All Chapters of 『親友に婚約者を奪われた私ですが、彼女の葬儀で「娘をお願い」と遺言を渡されました』: Chapter 41 - Chapter 50

75 Chapters

第四十一話 お母さまは、また大人にだけ話しましたか

青い封筒の話は、一晩眠っても薄くならなかった。 むしろ、朝になってからのほうが濃くなった。 ノエルは朝食の席で、スプーンを持ったまま黄色い花を見つめていた。 食卓の中央に置かれた小さな花。 昨日より少しだけ花びらが開いている。 その下には、まだノエルの紙が置かれている。『今日は、黄色です』 その紙は、白い花を見ないと決めた日のものだ。 けれど今朝のノエルは、黄色を見てもすぐには笑わなかった。 膝の上には布兎。 本物の青いリボンは、耳に結ばれている。 犬のパンは机の下にいたが、ノエルの足に顎を乗せている。 たぶん慰めているのではない。 ちょうどよい高さだから乗せているだけだ。 それでも、今朝はその重みが少し役に立っているようだった。「青い封筒は」 ノエルが言った。 スープには手をつけていない。「セレスティアさまのお名前でした」「ええ」「ティアって」「ええ」「それは、セレスティアさまの古い名前ですか」「古い呼び方ね」「お母さまだけ?」 セレスティアは、少しだけ胸の奥が痛んだ。「昔は、ミレイユがそう呼んでいました」「わたしは呼びません」「もちろん」「呼んだほうがいいですか」「いいえ」「呼びません」 ノエルは少し強く言った。 怒っている。 名前に怒っているのではない。 その名前で、母がセレスティアへまた何かを渡したことに怒っている。
last updateLast Updated : 2026-09-25
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第四十二話 十歳の手紙は、今日読まない

 エリス・モーランが公爵邸を訪れたのは、昼前だった。 その日は朝から、屋敷の中に妙な緊張があった。 嵐の前というほど激しくはない。 けれど、食卓の皿を置く音が少しだけ小さくなり、侍女たちの歩く速度がいつもより慎重になる。 そういう緊張だ。 ノエルは朝食の席で、黄色い花を見ながらスープを飲んだ。 一口。 少し間を置いて、もう一口。 硬いパンは皿の横に置いたままだった。 犬のパンは机の下にいる。 今日は、ノエルの靴先に鼻を押しつけていた。「パンは、今日も分かっていません」 ノエルが言った。「そうね」 セレスティアは頷いた。「でも、います」「ええ」「分からなくても、いていいです」「そうね」 リュシアンが、食卓の向こうで小さく頷いた。「それは重要だ」 ノエルは少しだけ彼を見る。「伯父さまも、分からなくてもいますか」「いる」「今日は、十歳の手紙のことが分からないです」「私も分からない」「伯父さまも?」「ああ」「大人なのに?」「大人でも、分からないことはある」「逃げる言い方ですか」「逃げていない」 リュシアンは即答した。 最近、彼はそこだけ少し早くなった。 ノエルに何度も「逃げる言い方です」と言われたせいだろう。「大人でも分からない。だから、専門官に相談する」 ノエルは、スプーンを持ったまま考え込んだ。
last updateLast Updated : 2026-09-26
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第四十三話 未来を選ぶ日に

