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第二章:寄り添い合う二人に祝福を①

ผู้เขียน: 七森香歌
last update วันที่เผยแพร่: 2026-08-17 08:18:03

 リコリスとヒースが教会墓地での邂逅を果たしてから一週間。春風駘蕩とした陽気の下、先週とは打って変わってすっきりとした身綺麗な姿でヒースは今日もミュゲへの祈りを捧げていた。花信風が木々を揺らし、春告鳥が楽しげなハーモニーを奏でている。

「天にまします女神リュンヌよ――」

「やあ、ヒース。今日も熱心だね」

 ミュゲの墓へヒースが祈りを捧げ終わったころを見計らうように、背後からリコリスは声をかけた。しかし、ヒースが顔を上げ、背後を振り返っても誰もいない。

「こっちだよ、こっち」

 少し上から再び声がして、ヒースはそれを振り仰ぐ。蕾が綻び始めた木の太枝の上で、リコリスがひらひらと手を振っていた。

「……何してるんだ」

「何って木登りだけど」

「……」

 呆気に取られてヒースが言葉を失うと、リコリスは足をぶらぶらさせながらにんまりと笑う。そして、彼女は中からほんのりと桃色の花びらを覗かせ始めた蕾に手を伸ばしながら、淡々と呟く。

「皆生きてるんだよ。これだって女神リュンヌが創りたもうた生命。誰も気にも留めないけどね」

「そういう神子っぽい台詞は降りてきてからにしてくれないか!?」

 そのとき恵風が吹いた。強い春の風はリコリスの修道服の裾を大きく巻き上げ、ドレープの波を描いていった。ヒースは下を向いてそれを見ないようにしてやり過ごすと怒声を上げる。

「とにかく危ないからそこから降りろ!」

「あーらら、怒られちゃった」

 リコリスはおどけたように舌を出す。そして、ちょっとそこどいててね、と言うと、枝の上から飛び降りた。反動で木の枝が大きくしなる。

「何やってんだ! 普通に降りろ、普通に!」

「別に怪我しなかったんだからいいじゃん」

「良くない! ってか、いつもこんなことしてるのか!?」

 ヒースが問い詰めると、リコリスは露骨に目を逸らす。これはたぶん普段からやっている。とんだじゃじゃ馬だ。先ほどのミサで祈りを捧げていた人物と同一人物だとは到底思えない。

「だって幹を伝って降りるより効率的じゃない? 時短ってやつだよ、時短」

 時短なんて言葉、どこで覚えてきたんだ。ミサの後に寄り集まって姦しく喋っている婦人グループたちは彼女にろくな知識を与えない。ヒースは頭が痛くなる思いだった。

「手間を惜しんで怪我をしたらどうするんだ……というか、一緒にいた俺がさすがに教会に怒られるだろ」

「私が勝手にやったって言えば放っておいてくれるよ? ま、手当もしてくれないけどね。あいつら、私が生きてさえいれば、たとえ手足がなくなったとしても構わないっていうか、いっそそのほうが行動を制限できていいくらいに思ってるから」

 ヒースは押し黙るとえへんと痰の絡んだ咳払いをした。それはそれ、これはこれだ。この少女の危険な行ないを大人として放っておくわけにはいかない。

「ともかくだ。成人した大人の女だって言うなら、少しは慎みってものを覚えろ。そんなことやって許されるのは日曜学校までだ」

 えー、とリコリスは不満そうに抗議の声を上げる。そして、彼女はふいにくすりとくすぐったそうに笑った。

「私にお父さんがいたらこんな感じだったのかな」

「知らねえよ。俺も子供なんて育てたことはないからな。何であれ、お前みたいなじゃじゃ馬の親ってのは骨が折れそうだ」

「自分の役目をきっちり理解して受け入れてるいい子にじゃじゃ馬とかひどくない?」

「だから余計にタチが悪い。お前なんてじゃじゃ馬で充分だ」

 リコリスとヒースが軽口を交わし合っていると、頭上の尖塔の鐘が鳴った。午後一時を知らせる音だった。太陽はミサが終わったときよりもほんのわずかに西に傾いている。

「そうだ、お前、教会じゃ大した飯が出ないって言ってただろう? 見様見真似だけど作ってみた」

 座れ、と促されてリコリスは先ほど登っていた木の根へと座った。ヒースも付かず離れずの距離を保ったまま、彼女の横に腰を下ろした。ヒースは持っていたバスケットの蓋を開くと、リコリスの方へと押しやった。緊張するやら照れくさいやらで目が大きく泳ぐ。やはり柄にもないことなどするべきではなかったか。

