Tous les chapitres de : Chapitre 81 - Chapitre 90

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第81話

琴葉は帆夏と午前中いっぱい甲板で羽を伸ばし、昼になって櫂が起きてくると、4人で船内のレストランへ昼食に向かった。食事中、櫂が「昨日琉馬さんとやったビリヤード、まだ決着がついてないんですよ。もう何ゲームかやりたいです!」と言い出した。そこで、食後はビリヤード室へ向かうことになった。レストランを出る際、琴葉がトイレに行きたいと言うと、帆夏が残って待とうとした。「いいよ。充電ケーブルを取りに部屋に戻るって言ってなかった?あとでビリヤード室で合流しよう」と琴葉が言った。「そうね。じゃあ、お先に」帆夏は琉馬たちと一緒にレストランを出て行った。琴葉は1人でトイレへ向かった。トイレから出て個室の並ぶ廊下を通りかかったとき、一つの個室のドアが勢いよく開いた。中から人が出てきたため、琴葉は反射的に足を止めて道を譲ろうとしたが、ふいに「あれ、琴葉さん?」と声がした。顔を上げ、海翔の姿を目にした瞬間、琴葉は得体の知れない嫌な予感を覚えた。案の定、次の瞬間には海翔が救世主でも見つけたような顔で「よかった!ちょうど探しに行こうと思ってたんだ」と言い出した。「碧斗が酔い潰れちゃってさ。悪いけど、部屋まで連れて帰ってくれない?」琴葉が断る間もなく、海翔は彼女の腕を引いて個室へ引きずり込むと、大声を張り上げた。「おーい碧斗!琴葉さんが迎えに来てくれたぞ!」個室の円卓にはまだ数人の男たちが座っており、その言葉を聞いて一斉に琴葉に視線を向けた。注がれる無数の視線を一身に浴びながら、琴葉は呆れ果てて言葉を失った。――私、いつ迎えに来るなんて言った?「結城様、奥様にこれほど愛されていて羨ましい限りですな。少し酔っただけで、すぐに飛んできてくださるとは」「奥様は内助の功に優れた、まさに良き妻の鑑だと伺っておりましたが、噂に違わぬお方だ」男たちは、上座に座る碧斗に取り入ろうとしているのか、口々に琴葉を褒めそやし始めた。ここまでおだて上げられては、琴葉に逃げ道はない。他人の前で「貞淑な妻」を演じ切るしかなかった。彼女は碧斗のそばに歩み寄り、「大丈夫?」と声をかけた。男がゆっくりと顔を上げた。端正な顔立ちにはうっすらと赤みが差し、その瞳はほろ酔いの熱を帯びて、とろんと潤んでいる。「琴葉」彼が低く掠れた声で呼ぶと、琴葉はその
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第82話

部屋へ向けて碧斗を支えながら歩く道すがら、琴葉は我慢できずに愚痴をこぼした。「よくもまあ、真昼間からこんなに酔っ払えるわね。しかも妊婦に世話を焼かせるなんて、いいご身分だこと。飲めないなら無理して飲まなきゃいいのに、何強がってるのよ」ようやく部屋にたどり着き、彼をベッドに横たえると、琴葉はふうっと息を吐いた。体を起こして離れようとした瞬間、ぐいっと手を引かれた。「琴葉、行かないでくれ」琴葉は伏し目がちに、酔ってとろんとした目の男を見下ろし、その手を振り払った。「そんな風に甘えないで。私はもうあなたの妻じゃないわ」その言葉を聞くや否や、碧斗はベッドの上に上体を起こし、目に見えてひどく落ち込んだ顔をした。「やっぱり……俺のことが鬱陶しいんだな。そうだろう?」琴葉は、こんな碧斗を見たことがなかった。すがるような眼差しで見上げてくるその目はほんのりと赤く、声には捨てられた子犬のような哀れさと未練が滲んでいる。まるで、彼女が一方的に彼を捨て去ったかのようだ。「どこか気持ち悪いの?」琴葉の口調は、自分でも気づかないうちに少しだけ柔らかくなっていた。「ああ」男はこくりと頷いた。「じゃあ、ルームサービスのスタッフを呼んで看病してもらうから……」琴葉がそう言って背を向けた、まさにその瞬間だった。手首を大きな手で掴まれ、強く手前に引かれる。無防備だった彼女はそのままベッドの縁に倒れ込み、至近距離で祈るような漆黒の瞳と視線がぶつかった。「スタッフなんていらない。琴葉、お前がそばにいてくれ。お願いだ」琴葉の長い睫毛がかすかに震えた。掴まれた手を振りほどこうと身をよじりながら抗議する。「やめてよ、今の私はもうあなたの妻じゃ――」言い終わるよりも早く、その唇は強引に塞がれていた。琴葉が驚きで目を丸くし、呆然としている隙を突いて、男は強引に彼女の唇をこじ開けた。熱い吐息と、絡みついてくる舌の感触に、琴葉はぞくっと全身を震わせる。「んっ……」彼女は両手で男の胸を押し返し、顔を背けようと必死に抵抗したが、彼の手が彼女の後頭部をしっかりと押さえ込み、身を引くことすら許さない。そこには一欠片の自制心もなかった。ずっと渇望していたものを貪るかのような、狂おしく激しい口づけ。剥き出しの独占欲が、彼女を容赦なく呑み込んでいく。
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第83話

