All Chapters of ねえ、5分だけ付き合ってーーMorning Side: Chapter 51 - Chapter 60

65 Chapters

朝の香りは、自分だけでいい

午前7時50分。駅前の小さな香水工房に入った。店先に「朝の10分調香体験」と書いてあったからだ。今日は少し早く家を出た。10分なら。店の中には小さな瓶が並んでいる。柑橘。花。木。石けん。「好きな香り、あります?」声をかけてきたのは40代くらいの女性調香師。白いシャツに黒いエプロン。短い髪。「甘すぎなくて、強すぎないの」「嫌いなものから決めるタイプね」いきなり見抜かれた。「ダメですか?」「全然。むしろ選びやすい」彼女は3本の瓶を出した。最初はベルガモット。次はジャスミン。最後は、少し木のような落ち着く香り。「これ好き」「シダーウッド」私はもう1度嗅いだ。「顔に出てる」「そんなに?」「これだけ2回嗅いだ」自分では気づかなかった。彼女は3種類を小さなビーカーに入れる。「好きな香り全部入れればいいわけじゃないんですね」「全部好きでも、混ぜたら喧嘩することあるよ」「人みたい」「人より分かりやすい」さらっと言う。少しベルガモットを足してもらうと、香りが軽くなった。「好き」「じゃあ仮完成」「仮?」「肌につけると変わるから」彼女が私の手首を指す。「ここにつけていい?」「お願いします」小さく1滴。手首を振る。最初は柑橘。少しすると花。最後に木。「変わる」「でしょ」「面白い」彼女が腕を組む。「香りって、最初の印象だけで決めると失敗するのよ」「深いこと言いそう」「言わない。香水の話」
last updateLast Updated : 2026-10-15
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寒くなったら、また来てください

午前8時05分。駅ビルの1階に、小さな手袋専門店があった。まだ10月。手袋には少し早い。でも店先の薄手の革手袋が気になって、足を止めた。「試します?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性店員。紺色のシャツ。袖は肘までまくっている。「まだ早くないですか?」「買うのは早いです」「正直」「でも試すだけなら今でも」その言い方が可笑しくて、店に入った。ブラウンの手袋を1組取る。「サイズあります?」「手、見せてもらえます?」右手を出す。彼が指の長さを目で確認する。「たぶんSとMの間ですね」「そんな中途半端?」「手袋は結構そういう人多いです」Sはきつい。Mは少し余る。彼が別の形を持ってきた。「これ、指が少し細めです」はめてみる。今度はちょうどいい。「握ってみて」手を軽く握る。「親指だけ少し当たる」「見せてください」彼が私の右手を取る。手袋越しに、親指の付け根を軽く押さえる。「ここ?」「そこ」「縫い目ですね」革越しなのに、どこを触られているか分かる。朝から手だけじっと見られるのは、意外と落ち着かない。「手、小さいですね」「よく言われます」「指は長い」「それは初めて」「だからサイズ難しいんだ」左手も試す。今度は途中で革が引っかかった。「無理に引っ張らないで」彼が近づく。「ここ持って」手首の部分を私に持たせ、彼が指先側を少しずつ整える。小指。薬指。中指。人差し
last updateLast Updated : 2026-10-15
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金曜は、豆腐くらいでいい