「嫌じゃなかったら食え」

「う、うわあ……」

 一体どこから引っ張り出してきたのやら、バスケットからは微かにカビの匂いがする。サンドウィッチもハムとチーズとレタスを挟むだけのシンプルなもののはずだが、具は盛大にパンの下からはみ出し、バスケットの内側は塗りすぎたマヨネーズでまみれていた。

 それじゃせっかくだしいただこうかな、とリコリスはマヨネーズまみれのサンドウィッチに手を伸ばす。もう一方の手でこぼれかけた具を支えながら、リコリスは初心者感丸出しのサンドウィッチにかぶりついた。

「――美味しい!」

 ハムがでろりとパンの隙間からはみ出たサンドウィッチを手に持ったまま、リコリスはヒースを見て目を輝かせた。こんなに美味しいものは食べたことはない。誇張なしにそう思った。

「それはよかった。……っと、落ちるぞ」

 ヒースは仏頂面でリコリスのサンドウィッチからはみ出したハムを押し戻した。リコリスははむはむとサンドウィッチを食べながら、こう告白した。

「私、初めてなんだよね。誰かが私っていう個人のために料理を作ってもらうの」

 初めて? とヒースは訝しげに眉を顰めた。一応教会で食事を用意してくれているという話ではなかっただろうか。

 ヒースがそれを口にすると、リコリスは乾いた笑いを浮かべながらパンの間のレタスを行儀悪く口で引っ張り出して飲み込んだ。リコリスはもう一口サンドウィッチを頬張ると、口をもぐもぐさせながら話を続ける。

「私の食事は所詮他のシスターたちのついで。時には私の分がないことだってあるよ」

 食事がないのは神子に対する静かな嫌がらせではないだろうか。いくらリコリスの出自が不明瞭とはいえ、立場のある人間に対してする仕打ちじゃない。教会の上層部はそれを止めるでもなく、ただ黙って見過ごしているのだろうか。

「上の人間には訴えたのか? 枢機卿団の誰かとか、それこそ教皇聖下とか」

「そんなの何年も前にやってるよ。そしたら、清貧は女神リュンヌの教えだ、神子たる者が率先して守らなくてどうするとかなんとかいなされた」

 リコリスの口からあっけらかんと語られた言葉にヒースの眉間の皺が深くなる。リコリスはマヨネーズのついた人差し指をぺろりと舐めると、ヒースの胸の内を言い当てた。

「あ、今、腐ってるって思ったでしょ? そんなの昨日今日の話じゃないよ。何十世紀も前、女神リュンヌの教えが薄れ始めたころから教会はこう」

「……そうか」

 ヒースも自分の分のサンドウィッチを手に取り、齧った。パンの間から押し出されたマヨネーズがヒースの手をべっとりと汚す。

 悪くはないな。ヒースはそう独りごちた。悪くはないだけで決して美味いわけではない。

(味気なかった食事も誰かと食べるだけで――それも美味いと言ってくれる誰かと食べるだけでこうも違うものか)

 この一週間、ヒースは材料を切って調味料を計って煮込むだけの簡単な料理だからという理由でシチューやスープと格闘してきた。しかし結果はふるわず、鍋をどうしようもないレベルで黒焦げにするばかりだった。気づけば一週間で七回も新しい鍋を買いに金物屋に走る羽目になり、金物屋の店主も色々な意味でびっくりしていた。

「つい一週間前に料理を始めたばかりのど素人の飯だ。無理しなくていい。ただ、不味くないなら残さず食べてくれると嬉しい」

 ついついぶっきらぼうな調子になりながら、ヒースはそう口にする。すると、具がなくなってパンだけになったサンドウィッチを齧りながら、リコリスがうんと頷いた。隣に座る少女の横顔はとても幸せそうにヒースの目に映った。

「ごちそうさま。美味しかった」

 次回も期待してるね、とリコリスはヒースへと秋波を送った。リコリスがごそごそとポケットから真っ白なハンカチを引っ張り出している横で、ヒースはサンドウィッチの残りを飲み込んだ。

