All Chapters of 夫と愛人に保険金目当てで殺された私は、別人としてよみがえり復讐する: Chapter 81 - Chapter 90

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共犯者の約束

 彰人が玄関を開けたとき、芹奈はひどく不機嫌そうな顔をしていた。「入って」 それだけ言って、彰人は先にリビングへ向かう。 以前なら、芹奈が突然訪ねてきてもこんな態度は取らなかった。人目さえなければ恋人同士として過ごし、千紘の前ではできなかった話もした。 今は、同じ部屋にいることさえ億劫そうだった。「それで?」 彰人はソファに座った。「何が言いたいんだよ」「さっき言ったでしょう。私だけ悪者にしないで」「誰もそんなこと言ってない」「言ってるのと同じじゃない。凛には私が勝手に彰人さんにつきまとってるみたいな話をしてるんでしょう?」「そんな話はしてない」「じゃあ、私たちのことを話した?」 彰人が黙る。 その反応だけで十分だった。「ほら」「今さら全部話せるわけないだろ」「どうして?」「分かってるだろ」 芹奈は彰人の向かいに座った。「だから、それを言ってるの。彰人さんだって分かってるじゃない。私たちは、都合が悪くなったから別れましょうで済む関係じゃない」「声落とせ」「ここ、彰人さんの家でしょう?」「そういう問題じゃない」 彰人は苛立ったように芹奈を睨んだ。 しばらく沈黙が続いたあと、彰人が低い声で尋ねる。「雨宮さんに、どこまで話した?」「何度も聞くね」「答えてないからだよ」「彰人さんとのことは、ほとんど話してない」「ほとんどって何だよ」「……千紘が旅行を楽しみにしてなかったこととか」「それは知ってる。他には?」 芹奈は答えなかった。 彰人の表情が険しくなる。「事故のこと、何か言った?」「言ってない」「本当に?」「彰人さんこそ、何を怖がってるの?」「お前が余計なことを喋るのが怖いんだよ」 その言葉に、芹奈の顔色が変わった。「私だけ?」「そういう意味じゃない」「私だけ黙ってればいいみたいに聞こえる」「芹奈」「最初に決めたでしょう」 彰人が黙った。 芹奈は声を落として続ける。「あの日のことは、二人とも何も言わない。何を聞かれても、あれは事故だった。それで終わりって」「分かってる」「だったら、私ばっかり疑わないでよ」 彰人は顔を背けた。 あの日。 その言葉だけで、二人には十分だった。「……雨宮さんに、事故じゃないかもしれないって言った?」 芹奈の肩が僅かに動く。 彰人はそれ
last updateLast Updated : 2026-09-11
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崩れ始めた約束

 芹奈が帰ったあとも、彰人はしばらくリビングから動けなかった。『あの日のことは、二人とも何も言わない』 芹奈の言葉が頭から離れない。 そんなことは、言われるまでもなく分かっている。これまで二人はそうしてきたし、これからもそうするはずだった。 問題は、芹奈がすでにその約束を破りかけていることだ。 凛に事故ではない可能性を匂わせた。それだけでも十分危険なのに、芹奈は凛が何か知っているのではないかと疑い、探るためにさらに接触している。 彰人はスマートフォンを手に取った。 凛とのメッセージ画面を開く。 今夜、誰かと食事をしていたこと。 水族館へ行った男とまた会っていたこと。 そんなことを気にしている場合ではない。 それでも、凛が別の男と過ごしていたと知ったときの苛立ちは消えていなかった。「……最悪だな」 自分でも、何に対して呟いたのか分からなかった。     ◇ 週が明けても、芹奈から匿名のメッセージは来なかった。 千紘は気にせず仕事を続けていた。 彰人からも、以前のような頻繁な連絡はない。仕事の確認が何度か届いただけで、週末の出来事について触れられることもなかった。 二人の間で何かあったのだろう。 そう考えていた昼過ぎ、三枝から連絡が入った。『レンタカーの件ですが、少し進展がありました』 千紘は休憩に入ってから電話をかけた。「何か分かったんですか?」『相沢さん本人が借りたという確認は取れていません。ただ、当時その店舗を利用していた可能性は高そうです』「どうやって?」『彼女が以前、同じ店を何度か利用していたことまでは確認できました。旅行当日も同じ店を使った可能性はあります』 千紘は少し考えた。「でも、それだけじゃ何にもならないですね」『ええ。過去に利用した店で、たまたま同じ日に車が貸し出されていた。それだけです』 三枝も無理に意味を持たせようとはしなかった。『ただ、相沢さんが当日会社を休んでいたことは確かです。今はそれぞれ別の情報として持っておきましょう』「分かりました」 電話を切り、千紘は小さく息を吐いた。 決定的な証拠には程遠い。 けれど、急ぐ必要はない。 芹奈と彰人の間には、すでに別の亀裂が生まれている。     ◇ 午後、次回プレゼンの打ち合わせがオンラインで行われた。 千紘が資料を説明し
last updateLast Updated : 2026-09-12
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同じことは繰り返さない

