All Chapters of ねえ、5分だけ付き合ってーーMorning Side: Chapter 21 - Chapter 30

65 Chapters

雨、もう少し降っててもいいね

午前7時30分。駅まであと5分。突然、雨が降ってきた。しかも結構強い。傘はない。天気予報では曇りだったはず。私は近くのバス停の屋根へ走り込んだ。先客が1人。60代くらいの女性。大きな花柄の傘を持っている。「降ってきたねえ」「びっくりしました」屋根は小さい。2人なら十分。でも風が吹くと、端から雨が入ってくる。足元を見ると、彼女は赤いレインシューズを履いていた。傘も派手。靴も派手。「雨の日仕様ですね」私が言うと、彼女は足を少し前へ出した。「せっかく濡れる日なんだからね」「晴れの日は?」「普通」「雨の日だけ?」「そう。嫌な天気の日に、嫌な格好までしなくていいでしょ」その発想はなかった。女性が少し内側へ詰めた。「こっちおいで」「ありがとうございます」雨音が一気に強くなる。道路が濡れていく。「傘持ってないの?」「予報信じました」「予報は責任取ってくれないからね」強い。「そちらは?」「私は毎日持ってる」大きな傘を見せる。花柄。かなり派手。「かわいいですね」「でしょ? 娘には派手って言われるけど」「そのくらいが雨の日いいかも」「そうなのよ。空が地味なんだから傘くらい派手でいいの」なるほど。バスはまだ来ない。私は時計を見る。少し焦る。女性が気づく。「急いでる?」「ちょっと」「でも今走ったら濡れるよ」「ですよね」「5分くらい待ちなさい」
last updateLast Updated : 2026-09-30
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そこ、つかまっててください

午前8時45分。平日の朝から、アイススケートリンクにいた。自分でもかなり意味が分からない。でも今日は少し遅く始まる予定があって、たまたま通りかかった屋内リンクが朝営業していた。そして、「1時間くらいなら」と思ってしまった。今、後悔している。氷の上に立った瞬間から、足が言うことを聞かない。壁から離れられない。「初めてですか?」隣から声がした。30代前半くらいの男性。グレーのパーカー。スケート靴。壁につかまっている。「そっちも?」「2回目」全然頼りにならない。「上手そうに見えた」「まだ1歩も滑ってないですよ」確かに。2人で壁沿いに進む。ゆっくり。ものすごくゆっくり。「これ、歩いてるだけでは?」私が言う。「氷上ウォーキング」「新競技?」「たぶん」笑った瞬間、足が滑る。「わ!」反射的に彼の腕をつかむ。彼もバランスを崩す。2人で壁にぶつかる。「危なっ」「ごめん!」「僕まで巻き込まないで」「助けてよ」「2回目に求めすぎ」2人とも笑う。でも、私はまだ彼の腕をつかんでいる。気づいて離す。「すみません」「いや」彼が腕を見る。「意外と力強いですね」「落ちたくなかったから」「爪跡残ってないかな」「そんな強くない」「冗談です」ちょっと腹が立つ。そのまま進む。少しずつ壁から手を離す。1歩。2歩。滑る。
last updateLast Updated : 2026-09-30
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合鍵は、安心を1個増やす

