All Chapters of 愛した人は、私の仇でした~御曹司との復讐から始まる恋~: Chapter 1 - Chapter 10

56 Chapters

第2話 瞳の奥の観察者

「佐倉先輩、こちらの資料のチェックをお願いできますか?」デスクの横から、通りやすい爽やかな声が届く。三島絢人。外商部に配属された現社長の息子であり、今日から私が指導を担当することになった男だ。「ええ、拝見しますね」私は地味な黒縁眼鏡の位置を直し、絢人が差し出してきたファイルを受け取った。今日配属されたばかりとは思えないほど、完璧に整理された顧客リスト。文字の美しさや数字の正確さから、彼が高い知性と几帳面さを持っていることが窺えた。「完璧です、三島さん。これならすぐに実務に入れますね」「ありがとうございます。佐倉先輩にそう言っていただけると安心します」絢人は柔らかく微笑んだ。その一見すると素直で扱いやすそうな笑顔を見つめながら、私は心の中で冷酷な計算を巡らせていた。(この男を徹底的に私に依存させ、最後にどん底へ突き落としてあげる……)先ほど、メンズアパレル部門のオフィスで出会った根津健太の顔が脳裏に蘇る。親の権力を傘に着て威張り散らし、資料を落として私にあっけらかんと拾わせた二世社員。思い出すだけで、胸の奥から冷たい愉悦が湧き上がってくる。あんな男、親の威光を剥ぎ取れば何も残らない。健太の浅はかな身振りと高慢な態度から、社内での立ち回りや雑な仕事ぶりは容易に想像がついた。父親である根津部長の弱みと合わせてどう料理し、二人まとめて二度と再起できないどん底へ叩き落としてやろうか。(もっとじっくり追い詰めて、惨めに這いつくばらせてあげる……)自分のデスクに向き直り、PCの画面に視線を落としながら、私は眼鏡の影で誰にも見えないようにそっと口角を上げた。暗い殺意に満ちた、冷たい微笑だった。だが、その瞬間。「……佐倉先輩?」ふいに絢人の声が聞こえ、私は一瞬で笑みを消して平常心に戻った。完璧なポーカーフェイスで振り返る。「はい、何でしょうか?」絢人は自分のデスクの椅子に深く腰掛けたまま、じっと私を見つめていた。その瞳は、先ほどまでの穏やかなそれではない。私の些細な表情の変化や身のこなしの隙を逃さず観察するような、深く静かな光を宿している。「いえ……先輩は、仕事をしている時が一番楽しそうだなと思いまして」「そんなことはありませんよ。ただ、ミスがないように集中しているだけです」「そうですか」絢人は追及するでもなく、静かに微笑んで視線
last updateLast Updated : 2026-08-10
Read more

