All Chapters of 『親友に婚約者を奪われた私ですが、彼女の葬儀で「娘をお願い」と遺言を渡されました』: Chapter 61 - Chapter 70

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第六十話 黄色いリボンは、毎日じゃなくていい

 黄色いリボンは、朝になっても皿の上にあった。 昨夜、ノエルが自分でほどき、小さく畳んで置いたものだ。 窓辺の光を受けて、卵色の布がやわらかく光っている。 派手ではない。 強くもない。 けれど、そこにあるだけで昨日の店の匂いが少し戻ってくる。 鈴の音。 棚に並んだたくさんの黄色。 知らない女の子の「きれい」。 セレスティアが笑って怖かったこと。 リュシアンが店ごと買わずに済んだこと。 未来を少し髪に結んだこと。 ノエルは寝間着のまま、皿の上のリボンを見ていた。 手は伸ばさない。 触りたいような、触りたくないような顔をしている。 セレスティアは扉の前で立ち止まった。 声をかける。「おはよう、ノエル」 ノエルは振り返った。「おはようございます」「よく眠れましたか」「途中で一回起きました」「うん」「でも、リボンが皿にありました」「ええ」「なくなっていませんでした」「ちゃんとありましたね」 ノエルは、また皿を見る。「でも、今日は結ぶか分かりません」「結ばなくてもいいですよ」 セレスティアが言うと、ノエルの眉が少し寄った。 その反応で、言葉が足りなかったと分かる。 ノエルは「いい」と言われただけでは足りない日がある。 どうしていいのか。 結ばないことが何を意味するのか。 そこまで確かめないと、不安が残る。「結ばないと」
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第六十一話 報告は、褒めるためにあるのではありません

 黄色いリボンは、今日も皿の上にあった。 昨日と同じ小さな皿。 窓辺から差す朝の光を受けて、卵色の布が静かにそこにいる。 髪には結ばれていない。 箱にも入っていない。 小卓にも移されていない。 皿の上で休んでいる。 ノエルはそれを見て、少し安心したような、少し申し訳なさそうな顔をした。 セレスティアは、あえて何も言わなかった。 未来を休ませる日もある。 昨日そう書いた。 その翌日に、未来を休ませるのは今日までですか、と急かすのは違う。 けれど、ノエルのほうから言った。「今日は、少し触ります」「結びますか」「いいえ。触るだけです」「はい」 ノエルはリボンに指先で触れた。 持ち上げず、ほどかず、結ばず、ただ布の端をそっと撫でる。「あります」「ええ」「結ばなくても、あります」「あります」「昨日もありました」「はい」「昨日休ませても、今日なくなりませんでした」「そうね」 ノエルは小さく頷いた。「未来は、少し休んでもなくなりません」「ええ」「では、朝ごはんを食べます」 食堂には、普通のスープがあった。 柔らかいパン。 黄色い花。 犬のパン。 この数日で、普通の朝食がとても大事なものになっている。 ノエルは席につくと、まずスープを一口飲んだ。 それから、昨日小卓に残した紙を一枚持ってきた。
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第六十二話 何を食べたかだけ、聞いてもいいですか

 小卓の上に、昨日から置かれた紙があった。『何を食べたかだけ、聞いてもいいですか』 朝の光が、その紙の端に当たっている。 昨日はまだ小卓だった。 箱に入れるには早く、食卓に出すには少し細すぎる問い。 けれど一晩経っても、その紙は消えなかった。 むしろ、朝になると昨日よりはっきり見えた。 ノエルは起きてすぐ、その紙を見に来た。 今日は黄色いリボンを手に持っている。 髪には結んでいない。 皿にも置いていない。 ただ、指にかけている。 布兎は反対の腕に抱いている。 青いリボンと黄色いリボン。 二つの色が、ノエルの小さな腕の中にあった。「今日は、リボンはどうしますか」 セレスティアが聞くと、ノエルは少し考えた。「まだ決めません」「はい」「朝ごはんのあとで決めます」「分かりました」「お父さまが何を食べたかを聞いたあと、結びたくなるかもしれません」 セレスティアは、その言葉を急いで否定しなかった。 黄色いリボンを、アルベルトの報告と結びつけすぎるのは少し危うい。 でも、ノエルがそう感じているなら、その感覚を無かったことにはできない。「その時に、また考えましょう」「はい」「結ばなくてもいいし、結んでもいい」「昨日の未来は消えませんか」「消えません」「今日の未来は?」「今日の未来も、急がなくていい」 ノエルは頷いた。 それから、小卓の紙を指で押さえた。「これは、今日聞きます」
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第六十三話 黄色い封筒は、まだ読む日ではありません