 金庫の扉は、閉じたあとも重かった。 音が、しばらく耳に残る。 ごん、と低く響いたあの音は、ただ金属が噛み合っただけの音ではなかった。 今日は読まない。 十歳まで絶対読まないとも、今日決めない。 半年後の自分に、もう一度聞く。 ノエルがそう決めた音だった。 その日の翌朝、ノエルはいつもより少し遅く起きた。 疲れたのだろう。 十歳の手紙を読まなかっただけなのに、まるで長い旅から帰ってきたような顔をしていた。 寝癖も少しついている。 髪の左側だけ、ふわりと跳ねていた。 セレスティアが櫛を手にすると、ノエルは鏡の前で自分の髪を見て、ぽつりと言った。「十歳の手紙は、昨日も泣きませんでしたか」「手紙は泣きません」「でも、頭の中では泣くかもしれません」「そうね」「昨日の夜は、泣きませんでした」「ノエルが?」「はい。少しだけ泣くかと思ったけど、眠くなりました」「たくさん考えたからね」「考えると、眠くなります」「とても自然なことです」「伯父さまは、考えると棚を壊しそうになります」 セレスティアは、櫛を止めた。「それは、あとで本人に伝えますか」「伝えます」「では、少し柔らかく」「伯父さまは、考えると棚を心配させます」「……柔らかくなったかしら」「少し」 ノエルは真剣だった。 こういう時のノエルは、冗談を言っているのか、本気なのか分からない。 たぶん、両方だ。
last updateLast Updated : 2026-09-27
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第四十四話 裁判の日は、パンケーキの日

 裁判の日取りが決まった知らせは、朝食の前に届いた。 封筒は灰色だった。 白ではない。 青でもない。 黄色でもない。 ただ、役所の棚に長く置かれていそうな、何の感情もない灰色。 それが逆に、少し怖かった。 伯爵夫人の白い花や、ミレイユの青い封筒や、黄色い未来の封筒は、色があるぶん、こちらも身構えられる。 けれど、裁判所からの封書は違う。 感情を剥がした顔で、淡々と人の罪と罰を並べる。 セレスティアはその封筒を受け取った瞬間、指先が少し冷たくなった。 リュシアンは、すでに書斎にいた。 最近、朝の報告は二人で受けることが増えている。 それが当然のようになっていることに、セレスティアは時々気づいて、時々気づかないふりをした。「裁判所からです」 家令が言った。「初回審理の日程通知と、関係者への出席要請でございます」 リュシアンの眉間が深くなる。 机が少し心配そうに見えた。 いや、机に感情はない。 けれど最近、セレスティアまでそういうことを考えるようになっている。 完全にノエルの影響だ。「顔」 セレスティアが小さく言うと、リュシアンは封書から目を離さずに答えた。「まだ読んでいない」「読まなくても出ています」「顔は元からだ」「今日は、その言い訳は三割だけ許します」「なぜ三割」「裁判所の封筒なので」「基準が分からない」「私もです」 家令は何も聞こえなかったように立っている。 この屋敷の家令は本当に
last updateLast Updated : 2026-09-28
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第四十五話 わたしの気持ちは、証拠ではありません

ノエルの箱を、裁判の道具にする。 その申立書を読み返すたびに、セレスティアは自分の指先が冷えていくのを感じた。 怒りというものは、熱いだけではない。 本当に腹の底まで落ちると、むしろ静かになる。 紙の上の文字は丁寧だった。 被害児童の精神状態。 後見人による誘導の可能性。 箱内文書の提出。 必要な確認。 どれも、裁判所へ出す文書としては整っている。 けれど、その整った言葉の下にあるものは単純だった。 ノエルが自分で怒っているはずがない。 ノエルが自分で考えられるはずがない。 だから、箱を開けろ。 気持ちを出せ。 大人の争いの材料にしろ。 セレスティアは、ペンを握った。 強く握りすぎて、指が痛い。「ペンが折れる」 向かい側からリュシアンが言った。 彼は机の前で腕を組んでいる。 机を殴らない代わりに、机を睨んでいた。 机は無実だ。 だが、かなり不安そうに見える。 いや、机に表情はない。 ないのだが、最近セレスティアの中でも、家具への同情心が芽生えつつある。 よくない傾向かもしれない。「閣下こそ、机を睨まないでください」「睨んでいない」「今、机が遺書を書きそうな顔をしています」「机に顔はない」「顔が元からだと言う方に言われたくありません」 リュシアンは一瞬黙った。「…&hell
last updateLast Updated : 2026-09-29
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第四十六話 お父さまは、わたしの盾ではありません