午前7時25分。金曜の朝。商店街の豆腐店から湯気が出ていた。店先には木綿豆腐、絹ごし、厚揚げ、油揚げ。そして、〈朝の豆乳、温かいです〉その文字に負けた。「1杯ください」店の奥から出てきたのは70代くらいの男性。白い前掛け。その後ろから、同じくらいの年齢の女性。たぶん夫婦。「温かいのね」奥さんが言う。「書いてあるから」旦那さん。「冷たいのもあるでしょ」「朝だから温かいので」私が答えると、奥さんが満足そうに頷いた。旦那さんが紙コップに豆乳を注ぐ。湯気。一口。思ったより濃い。「おいしい」「でしょう」奥さんが得意そう。「砂糖入ってないですよね?」「入ってない」「でも甘い」「豆がいいの」旦那さんが言う。「私が作ってるから」奥さんがすぐ返す。「あなた、搾ってるだけでしょ」「搾るのが大事なんだよ」朝から始まった。私は紙コップを持ったまま笑う。「毎朝こんな感じですか?」「もっとひどい」奥さんが言う。「今日はお客さんいるから控えてる」「控えてこれ?」旦那さんも笑う。店の横のベンチに座る。奥さんが聞く。「朝ごはん食べた?」「まだです」「豆乳だけじゃ足りないよ」「でも今あんまり食欲なくて」「じゃあこれ」小さな湯豆腐のカップが出てきた。「頼んでないです」「試食」旦那さんが横から言う。「また勝手に」「余ってるからいいの」
last updateLast Updated : 2026-10-16
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1球くらい、前に飛べばいい

午前8時10分。金曜の朝。駅の高架下にあるバッティングセンターへ入った。昨日からなぜか体を動かしたかった。ジョギングは続かない。ジムは準備が面倒。でもバットなら、振るだけ。受付でコインを買い、空いている打席へ。ヘルメットをかぶる。1球目。空振り。2球目。また空振り。「難しいですよね」隣の打席から声。30代前半くらいの男性。黒いスウェット。いかにもスポーツ経験ありそう。「そっちは?」「僕も今からです」彼が構える。1球目。空振り。私は笑った。「同じじゃん」「今のは球速確認です」「表示80キロだけど」「体感は120」言い訳が早い。2球目も空振り。「確認長いね」彼も笑う。私の番。タイミングを少し早める。カン。当たった。真下だけど。「当たった!」彼が拍手する。「打球は微妙だけど」「そこ言わなくていい」次。今度は少し前へ飛ぶ。「才能あるかも」「それはまだ早い」彼が言う。「ちょっとフォーム見てもいいですか?」「詳しいの?」「学生のとき少し野球やってました」「さっき空振りしてたけど?」「ブランクです」疑わしい。でも見てもらう。「足、もう少し開いて」「これくらい?」「もう少し。肩の力抜いて」「抜いてる」「かなり入ってます」彼が横から少し近づく。「右肩、
last updateLast Updated : 2026-10-16
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今日は1冊だけ

午前9時30分。土曜の朝。公園の広場で古本市が開かれていた。白いテントの下に、本、本、本。小説。写真集。昔の雑誌。料理本。誰かの名前が書いてある本。買う予定もないのに、棚を端から見ていた。古本屋って、何も探していないときのほうが面白い。「それ、買います?」隣から声。見ると、40代くらいの女性が同じ本を見ていた。短い髪。大きめのトートバッグ。私が手にしていたのは、古い旅のエッセイ。「迷ってます」「私もさっき迷った」「じゃあ買わなかったんですか?」「面白そうだから困るの」意味が逆だ。「どういうこと?」彼女がトートバッグを少し開けた。中にはすでに5冊くらい。「今日は2冊までって決めてきたの」「もう超えてる」「だから困ってる」全然守れていない。私は笑った。「その本、面白そうですよね」「でしょ。でも家に積んでる本がある」「私も」「何冊?」「たぶん8冊」「少ない」「そっちは?」彼女は少し黙る。「数えないことにしてる」かなりあるらしい。私たちは本を棚へ戻した。次に、きれいな表紙の短編集を手に取る。「これは?」「欲しい」「買う?」「でもさっきのも」「全部買うと持って帰るの重いよ」現実的。「じゃあ、今日1冊だけ買うなら?」聞かれて止まる。旅エッセイ。短編集。古い料理本。猫の写真集。全部少し欲しい。「決められない」
last updateLast Updated : 2026-10-17
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水色の花は、少し曲がってる

