Tous les chapitres de : Chapitre 61 - Chapitre 70

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第61話

潤也は苦笑した。「恋愛したくないわけじゃないんです。ただ、根本的に交際まで発展しないと言いますか」「交際まで発展しないとは?」「以前、お見合いで感じのいい女の子と2人ほどお会いしたんです。どちらも好印象で、お付き合いしてみようかと思ったんですが……結局、私が忙しすぎて一緒に過ごす時間がないと呆れられ、最後はうやむやになって終わりました」それを聞き、碧斗の表情がわずかに強張った。長い沈黙のあと、どこか申し訳なさそうに口を開いた。「俺のそばにいるせいで、苦労をかけるな」仕事に明け暮れるあまり、自分の妻に愛想を尽かされたばかりか、特別補佐の縁談まで潰してしまっていたとは。潤也はあっけに取られ、思いがけない気遣いに恐縮しながら慌てて首を振った。「社長、そんな!あなたのおそばで働き、学ばせていただけるのは私の誇りです。苦労だなんて少しも思っていません」「だが、俺がお前に恋愛をさせていない」潤也はきっぱりと言った。「私は今、一番仕事を頑張るべき時期です。家庭を持つのは身を立ててからです。社長も常々仰っているではありませんか。男は仕事を第一とし、一番いい時期に自分の足場を固めるべきだと」仕事を頑張るべき時期。仕事第一。普段、自分が部下を鼓舞するために口にしていた言葉が、今となってはどうしようもなく滑稽に思えた。仕事に打ち込むのは正しい。だが、家庭を犠牲にしてまでやることなのか?この2年間、彼は死に物狂いで働き、結城グループをさらなる高みへと押し上げ、時価総額を何倍にも跳ね上げた。世間は彼の卓越した手腕をもてはやし、先代をも凌駕する、名実ともに結城家を背負って立つ当主だと絶賛した。だが、そんな眩いばかりの功績も、琴葉から離婚を突きつけられた瞬間、何ひとつ意味をなさなくなってしまった。彼女は言った。あなたの頭の中には仕事しかない。いつも家を空けてばかりだ、と。彼女はこの2年間ずっと耐え忍び、そしてついに限界を迎えた。自分の子供を身ごもってなお、これ以上の妥協を拒み、頑なに離婚を求めてきた。世間は「若くして成功を収めた」と持てはやすが、笑い話にもならない。自分はたったひとつの家庭すら守れなかったのだ。自分が家庭を大切にできなかったばかりか、手塩にかけてきた部下の考え方まで仕事人間に歪めてしまっていた。「
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第62話

あいつは、こういう格好が好きなのか?碧斗はカタログに視線を落として目を細めると、やがて真剣な顔つきでページをめくり始めた。……琴葉が帰宅したのは、7時近くになってからだった。両手いっぱいに紙袋を提げて入ってくるのを見て、幸子が慌てて受け取りに走る。「ありがとう、鈴木さん。リビングのあたりに置いておいて」そう言いながら、琴葉はリビングのソファに座っている男の存在に気がついた。「こちらでよろしいですか?」幸子が1人掛けのソファに荷物を置く。琴葉は頷いた。「ええ」碧斗は積み上げられた紙袋の山を一瞥した。「それは全部、宏樹さんへの贈り物か?」琴葉は向かいのソファに腰を下ろし、歩き疲れて張ったふくらはぎを揉みほぐしながら答えた。「全部じゃないわ。本家の佐藤さんの分もあるから」碧斗は彼女がふくらはぎを揉む動作を見つめながら言った。「他に準備するものはあるか?俺に言ってくれれば、人を手配して用意させる。お前がわざわざ買い歩く必要はない」琴葉はふっと視線を上げた。「結構よ。自分の用事くらい自分で片付けるわ」それに、必要なものはもうすべて買い揃えてある。「琴葉」碧斗は真剣な眼差しで彼女を真っ直ぐに見据えた。「お前のお腹にいるのは俺の子供だ。だから、たとえ俺たちが離婚したとしても、お前は俺をいつでも、どんなことにでもこき使って構わないんだ。気兼ねなど一切しなくていい」その言葉に、琴葉の手がぴたりと止まった。気兼ねしているわけではない。これ以上、彼と不必要に関わりを持ちたくないし、彼に依存するつもりもないだけだ。琴葉は向かいに座る男の目をじっと見返した。「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」碧斗は一瞬、呆然とした。「どういう意味だ?」「あなたがこの子の父親だからって、責任を感じて負担に思う必要なんてないわ。だって、この子は将来、私が引き取って育てるんだから」琴葉はきっぱりと言い放った。「産むと決めた以上、私が全責任を持つわ。それに、この子をちゃんと育てていく力も私にはある。だから、心配は無用よ。私のお腹の中にいる間も、生まれてからの人生も、私は自分のすべてを懸けてこの子を守り、立派に育て上げるつもりだから」揺るぎない、凛としたその強い眼差しを見つめながら、碧斗は胸を締めつけられるような切なさを
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第63話