午前7時40分。駅前の鍵屋の前で、私は足を止めた。昨日、家を出る直前に鍵が見つからなくて、朝から10分も探した。 結局、冷蔵庫の上に置いてあった。なぜそこに置いたのかは、今も分からない。その反省で、今日は合鍵を作ることにした。店の中には、壁いっぱいに鍵。 小さいもの、大きいもの、見たことのない形。カウンターの向こうにいたのは、60代くらいの女性だった。 短い髪に、紺色の作業着。 手元だけを見ると、職人という言葉が似合う。「合鍵ですか?」「はい。家の」鍵を渡す。女性は表裏を見て、機械の横に置いた。「失くした?」「まだ」「じゃあ偉い」思っていなかったところで褒められた。「失くしてから来る人のほうが多いんですか?」「多いよ。玄関の前で絶望してから来る」「それは嫌ですね」「でしょう。だから失くす前に作る人は偉い」ただ合鍵を1本作るだけなのに、朝から少し気分がいい。機械が動き始める。 金属を削る細い音。私はカウンターの上に並んだキーホルダーを見る。赤、青、黄色。 小さな猫。 木の札。 革の輪。「合鍵って、誰かに預ける用?」女性が聞いた。「一応、自分用です」「どこに置く?」「まだ決めてません」「じゃあ、冷蔵庫の上は禁止ね」顔を上げた。「なんで分かったんですか?」「さっき小声で言ってた」どうやら独り言が漏れていたらしい。「最悪」「朝はみんな独り言多いよ」女性は笑った。「おすすめの置き場所あります?」「人による。財布に入れる人もいるし、実家に預ける人もいるし」「財布だと財布ごと失くしそう」
last updateLast Updated : 2026-10-01
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その音、もう1回鳴らして

午前8時05分。駅構内の小さな楽器店から、きれいな音がした。高くて、短くて、澄んだ音。私は通り過ぎかけて、戻った。店先に並んでいたのは、小さなベルやオルゴール。 楽器に詳しくなくても見ているだけで楽しい。「鳴らしてみます?」声をかけてきたのは、30代前半くらいの男性店員だった。白いシャツに黒いベスト。 髪は少し長め。「これ、何ですか?」私が指したのは、手のひらサイズの金属の楽器。「カリンバです」「名前は聞いたことある」「親指で弾きます」彼が1つ手に取り、短いフレーズを弾いた。ぽろん、ぽろん。朝の駅のざわめきの中でも、音だけがきれいに残る。「簡単そう」「そう言う人、だいたい最初は変な音出します」「失礼」借りてみる。親指で金属の板をはじく。ぺん。「……変」彼が笑う。「ほら」「どうやるの?」「親指の腹じゃなくて、爪の少し手前で」「分からない」「ちょっと見せてください」彼が私の横へ回った。背後に近い位置。直接触れない。でも、声がすぐ後ろから聞こえる。「右の親指、もう少し立てて」「こう?」「そう。で、力抜いて」もう一度。ぽろん。今度は少しきれい。「おお」「できましたね」「先生がいいから?」「それ言われると調子乗ります」声が近いまま笑う。私はカリンバを見るふりをした。朝から背後に人が近いと、妙に意識する。「次、左」「左苦手」「まだ1音しか弾いてないのに」「予感がする」
last updateLast Updated : 2026-10-01
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金曜は、だしから始めよう

午前7時35分。駅前のだし専門店から、いい匂いがした。朝からずるい匂い。湯気の向こうに、 〈だし試飲できます〉 と書いてある。金曜日。あと1日。私は吸い込まれるように店へ入った。カウンターには小さな紙カップが並んでいた。昆布。 かつお。 あご。 しいたけ。店主は50代くらいの女性。白い割烹着に、短い髪。「飲んでいきます?」「朝からいいんですか?」「朝だからいいのよ」まず昆布。一口。薄い。でも、じわっとおいしい。「どう?」「優しい」「疲れてるね」「味で分かる?」「金曜に昆布を優しいって言う人はだいたい疲れてる」勝手な統計。次はかつお。香りが強い。「こっちは元気」「元気なだし?」「あなたがそう言うならそう」適当。隣に同じくらいの年齢の女性客が来た。「私も試飲いいですか?」「もちろん」彼女は迷わずあごだしを選んだ。一口。「これ好き」「決断早いですね」私が言うと、「朝は迷いたくないので」分かる。私は4種類を前にまだ迷っている。店主が聞く。「何に使うの?」「決めてないです」「じゃあ何で選んでるの?」「今日の気分」「だし占いだね」また適当な言葉を作る。しいたけも飲む。香りが深い。「これもいい」「全部いいって言ってるよ」隣の女性が笑う。「そうなんです」「じゃあ混ぜれば?」
last updateLast Updated : 2026-10-02
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そこ、もう少しだけ寄れます?

