เข้าสู่ระบบその日は、普段の葬儀を退屈で欠伸を噛み殺しながらやり過ごしている少女にとって印象深いものだった。喪主は普通のどこにでもいそうな三十代半ばほどの男。故人もごくごく平凡な同年輩の女だった。教会で暮らしている少女にとって、葬儀とは日常茶飯事であり、見飽きたものだった。司祭の説教に紛れるようにしてひそひそと聞こえてくる遺産の分配の話やら、遺児の引き取りの話やら、どろどろとした今後の話にもいい加減うんざりとしていた。故人を心から悼む人など、少女はほとんど見たことがなかった。誰もが目先の損得の話ばかりで、それが世の中というものなのだと、幼いながらに少女は世間を知った気になっていた。
しかし、その日の葬儀は常とは様子が違っていた。喪主の男は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、慟哭していた。妻と思しき亡くなった女の名を呼びながら、棺の中で眠る女の冷たい手に縋りついていた。 (――へえ、こんな人間もいるんだ。珍しい) 少女は耳を劈くような男の悲痛な叫びを聞き流しながら、そんなことを思った。聖典を片手に読み上げられる司祭の祈りの言葉など、男の涙声に上書きされて完全に掻き消されてしまっていた。 (ヒース・ランズバーグ、だっけ。そういえば毎週のミサも夫婦で来て、いつも熱心にお祈りしてた気がする) いつのころからか夫婦でではなく、ヒースだけを見かけるようになっていた。そしてそのころから、ヒースが祈っている時間が増えていた。あまりにも必死に祈っていたため、何回か司祭に声をかけられていたのも何となく覚えている。 ヒースの妻――ミュゲは病死だったと聞いている。ヒースが祈っている時間が増えた時期から鑑みるに、そういう事情だったのだろうと少女は悟った。彼は最愛の妻の病の治癒を心から祈っていたのだろう。少女はそっと両手を合わせると目を閉じる。ミュゲの冥福と、ヒースの今後の人生の先行きを祈りたかった。少女の閉じた瞼の内側と修道服の首元からほんのりと青い光が漏れ出した。相変わらず大聖堂の中では途切れ途切れの司祭の祈りと、泣き叫ぶ男の声が聞こえ続けていた。聖歌が響き渡っていた大聖堂は、先ほどまでの厳かな雰囲気などどこに行ったのか、信徒たちのぺちゃくちゃとした話し声で充満していた。どこの誰が誰と不倫していただの、誰それが多額の借金を抱えた末に夜逃げしたらしいだのといった醜い噂話。そんな話を女神リュンヌの前でするなよと思いながら、肩までの黒髪に赤の双眸を持つ修道服の少女は呆れ返って肩を竦める。ステンドグラスに描かれた女神リュンヌはこの下卑た人々のことを一体どう思っているのだろうか。
シスターたちは慣れたふうに曖昧な笑顔で信徒たちのお喋りを受け流しながら、ミサの片付けを始めている。残ったパンは麻袋にぞんざいに投げ込まれ、ワインは木樽の中へと戻されていく。天と地を尊び、食べ物への敬意を忘れないという女神の教えは一体どこにいったのか。パンのかすを箒でかき集めているシスターがいるが、手伝う気にもならない。大聖堂の角の壁に寄りかかってミサの後片付けを眺めていた少女は、チャーチベンチの間に敷かれた赤い絨毯の上に歩を進め、出口へと向かっていく。そして、彼女は美しい細工が施された扉をそっと開けると、猫のような動きでするりと外へと抜け出した。どのみち煙たがられている身の上だ。後でこれ見よがしに陰口を叩かれようとも、ここにいないほうが気が楽だ。 春のはじめの昼下がりの空気はまだ冷たい中にもどこか柔らかさが感じられた。空には霞がかかり、灰色を帯びている。少女は行儀悪く修道服のポケットに手を突っ込むと、歩き出した。敷地内に埋められた蕾の綻び始めた木々の下を少女は進んでいく。冬中降り積もった雪は木漏れ日を浴びて溶けつつあり、足元の土の色と混ざり合っていた。彼女の足元で春泥がぴちゃりと跳ねる。教会の庭を抜け、建物の裏手に回り込むと、閑散とした墓地があった。