秋の連休を目前に控えたこの1週間、碧斗は多忙を極め、昼食に戻れない日がたまにある程度だった。琴葉もこの数日、暇を持て余していたわけではない。贈り物は宏樹への分に加えて、相沢家と涼宮家にもそれぞれ用意していた。ただ唯一、桑原家にだけは何も用意していなかった。連休まであと2日と迫った日、琴葉は家で手作りのお菓子を作っていた。朝食を済ませて一息つくと、彼女はすぐに作業に取りかかり、幸子がその傍らで手伝いをしていた。この日、会社で急を要する案件が入り、碧斗は朝食も取らずに出社した。昼食も戻らず、午後4時半までぶっ通しで働き、ようやく片が付くと、わざわざ仕事を切り上げて帰路についた。家に着いたのは5時頃。玄関を入るなり、琴葉の声が聞こえてきた。「鈴木さん、そのピンクの箱に入ったのは一番目の紙袋に入れてね。帆夏宛てだから」「はい、承知いたしました」「それから、あのブルーベリーも一緒にお願い」碧斗がリビングに入ると、テーブルの上に大きなギフト用の紙袋が二つ置かれており、琴葉と幸子がその中に次々と品物を詰めているところだった。彼は興味を惹かれて近づき、「何をしているんだ?」と尋ねた。幸子が振り返り、にこやかに答えた。「琴葉さんが手作りのお菓子を作られたんですよ。帆夏さんと琉馬さんのお宅へお届けする贈り物です」碧斗の瞳がわずかに輝いた。見れば、テーブルの上に青い四角いパッケージのお菓子の箱が置かれている。「今年も作ったのは栗きんとんか?」彼は興味津々な様子で琴葉のそばに寄り、そう尋ねながら、その箱の蓋を開けようと手を伸ばした。だが、指先が箱に触れるよりも早く、琴葉にピシャリと手を叩き落とされた。「勝手に触らないで」彼女はそう言い捨てると、その箱をさっさと紙袋の中へ片付けてしまった。碧斗の整った顔に気まずい色がよぎった。触れることすら許されないというのか?玄関から物音がして、碧斗が目を向けると、茂が歩いてきた。「琴葉さん、お荷物は今すぐ車にお積みしますか?」「ええ、お願い」琴葉が首を向けて答えようとしたが、目の前に立ちはだかる長身の男が邪魔になった。彼女は背の高い彼を見上げて、鬱陶しそうに睨みつけた。「どいて。邪魔よ」立て続けに冷たくあしらわれ、碧斗は何も言えないまま、すごすごと横へ退く
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第64話