午前8時10分。駅前の写真プリント店に入った。スマホの中にある写真を、1枚だけ紙にしたくなったから。理由は特にない。昨日、写真フォルダを整理していて見つけた。夏の終わりに撮った、海辺の写真。誰かが写っているわけでもない。ただ空と海。でも、なんとなく好きだった。店内にはプリント機が2台。使い方が分からず止まっていると、男性店員が来た。30代前半くらい。黒いシャツ。首から小さな名札。「お手伝いします?」「お願いします」スマホを接続する。写真一覧が画面いっぱいに出る。急に恥ずかしい。食べ物。 猫。 空。 スクリーンショット。 また食べ物。「見ないでください」「選ぶために見ないと」「それもそうだけど」彼が笑う。「海の写真ですよね?」「これ」指で選ぶ。画面に大きく表示される。「いいですね」「ほんと?」「水平線、少し傾いてますけど」「そこ言う?」「直せます」彼が操作する。回転。 明るさ。 色味。「このままでもいい気がする」「じゃああまり触らないほうがいいですね」「プロなのに加工勧めないんだ」「好きな写真なら、無理に完成度上げなくていいです」少し意外。彼が画面の端を指す。「ただ、ここに人が少し写り込んでます」見る。遠くに小さな人影。本当に小さい。「消せる?」「消せます。でも」「でも?」「僕なら残します」「なんで?」「その日の景色っ
last updateLast Updated : 2026-10-02
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開園5分後のキリン

午前9時05分。動物園に来た。開園してまだ5分。休日の動物園にしては、人が少ない。空気も少し冷たい。こういう時間、好きかもしれない。最初に向かったのはキリン。理由はない。ただ、大きいから朝から見たら気分が変わりそうだった。柵の向こうに2頭。1頭は木の葉を食べている。もう1頭は、完全に背中を向けている。「こっち向いて」小さな声で言う。当然、向かない。隣から笑い声がした。見ると、50代くらいの女性と、小学生くらいの女の子。たぶん親子ではなく、おばあちゃんと孫くらいの年齢差。女の子がキリンへ手を振っている。「こっちー!」やっぱり向かない。女性が言う。「今日はサービス悪いね」「キリンにもサービスあるんですか?」私が聞くと、「こっち向いてくれたら100点」勝手な採点。女の子が私を見る。「お姉さんも呼んで」お姉さん。休日の朝からいい子だ。「何て呼ぶ?」「キリンさーん!」そのまま。3人で呼ぶ。「キリンさーん!」背中。「無視ですね」私が言う。女性が頷く。「大物は簡単に振り向かないのよ」急に格言っぽい。女の子が葉っぱのほうを指す。「ごはんのほうが大事なんだよ」それが一番正しい。しばらく見ていると、木の葉を食べていた1頭がゆっくり歩き始めた。こちらへ来る。「来た!」女の子が喜ぶ。3人で柵に近づく。キリンが長い首をこちらへ向ける。近い。思ったより顔が大きい。
last updateLast Updated : 2026-10-03
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1周だけ、一緒に乗ります?