木々の葉の間から漏れる陽の光を背に浴びて、中肉中背の汚れた身なりの男が一つの墓の前で祈りを捧げている他は人気はない。 (――あの人) 先ほどのミサで見かけた男だった。今日だけでなく、先週も先々週もずっと前から毎週ミサに訪れては熱心に祈りを捧げている敬虔な信者だった。 「天にまします女神リュンヌよ――」 少女は祈りを捧げている男をしばらく眺めていた。祈りの言葉が最後に近づくと、背後から男へと歩み寄った。ざく、と泥混じりの氷が足元で鳴る。人の気配に気付いた男が振り返った。鳶色の双眸の白目は充血し、赤味を帯びていた。 「――っ、あなたは……」 振り返った男は少女の姿を認めると、息を呑む。そして、目元の涙をネイビーのニットの袖で拭うと、彼は恭しく泥混じりの地面に頭を垂れる。 「大変お見苦しいところを失礼いたしました。――神子アプローズ様」 構わないよ、と少女はかぶりを振る。無精髭が生え、酒と煙草の入り混じった香りを漂わせる男の姿は痛々しく少女の目に映った。 「大切な人を悼むのに見苦しいなんてことはない。世の中、身近な人間の死すら悲しめない人間のほうが多いんだから」 「そういうものでしょうか……?」 そういうものだよと頷くと、少女は目の前の男の頭の天辺からぼろぼろの靴先まで視線を走らせた。ぐしゃぐしゃに乱れて絡まりあった亜麻色の髪。泣き腫らした鳶色の双眸。伸ばしっぱなしのざらざらとした無精髭。目に光はなく、背は丸まっている。少女はこの男の名を知っていた。 「あなた、ヒース・ランズバーグでしょう?」 「……どうして、俺の名を?」 「もう五年も前のことだけど、奥方の葬儀の際に珍しく心から涙していた人だったから印象に残ってる。毎週のミサもいつも熱心に通ってくれているでしょう?」 さらりと少女がそう告げると、ヒースはたじろいだ。まさか一信徒に過ぎない自分が、そんな恥ずかしい形で神子に覚えられているとは思わなかった。 「う、わ……アプローズ様にそのような醜態を見られていたとはお恥ずかしい……あのとき、俺は自分のことばかりでいっぱいいっぱいで……」 「恥ずかしくなんてないよ。寧ろ私からすると、あなたのような人間の方が好ましく思えるよ。世の中、醜い人間が多いから、亡くなった誰かのことを心から想って泣ける人なんてそうはいない。こうやって教会なんかで暮らしていると、人間社会の汚さを目にすることが多くてね。たとえば、故人を偲ぶことなく遺産相続で揉める大人たちとか、ね」 「そう……ですか」 そう言って俯いたヒースの耳はほんのりと赤らんでいた。妻の死から五年も経っても立ち直れない情けない男と陰口を叩かれることはあっても、これまでこんなふうに自分を肯定してもらえることなどなかった。それでもね、と少女は雪泥で修道服の裾を汚さないように気をつけながらヒースの横に膝を折ってしゃがみ込む。気の強そうな少女と遠慮がちな男の赤と鳶色の視線が交錯する。 「あなたは毎週ミサに顔を出してくれるからまだいいけど、その生活の乱れ方は心配かな。まともに食べてる?」 「う……」 少女の指摘にヒースは口ごもった。少女の言う通り、ヒースの生活は妻が亡くなってからというもの、がたがただった。栄養バランスを無視した必要最低限度の食事しか口にしておらず、まるで水を煽るかのように酒ばかり飲んでいる。近頃では少量でより酔えるということで、飲酒時の喫煙まで覚えてしまった。 「あの……俺、もしかして臭います?」 そんなにかとヒースは自分の服をくんくんと嗅いだ。恐らく臭いのだろうが、それが彼にとっての日常になってしまっているせいで、彼の嗅覚は何も嗅ぎ取ることはできない。 「うん、とても。酒臭いしタバコ臭い。清貧を是とするリュンヌ様もだけど、何よりそんなんじゃ亡くなった奥さんに合わせる顔がなくない? それにあなたがそんな世捨て人みたいな生活してるんじゃあ、奥さんが悲しむでしょ」 それだけ想える人がいるというのは羨ましくも思うけれど、と少女は淡く微笑んだ。