ようやく自由を取り戻した琴葉は彼を力いっぱい突き飛ばし、その腕の中から起き上がると同時に手を振り上げた。だが、その平手打ちを振り下ろす寸前で、彼女はピタリと動きを止めた。さっきまで理性をかなぐり捨てて彼女を抱き込み、貪るように唇を奪っていた男が、今はベッドの上に横たわり、寝息を立てていた。ただでさえ激しいキスで頭が真っ白になっていた琴葉は、完全に呆気に取られてしまった。振り上げた手は、行き場を失ったまま虚しく宙で止まっている。荒い息もまだ整わないまま、潤んだ瞳で信じられないものを見るように彼を見つめる。我に返ると、猛烈な怒りがカッと頭に上った。――散々やりたい放題やらかしておいて、自分だけ何食わぬ顔で寝落ちですって!?ほんのり赤みを帯びたその端正な寝顔を見下ろしていると、腹の底から煮えたぎる怒りのやり場もなく、文句をぶつけようにも相手はすっかり夢の中ときている。彼女は腹立ち紛れに、碧斗の腕を思い切りつねってやった。「この変態!誰がキスしていいって言ったのよ。よくも散々好き勝手してくれたわね。つねり殺してやる!」一言放つごとに、容赦なく碧斗の腕をぎゅうっとつねり上げる。色白の腕には爪の跡がくっきりと赤く残ったというのに、横たわる男は微動だにしない。どうやら、本当に泥酔して寝落ちしたらしい。あの狂ったようなキスのせいで、今もまだ舌先と唇がビリビリと痺れていることを思い出すと、琴葉の胸に再び怒りの炎がメラメラと燃え上がってきた。怒りが収まらず、彼女は腹いせにもう何度か彼の腕を強くつねってやった。ちょうどその時、電話の着信音が鳴った。画面を見ると、帆夏からだった。「琴葉、今どこ?まだビリヤード室に来てないみたいだけど、何かあった?」「なんでもない。今すぐ行くわ」琴葉は電話を切ると、ベッドで熟睡する男を見下ろし、ギリッと歯を食いしばった。結局この理不尽を呑み込むしかなく、彼女はくるりと背を向けて部屋を後にした。バタンとドアが荒々しく閉まる音が耳に届くと、碧斗はようやく「痛ッ……」と小さく息を漏らした。ゆっくりと目を開け、閉ざされたドアを一瞥すると、彼は無残な報復を受けた自分の腕を持ち上げて見つめた。そして、くくっと低く笑い声を漏らした。――結構、容赦ないな。舌先で唇に付いた彼女の甘い残り香を舐めと
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第84話