「気が向けばな」

 ヒースがマヨネーズで汚れた手をダークブラウンのシャツの裾で拭おうとしていると、それに気づいたリコリスがさっと自分が持っていたハンカチを握らせてきた。リコリスは夥しい数の傷があるヒースの手を見ると目を瞠った。どの傷も刃物で切ったものとわかる傷で、いずれもまだ新しいものだ。

「もしかして、これを作るために怪我したの?」

「妻が亡くなってから料理なんてしてなかったから、包丁が錆びてなまくらになっちまってたもんだから」

「金物屋さんで新しいのを買えばいいんじゃない?」

 そうリコリスが提案すると、否とヒースはかぶりを振った。あれは思い入れのある品だ。そうそう手放したくはない。

「うちにある包丁は妻が生前使ってたものなんだ。この一週間で鍋をいくつもだめにしちまった以上、せめて包丁くらいは妻のものを使いたい」

「それでもどのみち金物屋さんに相談じゃないかな。たぶん研いでくれると思う。ヒースが私のために何か作ってくれるのは嬉しいけど、そのために毎度毎度怪我してるんじゃ見てられないよ」

 リコリスから渡されたハンカチで手を拭ううち、妻の生前もこういうことがよくあったな、とヒースは思う。死期が近づくにつれて、その回数が上がっていたのを覚えている。

「ねえ、今、奥さんと重ねたでしょ」

 う、とヒースは言葉に詰まる。あくまでも別の女性といるにもかかわらず、妻と目の前の少女を重ねてしまうのはリコリスに失礼だ。リコリスはにぃっと笑うと、からかうようにヒースの顔を上目遣いに覗き込む。

「女の勘。舐めないでよね。そういうのちゃんとわかるんだから」

 悪かった、とヒースは素直に詫びの言葉を口にした。そして、汚してしまったハンカチを畳むと、自分のズボンのポケットにしまおうとする。

「これ洗濯して来週返す」

「ヒース、あなた洗濯できるの?」

「……生きるのに困らない必要最低限は……」

 言いづらそうにか細い声でそう言ったヒースの手の中からリコリスはひょいとハンカチを抜き取った。多分、この様子だと料理だけではなく、洗濯もさして得意ではないだろう。

「じゃあいいよ、こっちで洗濯に出しておくから。特に名前入りのものでもないし、誰が出したかなんてばれやしないし」

 これもどうせ洗濯物の山から適当に持ってきたやつだしねーとリコリスは宣った。だから汚していいなんて道理はどこにもないのだが。

「すまんな、悪い。助かる」

 いーえ、とリコリスはなんてことはないように返し、汚れが内側になるようにハンカチを四つ折りにしてポケットにしまい直した。そして、リコリスは自分の手でヒースの両の手を握ると、目を閉じる。「一体何を……?」ヒースは戸惑いの声を上げる。

「――天にまします女神リュンヌよ、彼(か)の者を癒し給え」

 リコリスの両手からほんのりと青い光が溢れ出し、ヒースの手を包んだ。リコリスの赤い瞳は瞼の裏から青い光を放ち、修道服の首元からも同じ色の淡い光が漏れ出していた。

 ヒースの手の切り傷が消えていくのとともに、リコリスから溢れ出ていた光もすうっと消えていった。彼女が瞼を開くと、瞳の色も元の柘榴のような赤へと戻っていた。

「今のは……?」

「サンドウィッチのお礼だよ。もう怪我しないでね」

「それはありがたいんだが、そういうことじゃなく……」

「ああ、さっきの? あれは天恵の力」

「天恵の……?」

「神子が天恵をまともに扱えないなんて、洒落にならないからね。力の使い方のコツを掴むまではまあまあ大変だった」

 天恵が使えない神子など神子として認められない。選定の儀の後、正式に神子となったリコリスに対してねちねちと嫌味を言ってくる者も多くいた。彼らを黙らせるために、リコリスは血を吐く努力を重ねたのだ。

「苦労してるんだな」

 ヒースの言葉にどうだろうな、とリコリスは赤い目を細めた。自分が恵まれているとは思わないが、恵まれていないとも思わない。

「私よりも恵まれない境遇にある人間なんてそこら中に掃いて捨てるほどいる。私は一応衣食住が保証されてるだけマシな方だよ」

 このレーツェル大陸には住むところもなく、そのは食べるものすら事欠く人間がごまんといる。聖グラース教会の総本山であるこの街・ディオースにすら、そのような人々は少なからず存在している。そういった人々にとって天恵の神子は世界の希望だった。彼女の力によって終滅の夜エクリプスを越えれば、何かが変わる、と。