第3話 蛇の足音

残業を終え、デパートの勝手口を出たのは夜の九時を過ぎた頃だった。初夏の湿った夜風が、火照った頬を撫でる。絢人への指導は滞りなく終わった。彼は飲み込みが早く、私が教えた社内システムの検索コードも、顧客の購買傾向の分析手順も、一度聞いただけで完璧に把握してみせた。(優秀すぎるのも、考えものね……)夜の街を歩きながら、私は眼鏡のフレームを押し上げた。絢人の知性は本物だ。こちらの意図や動作のわずかな引っかかりを、敏感に察知する鋭さを持っている。彼を道具として操るには、想像以上に細心の注意が必要だと痛感していた。角を曲がり、人通りの途絶えた路地に入る。一見すると古びたビンテージショップの看板が見えてきた。扉を押して中に入ると、カウベルが低く鳴る。「遅かったな、志乃」カウンターの奥から現れたのは、影山駆だった。ボサボサの黒髪に、使い古されたワークシャツ。だらしない見た目とは裏腹に、その眼光は野良犬のように鋭い。「外商部での仕事はどうだった?」「順調よ。最初のターゲットを根津親子に定めたわ」私はカウンターのパイプ椅子に腰掛け、昼間の出来事を手短に報告した。根津健太の不遜な態度と、社内での立ち回りから透けて見える浅はかさ。そして、息子の失態や弱みを突けば、父親である根津部長も連鎖的に崩せるという見立てを。駆は煙草に火を点け、紫煙を吐き出しながら口元を歪めた。「相変わらず容赦ねえな。で、あのバカ息子の弱み、さっそく洗うか?」「ええ。頼めるかしら、駆」「お安い御用だ。健太の裏の顔なら、少し突けば埃が山ほど出てきそうだぜ」駆は高校時代、一人で密かに空手の鍛錬を重ねていた私を見つけ出し、実戦的な騙し合いや裏の情報の扱い方を仕込んでくれた男だ。私の過去も、復讐の執念も、すべてを知る唯一の共犯者。「それと……三島宗一の息子、絢人が外商部に研修配属されたわ。今日から私が指導係を担当しているの」駆の煙草を挟む指が、ぴたりと止まった。「……あのボクちゃんか」「ええ。思っていたより鋭い男よ。私の些細な表情の変化や仕草を、観察するように探ってきたわ」「おいおい、大丈夫かよ。ボロ出して疑われてんじゃねえだろうな」「心配いらないわ。私がヘマをするわけないでしょう」そう口にしながらも、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。絢人のあの澄んだ、けれどすべてを見透
last updateLast Updated : 2026-08-10
Read more

第4話 白川結衣の傲慢と、見えない罠

「佐倉さん! 三島さま! お越しになられたぞ!」午前十時前、外商部のオフィスに根津部長の引きつった声が響いた。普段は威張り散らしている根津部長が、今日は額にうっすらと汗を浮かべ、何度もネクタイの結び目を気にしている。応接室の扉が開き、姿を現したのは一人の若い女性だった。全身を海外の高級ブランドで固め、長髪を巻いた派手な美女——東城デパートの最大株主である白川グループの令嬢、白川結衣だ。「遅いんじゃない? 案内するのに何分待たせる気?」部屋に入るなり、結衣は手持ちのブランドバッグを長椅子へ投げ捨てるように置いた。「申し訳ございません、白川さま! 本日は外商部一同、心より歓迎いたします」根津部長は揉み手をしながら、揉みくちゃの笑顔で頭を下げた。「ふん、どうでもいいわ。……ところで、例のジュエリーは用意できたの?」「は、はい! メンズアパレル部門とも連携し、根津チーフバイヤーが特別ルートで手配した限定ネックレスでございます」根津部長の合図で、応接室の脇に待機していた息子の健太が、恭しい手つきでベルベットの宝石箱をテーブルへ置いた。蓋を開けると、大粒のダイヤモンドが施されたネックレスが輝く。結衣は爪を立てるようにしてそれをつまみ上げると、光にかざして溜め息をついた。「……何これ。思ったよりカットが甘いじゃない。本当に本物?」「えっ……!? は、はい! 海外の直営店から直接仕入れたと聞いておりますが……!」健太の顔色が急激に失われた。「つまんないわね。あ、それからお茶。冷めた紅茶なんて飲めないから、淹れ直してきて。そこの地味な眼鏡のあなた、早くしなさいよ」結衣は顎で私を指図した。「……承知いたしました。すぐに淹れ直してまいります」私は一切の感情を殺し、静かに一礼して応接室を出た。(……なるほどね)給湯室で湯を沸かしながら、私は冷ややかに思考を巡らせた。白川結衣の傲慢な態度は計算通りだ。だが、それ以上に収穫だったのは、あのネックレスを前にした健太の狼狽ぶりだった。(海外の直営店から直接仕入れ……? 嘘ね。あのダイヤモンドのカットと台座の彫刻、公式のラインナップじゃないわ。健太、あなた安物の模倣品を本物と偽って、差額を自分の懐に入れてるでしょう)知識の浅い二世社員がやりそうな裏工作だ。白川結衣のような本物を見慣れた客を相手にすれば
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more

