เข้าสู่ระบบリコリスとヒースが教会墓地での邂逅を果たしてから一週間。春風駘蕩とした陽気の下、先週とは打って変わってすっきりとした身綺麗な姿でヒースは今日もミュゲへの祈りを捧げていた。花信風が木々を揺らし、春告鳥が楽しげなハーモニーを奏でている。
「天にまします女神リュンヌよ――」 「やあ、ヒース。今日も熱心だね」 ミュゲの墓へヒースが祈りを捧げ終わったころを見計らうように、背後からリコリスは声をかけた。しかし、ヒースが顔を上げ、背後を振り返っても誰もいない。 「こっちだよ、こっち」 少し上から再び声がして、ヒースはそれを振り仰ぐ。蕾が綻び始めた木の太枝の上で、リコリスがひらひらと手を振っていた。 「……何してるんだ」 「何って木登りだけど」 「……」 呆気に取られてヒースが言葉を失うと、リコリスは足をぶらぶらさせながらにんまりと笑う。そして、彼女は中からほんのりと桃色の花びらを覗かせ始めた蕾に手を伸ばしながら、淡々と呟く。 「皆生きてるんだよ。これだって女神リュンヌが創りたもうた生命。誰も気にも留めないけどね」 「そういう神子っぽい台詞は降りてきてからにしてくれないか!?」 そのとき恵風が吹いた。強い春の風はリコリスの修道服の裾を大きく巻き上げ、ドレープの波を描いていった。ヒースは下を向いてそれを見ないようにしてやり過ごすと怒声を上げる。 「とにかく危ないからそこから降りろ!」 「あーらら、怒られちゃった」 リコリスはおどけたように舌を出す。そして、ちょっとそこどいててね、と言うと、枝の上から飛び降りた。反動で木の枝が大きくしなる。 「何やってんだ! 普通に降りろ、普通に!」 「別に怪我しなかったんだからいいじゃん」 「良くない! ってか、いつもこんなことしてるのか!?」 ヒースが問い詰めると、リコリスは露骨に目を逸らす。これはたぶん普段からやっている。とんだじゃじゃ馬だ。先ほどのミサで祈りを捧げていた人物と同一人物だとは到底思えない。 「だって幹を伝って降りるより効率的じゃない? 時短ってやつだよ、時短」 時短なんて言葉、どこで覚えてきたんだ。ミサの後に寄り集まって姦しく喋っている婦人グループたちは彼女にろくな知識を与えない。ヒースは頭が痛くなる思いだった。 「手間を惜しんで怪我をしたらどうするんだ……というか、一緒にいた俺がさすがに教会に怒られるだろ」 「私が勝手にやったって言えば放っておいてくれるよ? ま、手当もしてくれないけどね。あいつら、私が生きてさえいれば、たとえ手足がなくなったとしても構わないっていうか、いっそそのほうが行動を制限できていいくらいに思ってるから」 ヒースは押し黙るとえへんと痰の絡んだ咳払いをした。それはそれ、これはこれだ。この少女の危険な行ないを大人として放っておくわけにはいかない。 「ともかくだ。成人した大人の女だって言うなら、少しは慎みってものを覚えろ。そんなことやって許されるのは日曜学校までだ」 えー、とリコリスは不満そうに抗議の声を上げる。そして、彼女はふいにくすりとくすぐったそうに笑った。 「私にお父さんがいたらこんな感じだったのかな」 「知らねえよ。俺も子供なんて育てたことはないからな。何であれ、お前みたいなじゃじゃ馬の親ってのは骨が折れそうだ」 「自分の役目をきっちり理解して受け入れてるいい子にじゃじゃ馬とかひどくない?」 「だから余計にタチが悪い。お前なんてじゃじゃ馬で充分だ」 リコリスとヒースが軽口を交わし合っていると、頭上の尖塔の鐘が鳴った。午後一時を知らせる音だった。太陽はミサが終わったときよりもほんのわずかに西に傾いている。 「そうだ、お前、教会じゃ大した飯が出ないって言ってただろう? 