなか上手くいくパターンが見えなかった。 今までどおり最適と思う地点にパスを出しても、ゴールにつながらないことが多かった』 椿は、2つのマグカップにお茶を注いでテーブルについた。 蓮も席に座る。『それと私がどうつながるの?』『俺はずっと、その最適と思う地点の基準を固定してた。たぶん、ドイツでずっと組んでたやつに。 でも実際にプレーしているのはそいつだけじゃない。いろんなやつがいる』 椿は、マグカップを両手で持ちながら静かに聞いていた。『それで今日、佐倉とぶつかってな。監督に言われたんだ、視点を広げろって。 ……最初は、どうすれば良いのか分からなかった。でも思い出したんだ、椿がやってたこと』『どれのこと?』『前に言ってただろ? 誤魔化す時の癖がどうとか、キッチ
last updateLast Updated : 2026-09-25
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