第5話 夜の車内、交錯する視線

外商部の営業車が、夜の首都高速を静かに走り抜けていく。助手席に座る私の膝の上には、白川結衣から急遽指定された最高級ハイジュエリーが収められた、重厚なアタッシュケースが載っている。ハンドルを握っているのは絢人だ。街灯の光が途切れるたび、車内に流れる規則的な明暗が彼の端正な横顔を浮かび上がらせる。「佐倉先輩、お疲れではありませんか?」前を見据えたまま、絢人が穏やかな声で問いかけてきた。「いいえ、大丈夫です。三島さんこそ、夜間の運転をさせてしまってすみません」「僕が言い出したことです。外商部の仕事を学ぶには、現場へ同行するのが一番ですから」絢人はそう言って短く微笑むと、車内は再び静寂に包まれた。外の風景は、ビル街から街灯の少ない郊外の山道へと変わりつつある。白川家の別荘は、葉山の高台にある閑静な高級住宅街に建っているはずだった。「それにしても、見事な手際でしたね」車速を保ったまま、絢人がふいに口を開いた。「何のことでしょうか?」「今日の午後です。結衣さんの突然の要求に対して、先輩は社内の在庫管理データと他店舗の融通ルートを即座に確認し、最短時間でこのジュエリーを確保されました。根津部長が混乱している間も、先輩だけは一度も慌てていらっしゃらなかった」「日頃からシステムの在庫情報を把握していただけです。外商部での業務経験があれば、誰でもできることですよ」私は淡々と答え、車窓の闇に視線を向けた。普通の外商部員であれば、焦って右往左往していたかもしれない。だが、私にとってデパートの社内システムや物品の流動ルートは、仇の喉元を突くための武器だ。完璧に把握していて当然だった。「誰でも、ですか……。先輩はご自分の成果を、いつもそうやって謙遜されますね」絢人の声には、どこか試すような響きが含まれていた。「謙遜ではなく事実です。私はただの地味で冴えない社員ですから」「僕には、そうは見えません」絢人が静かに告げた言葉に、車内の空気がわずかに緊張を帯びる。「先輩は、ご自身の能力を隠しているように見えます。大きな目的のために、あえて目立たないよう振る舞っていらっしゃるような……」私は眼鏡のフレームを軽く押し上げ、抑揚のない声で答えた。「考えすぎですよ、三島さん。私にそんな大層な目的などありません。日々、与えられた仕事をこなしているだけです」「……
last updateLast Updated : 2026-08-12
Read more

第6話 割れた眼鏡と、月光の戦慄

「下がりなさい、三島さん!」車から飛び出した私に、夜の冷たい風が吹きつける。だが、絢人は引き下がらなかった。私の前に立ち塞がり、大の男たちを毅然とした眼光で睨みつける。「目的はアタッシュケースですね。警察には連絡しません。品物を渡せば引いていただけますか?」「ハッ、生意気なボクちゃんだな。要求するのはこっちなんだよ!」先頭の男が嘲笑うと同時に、手にした鉄パイプを容赦なく振るい抜いた。鈍い衝撃音が響き、絢人は肩を深く打たれて路面へ倒れ込む。「三島さん!」「手出しすんじゃねえよ、眼鏡OL!」残りの二人が嘲笑いながら、倒れた絢人に足を向けようとする。その瞬間、男の一人が私の腕を強引に掴み引き寄せた。揉み合う拍子に、男の手が私の顔面に当たり、大きな黒縁眼鏡が夜の路面へと弾き飛ぶ。パチン、と乾いた音がして、眼鏡のレンズが粉々に砕け散った。「ちっ、邪魔な眼鏡だな——」男が言葉を言い終わることはなかった。視界から地味な枠組みが消えた瞬間、私は後ろで結んでいた髪留めを引きちぎった。解けた黒髪が夜風にふわりと舞い上がる。私はゆっくりと顔を上げた。月光の下、そこにいたのは「地味で冴えない佐倉志乃」ではない。氷のように冷たく、男を射殺すような鋭い瞳をした東条志乃だった。「……触らないで」低く徹した声に、男が一瞬身体を強張らせる。次の瞬間、私は踏み込んだ。武道で鍛え上げた身体軸がブレることなく回転する。体重を完璧に乗せた正拳突きが、男の溝おちを正確に打ち抜いた。「がハっ……!?」男は呼吸を奪われ、膝から崩れ落ちる。「おい、な……何やってんだ!?」仲間が倒れたことに混乱した二人目が、ナイフを構えて襲いかかってきた。私は刃筋を最小限の体さばきでかわすと、男の手首を掴んで捻り上げ、そのまま肘関節へ下段蹴りを叩き込む。悲鳴とともにナイフが闇へ舞い、私は隙を逃さず頸椎へ刀手を叩き落とした。男は白目を剥いて倒れ込む。「化け物……っ!」残った最後の一人が鉄パイプを振り回しながら迫る。私は相手の間合いの懐へ一気に滑り込み、掌底で顎を突き上げた。脳を揺らされた男は、そのまま意識を失って叩きつけられた。わずか数十秒の出来事だった。路上には三人の男たちが横たわり、静寂が再び山道を包み込む。荒い息を整えながら、私はハッと我に返った。(しまっ——)や
last updateLast Updated : 2026-08-13
Read more