見様見真似だけど作ってみた」 座れ、と促されてリコリスは先ほど登っていた木の根へと座った。ヒースも付かず離れずの距離を保ったまま、彼女の横に腰を下ろした。ヒースは持っていたバスケットの蓋を開くと、リコリスの方へと押しやった。緊張するやら照れくさいやらで目が大きく泳ぐ。やはり柄にもないことなどするべきではなかったか。 「嫌じゃなかったら食え」 「う、うわあ……」 一体どこから引っ張り出してきたのやら、バスケットからは微かにカビの匂いがする。サンドウィッチもハムとチーズとレタスを挟むだけのシンプルなもののはずだが、具は盛大にパンの下からはみ出し、バスケットの内側は塗りすぎたマヨネーズでまみれていた。 それじゃせっかくだしいただこうかな、とリコリスはマヨネーズまみれのサンドウィッチに手を伸ばす。もう一方の手でこぼれかけた具を支えながら、リコリスは初心者感丸出しのサンドウィッチにかぶりついた。 「――美味しい!」 ハムがでろりとパンの隙間からはみ出たサンドウィッチを手に持ったまま、リコリスはヒースを見て目を輝かせた。こんなに美味しいものは食べたことはない。誇張なしにそう思った。 「それはよかった。……っと、落ちるぞ」 ヒースは仏頂面でリコリスのサンドウィッチからはみ出したハムを押し戻した。リコリスははむはむとサンドウィッチを食べながら、こう告白した。 「私、初めてなんだよね。誰かが私っていう個人のために料理を作ってもらうの」 初めて? とヒースは訝しげに眉を顰めた。一応教会で食事を用意してくれているという話ではなかっただろうか。 ヒースがそれを口にすると、リコリスは乾いた笑いを浮かべながらパンの間のレタスを行儀悪く口で引っ張り出して飲み込んだ。リコリスはもう一口サンドウィッチを頬張ると、口をもぐもぐさせながら話を続ける。 「私の食事は所詮他のシスターたちのついで。時には私の分がないことだってあるよ」 食事がないのは神子に対する静かな嫌がらせではないだろうか。いくらリコリスの出自が不明瞭とはいえ、立場のある人間に対してする仕打ちじゃない。教会の上層部はそれを止めるでもなく、ただ黙って見過ごしているのだろうか。 「上の人間には訴えたのか? 枢機卿団の誰かとか、それこそ教皇聖下とか」 「そんなの何年も前にやってるよ。そしたら、清貧は女神リュンヌの教えだ、神子たる者が率先して守らなくてどうするとかなんとかいなされた」 リコリスの口からあっけらかんと語られた言葉にヒースの眉間の皺が深くなる。リコリスはマヨネーズのついた人差し指をぺろりと舐めると、ヒースの胸の内を言い当てた。 「あ、今、腐ってるって思ったでしょ? そんなの昨日今日の話じゃないよ。何十世紀も前、女神リュンヌの教えが薄れ始めたころから教会はこう」 「……そうか」 ヒースも自分の分のサンドウィッチを手に取り、齧った。パンの間から押し出されたマヨネーズがヒースの手をべっとりと汚す。 悪くはないな。ヒースはそう独りごちた。悪くはないだけで決して美味いわけではない。 (味気なかった食事も誰かと食べるだけで――それも美味いと言ってくれる誰かと食べるだけでこうも違うものか) この一週間、ヒースは材料を切って調味料を計って煮込むだけの簡単な料理だからという理由でシチューやスープと格闘してきた。しかし結果はふるわず、鍋をどうしようもないレベルで黒焦げにするばかりだった。気づけば一週間で七回も新しい鍋を買いに金物屋に走る羽目になり、金物屋の店主も色々な意味でびっくりしていた。 「つい一週間前に料理を始めたばかりのど素人の飯だ。無理しなくていい。ただ、不味くないなら残さず食べてくれると嬉しい」 ついついぶっきらぼうな調子になりながら、ヒースはそう口にする。