黄色い封筒のことを、ノエルが口にしたのは朝食の途中だった。 その日は、黄色いリボンを髪に結んでいなかった。 皿の上にもない。 小卓の端に、きちんと畳まれて置かれている。 ノエルが自分でそう決めた。「今日は、小卓です」 そう言って、朝いちばんに置いた。 昨日は父が何を食べたかを聞いた日だった。 野菜粥。 パン。 肉の煮込み。 スープ。 焼きすぎた卵は、まだ報告にない。 でも、焼きすぎた卵の場所はできた。 それでいい。 ノエルは朝のスープを二口飲み、柔らかいパンを少しちぎったあとで、ふいに言った。「黄色い封筒は、まだありますか」 セレスティアの手が止まった。 リュシアンも、カップを置いた。 犬のパンだけが、机の下で何も分からずに尻尾を振っている。 黄色い封筒。 ミレイユが遺した、十歳のノエルへ向けた手紙。 まだ読む日ではないと決めた封筒。 管理金庫に保管されている。 ノエルは、それをしばらく口にしなかった。 黄色いリボンを買った日も。 アルベルトの食事報告を聞いた日も。 呼び方を小卓に置いた日も。 判決の日も。 黄色い封筒は、そこにあるまま、触れられずにいた。「あります」 セレスティアは答えた。「金庫に?」「はい。後見局と公爵家で確認した手順通りに保管しています」「誰かが開けましたか」「開けていません」「おばあさまは
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第六十四話 本人が望めば、は命令ではありません

 黄色い封筒を見た翌朝、ノエルはいつもより少し遅く起きた。 寝坊というほどではない。 けれど、いつもなら窓辺の黄色い花を見に行く時間になっても、寝台の中で布兎を抱えたまま、天井を見ていた。 セレスティアが扉を軽く叩くと、小さな声で返事があった。「起きています」「入ってもいい?」「はい」 部屋へ入ると、ノエルはまだ寝台の上にいた。 青いリボンの布兎を胸に抱き、枕元には昨日の黄色いリボンが畳まれて置かれている。 髪には結んでいない。 皿にも置いていない。 ただ、手の届くところにある。「眠れましたか」 セレスティアが聞くと、ノエルは少し考えた。「途中で、黄色い封筒の夢を見ました」「開ける夢?」「いいえ」「どんな夢?」「金庫の中で、封筒が歩いていました」 セレスティアは一瞬、どう返すべきか迷った。「歩いていたの?」「はい。小さい足がありました」「それは……少し怖い夢?」「少し怖くて、少し変でした」「封筒は何か言いましたか」「言いません。でも、こっちを見ていました」「封筒に顔が?」「ありません。でも、見ている感じでした」 ノエルは、自分でも変だと思ったのか、少し眉を寄せた。「おかしいですか」「おかしくありません」 セレスティアは寝台のそばに腰を下ろした。「昨日、封筒を見たから、頭の中で封筒が
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第六十五話 帰る場所が、二つあるのは変ですか