第7話 あの日、俺を殴った少女

「……佐倉、先輩……?」かすれた絢人の声が、夜の山道に静かに落ちた。月光の下、私の素顔が無防備に晒されている。髪留めを失って肩に散る黒髪、冷たく研ぎ澄まされた瞳、そして大の男三人をとっさに打ち伏せた立ち姿。どこを切り取っても、いつもの「地味で冴えない佐倉志乃」の面影はなかった。(落ち着くのよ、志乃……。まだ取り繕える……)私は冷や汗を抑え込み、素顔を隠すように伏し目になると、息を整えて絢人のもとへ駆け寄った。「三島さん! お怪我はありませんか!?」可憐な後輩を演じ直すように、声を震わせて絢人の身体を抱き起こす。「すみません……昔、護身術を少し習っていたんです。夢中で手が出てしまって……驚かせてしまいましたよね」地味な先輩の仮面を被り直し、必死に言い訳を繕う。だが、絢人は私の言葉など耳に入っていないかのように、呆然と私の顔を見つめ続けていた。その瞳に浮かんでいるのは、暴漢を倒した恐怖でも、護身術への驚きでもない。胸を強く打たれたような、激しい動揺と戦慄だった。「あ……」絢人の唇がわずかに震える。(なぜ、そんな目で見つめるの……?)♢絢人の脳裏に、怒涛のように鮮明な記憶が蘇っていた。七年前、雨の夜。家族の醜い愛憎と権力闘争に絶望し、橋の上から身を投げようとした自分。その腕を力任せに掴み引きずり下ろし、「死ぬ気があるなら、その命、私が踏みつぶしてあげる」と言い放って殴り飛ばした、あの激しい瞳をした少女。そしてそれ以上に、父親が人目を忍んで囲っていた静かな屋敷で出会い、地獄のような三島家で唯一自分の心を救ってくれた女性——東条華江の面影。目の前で髪をなびかせ、自分を見つめる素顔。生き写しの美貌と、あの夜の鋭い眼光。絢人の中で、バラバラだったパズルのピースが一瞬で組み合わさった。(そうか……あの日、俺を生かした少女は……君だったんだ。華江さんの……)胸の奥を激しい衝撃と愛憎が貫く。志乃が偽名を使い、自分に近づいてきた理由。東城デパートに潜入し、三島家を破滅させようとしている背景。そのすべてを、絢人はこの一瞬で理解した。だが、絢人はその衝撃を狂おしいほどの意志で押し殺すと、静かに目を細めた。♢「……いいえ。助けていただいて、ありがとうございます、佐倉先輩」絢人は何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべ、私の差し出し
last updateLast Updated : 2026-08-14
Read more