すると、具がなくなってパンだけになったサンドウィッチを齧りながら、リコリスがうんと頷いた。隣に座る少女の横顔はとても幸せそうにヒースの目に映った。 「ごちそうさま。美味しかった」 次回も期待してるね、とリコリスはヒースへと秋波を送った。リコリスがごそごそとポケットから真っ白なハンカチを引っ張り出している横で、ヒースはサンドウィッチの残りを飲み込んだ。 「気が向けばな」 ヒースがマヨネーズで汚れた手をダークブラウンのシャツの裾で拭おうとしていると、それに気づいたリコリスがさっと自分が持っていたハンカチを握らせてきた。リコリスは夥しい数の傷があるヒースの手を見ると目を瞠った。どの傷も刃物で切ったものとわかる傷で、いずれもまだ新しいものだ。 「もしかして、これを作るために怪我したの?」 「妻が亡くなってから料理なんてしてなかったから、包丁が錆びてなまくらになっちまってたもんだから」 「金物屋さんで新しいのを買えばいいんじゃない?」 そうリコリスが提案すると、否とヒースはかぶりを振った。あれは思い入れのある品だ。そうそう手放したくはない。 「うちにある包丁は妻が生前使ってたものなんだ。この一週間で鍋をいくつもだめにしちまった以上、せめて包丁くらいは妻のものを使いたい」 「それでもどのみち金物屋さんに相談じゃないかな。たぶん研いでくれると思う。ヒースが私のために何か作ってくれるのは嬉しいけど、そのために毎度毎度怪我してるんじゃ見てられないよ」 リコリスから渡されたハンカチで手を拭ううち、妻の生前もこういうことがよくあったな、とヒースは思う。死期が近づくにつれて、その回数が上がっていたのを覚えている。 「ねえ、今、奥さんと重ねたでしょ」 う、とヒースは言葉に詰まる。あくまでも別の女性といるにもかかわらず、妻と目の前の少女を重ねてしまうのはリコリスに失礼だ。リコリスはにぃっと笑うと、からかうようにヒースの顔を上目遣いに覗き込む。 「女の勘。舐めないでよね。そういうのちゃんとわかるんだから」 悪かった、とヒースは素直に詫びの言葉を口にした。そして、汚してしまったハンカチを畳むと、自分のズボンのポケットにしまおうとする。 「これ洗濯して来週返す」 「ヒース、あなた洗濯できるの?」 「……生きるのに困らない必要最低限は……」 言いづらそうにか細い声でそう言ったヒースの手の中からリコリスはひょいとハンカチを抜き取った。多分、この様子だと料理だけではなく、洗濯もさして得意ではないだろう。 「じゃあいいよ、こっちで洗濯に出しておくから。特に名前入りのものでもないし、誰が出したかなんてばれやしないし」 これもどうせ洗濯物の山から適当に持ってきたやつだしねーとリコリスは宣った。だから汚していいなんて道理はどこにもないのだが。 「すまんな、悪い。助かる」 いーえ、とリコリスはなんてことはないように返し、汚れが内側になるようにハンカチを四つ折りにしてポケットにしまい直した。そして、リコリスは自分の手でヒースの両の手を握ると、目を閉じる。「一体何を……?」ヒースは戸惑いの声を上げる。 「――天にまします女神リュンヌよ、彼(か)の者を癒し給え」 リコリスの両手からほんのりと青い光が溢れ出し、ヒースの手を包んだ。リコリスの赤い瞳は瞼の裏から青い光を放ち、修道服の首元からも同じ色の淡い光が漏れ出していた。 ヒースの手の切り傷が消えていくのとともに、リコリスから溢れ出ていた光もすうっと消えていった。彼女が瞼を開くと、瞳の色も元の柘榴のような赤へと戻っていた。 「今のは……?」 「サンドウィッチのお礼だよ。もう怪我しないでね」 「それはありがたいんだが、そういうことじゃなく……」 「ああ、さっきの? あれは天恵の力」 「天恵の……?」 