 反論書を提出してから二日後、裁判所から返答が届いた。 灰色の封筒だった。 最近、セレスティアは封筒の色を見るだけで、胃のあたりが少し重くなる。 白なら警戒する。 青なら息を止める。 黄色なら未来を思う。 灰色なら、裁判所だ。 灰色の封筒には、感情がない。 そこが一番厄介だった。 人の傷も、子供の箱も、大人の罪も、同じ紙の上に整列させる。 必要なことだと分かっている。 けれど、食卓とは違う場所だ。 セレスティアは封を切る前に、リュシアンを見た。 彼は腕を組んで立っている。 机との距離は、昨日より少し離れていた。「机から離れていますね」「意識している」「成長です」「ノエルに言われた」「でしょうね」「君にも言われた」「言いました」 短いやり取りをしてから、封を切った。 内容は、予想よりも悪くはなかった。 伯爵夫人側が求めた箱内文書の包括提出は、現段階では認められない。 ノエル本人の直接出廷も、当面不要。 ただし、児童の心理的保護に関する後見局専門官の意見書は正式に提出すること。 また、後見人側が申し出たアルベルト・レイモンドの追加証言については、初回審理の中で聴取する。 セレスティアは、最後の一文で手を止めた。 アルベルトが話す。 ノエルの箱ではなく。 ノエルの気持ちではなく。 父親である男が、自分の知っていること、自分が黙ったこと、自分が逃げたことを話す。 それは正しい。
last updateLast Updated : 2026-09-30
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第四十七話 死んだ親友は、私を選ぼうとしていた

 噂は、扉を叩かない。  礼儀正しい訪問客のふりもしない。  朝露のように庭へ落ちて、靴の裏について、いつの間にか廊下へ入り込む。  その朝、公爵邸に届いたものは、裁判所からの封書ではなかった。  社交界の茶会の招待状。  慈善音楽会の案内。  季節外れの見舞い状。  どれも一見、丁寧だった。  しかし、丁寧すぎるものは、時々刃物より鋭い。  セレスティアは書斎で、それらを一通ずつ開いた。 『この度のご心痛、いかばかりかと拝察いたします。亡きレイモンド夫人が最後にお頼りになろうとしたのが貴女様であったと伺い、胸を打たれました』 『親友同士の絆とは、時に血縁よりも深いものですね』 『お嬢様の養育に関しましても、亡きご母堂のご遺志が貴女様に向けられていたこと、いま改めて社交界の注目を集めております』 『かつての婚約関係と、亡き夫人との友情、そして幼いお嬢様の後見。複雑なお立場であられますが、どうぞお体を大切に』  どれも、表向きは気遣いだった。  だが、その下に透けているものは同じだ。  面白がっている。  物語にしている。  親友に婚約者を奪われた女。  その親友が死の直前に頼ろうとした女。  残された娘を育てる女。  冷徹公爵と共に屋敷に入れた女。  彼らにとって、セレスティアもミレイユもノエルも、語りやすい駒になっていた。  セレスティアは、三通目の手紙を畳む途中で手を止めた。  指先に力が入る。  破ってはいけない。  記録として保管する必要がある。  噂の流れを読むためにも。  分かっている。  分かっているが、破りたい。 「破るなら、写しを取ってからにしろ」  リュシアンが言った。  い
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第四十八話 選ばれることも、重い