 その日、黄色いリボンは髪に結ばれていた。 きつくはない。 低い位置で、ふわりと結ばれている。 昨日は食卓。 その前は皿。 今日は髪。 ノエルは朝、鏡の前で自分で少しだけ結ぼうとして、結局途中でほどけてしまい、セレスティアに頼んだ。「自分でやりたいです」「はい」「でも、今日は少し手伝ってください」「もちろん」「全部やってもらうのは、違います」「では、半分ずつにしましょう」「半分ずつ」「ノエルが位置を決めて、私が結ぶ」 ノエルは真剣に頷いた。「それは、共同リボンです」「共同リボン」「はい。共同後見人みたいです」 セレスティアは、思わず笑った。「リボンにも制度ができましたね」「リボンは、制度じゃないです」「そうね」「でも、ひとりでできない日もあります」「あります」「半分ずつでも、わたしのリボンですか」「もちろんです」 その答えに、ノエルは少し安心したようだった。 半分手伝ってもらっても、自分のもの。 それを確認してから、ノエルは黄色いリボンを結んだ髪で朝食の席についた。 食堂には、いつもの花とスープとパンがある。 犬のパンもいる。 そして、リュシアンはいつもより少し早く席についていた。 手元には封筒がある。 公爵家の事務封筒ではない。 エルフォード伯爵家の封蝋だった。 セレスティアは、その封筒を見た瞬間、胸の奥が少し
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第六十六話 歓迎は、試験ではありません

 エルフォード伯爵家からの二通目の手紙は、思ったより早く届いた。 朝食の支度が整う少し前だった。 家令が銀盆に載せて運んできた封筒を見た瞬間、セレスティアは胸の奥で小さく息を止めた。 昨日、返事を出したばかりだ。 エルフォード領への短期滞在を検討していること。 ノエルが少し怖がっていること。 歓迎が試験にならないよう配慮してほしいこと。 途中で帰れる予定にしたいこと。 リュシアンも同行する意向があること。 そのすべてを書いた。 父ならば、必要な準備を簡潔に返してくるだろう。 母ならば、きっと余計なことまで書いてくる。 そして、封筒の厚さを見る限り、母がかなり関わっている。「セレスティアさま」 ノエルが食堂の入口で立ち止まった。 今日は黄色いリボンを結んでいない。 皿の上でもなく、髪でもなく、小卓に置いてきた。 昨日、帰る場所の話をしたからだろう。 黄色いリボンを結ぶには、少し重かったのかもしれない。「また、エルフォードですか」「ええ。返事が来ました」「早いです」「母は、返事が早い人です」「走る字ですか」 セレスティアは少し笑った。「母の字は、走りません。刺します」 ノエルは目を丸くした。「刺しますか」「ええ。丁寧なのに、なぜか的確に刺してくる字です」 リュシアンが低く言った。「怖いな」「閣下に言われると、母も不本意でしょうね」「私は顔だけだ」「自覚はあるのですね」
last updateLast Updated : 2026-10-20
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第六十七話 帰る場所は、選んで増えていい

 エルフォード伯爵家からの三通目の手紙には、犬のパンについての返答があった。 朝食の席で、封筒を開けたセレスティアは、最初の数行を読んで、しばらく黙った。 黙ったというより、読むのを中断した。 目頭を押さえたいような、笑いたいような、ため息をつきたいような、娘として母を誇りたいような、もう少し普通にしてほしいような。 そういう複雑な顔になった。 ノエルはすぐに気づいた。「セレスティアさま」「はい」「また刺されましたか」「今回は、刺されたというより、母に母をされました」「母をされました?」「ええ」 リュシアンが少し身を乗り出した。「何と書いてある」 セレスティアは手紙を読み直し、覚悟を決めて声に出した。『犬のパン殿について。 同行される場合に備え、庭番長より犬用の水皿、休憩用の敷物、厨房裏の涼しい場所を確保済みです。 なお、食べるパンとの混同を避けるため、厨房には「犬のパン」と「食べるパン」を別表記するよう申し伝えました。 料理長が笑いすぎて仕事にならなかったため、一度叱りました。 犬のパン殿がいらっしゃらない場合でも、水皿は用意しておきます。 来ても来なくても、水皿は怒りません。』 最後の一文を読み終えた瞬間、食堂が妙な沈黙に包まれた。 リュシアンは真顔だった。 ノエルも真顔だった。 家令は壁際で完全に無表情だった。 犬のパンだけが、机の下で尻尾を振っている。 意味は分かっていない。 だが、自分の名前が呼ばれたことだけは分かっている。「犬のパン殿」 ノエルが小さく言った。
last updateLast Updated : 2026-10-21
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第六十八話 戻る馬車つき一泊