彼女は愛を知らない。 「俺は妻を悲しませたかったわけではなく……いや、これは言い訳ですね。妻を亡くして可哀想な俺、というのに酔っていたのかもしれません。さすがは神子、アプローズ様のご慧眼には恐れ入ります」 「私がいいたかったことをわかってくれたのは嬉しい限りだけど……その、アプローズ様っていうのやめない?」 へ、とヒースの口から間の抜けた声が漏れた。少女は構わずに続ける。 「――リコリス」 「え?」 「私の俗名だよ。そう呼んでほしい」 「は、はあ……リコリス様がそう仰るのなら」 少女――リコリスはちっちと顔の前で人差し指を振ってみせる。そうじゃないよとヒースを見るその顔は見た目の年齢相応に小生意気だ。 「リコリス。ただのリコリス。敬称も敬語もいらない」 そう畳み掛けてくるリコリスに呑まれて、ヒースはああ、と了解の意を込めて首を縦に振った。自分にとって、神子とは敬うべき存在だが、本人がそれを希望するのだから仕方がない。けれど、神に石を投げるような後ろめたさがヒースの胸に去来する。 「私、捨て子なんだよね。物心ついたときには、この名前以外何も持ってなかった」 リコリスは大聖堂のほうを振り仰ぎ、緋色の目を細めると言葉を続ける。大聖堂に連なる尖塔の先では、薔薇と月の意匠の紋が刺された旗が風に戦いでいる。 「あのままじゃ飢え死にしていた私を拾って保護してくれた教会には感謝はしている。でも、教会は私を当代の神子に仕立て上げ、私が唯一持っていた名前さえも取り上げたんだ」 「仕立て上げたとはどういうことですか?」 敬語、とリコリスはじっとりと半眼でヒースの顔を見やる。仕方なしにヒースは自分も言葉を崩すことにする。 「ええと、仕立て上げたとはどういうことだ? 神子というのは、聖月暦六〇一五年九月十四日。その日はからりと晴れた気持ちのいい日だった。夏の残滓が青空から降り注ぎ、少し動くと肌がしっとりと汗で濡れる。少女は水で墓石を清めると、布で拭きあげていく。汚れた雑巾をバケツの中に突っ込むと彼女はふうと息を吐いた。 マルシェの花屋で買ってきた花を少女は墓前に備えた。蜘蛛の足のように伸びた雄蕊。細くそり返った花びら。そして何より特徴的な鮮やかな赤。それは見る人が見ればある人物を彷彿とするものだった。 「悪いな、カルミア。全部やらせてしまって」 「別にいいよ。父さんは腰が悪いんだから、墓掃除はきついでしょ」 カルミアは年々母親――リコリスに似てきたとヒースは思う。鳶色の双眸はヒース譲りだが、それ以外の面差しだったりちょっとした物言いなんかが彼女にそっくりだ。 気がつけばリコリスが逝ってから十五年が経った。あのころは一歳だったカルミアも今や立派な成人だ。リコリスがいなくなってからしばらくの間はまだ赤ん坊のカルミアをどう育てたものかと悩んだものだが、リコリスに恥ずかしくない程度にはきちんと育ててやれたと思う。リコリスと過ごした日々があったからこそ、ミュゲのときとは違って、自分は今度は前を向いて生きてこられた。 今日はリコリスの命日であり誕生日でもある。彼女が神子でもなんでもない普通の人間で、この十五年を過ごしていれば、ちょうど三十四歳になっていたはずだ。もし生きていたら、彼女はどんな女性になっていただろう。 墓前に供えた花――彼女の名を冠するその花はカルミアが選んだものだ。供えるにはあまり向かない花だが、リコリスの目を思い出すからとカルミアが持って行きたがった。 カルミアは終滅の夜の儀式のことをあまりよく覚えていない。覚えているのは辺り一面が青い光で輝いていたということと、何となく怖かったということだ。 「今年も来たよ。――母さん」 カルミアは墓前で膝を折ってかがみ込むと、燭台に蝋燭を立てる。青いチュニックワンピースのポケットへ手を突っ込むと、先日の誕生日にもらったキーケースが指先に触れた。彼女はそのままポケットの中を探り、マッチを取り出すと、擦って蝋燭に火をつける。マッチを振って火を消すと、カルミアはぞんざいにマッチの燃え滓を水の入ったバケツに投げ込んだ。水面がじゅっという音を立てる。 カ
