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第6話

Author: 桜吹雪
お腹の子が無事だと確認してから、私は退院の手続きを済ませた。

沙耶香は唇を噛んだまま、しばらく迷っていたようだが、とうとう意を決したように口を開いた。

「愛さん……和哉さんのこと、もう追及するつもりがないのは分かりました。でも、お腹の子は……産まないほうがいいんじゃないですか?もう離婚するんですよ?一人で自由に生きたっていいじゃないですか。愛さんはこんなに綺麗で、スタイルもよくて、仕事もできるんだから、いくらでもいい人に出会えますよ」

そう言われて、私は小さく笑った。

たしかに、この世の中では、美貌も財力も人脈も、自分の武器になる。武器が揃っている人ほど、相手を選ぶ余裕がある。

私だって、いい武器をいっぱい持っている。それなのに――私が選んだのは、和哉だけだった。

「うん……考えてみるね」

私はそう答えて、沙耶香を安心させるように微笑んだ。

けれど、この子を手放すことは、できそうにない。

和哉との間にできた、最初で最後の子供かもしれないのだ。

昔は、よく夢を見ていた。ギャラリーを軌道に乗せて、和哉を一人前の画家にできたら、少しくらい肩の荷を下ろして、数人子供を産もう。

私たちの子供が少しずつ大きくなっていく姿を眺めて、やがてそれぞれが結婚して、子供を連れて帰ってくる。

そんな未来を、当たり前のように思い描いていた。

けれど――もう、そんな未来は訪れない。

10年も尽くしてきたのに、私に残ったものは、お腹にある小さな命以外、何もなかった。

だから私に、この子を手放せるはずがない。

私はマンションには戻らず、郊外の別荘へ向かった。

静かな場所を好み、創作に没頭する和哉は、市街地の喧騒を嫌っていた。だから私は、彼が絵に集中できるよう、この別荘を買ったのだ。

そのお金は、実家からもらったものではない。自分で投資をして、少しずつ稼いだものだった。

和哉と一緒になると決めたとき、家では大騒ぎになった。石川家の当主である祖父は、庶民の家に生まれた和哉との結婚に激怒した。

「和哉と結婚するなら、石川家の籍から外す」

それが、祖父の出した条件だった。

私はそれでも引かなかった。周囲からどれだけ反対されても、和哉と一緒になることを選び、覚悟を決めて婚姻届を出した。

結果として、祖父の言葉は本気だった。

私は、本当に家から追い出された。

「愛なら、家族のことを一番に考えてくれると思っていた。なのに……はあ、本当に失望したよ」

それが、父から聞いた最後の言葉だった。

家は私への援助をすべて打ち切った。そうすれば私も素直に家に戻り、政略結婚を受け入れると思っていたのだろう。

けれど私は、人に人生を決められるのが嫌だった。謝って家に戻るくらいなら、自分で稼いで生きていく。そう決めて、意地でも一人で生きる道を選んだ。

母はそんな私を心配してくれて、こっそり一軒のギャラリーと、わずかな開業資金を用意してくれた。仕事につながる人脈も、いくつか紹介してくれた。

その後に手にしたもののほとんどは、自分の目と商才で掴み取ったものだ。

人生で初めて6千万を貯めたとき、私は都心のマンションを買った。そこが、和哉と私の家だった。

そして初めて2億を稼いだときには、郊外の3階建ての別荘を買った。和哉が気に入りそうな家具を選び、部屋を整え、彼専用のアトリエまで作った。

ここなら、誰にも邪魔されず、思う存分絵を描ける。

そう思っていた。

なのに――和哉は、私が買い揃えた画材を使い、私が作ったアトリエで、一枚一枚と、愛莉への想いを描いていた。

目の前にそびえる別荘を見上げながら、私はこれまでの日々を振り返った。

考えれば考えるほど、自分が馬鹿らしくて、笑えてくる。

和哉は、一度でも私を愛してくれたのだろうか。

――その答え、とっくに分かっていた。

それでも私は、どこかで期待していたのだ。ほんの少しでいいから、私のことを好きだと思ってくれたら。少しでも、私がしてきたことに感謝してくれたら。

愛莉を取り戻せなかったとしても、いつか私と2人で、この先の人生を歩んでくれるんじゃないかと。

結局、それは叶わぬ望みだった。

私は別荘の中へ入り、2階へ上がった。けれど、寝室もアトリエも――そこにあったはずのものは、すべて運び出されていた。

和哉は、いつ荷物を運び出したんだろう。

昨夜?