「それはそうと、この前は私のくだらない生い立ちの話ばっかりだったでしょ? せっかくこうやって話してるんだから、リコリスっていう個人をもっとヒースに知って欲しい」

「たとえばどんなことだ?」

「好きなものや嫌いなものとかかな。私のも知ってほしいし、ヒースのも知りたい」

 はあ、とヒースはきらきらとした目でそんなことを話すリコリスに少し置いていかれる形で相槌を打つ。いきいきと楽しそうに話すリコリスの双眸はルビーのように綺麗だった。

「私、今もまだピーマンとにんじんが苦手なんだよね」

「ピーマンとにんじんに関しては俺も子供の頃苦手だったからわからなくもないな。だけど、それって子供のうちに克服して卒業しとくやつだろ」

「子供のころって言われても……たぶん私の子供時代って普通とはだいぶ違うんだろうし」

「あ……」

 ヒースは己の失言に気づいた。確かに捨て子だったところを教会に保護され、神子として生きることを強要されてきた彼女の波瀾万丈な半生を思えば、ちょっとした食べ物の好き嫌いを克服する機会さえ与えられなかったのは想像に難くない。

「ま、人生いろいろ、世の中にはそういう人もいるってことで」

「……なんか逆に気を使わせちまったな。悪い」

 リコリスは心底気にしてないといったふうに、顔の前で片手をひらひらと振った。にっとした朗らかな笑顔が逆に心に痛い。

「別に気にしないで。それで、嫌いなものなんだけど、他にもブロッコリーとカリフラワーとアスパラガスが――」

「ちょっと待て、嫌いなもの多いな!?」

「だって上のモサモサしたところとか青臭いのが苦手なんだよ。ヒースは何かないの? 苦手なもの」

「俺はあたり構わずぺちゃくちゃとしゃべり散らしている女たちの集団が苦手だ。しかもあいつらときたら、ミサの後の大聖堂だけじゃなく、マルシェにも公園にも広場にもどこにだっていやがるときてる」

 ああ、とリコリスは苦笑する。それに関してはリコリスも彼の言葉に全面的に同意だ。

「私もあれは苦手だしどうかと思うよ。なるほど、ヒースの好みは知的で物静かな女性か。亡くなった奥さんっていかにもそんな感じだったもんね」

「もしかして、お前、ミュゲのことも知って……?」

 もちろん知ってるよ、とリコリスは頷く。プラチナブロンドの髪に緑の目の儚げな女性の姿は今も思い出せる。

「毎週ミサに来てくれる熱心な信徒だったからね、覚えているよ。病に倒れるまでは、ヒースと一緒に来ていた女性だろう? ヒースと同じ年くらいの」

「よく見ているな……」

「知ってる? 祭壇から会衆席って結構よく見えるんだよ。居眠りしてる人なんて一発でわかる」

 ヒースは大聖堂内での振る舞いには気をつけようと心に決めた。うっかりリコリスを目で追ってでもいようものなら、ミサ後のこの時間に揶揄われることは疑いない。

「そういう苦手なら、私も枢機卿団の連中が苦手だな。どうやらどこの家で私を養子にするかで争っているみたいで」

「十二家の中でも神子を擁する家の権力が高まるからか?」

「そういうこと。特に現在の教皇を排出したコルティス家が私を引き入れたがっている。そうしたら、他の十一家は決してコルティス家に逆らえなくなるからね」

 リコリスがどろどろとした教会の内情をさらりと言ってのけると、ヒースはげんなりとした顔をした。出自の知れない彼女に辛く当たってみせたと思えば、出世の道具として利用しようとする。清く正しい教会は、聖なる女神の教えは一体どこへ行ってしまったのか。

「と、まあ、嫌いなものの話はこんなところにして、と。次は好きなものの話をしようか。

 私が好きなものはイチゴやブドウかな。寄進があったときにたまに一粒くらいだけわけてもらえることがあるんだけど、それがもう美味しくて美味しくて」

「イチゴなら今が時期だし、来週持ってきてやろうか? 確かマルシェで売ってたはず」

「それもいいけど、カフェ・オレゾのイチゴタルトが絶品だって聞いたことがあるし、せっかくだからそれ食べてみたいなあ」

 カフェ・オレゾとはこのディオースで美味しいと評判の喫茶店で、年齢問わずに女性に人気の店だ。この店でリコリスが食べたいといっているタルトをテイクアウトしてくることもできなくはなかったが、店の扉を潜るのがそもそも独身男のヒースには敷居が高い。