 翌朝になっても、千紘は彰人からの誘いに返事をしていなかった。 遠出そのものが嫌なわけではない。律に誘われたのなら、きっと行き先を聞いて予定を確認していただろう。 怖いのは、相手が彰人だからだ。 最後の旅行も、最初から嫌だったわけではない。 浮気について問い詰めたあと、彰人は芹奈とは別れると言った。自分が間違っていた、もう一度やり直したいと謝られ、千紘もすぐには信じられなかったものの、最後に一度だけ機会を与えようと思った。 そのための旅行だった。 そして、殺された。 千紘はスマートフォンを手に取った。『遠出は少し苦手なので、近場なら』 それが今の自分にできる返事だった。 しばらくして彰人から返信が来た。『分かりました。無理させてすみません』 理由を聞かれなかったことに、少しだけ安心した。     ◇ 昼休み、律から電話がかかってきた。『今、大丈夫ですか?』「大丈夫ですよ」『この前、また来週って言ったじゃないですか』「言いましたね」『日曜日どうです?』 千紘は予定を思い出した。彰人から誘われているものの、まだ日にちは決まっていない。「空いてます」『じゃあ、ちょっと出かけません?』 思わず黙った。『雨宮さん?』「……どこに?」『まだ決めてないです。遠くても電車で一時間くらいかな』 昨日から、どうして皆そろって出かけたがるのだろう。「日帰りですよね?」『もちろん。夕方には戻れます』「なら大丈夫です」 自分でも驚くほど簡単に答えられた。『よかった。行きたいところあります?』「特には。任せます」『じゃあ探して連絡します』 電話を切ったあと、千紘は苦笑した。 遠出が苦手なのではな
last updateLast Updated : 2026-09-12
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警告した理由

『とにかく行かないで』 芹奈からのメッセージを前に、千紘は考え込んだ。 嫉妬だけなら、「彰人さんと会わないで」と言えばいい。それなのに芹奈は、二人きりで遠くへ行くことだけを止めようとしている。『相沢さんは、以前にも同じようなことがあったのを知っているんですか?』 送信してから、千紘は待った。 十分ほど経っても既読はつかない。 仕事中なのだから当然だ。そう思ってスマートフォンを伏せたところで、内線が鳴った。 佐伯からだった。「雨宮さん、榊原さんの案件なんだけど、修正版今日中にいけそう?」「はい。あと一時間くらいで出せます」「じゃあ頼む。先方、明日の午前中に確認したいらしいから」 千紘は仕事へ意識を戻した。 芹奈の言葉に振り回されてはいけない。向こうが話したくなれば、いずれ話す。     ◇ 返信が届いたのは、仕事を終えてからだった。『知らない』 それだけだった。『では、どうして遠くへ行かない方がいいんですか?』『心配だから』『何が?』『榊原さん、奥さんを旅行中の事故で亡くしてるでしょう』 千紘は画面を見つめた。『だから?』『同じようなことになったら嫌だから』 そこまで読んで、指が止まる。 偶然の事故だったのなら、彰人と旅行へ行った別の女に同じことが起こると考える理由はない。『同じようなことって、事故に遭うということですか?』 既読がついた。『そう』『どうして私まで事故に遭うと思うんですか?』 返事は来なかった。 千紘は追わなかった。 芹奈自身、今の言葉が不自然だったことに気づいているはずだ。     ◇ その夜、彰人から電話がかかってきた。『遠出の件、嫌なこと思い出させました?』 思いがけない質問
last updateLast Updated : 2026-09-12
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あの人なら、また