 出発前日の朝、ノエルは箱の前で固まっていた。 正確には、箱と、布兎と、黄色いリボンと、畳まれた着替えと、犬のパン用の敷物と、紙束の前で固まっていた。 部屋の床には、荷造り用の小さな鞄が置かれている。 一泊用だ。 戻る馬車つき一泊。 昨日、そう決めた。 たった一泊。 行ってみて、難しければその日のうちに帰ってもいい。 戻る馬車は正式。 犬のパン殿の水皿は現地にある。 スープは怒らない。 椅子も怒らない。 水皿も怒らない。 それでも、荷物は怒らないのか。 そこまでは誰も話していなかった。 ノエルは布兎を抱え、箱をじっと見ていた。 セレスティアが部屋へ入ると、ノエルは振り返らずに言った。「セレスティアさま」「はい」「一泊なのに、何を持っていけば戻れますか」 セレスティアは、扉の前で少し足を止めた。 何を持っていけば戻れるか。 普通なら、何を持っていけば泊まれるか、と聞く。 着替え、寝間着、髪飾り、好きなおもちゃ。 けれどノエルの問いは、泊まるためではなく、戻るための荷造りだった。「戻るために必要なもの?」「はい」「戻る馬車はあります」「あります」「この屋敷もあります」「あります」「でも、持っていくものがないと、戻る場所を忘れますか」「忘れません」「本当に?」 ノエルはようやく振り返った。 目は真剣だった。「エルフォー
last updateLast Updated : 2026-10-22
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第六十九話 箱は全部持っていかなくていい

 出発の朝ではない。 まだ、出発前日の夜でもない。 ただ、翌朝が来れば旅になる、という妙な時間だった。 屋敷の中は、どこか落ち着かない。 廊下の足音がいつもより少し早い。 侍女たちは声を低くしているが、その低さ自体が忙しさを隠せていない。 家令は平然としている。 平然としているが、手にしている帳面の角度が、いつもより少し鋭い。 御者トマは馬の様子を見に行き、庭師はなぜか玄関まわりの枝を整えている。 犬のパンは、何も分かっていない顔で屋敷中を歩き回り、そのたびに誰かから、「犬のパン殿、そちらは厨房ではありません」 と呼ばれている。 犬のパン殿。 この呼び名は、思った以上に屋敷へ広がってしまった。 セレスティアは、廊下の向こうから聞こえた「犬のパン殿が敷物をくわえて逃走中です」という侍女の声に、思わず目を閉じた。 明日、エルフォード領へ向かう。 戻る馬車つき一泊。 その言葉だけ聞けば、慎重で安心な旅のはずなのに、実際の屋敷は小さな遠征前のようになっていた。 そして、その中心にいるはずのノエルは、静かだった。 静かすぎた。 小卓の前に座り、箱を前にしている。 箱は、いつもの布袋から出されていた。 青い紐。 角の少し丸い木箱。 ノエルの紙がたくさん入っている箱。 昨日は「箱は留守番です」と小卓に書いた。 その紙はまだ小卓にある。 だが、今朝のノエルの顔を見る限り、その言葉はまだ完全には乾いていなかった。 セレスティアは、小卓の向かいに座った。「おはよう、ノエル」
last updateLast Updated : 2026-10-23
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