「――我が右手は冥き闇を切り裂き、世界を光へ導かん。左手は新たな千年の未来を紡がんとする――」 リコリスはこの日のために一言一句違わずに頭に叩き込んだ文句を滔々と誦じていく。見上げた空に浮かぶ満月は血の赤に侵されている。 (早くしないと世界が終わる……) あの月が完全に赤に染まってしまえば、世界は何者も抗えない闇に覆われるとされている。闇は生きとし生けるもののすべての生命を刈り取り、世界は空も大地も海もない無に還るのだという。そう聖典に記されている。 「神子アプローズ。世界に闇が降りるまで後三十分もない。急いでくれ」 リコリスの背後に控えていた仕立てのいい法衣に身を包んだ老年の男――教皇はしわがれた淡々とした声で彼女をせき立てた。予定の段階では余裕があったはずの儀式のスケジュールがこんなに押しているのは誰のせいだと言いたくなったが、「わかっております、聖下」リコリスは目と首元に天恵の青い光を宿したまま、恭しく頭を下げた。刺繍の施された白いベールがさらりと揺れる。 そのとき、教会前の広場がざわざわとさざめき立ったのをリコリスの聴覚が捉えた。まさか、とありえない予感が彼女の背筋を駆け抜ける。ヒースとは今朝、しっかりとお別れを済ませてきたはずなのに。心臓が早鐘を打つのを無視して、リコリスは祝詞の続きへと戻る。普通の儀式ならいざ知らず、今日だけは一秒でもその瞬間が遅れれば世界が終わる。 「――この目は次の未来を見通し、この唇は続く世界を寿ぐだろう。そして――」 「――リコリス!」 塔の下から自分を呼ぶ声がする。リコリスは鐘楼から身を乗り出して、下を覗き込む。天恵の青い光に照らされて、男と赤ん坊が僧兵たちに取り押さえられようとしていた。 (ヒース……カルミアまで……!) リコリスの視界がじわりと滲む。もう会えないと思っていた二人がこうして無茶をして会いにきてくれた。嬉しいやら腹立たしいやらで感情がぐちゃぐちゃになる。 「――ヒースの馬鹿! こんなところまで何しに来たの!?」 「ただ、ただ一目会いたかったんだよ、悪いか! 愛する妻を独りで死なせて、儀式が終わるのをのうのうと待っていられるほど俺は神経が太くないんだよ!」 「本当に、馬鹿っ……!」 リコリスの頬を涙が伝う。涙と一緒に燐光が彼女の眼窩から溢れ出す。 「私の覚悟
ベッドルームでカルミアを遊ばせながら、ヒースは暮れていく空を眺めていた。リコリスは今どうしているのだろう。きちんと見送ると決めていたが、あれで本当に良かったのだろうか。「うあああああん」 カルミアが泣く声が聞こえる。ヒースは愛娘へと視線を落とした。どこかに身体をぶつけた様子はない。おしめも確認したが汚れているようではない。恐らく腹が減ったのだろう。「飯か。ちょっと待ってろ」 たとえ世界が滅亡の危機に瀕していても腹は減る。カルミアはリコリスがこの家を出てから断続的にぐずり続けていたので、ヒースよりもよほど腹が減っているだろう。 リコリスには怒られそうだが、今はとても離乳食を作れる気分ではない。ヒースはキッチンへと向かうと、マッチを擦って竈に火を入れる。目分量で牛の乳を注ぐと、小鍋を火にかけた。 鍋の内側で白い液体が小さな泡を立て始める。こんなものか、とあたりをつけるとヒースは哺乳瓶に白い液体を移し替えた。「ちょっと熱いか」 乳児に与える乳の温度は人肌くらいが望ましい。リコリスがいつも口を酸っぱくしてヒースに言っていたことだ。そんななんてことのない記憶がヒースの心をざわめかせる。呆れたようなあの声音が脳裏に蘇る。ヒースは手の中で哺乳瓶をころころと転がし、熱を冷ましていく。しばらくして、哺乳瓶が程よい温度になると、ヒースは哺乳瓶の中身を一滴手の甲に垂らした。この分なら問題はなさそうだ。