 翌朝、芹奈はほとんど眠れないまま出社した。 彰人はもう二度と同じことをしない。 昨夜から何度もそう言い聞かせているのに、不安は消えなかった。 千紘のときは、最初から殺すつもりだったわけではない。 浮気を知られ、離婚を切り出されても、彰人はしばらく千紘を説得していた。芹奈とは別れる、やり直したいと謝り、旅行へ誘ったのも関係を修復するためだった。 少なくとも、千紘にはそう思わせていた。 芹奈も、旅行へ行くことを知ったときには焦った。彰人が本当に自分と別れ、妻を選ぶのではないかと思ったからだ。 だから追いかけた。 そして、あの日。 すべてが壊れた。 あれは追い詰められた末の一度だけの過ちだと思っていた。 けれど今、彰人は凛を疑い始めている。 その凛を、遠くへ連れ出そうとしている。 偶然だと思いたかった。     ◇ 昼休み、芹奈は彰人を呼び止めた。「ちょっといい?」「仕事?」「違う」 彰人は露骨に嫌そうな顔をしたが、人気のない休憩スペースまでついてきた。「凛を遠出に誘ったの?」 彰人の眉が動く。「何で知ってる?」「本人に聞いた」「また連絡したのかよ」「そんなことより答えて」「誘ったよ。断られたけど」 芹奈は少しだけ安堵した。「もう誘わないで」「何でお前に決められなきゃいけないんだ」「遠出じゃなくてもいいでしょう?」「だから近場にするって話になってる」「……本当に?」 彰人が怪訝そうに芹奈を見る。「何を心配してるんだよ」「別に」「お前、昨日から変だぞ」 芹奈は迷った。 聞いてしまえば、彰人を疑っていると認めることになる。 それ
last updateLast Updated : 2026-09-12
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共犯者が怖い

 芹奈は検索結果を開いては閉じることを繰り返していた。 自首をすればどうなるのか。共犯の場合はどう扱われるのか。何年も前のことではない。今さらすべてを話せば、自分もただでは済まないことくらい分かっている。 そもそも、本当に警察へ行くつもりがあるわけではなかった。 怖くなっただけだ。 これまで芹奈は、彰人と自分は同じ秘密を抱えていると思っていた。だから彰人が自分を完全に切り捨てることはできないし、自分も彰人を裏切れない。 けれど、本当にそうなのだろうか。 彰人が自分だけを守ろうとしたら。 すべて芹奈が仕組んだことだと言い出したら。 その可能性を考え始めると、何の備えもないことが急に恐ろしくなった。 芹奈は検索画面を閉じた。     ◇ 一方、千紘は三枝から届いた資料を自宅で整理していた。 新しい情報はまだない。 芹奈が死亡当日に休暇を取っていたことも、レンタカーについても、現時点では状況証拠にすら届かない程度の材料だ。 焦る必要はない。 そう思っていたところへ、クロが姿を現した。「最近、大人しいな」「誰のせいだと思ってるの」「俺は何もしてない」「焦って探りすぎって言ったでしょう」 千紘は資料を閉じた。「だから待ってるの。二人とも勝手に揉めてるみたいだし」「それでいいんじゃないか」「簡単に言うわね」 クロは答えず、机の上に置かれたスマートフォンへ視線を向けた。「今日は男から連絡ないのか?」「どっちの話?」「二人いる自覚はあるんだな」「そういう意味じゃない!」 千紘が睨んだところで、スマートフォンが震えた。 表示された名前は律だった。『日曜日なんですけど、川越どうですか? 近いし、食べ歩きできるみたいです』 千紘は思わず笑った。『いいですよ』『じゃあ決まりで』 すぐに返事が来る。 クロが横から画面を覗き込んだ。「楽しそうだな」「悪い?」「別に。ただ、三か月後に死ぬ女には見えない」 笑みが消えた。「……分かってる」「ならいい」 クロはそれ以上何も言わず、姿を消した。 千紘はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。     ◇ 翌日。 千紘が出社して間もなく、芹奈から仕事のメールが届いた。 内容はいつも通りだったが、その直後、個人の連絡先にもメッセージが入った。『昨日は
last updateLast Updated : 2026-09-12
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残されたメッセージ