「今日の午後、琴葉さんが帆夏さんとお電話されているのが聞こえたんですが……残りの一箱はたしか、櫂とかいう方へ差し上げるのだと仰っていました」碧斗の顔色はたちまち怒りと屈辱で青ざめ、引きつった。――最後のひと箱は、よりにもよってあの櫂へのものだったというのか?はっ。知り合って間もない櫂にすらあり、鈴木さんにあり、茂さんにもあるというのに。夫である俺にだけ、ない?「連休中、家で楽しむ分としては一箱も残していないのか?」往生際悪く、彼は幸子に食い下がった。「琴葉さん、今回の連休はお家では過ごされませんよ」幸子は彼を見て不思議そうに言った。「旦那様、ご存じなかったのですか?」碧斗は呆然としていた。「何だって?家にいない?」「ええ。琴葉さん、帆夏さんたちと一緒にクルーズ船に乗って連休を過ごすお約束をされているそうです。1泊2日の小旅行だそうです」碧斗はその場に立ち尽くした。怒りというよりは、胸の奥がずしりと重く沈み込むような、やるせない喪失感に襲われた。――あいつは……もう俺以外の誰かと、連休を過ごす約束をしていたというのか?彼の顔色が優れないのを察し、幸子はそれ以上は踏み込まずに、「旦那様、すぐに夕食の支度をしてまいりますね」と言い残してキッチンへ向かった。その日の夕食は、何を食べても砂を噛むようで味がしなかった。碧斗は二、三口箸をつけただけで、早々に食事を切り上げた。立ち上がって2階へ向かう途中、小さな酒棚の上にある物に目を奪われ、彼はふと足を止めた。なぜこんな所に、例のお菓子の箱があるんだ?碧斗が訝しげに箱を手に取り、蓋を開けてみると、中にはお菓子が九つ並んでいた。可愛らしいクマの形をしている。「あの、旦那様。そのお菓子は……私のです」背後から、幸子の申し訳なさそうな声が聞こえた。「ん?ああ」碧斗はパタンと蓋を閉じ、ゆっくりと幸子へ箱を差し出した。幸子が受け取ろうと手を伸ばし、引き寄せようとするが――彼が箱から手を離していないことに気がついた。不思議に思って顔を上げると、碧斗がぽつりと呟いた。「そういえば、俺はあいつの手作りのお菓子を食べたことがないな」幸子は2時間前の出来事を思い出した。琴葉に「旦那様の分は用意し忘れたのではありませんか?」と尋ねた時のことだ。琴葉はこう
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第65話

碧斗は正午きっかりに帰宅した。リビングに入ると、ソファに座る琴葉がこちらへ視線を向けてきたが、あからさまに不機嫌そうな顔をしている。彼は歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。「どうしたんだ?」琴葉はわざと少し横へずれて距離を置いてから、口を開いた。「あなた、私の叔父さんに年代物の掛け軸を贈ったの?」碧斗はネクタイを緩めかけていた手を一瞬ピタリと止めたが、すぐに何食わぬ顔で釈明した。「この前、宏樹さんと将棋を指した時に、あの書道家の字が好きだと聞いたんだ。ちょうど友人がコレクションを手放すというから買い取って、茂さんにお前の贈り物と一緒に届けてもらっただけだよ」琴葉は理解に苦しむというような目で彼を見つめ、眉をひそめた。「碧斗、あなたどういうつもり?あれは私の叔父さんよ。あなたの叔父さんじゃないわ」もう離婚したというのに、こんな真似をして何が目的なのか?「琴葉、俺たちは離婚しただけで、親の仇になったわけじゃない。俺は宏樹さんと気が合うんだ。付き合いを続けることすらダメだと言うのか?」「ええ、ダメよ」琴葉は顎をツンと上げて真顔で言い放った。「叔父さんとの関わりは絶ってちょうだい」これからの自分の人生に、彼の影が残ることを彼女は望んでいなかった。自分の言葉に威圧感を持たせようとでもしているのか、彼女は赤い唇をきゅっと引き結び、大きな瞳で彼をキッと睨みつけている。碧斗は2人の間にあるソファの座面に手をついて身を乗り出し、凄んでいるつもりの、子猫のように愛らしいその怒り顔を至近距離から見つめた。「お前ってやつは、本当に理不尽だな」男の魅力的な低い声には、からかうような笑みが混じっていた。からかわれた気恥ずかしさからか、それとも男の顔が近すぎるからか、琴葉は顔がカッと熱くなるのを感じ、腹立たしげに手を伸ばして彼をぐっと押し退けた。「私は真剣に言ってるの。冗談じゃないわ」彼女が顔を赤くして焦り、本気で怒っている様子を見て、碧斗はそれ以上からかうのをやめた。「分かった、分かったよ」と、柔らかな声でなだめる。「約束する。次からは絶対に、お前を通さずに勝手に贈り物をしたりしない。それでいいか?もう怒るな」琴葉は言葉に詰まった。最近の彼はいつもこうだ。やたらと彼女の神経を逆撫でして怒らせておきながら、次の瞬間
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第66話