「カルミア、お待たせ」 ヒースは掴まり立ちでダイニングテーブルから彼の作業を覗いていたカルミアに声をかけると、抱き上げてベビーチェアに座らせる。ヒースもダイニングチェアに腰を下ろすと、カルミアに哺乳瓶を持たせてやった。愛娘はニップルに吸い付き、ミルクを飲み始めた。 ヒースはその様子を横目にダイニングテーブルの籠に盛られた黒パンに手を伸ばす。自分も何か食べないとという義務感に駆られて、ちぎった黒パンを口の中に放り込むが、それは硬いばかりで何の味もしなかった。(あいつ――リコリスのほうがずっと大人だ。あいつの前ではああやって大人ぶってみせたけど、やっぱり俺はあいつが死ぬなんて嫌だ) リコリスがいなくなって、すぐに彼女のいない生活に切り替えられるほど器用じゃない。だからこそ、ミュゲを亡くしたときも五年も引きずったのだ。リコリスがいなければいまだにミュゲのことを引きずっ
大きな木桶の中でリコリスはふう、とため息をついた。今ごろカルミアは泣き喚いていないだろうか。そんなことを考えながら、彼女は青い薔薇の花びらが浮いた水面を見つめた。 「アプローズ様、お背中を」 十二人の枢機卿団の面々による衆人環視の中、シスターたちによってリコリスは立たされると、泡のついた布で背中を磨かれていく。その手は腕へ、尻へ、そして体の前面へと伸びていく。胸、腹、脚とシスターたちはリコリスの身体を磨いていく。 「アプローズ様、御髪を失礼します」 シスターたちは淡々と水の張られた盤を持ってきて、思いっきりリコリスの頭にぶっ掛けた。髪が水分でべったりと顔と首筋に張り付き、リコリスの体についた泡が洗い流されて起伏の少ない細い裸体が露わになった。 「ふうん、この貧相な身体があの男を籠絡したのね」 「あの男の趣味が特殊だっただけかもしれないわよ。前の奥さんも体格には恵まれていなかったらしいから」 シスターたちがひそひそと囁き交わす。自分のことはともかく、ヒースのことを悪く言われる筋合いはない。ぎろり、とリコリスはシスターたちを視線で黙らせる。 「アプローズ様、お座りください。御髪を清めますので」 慇懃無礼な物言いに逆らうことなく、リコリスは木桶の中に身を沈める。青い花びらが肌に纏わりついて鬱陶しい。栗毛のシスター――ティリアは粉状のものを泡立てると、リコリスの頭へと指を這わせる。そして、彼女はがしがしとリコリスの頭皮に爪を立てた。 髪がめちゃくちゃに引っ張られる。ぶちぶちと音を立てて髪が何本も千切れたが、ティリアは意に介したふうもない。 「こんなのが神子だなんて。女神は世界を見放したんだわ」 「首の痣も本当に本物なんだか。あの男につけてもらったものなんじゃないかしら。穢らわしい、淫らだわ」 「あなたたち。神聖な儀式の最中で恥ずかしくないのか。それでは、女神リュンヌに見放されたとしても文句は言えないよ。黙って自分たちの仕事を全うするといい」 リコリスがシスターたちを淡々と諌めると、何よ、と灰色の髪をシニヨンにまとめたシスター――シレーヌが水の組まれた手桶を振りかぶる。リコリスはシレーヌにそれを投げつけられ、顔面から水を浴びた。気管に水が入り込み、リコリスはけほけほと咳き込んだ。 からんからん、と音を立てて床に手桶が転がる。泡混
聖月暦六〇〇〇年九月十四日。目覚めたリコリスは遂にこの日が来てしまったと思った。カーテンの外に見える皎天の下、昨夜のうちに降った秋霖の雫が朝日にきらきらと反射していた。 最期にもう少しだけこのひとときを味わっていたくて、リコリスは枕に顔を埋める。あと少し。もう少しだけなら、女神もきっと見逃してくれる。リコリスにはもう二度と朝は来ないのだから。横にはぐうぐうと寝息を立てて眠っている大好きな人の横顔がある。きっと他人から見れば冴えないおじさんなのだろうけれど、その存在が愛おしい。 「ん……う?」 リコリスの視線に気付いたのか、ヒースがもぞもぞと動く。