「神子が天恵をまともに扱えないなんて、洒落にならないからね。力の使い方のコツを掴むまではまあまあ大変だった」 天恵が使えない神子など神子として認められない。選定の儀の後、正式に神子となったリコリスに対してねちねちと嫌味を言ってくる者も多くいた。彼らを黙らせるために、リコリスは血を吐く努力を重ねたのだ。 「苦労してるんだな」 ヒースの言葉にどうだろうな、とリコリスは赤い目を細めた。自分が恵まれているとは思わないが、恵まれていないとも思わない。 「私よりも恵まれない境遇にある人間なんてそこら中に掃いて捨てるほどいる。私は一応衣食住が保証されてるだけマシな方だよ」 このレーツェル大陸には住むところもなく、そのは食べるものすら事欠く人間がごまんといる。聖グラース教会の総本山であるこの街・ディオースにすら、そのような人々は少なからず存在している。そういった人々にとって天恵の神子は世界の希望だった。彼女の力によって聖月暦六〇一五年九月十四日。その日はからりと晴れた気持ちのいい日だった。夏の残滓が青空から降り注ぎ、少し動くと肌がしっとりと汗で濡れる。少女は水で墓石を清めると、布で拭きあげていく。汚れた雑巾をバケツの中に突っ込むと彼女はふうと息を吐いた。 マルシェの花屋で買ってきた花を少女は墓前に備えた。蜘蛛の足のように伸びた雄蕊。細くそり返った花びら。そして何より特徴的な鮮やかな赤。それは見る人が見ればある人物を彷彿とするものだった。 「悪いな、カルミア。全部やらせてしまって」 「別にいいよ。父さんは腰が悪いんだから、墓掃除はきついでしょ」 カルミアは年々母親――リコリスに似てきたとヒースは思う。鳶色の双眸はヒース譲りだが、それ以外の面差しだったりちょっとした物言いなんかが彼女にそっくりだ。 気がつけばリコリスが逝ってから十五年が経った。あのころは一歳だったカルミアも今や立派な成人だ。リコリスがいなくなってからしばらくの間はまだ赤ん坊のカルミアをどう育てたものかと悩んだものだが、リコリスに恥ずかしくない程度にはきちんと育ててやれたと思う。リコリスと過ごした日々があったからこそ、ミュゲのときとは違って、自分は今度は前を向いて生きてこられた。 今日はリコリスの命日であり誕生日でもある。彼女が神子でもなんでもない普通の人間で、この十五年を過ごしていれば、ちょうど三十四歳になっていたはずだ。もし生きていたら、彼女はどんな女性になっていただろう。 墓前に供えた花――彼女の名を冠するその花はカルミアが選んだものだ。供えるにはあまり向かない花だが、リコリスの目を思い出すからとカルミアが持って行きたがった。 カルミアは終滅の夜の儀式のことをあまりよく覚えていない。覚えているのは辺り一面が青い光で輝いていたということと、何となく怖かったということだ。 「今年も来たよ。――母さん」 カルミアは墓前で膝を折ってかがみ込むと、燭台に蝋燭を立てる。青いチュニックワンピースのポケットへ手を突っ込むと、先日の誕生日にもらったキーケースが指先に触れた。彼女はそのままポケットの中を探り、マッチを取り出すと、擦って蝋燭に火をつける。マッチを振って火を消すと、カルミアはぞんざいにマッチの燃え滓を水の入ったバケツに投げ込んだ。水面がじゅっという音を立てる。 カ