「なにしろ、あなたにとっては貴重なお休みですものね」彼女はどこか冷ややかなトーンでぽつりと言い放った。「琴葉、お前……もしよければ……」「ごちそうさま。ごゆっくりどうぞ」琴葉はパチンと箸を置き、席を立った。碧斗は予想外の反応に言葉を失った。誘いの言葉を口にする間も与えられず、ただ階段を上がっていく彼女の後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。幸子がスープを運んできたときには、すでに琴葉の席は空だった。幸子はほとんど手のつけられていない食器を見て言った。「琴葉さん、ほとんど召し上がらないままお部屋へ戻られたのですか?」碧斗は我に返り、「午後は少し早めに、何か軽食を作ってやってくれ」とだけ言い含めた。「かしこまりました」碧斗は食事が済むと、そのまま会社へ向かった。しかし夜帰宅しても、琴葉が夕食に下りてくることはなかった。幸子によれば、1時間ほど前にお菓子をつまんでお腹が空いていないらしく、夕食と夜食は一緒に済ませるという。その夜、彼女は一歩も部屋から出ず、夜食も幸子が部屋まで運んでいった。翌日は、いよいよ秋の大型連休の初日だった。琴葉は朝早くに帆夏の車で迎えに来てもらい、朝食すら家でとらずに出かけてしまった。碧斗は2階のバルコニーに立ち、彼女たちを乗せた車が遠ざかるのを見下ろしていた。ふと、胸の奥底から苦い悔恨がせり上がってくる。――ここ2年の連休……いや、この2年間、行事があるたびにずっと、彼女もこうして家のどこかに立ち、朝早くに出かけていく俺の背中をただ黙って見送り……冷え切った広い家に、たった1人取り残されていたのだろうか?……櫂は、琴葉たちがクルーズ船で連休を過ごすと聞きつけ、自分も参加したいと言い出した。こうして当初の3人旅は、4人グループの旅へと変わった。乗客は昼の12時から乗船できるが、船が出航するのは午後5時で、パーティーが正式に始まるのは5時半からだった。そのため彼らも急ぐことはなく、昼に外で一緒に食事を済ませ、2時過ぎにのんびりと船に乗り込んだ。船内には豊富な娯楽施設が備わっており、パーティー開始まで乗客は自由に休んだり遊んだりして過ごすことができる。乗船して身分の確認を終えると、スタッフが客室へと案内してくれた。琉馬は部屋を三つ押さえていた。彼と帆夏が同室
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第67話

「申し訳ございません、お客様」スタッフが申し訳なさそうに説明した。「今夜は大変多くのお客様にご乗船いただいておりまして、客室に余裕がございません。そのため、お部屋はランダムに手配させていただいております。何卒ご容赦くださいませ」「なるほど、そういうこと」琴葉は小さく頷いた。「いいの、ちょっと気になっただけだから」さらに少し歩いたところで、ようやくスタッフがある部屋の前で足を止め、振り返ってカードキーを彼女に差し出した。「こちらがお客様のお部屋でございます」「ありがとう。荷物は私が持つわ」スタッフは彼女に荷物を手渡し、こう付け加えた。「実を申しますと、こちらのお部屋のほうが広く、眺めも良好でございます。それにとても静かですので、お気に召していただければ幸いです」「それは楽しみね」琴葉は微笑んで礼を言い、カードキーを受け取った。ドアを開けて中に入ってみると、確かに素晴らしい部屋だった。広々として清潔感がある。それに「静か」という点は、本当に彼女の好みにぴったりだった。琴葉は荷物を置き、部屋の中を少し見て回ってから、ネグリジェに着替えてベッドに入った。さすがは豪華客船というべきか、ここの寝具も最高級のものだ。ふかふかの大きなベッドに横たわると、彼女はあっという間に眠りに落ちた。ゆったりと目を覚ましたときには、すでに5時近くになっていた。スマホを見ると、15分前に帆夏からメッセージが入っていた。みんな部屋に戻って身支度をしているから、あとで甲板で集合しようとのことだった。琴葉は起き上がってシャワーを浴び、薄化粧をしてから、イエローのシルクワンピースに着替え、ようやく部屋を出た。廊下を歩きながら、彼女は琉馬が作った臨時の4人グループチャットに、今から甲板に向かうとメッセージを送った。送信を終えて顔を上げたその時、目の前に1人の人物が現れた。「琴葉、奇遇ね。あなたもパーティーに参加するの?」こんなところで雪乃に会うとは、琴葉は予想だにしていなかった。琴葉は微笑んだ。「ええ、奇遇ね」雪乃はこれ見よがしに驚きと喜びに満ちた顔を作り、馴れ馴れしく近づいてきて彼女の手を引こうとした。「よかった!偶然出会えるなんて縁があるわ。琴葉、せっかく会えたんだから、今夜は一緒に遊びましょうよ?」琴葉は彼女の
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第68話