「っていうかよくそんな店の名前まで覚えてるな……」

「最近信徒の女の人たちの間で話題だからね。食べてないと流行遅れ扱いされるしね。でさ、せっかくだから一緒に行こうよ。デートしよ、デート」

「で、デート!?」

 思わず動揺でヒースの声が裏返った。デートなんて単語、ミュゲと結婚した二十年前からとんと耳にしていない。

「俺とお前が並んで歩いていたら、良くて親子、悪ければよからぬ関係だと思われるぞ?」

「私は構わないんだけどな。ヒースとならよからぬ関係、なりたいんだけど」

 ヒースは深々と嘆息した。こうして毎週日曜日のミサの後に会うことは了承したが、男女の関係になることまでは承諾した覚えはない。ジャブのように時折り挟まれるリコリスのいたずらっぽい口撃には閉口させられていた。それはそうとさ、とヒースの気を知ってか知らずか、なんてことはないふうにリコリスは話題を巻き戻した。

「来週のデートは決定事項として。だいぶ脱線しちゃったけど、ヒースは何が好きなの?」

「そうだな……」

 今でも鮮明に脳裏に蘇る、控えめな彼女の笑顔。自分が贈ったエプロンを着てキッチンに立つ姿。鍋から立ち上るあの香り。じわりと視界が滲むのを感じて、ヒースはきつくまぶたを閉じる。途切れ途切れの掠れた声が声帯を震わせる。

「妻の……ミュゲの、作ってくれた………シ、チュー……」

 答えているうちに瞼の奥から涙が溢れ出てくるのがわかった。もう食べられない、もう会えないという事実が喉の奥をせりあがってきて、嗚咽へと変わった。

「も、う……食べられない、のも……会え、ないのも……わかっ……ていても、どうしても……忘れ、られないんだ……あい、つの味が……あいつの……ことが……」

 ぽたぽたとヒースの頬を伝い落ちた涙が地面を点々と濡らした。唇を強く噛み、うっうっと押し殺した泣き声を上げるヒースを見ていられなくて、リコリスは彼の頭をぎゅっと正面から抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫だよ。忘れる必要なんてない。今、ヒースに必要なのは悲しみや痛みと共に生きていくことだから。だから、いつまでだって、奥さんのことは覚えていたらいい」

 こらえきれなくなったのか、うああっと声をあげてヒースはリコリスの腕に縋り付いてきた。それはあの葬儀の日に幼いリコリスが聞いたのと同じ号哭だった。

「大丈夫。ヒースが忘れさえしなければ、いつまでだって奥さんはそばにいてくれる。――その命を終えた者は魂となり、必要とする者のそばにいる。聖典にもあったでしょ?」

「そう……だな……」

「この質問はまたいつかにするよ。そのときまでには、ヒースの答えに私の名前を含めてもらえるように、私も頑張らないと」

 リコリスはぽんぽんと幼子をあやすようにヒースの背をさする。ヒースの背は常よりも熱く、ひくひくと上下動を繰り返し続けていた。ヒースが泣き止んで我に返るまで、二人はずっとそのまま抱き合っていた。頭上では午後五時の鐘が響き、辺りには夕方の朱色と夜の藍色が混ざり合って満ちていた。

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  • 天恵の神子と世界のゆくえ   第十章:最後の朝に約束の口づけを①