……分からない。

1ヶ月前の朝、目を覚ますとひどい吐き気がした。妊娠かもしれないと思い、慌てて病院へ行った。

検査の結果、妊娠が分かった。それから私は、会社の仕事を少しずつ部下に引き継ぎ、長期休暇を取る準備を始めた。これからは家でゆっくり過ごして、お腹の子のために、体を整えようと思っていたからだ。

この1ヶ月、私は一度もこの別荘に来ていない。

だから、和哉がいつ荷物を運び出したのかは分からない。もしかしたら、ずっと前から準備していたのかもしれない。

愛莉と残りの人生を過ごすつもりで、迷いなど一つもなかったのだろう。

それなのに私は、馬鹿みたいに、和哉との子供を産み、一緒に育てる未来を夢見ていた。

寝室の床には、結婚写真が入った写真立てが転がっていた。

ガラス板は粉々に割れている。

写真の中で、花嫁は満面の笑みを浮かべていた。けれど隣の新郎は、どこか冷めた顔をしている。

まるで、誰かに無理やり結婚させられたかのように。

なんて皮肉なんだろう。

愛莉の隣にいるときの和哉は、あんなにも優しく笑っていた。その目には、隠しきれないほどの愛情が浮かんでいた。

和哉には、ちゃんと愛することができたんだ。ただ、その相手が私ではなかっただけ。

そのとき、ふと思い出した。この別荘には、地下室がある。

そこは和哉が誰にも見せたがらなかった、完全なプライベートスペースだった。

絵を描いていて行き詰まったとき。気分が落ち込んでいるとき。和哉はよくそこへ閉じこもった。一度入ると、何日も姿を見せないことさえあった。

私は金庫から鍵を取り出し、初めて地下室の扉を開けた。

一歩、中へ足を踏み入れた瞬間――すべてが分かった。

ここは、ただのプライベートスペースなんかじゃない。和哉が、愛莉との思い出をしまい込んでいた場所だった。

四方の壁を埋め尽くしていたのは、すべて愛莉の肖像画だった。

泣いている顔。笑っている顔。怒っている顔。恥ずかしそうに頬を染める顔……

どれも、生き生きとしていた。

絵の中の愛莉は、どこまでも優しい眼差しで私を見つめている。その表情を見ているだけで、分かってしまった。

和哉はきっと、この一枚一枚に愛莉への想いを込めていたのだ。彼女が今も自分の隣にいるかのように。7年もの間、一度も離れていなかったかのように。

部屋の隅には、テーブルが置かれていた。

その上に、小さなジュエリーボックスがある。

近づいてみて、私はすぐに気づいた。私たちの結婚指輪を入れていた、あのベルベット張りの箱だ。

けれど、中に収められていたのは――手作りのキーホルダーだった。

私は知っている。

それは、幼い頃の愛莉が和哉に贈ったものだ。

百均の材料を使って作られたキーホルダー。

そんなものを、和哉は20年以上も大切にしまっていた。

一方で、私が何ヶ月分もの給料を貯めて買った結婚指輪は、まるで価値のないもののように、隅へ放り出されている。

箱を手に取ったとき、私はさらに気づいた。

ジュエリーボックスの下に敷かれていたのは――私が和哉に初めて贈ったラブレターだった。

本当に、皮肉な話だ。

せめてもの救いは、私の手紙を破って捨てなかったことだろうか。

最後に残された私の尊厳くらいは、守ってくれたと感謝するべきなのかもしれない。

「君……どうしてここに?」

そのとき、背後から怒気を含んだ声が響いた。振り返ると、地下室の入口に和哉が立っていた。

こちらを睨みつけ、その顔には隠しきれない怒りが浮かんでいる。

奥歯を噛みしめ、胸を激しく上下させていて、今にも怒鳴り出しそうなほどだった。

私はそんな和哉に、ただ淡く笑いかけた。

「どうしてって……ここ、私が買った別荘でしょう?」

その一言が痛いところを突いたのか、和哉の顔が見る見る赤くなる。「……僕に断りもなく、僕の部屋に入るべきじゃないだろ」

私は手にしていた鍵を、和哉の目の前で軽く揺らした。

「あなたにとって、ここは大切な想いを保管する秘密基地なんでしょうけど、私にとってはただの地下室だよ」

そこでわざと一度言葉を切り、壁一面に並ぶ愛莉の肖像画へ視線を向ける。

「壁を塗り直せば……物置くらいには使えるかな」

和哉の拳が、ぎゅっと握り締められた。

「僕のことを何と言おうが勝手だ。だが、愛莉を侮辱するのだけは許さない。愛莉は、世界で一番優しい女性なんだ!」

私は鼻で笑った。

和哉は、愛莉と20年以上の付き合いだ。それなのに――彼女の本性には、少しも気づいていない。

外面だけは綺麗に取り繕いながら、その中身はとっくに腐り果てている。まるで、見た目だけが艶やかな毒リンゴだ。

そんな相手を宝物のように扱うのだから、和哉も大した見る目を持っていない。

私はそのまま和哉の横を通り過ぎ、階段へ向かう。

「待って!」

次の瞬間、和哉が私の腕を掴んだ。

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