 古いスマートフォンには、思っていた以上に多くの履歴が残っていた。 芹奈は彰人とのやり取りを遡りながら、必要そうなものを一つずつ確認していった。 千紘に不倫を知られたあと、彰人は明らかに焦っていた。『離婚されたら困る』『今は刺激しない方がいい』『芹奈もしばらく連絡してこないで』 当時はその言葉に腹を立てた。自分との関係を守るより、妻との離婚を避けることを優先しているように思えたからだ。 その後、彰人は千紘と旅行へ行くことを決めた。『もう一度ちゃんと話してくる』 その言葉を信じられなかった芹奈が、旅行先まで追いかけると言い出したのだ。 そして前夜。『明日、予定通り来る?』 彰人は確かにそう送っている。 芹奈は画面を見つめた。 自分が勝手に押しかけたわけではない。 少なくとも、このメッセージが残っていれば、それだけは証明できる。 芹奈は古い端末の電源を落とさず、机の引き出しへしまった。     ◇ 翌日、千紘は次回プレゼンのため榊原コーポレーションを訪れていた。 説明は問題なく進み、佐伯から引き継いだ質疑応答も無事に終わった。「ありがとうございました。かなり分かりやすかったです」 彰人が言うと、千紘は仕事用の笑顔で頭を下げた。「ありがとうございます」 芹奈もその場では何も言わなかった。 ところが会議室を出ようとしたとき、千紘のスマートフォンが震えた。『帰る前に少し話せますか?』 芹奈本人からだった。 千紘は前を歩く芹奈を見る。 こちらを振り返りもしない。『五分くらいなら』 そう返した。     ◇ 佐伯には先に戻ってもらい、千紘は会社近くのカフェで芹奈と向かい合った。「昨日のメッセージのことですか?」「それもあるんですけど」
last updateLast Updated : 2026-09-13
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妻の遺品

 日曜日、千紘は律と川越を歩いていた。 駅から観光客の流れに沿って進み、古い町並みへ入る。休日だけあって人は多かったが、彰人と二人きりで遠出することを考えたときのような緊張はなかった。「何か食べたいものあります?」「まだ着いたばかりですよ」「食べ歩きするって言ったじゃないですか」「限度があるでしょう」 そう言いながらも、店先に並ぶ菓子を見れば足が止まる。律はそれを面白そうに見ていた。「結局食べるんじゃないですか」「見るだけです」「さっきから三回聞きました」 千紘は笑って、隣の店へ目を向けた。 こうしていると、自分が復讐のために生き返ったことさえ忘れそうになる。 それが怖くもあり、嬉しくもあった。     ◇ 昼食を終えたあと、二人は通り沿いの小さな雑貨店へ入った。 和雑貨や革小物が所狭しと並ぶ店内を眺めながら歩いていると、千紘は棚に並んだブックカバーの前で足を止めた。「本、読むんですか?」 律に聞かれ、千紘は一瞬答えに詰まった。「……たまに」「ブックカバー使う派?」「気に入ったものがあれば」「千紘も使ってたな」 不意に出た名前に、胸が跳ねる。「そうなんですか?」「大学の頃、誕生日に革のやつをあげたんです。何が欲しいか聞いても何でもいいって言うから、かなり悩みました」 知っている。 濃い茶色の、飾り気のないブックカバーだった。 もらったばかりの頃は革が硬くて、本を入れるのにも少し苦労した。けれど使っているうちに手になじみ、結婚してからもずっと使い続けていた。「喜んでました?」「一応。でも千紘、気に入らないものでも普通にありがとうって言うから、最初は分からなくて」「じゃあ、気に入ってなかったかも」「ひどいな」 律が笑う。
last updateLast Updated : 2026-09-13
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捨てられたもの

