唐突に接待の日程を伝えられ、「今から現場の下見に行ってこい!」と上司に怒鳴られたのが、数時間前。「どうせオマエなんか、社内にいたって役に立たないんだから」 との、ありがたいお言葉を背に、俺こと風車虎七郎は、自腹で谷川岳へと向かっていた。 なぜ接待の下見が谷川岳なのかと言うと、〝先方のご家族を招いたオートキャンプ場でのバーベキュー〟だからである。 こんな仕事、SEにやらせるなよ……と思いつつも、自分の仕事に手落ちがあるのは許せない。 駐車場の位置。 当日の混雑予想。 予約の可否── そんなことを調べ、最後に俺は湯檜曽川の河原を見に行った。「ご家族の招待なんだから、子どもが遊べる場所があるかチェックしとけ!」 という無茶な〝ご要望〟があったからだ。 川遊びってのは、実に楽しいイベントだが、色々と危険も孕んでいる。 バーベキューに興じる保護者の方々が、目を離した一瞬に事故でもあったら目も当てられない。 だから俺は、スーツの裾をまくりあげて、川の中に入っていった。 子供でも楽に立てそうな水深。 石垣が組んであって、そこだけは飛び込み可だと、観光案内に書いてあった。「うわ……、結構冷たいな」 バシャバシャ水しぶきを上げて歩く。 川底の石がコロコロしていて、裸足の足裏に気持ちいい。「あ〜、あの上司の顔を見ないでいると、気分が晴れやかだなぁ」 なんとなく空を見上げて、そんなことを呟いていたら。 ズルっと足が滑った。「うわっ!」 川の流れは、思いのほか速い。 腕を伸ばしたところで、掴めるのは水かもしくは石ころだけだ。 立ち上がれば膝上ぐらいの水深のはずだが、足場を確保する前に体がどんどん流される。 焦ってなにも分からない状況なのに、妙に冷静に水面に反射するキラキラした光の粒を〝あ、綺麗だな〟なんて思った。 独身歴37年。 長かったようで短かった人生で、心残りと言えば、女っ気が全くなかったことだけかもしれない……と、遠のく意識の中でぼんやりと考えていた。
Last Updated : 2026-08-09 Read more