第8話:逃げ場のない仕掛け

山道での襲撃事件から二日後。事件は「夜間配送中に強盗に遭遇するも、絢人が隙を突いて暴漢を追い払い、逃走させた」という形で社内処理された。私は予備の黒縁眼鏡をかけ、後ろで髪をひとつに結び、再び地味で無害な「佐倉志乃」として外商部のデスクに向かっていた。「佐倉先輩、肩の痛みはもうありませんか?」隣のデスクから、絢人が気遣うような声をかけてくる。「ええ、もうすっかり大丈夫です。三島さんこそ、お怪我の具合は……」「僕も大したことはありません。あの時、先輩が側にいてくださって本当によかった」絢人は穏やかに微笑む。その表情には、あの夜の強烈な眼光も、車内で見せた暗い影も欠片も残っていない。(……気のせいだったのかしら)あの夜、素顔を見られた瞬間に感じた胸の騒ぎ。だが、今の絢人は相変わらず素直で優秀な後輩そのものだ。私は胸の奥の不吉な予感を押し殺し、手元のPC画面に集中した。襲撃事件の翌日、駆から暗号化されたデータが届いていた。白川結衣の限定ジュエリーの件から足をつけて追っていた、根津健太の身辺調査の結果だ。健太は以前から海外ブランドの模倣品を本物と偽って横流しし、差額を私腹に肥やしていた。さらに、今回のハイジュエリー配送ルートの情報漏洩——あの強盗グループの手引きをしたのも、借金で首の回らなくなった健太自身だった。(実の息子が会社の資産を盗み、襲撃まで手引きしていたとなれば……根津部長もタダでは済まない)私は社内ネットワークの匿名監査窓口を開いた。駆が解析したIPログ、裏取引の銀行口座履歴、そして偽ブランド品の仕入れデータを、追跡不能な暗号化プロキシ経由で監査室のサーバーへ流し込む。画面上でアップロードのインジケーターが100%を示し、消えた。(これで終わりよ、根津親子)15年前、父を裏切り、三島宗一に阿ねて甘い汁を吸い続けてきた男たち。その血族から順番に、社内から叩き潰す。胸の奥で冷たい達成感を噛みしめた。そして一時間後。「おい! どういうことだこれは!」オフィスの扉が荒々しく開かれ、メンズアパレル部門の根津健太が顔色を変えて飛び込んできた。整えられたはずの髪は乱れ、額には嫌な汗が滲んでいる。手には印刷された監査室からの事前聴取通知書が握りしめられていた。「健太! どうしたんだ、声を荒げて!」奥の個室から根津部長が飛んできた。
last updateLast Updated : 2026-08-15
Read more