この2年間、大型連休や行事のたびに、碧斗自身が直接贈り物を用意することはなかったものの、彼は常に潤也に指示を出し、琴葉の実家には格別に手厚い品々を届けさせていた。今年はその甘い汁が吸えなくなったからと、いよいよ恥も外聞もなく直接要求しに来たというわけか?「琴葉、誤解だよ。俺は別に、お前に贈り物をねだりに来たわけじゃないんだ」「贈り物じゃないなら、別のものをたかりに来たってことね」琴葉は断定的な口調で返した。電話の向こうの竜也は明らかに言葉に詰まり、しばしの沈黙のあと、わざとらしいほど呆れと傷ついたような声を出した。「琴葉。俺たちは親子だろう。どうしてお父さんにそんな冷たい口の利き方をするんだ?」「前にも言ったはずよ。あなたの娘は紗菜でしょ。私じゃないわ」「ねえあなた、この子と無駄話なんていいから、さっさとプロジェクトの件を……」「黙ってろ!」電話越しに、直美との言い争う声が漏れ聞こえてきた。琴葉の唇の端に冷たい笑みが浮かんだ。「やっぱりね。贈り物なんかじゃなくて、別のものが欲しかったんでしょ」「……琴葉」竜也は必死に取り繕うように声を整えた。「実はな、南岬のプロジェクトの件なんだが。碧斗くんは以前、我々桑原グループも参画させてくれると約束してくれていただろう?だがどういうわけか、結城グループの方から突然、『そちらの会社は資格を満たしていないため、提携案は不承認とする』と通知が来てな。一体どういうことなのか、お前から碧斗くんに聞いてみてくれないか?」琴葉は少し驚いた。――碧斗、この前私が言ったことをちゃんと覚えていたの?「それから、碧斗くんにこう伝えておいてくれ。もしうちが後から『利益分配を2%上乗せしてほしい』と条件を追加したことが原因なら、その要求は取り下げると。当初彼が提示してくれた分配率のままで構わないから、どうか桑原グループをこのままプロジェクトに参加させてほしいってな」その言葉を聞いた瞬間、琴葉は眉をひそめた。桑原グループの規模では普段なら到底関われないような大プロジェクトに、情けで一枚噛ませてもらった分際で、さらに利益の上乗せを要求しただなんて……どこまで面の皮が厚いのかしら。琴葉は目を閉じた。「仕事の話なら、私に言わないで。私はあなたのために口利きなんて一切しない。それ
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第85話

ロイヤル号は夕方6時には寄港する予定だ。琴葉たちは5時過ぎにビリヤード室を出て、荷物をまとめるために各自の部屋へと向かっていた。自室へ向かって廊下を歩いていた琴葉は、角を曲がった先の非常口の前に一組の男女が立っているのを見つけ、ピタリと足を止めた。距離はあったが、それが誰なのかは一目で分かった。ようやく碧斗を捕まえたらしい雪乃が、さも自分こそが被害者であるかのような、しおらしい顔を作って彼に謝罪している。「ごめんなさい、碧斗。昨夜のことは謝るわ。でも、まさか琴葉のお友達があんなに教養のない人だなんて思わなくて。社交の場でのマナーも全く知らないから、あんなみっともない騒ぎになって……」「俺の目の前で妻の親友を侮辱するとはな。それは琴葉に対する不敬だ。雪乃、あなたのその教養とやらはどこにあるんだ?」碧斗の氷のように冷酷な眼差しで詰問され、雪乃の瞳に明らかな動揺が走った。「ちがっ……そういう意味じゃなくて……」と慌てて弁解しようとする。「昨日前に出たのが帆夏さんで運が良かったな。もし俺が口を開いていたら、お前はもっと惨めな思いをしていたはずだ」それを聞いた瞬間、雪乃は目を見開き、さっと顔面を蒼白にさせた。「同じことを二度言わせないでくれ」碧斗は冷ややかな目を向けて言い放った。「明日、征治さんに直接電話をして、プロジェクトの責任者を交代してもらう。雪乃、今後は公私を問わず、俺に一切近づかないでいただきたい」琴葉が、ひとまずここから離れて後で部屋に戻ろうかと考えた矢先、雪乃が両手で口元を覆い、ひどく傷ついたように泣きながら反対方向へと走り去っていくのが見えた。――琴葉は首を傾げた。痴話喧嘩でもしたの?琴葉に背を向けて立っていた碧斗は、走り去った雪乃を追いかけるどころか、ふいに振り返ってこちらへ向かって歩き出した。あまりに唐突なことで隠れる間もなかった琴葉は、たまたま通りかかったふりを装い、何食わぬ顔で歩みを進めるしかなかった。彼女の姿を認めた碧斗は、すぐさま大股で歩み寄り、目の前で立ち止まった。「戻ってたのか」彼が近づいてきた途端、琴葉の脳裏には、彼に腕の中へ力任せに抱きすくめられ、貪るように唇を奪われたあの情景が生々しく蘇ってしまう。そのせいでどうしても表情が強張ってしまう琴葉に対し、目の前にいる男
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第86話