「――我が右手は冥き闇を切り裂き、世界を光へ導かん。左手は新たな千年の未来を紡がんとする――」 リコリスはこの日のために一言一句違わずに頭に叩き込んだ文句を滔々と誦じていく。見上げた空に浮かぶ満月は血の赤に侵されている。 (早くしないと世界が終わる……) あの月が完全に赤に染まってしまえば、世界は何者も抗えない闇に覆われるとされている。闇は生きとし生けるもののすべての生命を刈り取り、世界は空も大地も海もない無に還るのだという。そう聖典に記されている。 「神子アプローズ。世界に闇が降りるまで後三十分もない。急いでくれ」 リコリスの背後に控えていた仕立てのいい法衣に身を包んだ老年の男――教皇はしわがれた淡々とした声で彼女をせき立てた。予定の段階では余裕があったはずの儀式のスケジュールがこんなに押しているのは誰のせいだと言いたくなったが、「わかっております、聖下」リコリスは目と首元に天恵の青い光を宿したまま、恭しく頭を下げた。刺繍の施された白いベールがさらりと揺れる。 そのとき、教会前の広場がざわざわとさざめき立ったのをリコリスの聴覚が捉えた。まさか、とありえない予感が彼女の背筋を駆け抜ける。ヒースとは今朝、しっかりとお別れを済ませてきたはずなのに。心臓が早鐘を打つのを無視して、リコリスは祝詞の続きへと戻る。普通の儀式ならいざ知らず、今日だけは一秒でもその瞬間が遅れれば世界が終わる。 「――この目は次の未来を見通し、この唇は続く世界を寿ぐだろう。そして――」 「――リコリス!」 塔の下から自分を呼ぶ声がする。リコリスは鐘楼から身を乗り出して、下を覗き込む。天恵の青い光に照らされて、男と赤ん坊が僧兵たちに取り押さえられようとしていた。 (ヒース……カルミアまで……!) リコリスの視界がじわりと滲む。もう会えないと思っていた二人がこうして無茶をして会いにきてくれた。嬉しいやら腹立たしいやらで感情がぐちゃぐちゃになる。 「――ヒースの馬鹿! こんなところまで何しに来たの!?」 「ただ、ただ一目会いたかったんだよ、悪いか! 愛する妻を独りで死なせて、儀式が終わるのをのうのうと待っていられるほど俺は神経が太くないんだよ!」 「本当に、馬鹿っ……!」 リコリスの頬を涙が伝う。涙と一緒に燐光が彼女の眼窩から溢れ出す。 「私の覚悟
ベッドルームでカルミアを遊ばせながら、ヒースは暮れていく空を眺めていた。リコリスは今どうしているのだろう。きちんと見送ると決めていたが、あれで本当に良かったのだろうか。「うあああああん」 カルミアが泣く声が聞こえる。ヒースは愛娘へと視線を落とした。どこかに身体をぶつけた様子はない。おしめも確認したが汚れているようではない。恐らく腹が減ったのだろう。「飯か。ちょっと待ってろ」 たとえ世界が滅亡の危機に瀕していても腹は減る。カルミアはリコリスがこの家を出てから断続的にぐずり続けていたので、ヒースよりもよほど腹が減っているだろう。 リコリスには怒られそうだが、今はとても離乳食を作れる気分ではない。ヒースはキッチンへと向かうと、マッチを擦って竈に火を入れる。目分量で牛の乳を注ぐと、小鍋を火にかけた。 鍋の内側で白い液体が小さな泡を立て始める。こんなものか、とあたりをつけるとヒースは哺乳瓶に白い液体を移し替えた。「ちょっと熱いか」 乳児に与える乳の温度は人肌くらいが望ましい。リコリスがいつも口を酸っぱくしてヒースに言っていたことだ。そんななんてことのない記憶がヒースの心をざわめかせる。呆れたようなあの声音が脳裏に蘇る。ヒースは手の中で哺乳瓶をころころと転がし、熱を冷ましていく。しばらくして、哺乳瓶が程よい温度になると、ヒースは哺乳瓶の中身を一滴手の甲に垂らした。この分なら問題はなさそうだ。「カルミア、お待たせ」 ヒースは掴まり立ちでダイニングテーブルから彼の作業を覗いていたカルミアに声をかけると、抱き上げてベビーチェアに座らせる。ヒースもダイニングチェアに腰を下ろすと、カルミアに哺乳瓶を持たせてやった。愛娘はニップルに吸い付き、ミルクを飲み始めた。 ヒースはその様子を横目にダイニングテーブルの籠に盛られた黒パンに手を伸ばす。自分も何か食べないとという義務感に駆られて、ちぎった黒パンを口の中に放り込むが、それは硬いばかりで何の味もしなかった。(あいつ――リコリスのほうがずっと大人だ。あいつの前ではああやって大人ぶってみせたけど、やっぱり俺はあいつが死ぬなんて嫌だ) リコリスがいなくなって、すぐに彼女のいない生活に切り替えられるほど器用じゃない。だからこそ、ミュゲを亡くしたときも五年も引きずったのだ。リコリスがいなければいまだにミュゲのことを引きずっ