 翌日になっても、千紘は革のブックカバーのことが気になっていた。 大学時代、律から誕生日にもらったものだ。最初は少し硬かった革が、使い込むうちに柔らかくなり、色も深くなっていった。結婚してからも気に入って使い続けていた。 けれど、彰人の家で遺品を見たときにはなかった。 だからといって、彰人に聞くことはできない。雨宮凛が存在を知っているはずのないものだ。 昼休み、千紘は律へメッセージを送った。『昨日話してたブックカバーって、千紘さんが亡くなったあとどうなったか知ってます?』 少しして返信が届く。『分からないです。遺品はほとんど旦那さんが整理したと思うので』『ご家族には?』『実家に少し送られたとは聞きました』 千紘はそこで手を止めた。 実家。 生き返ってから、あえて近づかなかった場所だった。 今の自分は雨宮凛だ。家族にとっては見知らぬ女で、娘だと名乗ることもできない。『そうなんですね』『気になります?』『昨日聞いたら、ちょっと』 それだけ返した。     ◇ 午後、彰人から仕事とは関係のないメッセージが届いた。『昨日はどこへ行ったんですか?』『川越です』『楽しかった?』『楽しかったですよ』 少し間があってから、また届く。『例の人と?』『そうです』『いいな。俺も雨宮さんと出かけたいです』 千紘は以前の誘いを思い出した。『近場なら』『じゃあ今度こそ』 すぐにいくつか候補が送られてくる。 その画面を眺めながら、千紘はふと思いついた。『榊原さんは、奥様とはよく出かけてたんですか?』 送った直後、しまったと思った。 しばらく千紘について聞かないと決めていたのに、また自分から話題にしている。 けれど彰人は気にし
last updateLast Updated : 2026-09-13
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手帳に書いたこと

 その夜、千紘はなかなか眠れなかった。 彰人が捨てたという手帳のことが気になっていた。 日記ではない。予定を書き込み、その日にあったことを簡単に残していただけの、ごく普通の手帳だ。 けれど、死ぬ前の数か月だけは違った。 彰人の帰宅が遅かった日。 休日出勤だと言って出かけた日。 スマートフォンを持って席を外すことが増えたこと。 最初は単なる愚痴のつもりだった。『また帰りが遅い』『最近、休日出勤多すぎない?』 そんな短い言葉を、予定の横に書いていた。 浮気を疑い始めてからは、もう少し具体的になった。 彰人が言った予定と実際の行動が合わなかった日。芹奈の名前を初めて意識した日。そして、探偵に相談した日。「……書いてた」 千紘はベッドの上で呟いた。 探偵事務所の名前や三枝の名前までは書いていなかったと思う。 けれど、『相談』程度の記載はあった気がする。 そして何より、最後の旅行。 彰人から「芹奈とは別れる。もう一度やり直したい」と言われたあと、千紘は旅行の日程を手帳に書き込んでいた。 その横に。『これで最後。無理なら離婚』 そう書いた記憶があった。 千紘は目を閉じた。 もし、あの手帳が残っていたなら。 少なくとも自分が彰人との結婚生活に何の不満もなく、夫婦仲も良好だったという話にはならなかっただろう。 浮気を疑い、離婚まで考えていた。 その記録が残っていたのだから。 それを彰人は捨てた。 見るのが辛かったから。 ただ、それだけなのだろうか。     ◇ 翌日、千紘は仕事の合間にも昨夜のことを考えていた。 手帳を処分したこと自体は、何の証拠にもならない。 妻を突然亡くした夫が、遺品を見るのに耐えられず捨てたとしても不思議ではない。 それに、自分が覚えている内容が一字一句正確だとも限らなかった。 だから彰人に問いただすつもりはない。 手帳はもうない。 今さらどうにもできないのだ。 そう考えていると、仕事用のメールが届いた。 差出人は芹奈だった。 次回のプレゼン資料についての、ごく普通の確認だった。 千紘も通常通り返信する。 その数分後、今度は個人のスマートフォンが震えた。 芹奈本人からだった。『雨宮さん、今日少し時間ありますか?』 千紘は眉を寄せた。『仕事のあとなら』『会って話したいで
last updateLast Updated : 2026-09-13
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