だが、結局のところちゃっかり甘い汁を吸った後とあって、いくら普段の無関心で冷淡な顔を装おうとも、碧斗の眉間には隠しきれない上機嫌な色が漂っていた。部屋に戻った琴葉は、自分の荷物がすでに綺麗にまとめられ、ボストンバッグがソファの上に置かれているのを目にした。彼女は振り返り、後からついてきた男を見つめた。碧斗はすかさず弁解した。「さっき暇だったから……ついでにお前の荷物も片付けておいた。何か忘れ物がないか確認してくれないか?」琴葉は怪訝な顔をした。――は?誰が荷造りを頼んだっていうの?「一晩泊めてもらった恩返しだ。これくらい手伝うのは当然だろう」さも「礼には及ばない」と言わんばかりの男の顔を見て、琴葉は言葉を失った。だが、荷造りが終わっているなら好都合だ。ここに長居する必要もない。琴葉はバッグを手に取ると、そのまま踵を返して部屋を出ようとした。碧斗は虚を突かれた。「船はまだ着いていないぞ。どこへ行くんだ?」「帆夏の部屋よ」琴葉は彼を一瞥もせずにドアを開け、部屋を出て行った。彼と2人きりでこの部屋にいれば、まとわりつくような熱っぽい空気に息が詰まりそうになる。ベッドで貪るように唇を奪われたあの生々しい感触を、どうしても思い出してしまうのだ。琴葉は帆夏の部屋へ向かい、船が港に着くまでそこで過ごした。その後、4人は一緒に下船した。櫂は琴葉の荷物を持ち、彼女のそばに歩み寄った。「琴葉さん、僕の車がすぐ前に停めてありますから、乗っていってください。先にお家までお送りしますよ」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼の手から荷物が強引にひったくられた。櫂が振り返ると、そこにはいつの間にか碧斗が立っていた。顔を険しく沈ませている男の姿に琴葉も驚いていると、彼は櫂に向かってこう言い放った。「俺たちは迎えの車が来ている。お前に送ってもらう必要はない」「お2人ですか?」櫂は驚いたように琴葉を見た。「琴葉さん、碧斗さんと一緒に帰る約束をなさっていたんですか?」琴葉が口を開きかけた瞬間、すでに彼女の隣に立っていた男が先んじて答えた。「俺たちは一緒に住んでいるんだ。一緒に帰って何が不思議なんだ?」そう言うと、碧斗は彼女を見下ろした。「茂さんが向こうで待ってる。行こう」茂が迎えに来てくれていると聞き、
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第87話

琴葉は一瞬息を呑み、彼に握られた手を伏し目がちに見つめると、弾かれたようにその手を引き抜いた。「結構よ。そんなこと、望んでいないわ」碧斗は彼女をじっと見つめた。「まだ、あいつに情けをかける気か?」「そういうわけじゃないわ」琴葉は返した。「ただ、私はビジネスや会社の経営には不慣れなの。無理に会社を奪い取っても、うまく立ち行かなくて、最終的に社員たちを路頭に迷わせるだけかもしれないわ」「その心配はいらない」碧斗は言った。「俺がトップクラスの経営チームを雇って、お前の代わりに会社を管理させる。お前は一切何もしなくていい。ただ座って利益を受け取るだけでいいんだ」「必要ないわ」琴葉はきっぱりと跳ね除けた。そして目の前の男を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げる。「碧斗、私のためにそこまでする必要はないし、私もその好意を受け取るつもりはないわ」これ以上、彼に借りを作りたくなかったのだ。彼女のよそよそしく頑なな態度を前にして、碧斗は何か言いたげに口を開きかけたが、結局なにも口にはしなかった。その後、2人は道中ずっと無言のまま帰路につき、家に着くとそれぞれ自室へと戻っていった。それからの2日間、碧斗は仕事が立て込んでいるらしく、昼食時に帰宅することはなかった。一方、琴葉はこの2日間でつわりの症状が以前よりも重くなり、すっかり食欲が落ちていた。無理に少し口に入れても、すぐに吐き戻してしまう有様だ。そのせいで目に見えて気力も落ち込んでおり、彼女はこの2日間、外に出ることもなく家でぐったりと横になって過ごしていた。そして3日目。櫂から、骨董市で気になる数珠を見つけたので目利きを手伝ってほしい、と頼まれた。2日間も家に引きこもってすっかり気が滅入っていた琴葉は、ちょうどいい気分転換になると思い、その誘いを承諾した。目的の骨董店に到着すると、櫂はさっそく店主にその数珠を出してもらった。琴葉はそれを手に取り、じっくりと細部まで見定めた。百年もの時を経た、由緒ある紫檀の数珠だ。54粒の珠が連なり、その一粒一粒に微小な文字が彫り込まれている。「琴葉さん、珠に彫られた文字がいくつか欠けてしまっているんですが、修復できそうですか?」と櫂が尋ねてきた。「表面が少し傷んでいるだけだから、修復自体は難しくないわ。でも、珠のサイズが少し小ぶり
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第88話