ヒースは傍らのリコリスに視線をやると、眠い目をこすりながらおはようと目覚めを告げた。おはよう、と返すリコリスの母も常とは変わらない調子だ。これが最後だとは思えないほど普通の朝だった。 「カルミアは?」 「まだ寝てるよ。先に朝ごはんにしちゃおう」 リコリスはベッドから体を起こす。キッチンへと向かおうとしたその細い身体にヒースは腕を回して引き止める。リコリスと二人きりの時間を過ごせるのはこれが最後だ。覚悟を決めたリコリスをきっと困らせてしまうとわかっていたけれど、どうしてもそうせずにはいられなかった。 「あっ、もう。ヒースってばどうしたの?」 「俺がもうちょっとだけこうしていたいだけだ。駄目か?」 「……まったく、本当に仕方のない人なんだから」 リコリスは呆れたように微苦笑すると、ベッドのふちに腰を下ろす。ヒースは背後からリコリスを抱き寄せるとうなじにキスを落とした。 「あっ、こら、駄目だってば」 「安心しろ。痕はつけないから」 当たり前でしょ、とリコリスは頬を膨らませる。夕方前には教会で沐浴の儀があるというのに、そんなものをつけていれば教会の人間に何か嫌味を言われるのは疑いない。 (やっぱりつけてもらえばよかったかな。でもそういうことをすることで、ヒースやカルミアに矛先が向いたら嫌だし。――いや、そんなこと言っても今更か) 「なあ、今日は教会には何時に行けばいいんだ?」 「十二時。儀式が夜だから今日はゆっくりでいいみたい」 「それなら、もう少しこうしてられるな」 そういうと、ヒースは右腕をほどき、ベッドサイドテーブルの引き出しへと伸ばす。がさがさと中をまさぐり、目的のものを見
すう、すう、と安らかな寝息が聞こえる。夏も終わりに近づき、家の外では虫たちが子守唄を奏でている。かち、かち、と時計の秒針が動く音が響く。一体今は何時なのだろうとリコリスは上体を起こすと、闇に目を凝らした。ざっとシーツが擦れた。 「ん……リコリス、どうした?」 リコリスが動いたことで目を覚ましたのか、ヒースがむにゃむにゃと眠そうな声で聞いてくる。なんでもないよ、とリコリスは再びシーツの間に体を沈めた。 時計の秒針は変わらず一定の間隔で時を刻んでいく。どのくらいの時間が経っただろうか。わずか五分だったかもしれないし、一時間くらい経っていたかもしれない。リコリスは寝返りを打つとヒースの背へと自分の身体を寄せた。 「――ヒース、起きてる?」 リコリスの囁く声にああ、と低いヒースの声が返ってきた。聞き慣れて耳馴染みのいい、少し掠れた大切な人の声だ。 「リコリス、眠れないのか?」 ちょっと考え事、とリコリスの声がささめく。リコリスはぎゅっとヒースの背中にしがみつく。ふわっと蒸れた寝汗の匂いが鼻腔をついた。そんなことすらが愛おしい。 「ヒースは今、幸せ? 私といて、幸せだった?」 「過去形にするなよ。未来永劫、俺は世界で一番幸せな男だよ。俺の幸せを望んでくれた人がいて、絶望の淵から引っ張り上げてまた明るい道を歩かせてくれた人がいて。それに可愛い娘にも恵まれて。あの子はお前によく似た子になるぞ。目鼻立ちがそっくりだ」 「口元なんかはヒース似てるけどね。それに女の子はパパ似のほうが美人になるらしいよ」 二人はカルミアが起きないように声を潜めたまま笑い合った。笑いを収めると、リコリスはあのさ、と歯切れ悪く切り出した。 「ここからは私のひとりごと。聞き流してくれても、寝ちゃってくれてもいいから」 ヒースは寝返りを打つとリコリスの顔を覗き込んだ。やっぱり、と彼は呟く。雨が降り出す前の空の色のようにリコリスの表情は曇っていた。 「自分の妻がそんな顔をしていて、一人で寝られるような男じゃないよ、俺は。どうしたんだ?」 「あのね、ヒース……私、幸せだった。ううん、今もとって幸せ。だからこそ、怖くなったの」 そうか、と相槌を打つと、ヒースは話の続きを促した。リコリスはぎゅっと目を強く閉じる。瞼の内側が熱い。彼女は話の続きを口にする。 「幸せな時間