     聖月暦六〇〇〇年九月十四日。目覚めたリコリスは遂にこの日が来てしまったと思った。カーテンの外に見える皎天の下、昨夜のうちに降った秋霖の雫が朝日にきらきらと反射していた。  最期にもう少しだけこのひとときを味わっていたくて、リコリスは枕に顔を埋める。あと少し。もう少しだけなら、女神もきっと見逃してくれる。リコリスにはもう二度と朝は来ないのだから。横にはぐうぐうと寝息を立てて眠っている大好きな人の横顔がある。きっと他人から見れば冴えないおじさんなのだろうけれど、その存在が愛おしい。 「ん……う?」  リコリスの視線に気付いたのか、ヒースがもぞもぞと動く。ヒースは傍らのリコリスに視線をやると、眠い目をこすりながらおはようと目覚めを告げた。おはよう、と返すリコリスの母も常とは変わらない調子だ。これが最後だとは思えないほど普通の朝だった。 「カルミアは?」 「まだ寝てるよ。先に朝ごはんにしちゃおう」  リコリスはベッドから体を起こす。キッチンへと向かおうとしたその細い身体にヒースは腕を回して引き止める。リコリスと二人きりの時間を過ごせるのはこれが最後だ。覚悟を決めたリコリスをきっと困らせてしまうとわかっていたけれど、どうしてもそうせずにはいられなかった。 「あっ、もう。ヒースってばどうしたの?」 「俺がもうちょっとだけこうしていたいだけだ。駄目か?」 「……まったく、本当に仕方のない人なんだから」  リコリスは呆れたように微苦笑すると、ベッドのふちに腰を下ろす。ヒースは背後からリコリスを抱き寄せるとうなじにキスを落とした。 「あっ、こら、駄目だってば」 「安心しろ。痕はつけないから」  当たり前でしょ、とリコリスは頬を膨らませる。夕方前には教会で沐浴の儀があるというのに、そんなものをつけていれば教会の人間に何か嫌味を言われるのは疑いない。 (やっぱりつけてもらえばよかったかな。でもそういうことをすることで、ヒースやカルミアに矛先が向いたら嫌だし。――いや、そんなこと言っても今更か) 「なあ、今日は教会には何時に行けばいいんだ?」 「十二時。儀式が夜だから今日はゆっくりでいいみたい」 「それなら、もう少しこうしてられるな」  そういうと、ヒースは右腕をほどき、ベッドサイドテーブルの引き出しへと伸ばす。がさがさと中をまさぐり、目的のものを見

  • 天恵の神子と世界のゆくえ   第九章:暖かな日々と終わりの足音③

     すう、すう、と安らかな寝息が聞こえる。夏も終わりに近づき、家の外では虫たちが子守唄を奏でている。かち、かち、と時計の秒針が動く音が響く。一体今は何時なのだろうとリコリスは上体を起こすと、闇に目を凝らした。ざっとシーツが擦れた。 「ん……リコリス、どうした?」  リコリスが動いたことで目を覚ましたのか、ヒースがむにゃむにゃと眠そうな声で聞いてくる。なんでもないよ、とリコリスは再びシーツの間に体を沈めた。  時計の秒針は変わらず一定の間隔で時を刻んでいく。どのくらいの時間が経っただろうか。わずか五分だったかもしれないし、一時間くらい経っていたかもしれない。リコリスは寝返りを打つとヒースの背へと自分の身体を寄せた。 「――ヒース、起きてる?」  リコリスの囁く声にああ、と低いヒースの声が返ってきた。聞き慣れて耳馴染みのいい、少し掠れた大切な人の声だ。 「リコリス、眠れないのか?」  ちょっと考え事、とリコリスの声がささめく。リコリスはぎゅっとヒースの背中にしがみつく。ふわっと蒸れた寝汗の匂いが鼻腔をついた。そんなことすらが愛おしい。 「ヒースは今、幸せ? 私といて、幸せだった?」 「過去形にするなよ。未来永劫、俺は世界で一番幸せな男だよ。俺の幸せを望んでくれた人がいて、絶望の淵から引っ張り上げてまた明るい道を歩かせてくれた人がいて。それに可愛い娘にも恵まれて。あの子はお前によく似た子になるぞ。目鼻立ちがそっくりだ」 「口元なんかはヒース似てるけどね。それに女の子はパパ似のほうが美人になるらしいよ」  二人はカルミアが起きないように声を潜めたまま笑い合った。笑いを収めると、リコリスはあのさ、と歯切れ悪く切り出した。 「ここからは私のひとりごと。聞き流してくれても、寝ちゃってくれてもいいから」  ヒースは寝返りを打つとリコリスの顔を覗き込んだ。やっぱり、と彼は呟く。雨が降り出す前の空の色のようにリコリスの表情は曇っていた。 「自分の妻がそんな顔をしていて、一人で寝られるような男じゃないよ、俺は。どうしたんだ?」 「あのね、ヒース……私、幸せだった。ううん、今もとって幸せ。だからこそ、怖くなったの」  そうか、と相槌を打つと、ヒースは話の続きを促した。リコリスはぎゅっと目を強く閉じる。瞼の内側が熱い。彼女は話の続きを口にする。 「幸せな時間

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