大きな木桶の中でリコリスはふう、とため息をついた。今ごろカルミアは泣き喚いていないだろうか。そんなことを考えながら、彼女は青い薔薇の花びらが浮いた水面を見つめた。 「アプローズ様、お背中を」 十二人の枢機卿団の面々による衆人環視の中、シスターたちによってリコリスは立たされると、泡のついた布で背中を磨かれていく。その手は腕へ、尻へ、そして体の前面へと伸びていく。胸、腹、脚とシスターたちはリコリスの身体を磨いていく。 「アプローズ様、御髪を失礼します」 シスターたちは淡々と水の張られた盤を持ってきて、思いっきりリコリスの頭にぶっ掛けた。髪が水分でべったりと顔と首筋に張り付き、リコリスの体についた泡が洗い流されて起伏の少ない細い裸体が露わになった。 「ふうん、この貧相な身体があの男を籠絡したのね」 「あの男の趣味が特殊だっただけかもしれないわよ。前の奥さんも体格には恵まれていなかったらしいから」 シスターたちがひそひそと囁き交わす。自分のことはともかく、ヒースのことを悪く言われる筋合いはない。ぎろり、とリコリスはシスターたちを視線で黙らせる。 「アプローズ様、お座りください。御髪を清めますので」 慇懃無礼な物言いに逆らうことなく、リコリスは木桶の中に身を沈める。青い花びらが肌に纏わりついて鬱陶しい。栗毛のシスター――ティリアは粉状のものを泡立てると、リコリスの頭へと指を這わせる。そして、彼女はがしがしとリコリスの頭皮に爪を立てた。 髪がめちゃくちゃに引っ張られる。ぶちぶちと音を立てて髪が何本も千切れたが、ティリアは意に介したふうもない。 「こんなのが神子だなんて。女神は世界を見放したんだわ」 「首の痣も本当に本物なんだか。あの男につけてもらったものなんじゃないかしら。穢らわしい、淫らだわ」 「あなたたち。神聖な儀式の最中で恥ずかしくないのか。それでは、女神リュンヌに見放されたとしても文句は言えないよ。黙って自分たちの仕事を全うするといい」 リコリスがシスターたちを淡々と諌めると、何よ、と灰色の髪をシニヨンにまとめたシスター――シレーヌが水の組まれた手桶を振りかぶる。リコリスはシレーヌにそれを投げつけられ、顔面から水を浴びた。気管に水が入り込み、リコリスはけほけほと咳き込んだ。 からんからん、と音を立てて床に手桶が転がる。泡混
聖月暦六〇〇〇年九月十四日。目覚めたリコリスは遂にこの日が来てしまったと思った。カーテンの外に見える皎天の下、昨夜のうちに降った秋霖の雫が朝日にきらきらと反射していた。 最期にもう少しだけこのひとときを味わっていたくて、リコリスは枕に顔を埋める。あと少し。もう少しだけなら、女神もきっと見逃してくれる。リコリスにはもう二度と朝は来ないのだから。横にはぐうぐうと寝息を立てて眠っている大好きな人の横顔がある。きっと他人から見れば冴えないおじさんなのだろうけれど、その存在が愛おしい。 「ん……う?」 リコリスの視線に気付いたのか、ヒースがもぞもぞと動く。ヒースは傍らのリコリスに視線をやると、眠い目をこすりながらおはようと目覚めを告げた。おはよう、と返すリコリスの母も常とは変わらない調子だ。これが最後だとは思えないほど普通の朝だった。 「カルミアは?」 「まだ寝てるよ。