「ええ」簪から目を離そうとしない琴葉の熱中ぶりを見て、櫂は言った。「それなら、僕が買ってプレゼントしますよ。今日、数珠の買い物に付き合っていただいたお礼ということで」琴葉は顔を上げて彼にふふっと笑いかけた。「ありがとう。でも気持ちだけで十分よ。自分の欲しいものくらい、自分で買えるから」彼女は昔から、精巧な細工が施された、時代ごとの特色を持つ骨董品を収集するのが好きだった。古い品々は歴史の伝承であり、文化の担い手でもある。悠久の歴史の中で、それぞれの時代に作られた品には、その時代特有の息吹と特徴が色濃く刻み込まれている。古物修復家たるもの、あらゆる時代から受け継がれてきた品々に対して果てしなく深い理解と研究を重ねてこそ、修復の際に可能な限り元の姿へと甦らせることができるのだ。琴葉は品のジャンルにはこだわらない。その時代ならではの特色や研究価値があり、なおかつ自分の手の届く価格帯であれば、迷わず買い求めて手元に置くようにしていた。たとえば目の前にある、この精巧な作りの簪のように。「これを包んでちょうだい。いただくわ」彼女は店員に声をかけた。「かしこまりました」店員は手際よく簪を包装し、レジカウンターへと案内した。櫂が彼女より先にカードを出そうとしたが、琴葉はそれをすかさず制した。そして素早く自分のクレジットカードを店員に渡し、会計を済ませる。支払いを終えた彼女を見て、櫂はしょんぼりしたように言った。「琴葉さん、少しは僕にいいところを見せさせてくれてもいいじゃないですか」琴葉は片眉を上げて彼を見た。「私に対していいところを見せたいなら、修復の腕を上げなさい。プレゼントを贈ることじゃないわ。分かった?」「矛盾してないですよ。腕も磨くし、プレゼントもします」「まずは一つのことに集中しなさいな」2人がそんな軽口を叩き合っていると、入り口から2人の若い女性が入ってきて、真っ直ぐに先ほどのショーケースの方へと向かっていった。「あれっ、あの簪がない」「申し訳ございません。あちらの簪は、先ほど別のお客様がご購入されまして」「うそでしょ?ちょっと他を一回り見てきただけなのに、もう売れちゃったの?」聞き覚えのある声に琴葉はハッとして振り返った。見ると、そこには陽葵が女友達と並んで立っていた。「はい、
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第89話