 噂は、翌日も届いた。  今度は手紙ではなく、花だった。  白ではない。  青でもない。  黄色でもない。  薄い薄い紫色の花束だった。  添えられていたカードには、優雅な筆跡でこうあった。 『亡きご友人が最後に貴女様を頼られたこと、心よりお悔やみ申し上げます。選ばれた方にしか分からぬお苦しみもございましょう』  セレスティアは、そのカードを読んで、しばらく黙った。  選ばれた方。  その言葉が、喉の奥に引っかかった。  望んで選ばれたわけではない。  呼んでほしいと頼んだわけでもない。  ミレイユに「最後は私を頼って」と言った覚えもない。  そもそも、ミレイユは六年前にセレスティアを捨てた側だ。  それなのに、死ぬ間際にこちらを向こうとしただけで、周囲は勝手に言葉を飾る。  選ばれた。  頼られた。  親友の絆。  美しい和解。  ふざけないでほしい。  和解などしていない。  許してもいない。  手を取り合って泣いたわけでもない。  ミレイユは死んだ。  死んだから、もう問いただせない。  その事実だけが、ずっと胸に残っている。 「花は」  背後からリュシアンの声がした。  セレスティアは振り返らずに答えた。 「処分します。いえ、記録してから処分します」 「証拠か」 「噂の流れを把握する資料にはなります」 「花束まで資料にするのか」 「花束のふりをした刃物ですから」  リュシアンは黙った。  少しして、隣へ来る。  彼は花束を見た。  薄紫の花。  香りは控えめで、品
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第四十九話 同じ箱は、まだ早いです

同じ箱、という言葉が屋敷の中に居座っていた。 誰も大声で言わない。 廊下で侍女たちが噂するわけでもない。 食堂の壁に貼られたわけでもない。 それでも、確かにいた。 朝食の席で、セレスティアが小さな木箱に視線を落としただけで、リュシアンがなぜか咳払いをする。 リュシアンが棚の前で立ち止まっただけで、セレスティアが何となく目を逸らす。 ノエルはそれを全部見ていた。 見ていたうえで、何も言わなかった。 それが逆に怖い。 五歳の沈黙ほど、大人に圧をかけるものはない。「セレスティアさま」 朝食のスープを二口飲んだあと、ノエルが言った。「はい」「伯父さま」「何だ」「今日は、同じ箱の話をしてもいい日ですか」 セレスティアは、スプーンを皿に落としかけた。 リュシアンは紅茶のカップを持ったまま、完全に止まった。 犬のパンだけが机の下で尻尾を振っている。 何も分かっていない。 その無邪気さが、今だけは少し羨ましい。「ノエル」 セレスティアはできるだけ穏やかに言った。「その話は、どういう意味で聞いているのかしら」 ノエルは真剣に考えた。「箱の置き場所です」「置き場所」「はい。セレスティアさまと伯父さまの箱です」「それぞれの箱ね」「はい。昨日、同じ箱はまだ早いって言いました」「言いましたね」「でも、別々の箱を隣に置く棚は、少し考えてもいいかもしれません」 リュシアンが低く言った。「検
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第五十話 謝罪文は、読まなくても謝罪文です

 謝罪文、という言葉は、やけに綺麗な顔をしていた。 謝る。 罪を認める。 相手へ頭を下げる。 本来なら、悪い言葉ではない。 むしろ、必要な言葉のはずだった。 けれど、レイモンド伯爵夫人の名と並んだ瞬間、その綺麗な顔の下に、別のものが見える。 鍵。 白い花。 青を持って来なさい。 あなたは私に似ています。 伯爵夫人は、言葉をただの言葉として置かない。 花にも、手紙にも、血筋にも、謝罪にも、相手を動かすための指を忍ばせる。 だから、セレスティアは朝から気が重かった。 まだ謝罪文そのものは届いていない。 届いたのは、謝罪文を提出したいという申立てだけだ。 それでも、屋敷の中にはすでにその気配があった。 灰色の封筒。 厚い紙。 裁判所の印。 そこに書かれた「謝罪」の二文字。 ノエルは、その存在を小卓の上に置いた紙で受け止めた。『謝罪文は、今日はここまで』『わたしの心は、鍵で開きません』 小卓の上で乾いたその紙は、朝になると少し反っていた。 ノエルはそれを見て、言った。「紙も、少し嫌そうです」 セレスティアは返事に困った。 リュシアンは真顔で答えた。「嫌なのだろう」「伯父さま、紙の気持ちが分かりますか」「分からない」「でも、嫌そうです」「そうだな」「紙も、今日は箱に入るか迷っています」「小卓の役目だ」 ノエルは小卓を撫でた
last updateLast Updated : 2026-10-04
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