目を奪われるほどセクシーで魅力的だ。プロのモデルすら霞んでしまうほどのスタイルである。周りの女性たちがこぞって熱い視線を送るのも無理はない。琴葉はそこに立ち止まったまま、手すりのそばに立つ碧斗をじっと見つめていた。潮風が頬を撫でる中、彼を目にした瞬間の驚きは、その洗練された出で立ちに対する感嘆へと変わり、やがてすべてを察した納得を経て――次第にスッと冷めきっていった。彼がこんな場所にいることには驚いたが、先ほど出くわした雪乃の顔を思い出し、瞬時に合点がいった。先ほど気づくべきだったのだ。雪乃がここにいるのだから、彼がいないはずがない。今回の連休の休みは、もともと好きな相手と一緒に過ごすために取ったものなのだから。琴葉の記憶にある碧斗という男は、常に堅苦しいスーツに革靴姿で、シャツの第一ボタンまできっちりと留め、ネクタイを締め、髪もオールバックに撫でつけていた。真面目で、隙がない。今日みたいにカジュアルで洗練された服装に、サングラスまで合わせたスタイルなど、見るのはこれが初めてだ。「人は愛する者のために装う」と言うが――なるほど、新しい恋に浮かれている男というのは、随分と色気づくものらしい。琴葉は目を逸らした。これ以上見ていられず、きびすを返して早足でその場を立ち去った。一方、テラス席では、海翔がゆっくりと碧斗に近づき、琴葉が去った方向を見やりながら言った。「おい、いつまでカッコつけてんだよ。琴葉さん、もう行っちゃったぞ」言われるまでもない。碧斗は唇を真一文字に引き結んでいた。サングラスの奥の瞳は、最初からずっと琴葉の姿を追っていたのだ。彼女がまるで赤の他人のように自分を一瞥し、背を向けて立ち去るのをこの目で見ていた。海翔は彼の全身をジロジロと見回した。「お前、琴葉さんがこういうタイプ好きだって、本当に確証あるのか?俺には、さっきの彼女の目に惚れ惚れした様子なんか微塵もなくて、むしろ軽蔑してるように見えたけどな?」琴葉の後ろ姿が角を曲がって見えなくなると、碧斗はゆっくりと顔を向け、海翔を睨みつけた。サングラスのせいで目は見えないが、その不機嫌極まりない顔を見れば、今にも人を殺しそうな目をしていることくらい容易に想像がついた。「まあ、そう落ち込むなよ。周りの女性陣の熱い視線を見る限り、お
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第69話