先に朝ごはんにしちゃおう」 リコリスはベッドから体を起こす。キッチンへと向かおうとしたその細い身体にヒースは腕を回して引き止める。リコリスと二人きりの時間を過ごせるのはこれが最後だ。覚悟を決めたリコリスをきっと困らせてしまうとわかっていたけれど、どうしてもそうせずにはいられなかった。 「あっ、もう。ヒースってばどうしたの?」 「俺がもうちょっとだけこうしていたいだけだ。駄目か?」 「……まったく、本当に仕方のない人なんだから」 リコリスは呆れたように微苦笑すると、ベッドのふちに腰を下ろす。ヒースは背後からリコリスを抱き寄せるとうなじにキスを落とした。 「あっ、こら、駄目だってば」 「安心しろ。痕はつけないから」 当たり前でしょ、とリコリスは頬を膨らませる。夕方前には教会で沐浴の儀があるというのに、そんなものをつけていれば教会の人間に何か嫌味を言われるのは疑いない。 (やっぱりつけてもらえばよかったかな。でもそういうことをすることで、ヒースやカルミアに矛先が向いたら嫌だし。――いや、そんなこと言っても今更か) 「なあ、今日は教会には何時に行けばいいんだ?」 「十二時。儀式が夜だから今日はゆっくりでいいみたい」 「それなら、もう少しこうしてられるな」 そういうと、ヒースは右腕をほどき、ベッドサイドテーブルの引き出しへと伸ばす。がさがさと中をまさぐり、目的のものを見
すう、すう、と安らかな寝息が聞こえる。夏も終わりに近づき、家の外では虫たちが子守唄を奏でている。かち、かち、と時計の秒針が動く音が響く。一体今は何時なのだろうとリコリスは上体を起こすと、闇に目を凝らした。ざっとシーツが擦れた。 「ん……リコリス、どうした?」 リコリスが動いたことで目を覚ましたのか、ヒースがむにゃむにゃと眠そうな声で聞いてくる。なんでもないよ、とリコリスは再びシーツの間に体を沈めた。 時計の秒針は変わらず一定の間隔で時を刻んでいく。どのくらいの時間が経っただろうか。わずか五分だったかもしれないし、一時間くらい経っていたかもしれない。リコリスは寝返りを打つとヒースの背へと自分の身体を寄せた。 「――ヒース、起きてる?」 リコリスの囁く声にああ、と低いヒースの声が返ってきた。聞き慣れて耳馴染みのいい、少し掠れた大切な人の声だ。 「リコリス、眠れないのか?」 ちょっと考え事、とリコリスの声がささめく。リコリスはぎゅっとヒースの背中にしがみつく。ふわっと蒸れた寝汗の匂いが鼻腔をついた。そんなことすらが愛おしい。 「ヒースは今、幸せ? 私といて、幸せだった?」 「過去形にするなよ。未来永劫、俺は世界で一番幸せな男だよ。俺の幸せを望んでくれた人がいて、絶望の淵から引っ張り上げてまた明るい道を歩かせてくれた人がいて。それに可愛い娘にも恵まれて。あの子はお前によく似た子になるぞ。目鼻立ちがそっくりだ」 「口元なんかはヒース似てるけどね。それに女の子はパパ似のほうが美人になるらしいよ」 二人はカルミアが起きないように声を潜めたまま笑い合った。笑いを収めると、リコリスはあのさ、と歯切れ悪く切り出した。 「ここからは私のひとりごと。聞き流してくれても、寝ちゃってくれてもいいから」 ヒースは寝返りを打つとリコリスの顔を覗き込んだ。やっぱり、と彼は呟く。雨が降り出す前の空の色のようにリコリスの表情は曇っていた。 「自分の妻がそんな顔をしていて、一人で寝られるような男じゃないよ、俺は。どうしたんだ?」 「あのね、ヒース……私、幸せだった。ううん、今もとって幸せ。だからこそ、怖くなったの」 そうか、と相槌を打つと、ヒースは話の続きを促した。リコリスはぎゅっと目を強く閉じる。瞼の内側が熱い。彼女は話の続きを口にする。 「幸せな時間