第9話 崩れ去る二世の権威

「そこまでにしてください、根津チーフ」絢人の低く通る声がオフィスの空気を一変させた。掴まれた手首を押さえ込まれ、健太は痛みに顔を歪めた。「三島……っ! お前、新人のくせに俺に気安く触るな!」「社員への不当な言いがかりや暴言は、社内規定違反です。お引き取りください」絢人は健太の腕を静かに振り払うと、私の前に庇うように立ち塞がった。その背中は崩れず、堂々たる威厳を漂わせている。「ちくしょう……! 佐倉、お前絶対に許さねえからな!」健太は吐き捨てるように言い放つと、乱暴な足取りでオフィスを飛び出していった。息子の尋常じゃない動揺を察した根津部長も、顔色を失って後を追う。「……佐倉先輩、大丈夫でしたか?」振り返った絢人は、いつもの穏やかな表情に戻っていた。「ええ、助かりました。ありがとうございます、三島さん」私は怯えた社員のフリをして頭を下げた。(健太のあの焦り方……監査室が動いたわね)私は給湯室へ向かい、お茶を淹れるフリをして自分の呼吸を整えることにした。廊下を進み、給湯室のドアを開けようとしたその時、背後から強引に腕を引っ張られた。「おい、待ちやがれ!」給湯室の中に引きずり込まれ、背後のドアがバンと大きな音を立てて閉まる。立っていたのは、激高して肩を上下させている健太だった。「根津チーフ……何を——」「とぼけるんじゃねえよ! 親父に聞いたら、今回の監査データは外商部端末のIPから送信されてたって言ってたぞ! お前だろ、俺をハメたのは!」狂気に満ちた目で、健太が私の胸ぐらに手を伸ばしてきた。(……浅はかな人)私は一切の感情を消し、胸ぐらを掴まれる直前、極小の動作で健太の手首を掴んだ。そのまま身体の軸を回し、関節の構造に従って手首を軽やかに捻り上げる。「痛っ……!? が、あ……っ!?」健太の巨体が、悲鳴とともに壁へと押し付けられた。「な……何なんだお前……手が、折れ……っ!」壁に顔を押し付けられ、冷や汗を流す健太の耳元へ、私は眼鏡の奥から低く冷徹な声を滑り込ませた。「興奮なさらないでください、根津チーフ。言いがかりで同僚に手を上げれば、それこそ本当にお立場を失いますよ」自分の犯行など一切匂わせない。あくまでも冷酷に、理知的に、相手の逃げ道を塞ぐ。「お前……化け物……っ」「私はただの社員ですよ。……さあ、手を離し
last updateLast Updated : 2026-08-16
Read more

第10話 毒蜘蛛と、罠に飛び込む男

根津親子の連行から数時間後。東城デパートの社内にさらなる激震が走った。社内処分だけで終わらせる気など、私には最初からなかった。駆の手によって、健太が主導していた模倣品の流用ルート、パワハラ動画、さらには根津部長の裏金口座を示す決定的なデータが、SNS上へ一気に流出・拡散されたのだ。「ネットで大炎上してるぞ……! ニュースにも出てる!」「根津部長、完全に終わりだな……」オフィス内にざわめきが広がる。社内での地位だけでなく、彼らは社会的にも二度と再起できないどん底へ叩き落とされた。(15年前の裏切りの報いよ。まずは二人……)私は静かに立ち上がり、勝手口から夜の街へと踏み出した。◇人通りの途絶えた路地裏。ビンテージショップの扉を開けると、カウベルが低く鳴る。「派手にやったな、志乃」カウンター越しに駆が煙草の煙を吐き出した。モニターには、根津親子の不正を報じるニュース画面が映し出されている。「ええ。これで根津親子は完全に終わりよ。ありがとう、駆」パイプ椅子に腰掛け、深く息を吐き出す。胸を満たすのは、冷たい達成感と、僅かな疲労感だった。駆は煙草を灰皿に押し付けると、不意に真顔になって私を見つめた。「……で、例の三島のボクちゃんはどうなんだ? 根津が失脚して、社内は大騒ぎだぞ」「絢人は何も気づいていないわ。私を疑う素振りをしながらも、結局はただの優秀な御曹司よ。私の次のカードとして、うまく扱ってみせる」「……そうかよ」駆はどこか納得のいかない表情で呟いた。「ならいいが……あいつの目つき、ただの坊ちゃんじゃねえぞ。深入りしすぎるな」「分かってるわ。私を誰だと思っているの」私は立ち上がり、店を後にした。◇翌朝。根津部長が不在となった外商部オフィスは、静まり返っていた。誰もいない早朝のオフィスで書類を整理していると、背後から静かな足音が近づいてきた。振り返ると、そこに立っていたのは絢人だった。「おはようございます、佐倉先輩」「おはようございます、三島さん。朝早くからどうされたのですか?」私はいつもの地味な先輩社員の笑みを浮かべた。しかし、絢人は笑い返さなかった。上質なスーツを纏った彼は、まっすぐに私を見つめると、ゆっくりと深々と頭を下げた。「三島さん……?」「佐倉先輩。……いえ、東条志乃さん」低く通る声で紡がれたその名
last updateLast Updated : 2026-08-17
Read more
PREV
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status