琴葉は帆夏の心中を察し、逆に彼女を慰めるように言った。「この船にはVIPエリアがあるそうよ。碧斗ほどの立場の人間なら、こういう場ではきっと想い人とVIPエリアでひっそりデートするはず。わざわざ人目につく場所を見せびらかすように堂々と連れ歩くような真似はしないはずよ」2人の関係を公にして、後ろ指を指されるような真似は絶対にしないだろう。それを聞いて、帆夏もなるほどと納得した。琴葉の気分が沈むのを気遣い、彼女は慌てて琴葉の腕に抱きついた。「その通りね!よその人なんて放っておきましょ」「さあ、行こ!琉馬たちがオープンテラスのボックス席で待ってるわ。あそこの夕日はすごく綺麗だって評判なの。美味しいものを食べながら景色を眺めて、映える写真もいっぱい撮らなきゃ!」「ええ」琴葉は彼女に向かってふんわりと微笑んだ。オープンテラスのレストランに到着すると、遠くから櫂が手を振ってきた。「琴葉さん、帆夏さん、こっちです!」彼らが選んだのは、一番海に近いU字型のボックス席だった。帆夏が琴葉の手を引いて席に着くと、テーブルにはすでにたくさんの料理が並べられていた。向かい側にいた櫂が立ち上がり、琴葉の隣に移動してくると、運ばれてきたばかりのステーキ皿を彼女の前にすっと差し出した。「琴葉さん、お腹空いたでしょう?琴葉さんにステーキを頼んでおいたんです。早く味見してみてください」琴葉が妊娠していると知って以来、彼は琴葉に対してひときわ世話を焼くようになっていた。彼女がか弱くて心細げで、どうにも放っておけない存在に思えてならないのだ。誰かが隣で世話を焼いてやらなければダメなタイプだと。反対側の隣に座る帆夏も負けてはいない。琴葉にホットミルクの入ったグラスを差し出した。「ほら琴葉、少し飲みなさい」「私、フルーツジュースが飲みたいわ」「了解です。搾りたてのフレッシュジュースを頼んできますね」櫂がそう言い終えた瞬間、不意に傍らから声が割り込んできた。「おや、琴葉さんじゃないか」横並びに座っていた4人が一斉に顔を上げると、そこには海翔と、彼の隣に立つ碧斗の姿があった。琉馬と帆夏は顔を見合わせた。櫂は状況が呑み込めずきょとんとしている。琴葉は言葉を失った。さっきまで浮かれて色気づいていた男は、カッコつけてい
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第70話

碧斗と琴葉が結婚した時、この親友2人は琴葉の嫁入りをサポートし、帆夏に至ってはブライズメイドまで務めてくれた仲だ。碧斗からの挨拶に対し、帆夏は「ふん」と鼻で笑ってそっぽを向き、完全に無視を決め込んだ。琉馬はかろうじて大人の対応として軽く頷いたものの、それ以上の愛想を見せる気は毛頭ない。まともに取り合ってもらえず気まずい空気を漂わせる碧斗を見て、海翔は内心でこっそり溜息をついた。――こいつ、一体何をやらかして琴葉さんの身内同然の親友たちをここまで怒らせたんだ?帆夏はどうしても腹の虫が治まらず、再びこちらを向いてあからさまな嫌味を放った。「結城社長ともあろうお方が、なんでわざわざこんな席までお出ましになったわけ?こういう時はVIPエリアで、美しい方とご一緒にお過ごしになるべきでは?」碧斗は彼女の刺々しい態度を意に介する様子もなく、平然と言い放った。「妻がいる場所が、俺のいる場所だ」帆夏は「けっ」と露骨に舌打ちをした。――誰があなたの妻よ。ほんと図々しいんだから。海翔が苦笑交じりにその場を取り繕う。「いやあ、実はVIPエリアよりこっちの方が景色がいいんだよ。もう少ししたらあっちでコンサートも始まるし、結構盛り上がるぜ……おっ、君たち2人は恋人同士だよな?」海翔は琉馬と帆夏に視線を向け、それから琴葉を見た。「部屋の割り当てはどうなってるんだ?琴葉さんは1人部屋?それとも友達と相部屋?こっちで手配し直す必要あるか?」その言葉を聞いて、琴葉はふと思い出した。この一条家の御曹司の母親の実家は八木家だ。以前碧斗から、海翔は幼い頃から八木家で育ったから八木家の人間みたいなものだと聞いたことがある。そう考えると、このクルーズ船において彼が発言権を持ち、融通を利かせられる立場にあるのも頷けた。「海翔さん、お気遣いなく。友達が私の部屋も手配してくれていますから」海翔は意味ありげに碧斗へちらりと視線を流し、「へえー」と答えた。その反応を妙に感じた琴葉が、一体どういう意味だろうといぶかしんでいると、2人の男が彼らのテーブルへ向かって歩いてくるのが見えた。「結城社長」先頭を歩いていた男が、近づきながら碧斗に挨拶をした。そして碧斗の隣に座っている琴葉に気づくと、慌てて恭しく頭を下げた。「奥様も、ご一緒でしたか」琴葉はこ
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