店を出ると、陽葵の友人がこっそりと振り返り、琴葉と、彼女の隣に立つ櫂の姿を盗み見た。「ねえ、陽葵。あなたのお義姉さんの隣に立ってたあの男の人、誰?」陽葵は紙袋から簪を取り出してしげしげと眺めながら、上の空で答えた。「ん?知らない。お義姉さんの友達じゃない?」友人は、まったく気にした風もない陽葵を見て呆れたように言った。「彼女が、見知らぬ男と2人きりで街を歩いてるんだよ?それでそんな反応なの?」陽葵は友人を振り返った。「だから何?」「だから……相手は男だよ?」と友人が念を押す。「それがどうしたの?」陽葵は簪を紙袋にしまい直した。「世の中の人間なんて、男か女のどっちかしかいないじゃん。化け物と一緒に歩いてたわけでもないのに、何そんなに大騒ぎしてんの?」友人は驚いた顔をした。「結城家って、彼女が他の男と個人的に会うのを許してるの?」「ちょっと、冗談でしょ?今が何時代だと思ってんの」陽葵は心底呆れ果てた目で友人を見た。「自分も女のくせによくそんなこと言えるね。お義姉さんはうちに嫁いできたんであって、身売りしてきたわけじゃないんだよ。友達と会っちゃいけない理由なんてある?」正論を突きつけられた友人は、ぐうの音も出ず押し黙るしかなかった。櫂はガラス窓越しに、外で彼女たちが何やら言い合いながら遠ざかっていくのを見送ってから、琴葉へと視線を向けた。「今の、碧斗さんの妹さんですよね?」「ええ」「もう碧斗さんとは離婚してるのに、なんで自分の気に入ったものをあんなふうに譲ってあげるんですか?」櫂は琴葉を見つめ、その目には気遣うような色が浮かんでいた。「前々から、ああやってあなたに無理を言ってたんですか?自分が欲しいと思ったものは、問答無用で奪い取っていくような……」彼が陽葵のことを「意地悪で厄介な人」だと誤解していると察し、琴葉は慌てて弁解した。「そんなことないわ、変な勘違いしないで。あの子はすごくいい子よ。それに、さっきの彼女の言葉、聞いてなかった?衣装に合わせる髪飾りがどうしても見つからなくて、私に譲ってほしいって頼んできただけよ」琴葉と陽葵は、決して親密な義姉妹とまでは言えなかったが、普段から陽葵は琴葉に対して礼儀と思いやりを持って接してくれていた。それに、彼女は以前、琴葉の窮地に進んで助け舟を出してくれた
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第90話

そう言って、碧斗は琴葉の手を引いて奥へと入っていった。あの出来事は、陽葵からすれば、ついでのように手を貸しただけの些細なことだったかもしれない。だが、琴葉の心にはずっと深い感謝が刻まれていたのだ。だからこそ、陽葵が簪を欲しがった時も、琴葉は嫌な顔一つせず、喜んで譲ることができた。「それなら、代わりに別のものを新しく選び直しましょう。今度は僕がプレゼントしますから、お財布はしまっておいてくださいね」櫂が提案した。琴葉は笑って首を横に振った。「ううん、お気遣いなく。私は目に留まるものがあれば買うけれど、無理に何かを探そうとは思わないから」彼が本当に何か買い与えようとする前に、琴葉は急いで付け加えた。「もうこんな時間。そろそろ帰りましょう」家に着いたのは5時過ぎだった。碧斗から【今夜は帰りが遅くなるから、夕飯は待たずに食べてほしい】とメッセージが届いていた。琴葉が夕食を済ませてしばらくすると、幸子が食後のフルーツを小皿に載せて運んできてくれた。彼女はそれを受け取り、リビングのソファに座ってテレビを見ながらつまんでいた。それからしばらくして、碧斗が帰宅した。幸子が小走りで出迎える。「旦那様、お帰りなさいませ。すぐにお食事の用意をいたしましょうか?」碧斗は、ソファでクッションを抱き抱えながらテレビを見ている琴葉の姿をちらりと見やり、幸子に答えた。「いや、まだいい」そう言うと、彼はリビングへと歩み寄った。琴葉は彼を一瞥しただけで、すぐに視線をテレビの画面へと戻した。碧斗はスーツのジャケットを脱いで傍らに置くと、彼女の隣に腰を下ろし、優しく気遣うような眼差しを向けた。「今日から栄養士にメニューを見直させたが、まだ胃がムカムカしたり、吐き気を感じたりはしないか?」ここ数日ほど、琴葉は食事のたびに吐き気に襲われて食欲をなくすか、無理に口に運んでも、そのそばからひとしきり激しく吐いてしまうかのどちらかだった。そのため、碧斗が指示を出して栄養士にメニューを調整させていた。「吐いてないわ」琴葉はまるまるとしたウサギのクッションに気怠げに頬を預けていた。ただでさえ小づくりな顔がクッションに埋もれていっそう小さく見える。くりくりとした丸い目でテレビを眺め、返事の口調もどこか上の空だった。ここ数日まともに食事が喉を通
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