午前10時20分。遊園地の観覧車に、1人で乗ろうとしていた。大人1人。少しだけ勇気がいる。でも、今日は朝から天気がいい。高いところから街を見たくなった。係員さんがチケットを受け取り、少し困った顔をした。「すみません。混雑前の点検運行で、今だけ2名ずつご案内してるんですが、相乗りでも大丈夫ですか?」後ろを見る。30代前半くらいの男性が1人。彼も1人らしい。目が合う。「僕は大丈夫です」彼が先に言った。ここで嫌ですとも言いにくい。「私も」ゴンドラに乗る。向かい合わせ。扉が閉まる。動き始める。最初は何でもなかった。でも、高くなるにつれて彼の顔が少し固くなった。「あれ?」私が言う。「何ですか」「高いところ苦手?」「別に」即答。でも、窓を見ない。「絶対苦手でしょ」「観覧車は大丈夫です」「じゃあ外見て」「今はいいです」完全に苦手。私は笑った。「なんで乗ったの?」「下から見たら大丈夫そうだったので」「それで?」「乗ったら違いました」正直。ゴンドラが少し揺れる。彼の手が反射的に座席の端をつかむ。「大丈夫?」「大丈夫です」「手、すごい力入ってるよ」「安全確認です」何の確認。私は窓の外を見る。街が小さい。車も、人も。遠くに川。「きれいですよ」「実況お願いします」「見ないの?」「今はまだ」「せっかく乗ったのに」
last updateLast Updated : 2026-10-03
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それ、僕より似合ってます

午前10時30分。駅前広場に期間限定のサングラスポップアップが出ていた。日曜の朝。買う予定はない。でも、大きな鏡と色とりどりのフレームを見ると、少し試したくなる。私は黒いサングラスを1本かけた。鏡を見る。「……怖い」思わず呟く。隣から笑い声。30代前半くらいの男性。白いTシャツにカーキ色のジャケット。彼もサングラスを試している。丸いフレーム。全然似合っていない。「そっちも」私が言うと、彼が鏡を見る。「ひどいですね」「自分で言うんだ」「正直なので」店員さんが遠くで笑っている。「これ、難しいですね」彼が別の1本を取る。青いレンズ。かける。さらに似合わない。私は吹き出した。「笑いすぎ」「ごめん。でもさっきより」「悪化しました?」「かなり」彼も笑う。「じゃあ選んでください」「私が?」「自分で選ぶと全部失敗するので」なぜか任された。私は棚を見る。細い黒フレーム。「これ」彼がかける。さっきよりはいい。「どう?」「普通」「褒めてる?」「前より」「基準低い」今度は彼が私のために選ぶ。「じゃあこれ」渡されたのは薄いブラウン。「地味じゃない?」「かけてみて」かける。鏡を見る。「あ」意外。悪くない。彼が隣から鏡を見る。「それ、僕より似合ってます
last updateLast Updated : 2026-10-04
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貝殻は1個でいい

午前9時15分。日曜の朝。海辺を歩いていた。旅行ではない。少し早起きして、電車で30分。それだけ。砂浜には人が少ない。波の音。風。少し冷たい空気。私は靴を脱ぐほどではない距離を、ゆっくり歩いた。足元に白い貝殻。拾う。小さい。丸い。きれい。少し先に、今度は薄いピンク。また拾う。その次は縞模様。気づけば、手の中に6個。「全部持って帰るの?」声をかけてきたのは、50代くらいの女性。大きな麦わら帽子。手には小さなビニール袋。「たぶん」「たぶんなんだ」「きれいだから」女性は私の手の中を見る。「どれが一番好き?」急に聞かれる。「え」6個を見比べる。白。ピンク。縞。欠けてるやつ。小さいやつ。丸いやつ。「これかな」薄いピンクを選ぶ。「じゃあ、それ1個でいいんじゃない?」「他は?」「海に返す」あっさり。「もったいなくない?」女性が笑う。「全部持って帰ってどうするの?」言われて止まる。たぶん、家のどこかに置く。最初は眺める。そのうち埃をかぶる。「……たしかに」「私は毎回来て、1個だけ持って帰るの」「毎回?」「月に1回くらい」「じゃあ家にいっぱいあるじゃん」「あるよ」矛盾している。私が笑うと、女性も笑った。「でもその日の1個だけ。選ぶのが楽しいの」
last updateLast Updated : 2026-10-04
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