午前10時。日曜の朝。小さな刺繍教室に来ていた。駅の掲示板で見つけた、〈初心者歓迎 ハンカチに小さな花を刺してみませんか〉というチラシがきっかけ。花1つくらいなら。そう思った。教室には私を含めて4人。先生は60代くらいの女性。白いシャツに深い緑のカーディガン。「まず好きな色を選んでください」糸が並ぶ。赤。青。黄色。ピンク。紫。私は水色を選んだ。「花なのに水色?」隣の女性が言う。40代くらい。自分は赤を選んでいる。「本物じゃないからいいかなって」先生が頷く。「刺繍なんだから何色でもいいですよ」助かる。白いハンカチの隅に、小さな下書き。5枚の花びら。最初の1針。裏から表へ。次。表から裏。「……曲がった」線から大きく外れた。先生が覗く。「大丈夫」「結構外れてる」「戻す?」「戻せます?」「できますよ」少し迷う。「このままだと?」「ちょっと元気な花になる」言い方が優しい。「じゃあこのまま」隣の女性が笑う。「元気な花、いいですね」彼女の赤い糸は絡まっている。「そちらも元気そう」「こっちは暴れてます」2人で笑う。先生が糸をほどく。「刺繍は急ぐと絡まりますからね」「日曜向きですね」「そうかも。急ぐ必要ないから」1針。また1針。少しずつ水色の線が増える。途中で糸が裏側で結び目になった。
last updateLast Updated : 2026-10-18
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湖のあとに、プリン

午前9時05分。日曜の朝。展望列車の窓際席に座っていた。大きな窓。今日は終点まで行かず、途中の湖の駅で降りる予定。ただ景色を見たかった。発車5分前。30代前半くらいの男性が乗ってきた。薄いブラウンのジャケット。手にはコーヒー。私の向かいに座り、チケットと窓を見比べる。「どうしました?」「僕、窓側だと思ってたんです」「ここ全部窓側みたいなものでは?」彼が笑う。「確かに」「何か見たいの?」「進行方向右側に湖が見えるらしくて」私の側だ。「じゃあ湖のところだけ替わります?」「いいんですか?」「ずっとじゃないですよ」「十分です」発車。列車がゆっくり街を抜ける。家。畑。川。「よく乗るんですか?」「初めてです」「詳しそうだったのに」「昨日かなり調べました」「予習タイプ」「失敗したくないので」「休日で?」「休日だから」少し分かる。せっかくの休み。ちゃんと楽しみたい。でも、その「ちゃんと」で疲れることもある。列車がトンネルへ入る。窓が鏡みたいになる。向かいの彼と目が合った。「今、景色ゼロですね」「予習にトンネル入ってなかった?」「盲点でした」笑う。トンネルを抜ける。山。彼がスマホで写真を撮る。「うまく撮れない」「目で見れば?」彼は少し考えて、スマホを下ろした。「それが一番ですね」しばらく2人とも何も撮らない。ただ外を見る。車内アナ
last updateLast Updated : 2026-10-18
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今日は、少しだけ赤く

午前7時45分。駅ビルの化粧品フロアは、朝にしては静かだった。私は口紅を1本買うつもりで入った。正確には、買うつもりまではなかった。昨日、ポーチの中を整理していたら、いつも使っている色がほとんどなくなっていることに気づいた。同じものを買えば早い。なのに、店頭に並んだ色を見たら少し迷った。ベージュ。ピンク。赤。ブラウン。似ているようで、全部少し違う。「お探しの色あります?」声をかけてきたのは、40代くらいの女性スタッフだった。白いシャツに黒いジャケット。髪は短く、口元には深めの赤。「いつもの色を買おうと思ってたんですけど」私は使いかけの口紅を見せた。彼女が色を見る。「似合ってますね」「じゃあこれで」「でも今日は別の色も試したい顔してます」何、その顔。「分かるんですか?」「同じの買う人は、ここまで棚見ません」確かに。私はもう5分くらい見ている。「じゃあ、少し違うの」「どれくらい?」「会社でびっくりされないくらい」言ってから、朝から会社を思い出してしまった。彼女が笑う。「じゃあ本人だけ分かるくらい変えましょう」その言い方がよかった。3本出してくれる。いつものベージュより少し赤い色。少しローズ。もう1本は、自分では絶対選ばない深い赤。「これは無理」最後を指す。「まだつけてないですよ」「見ただけで分かる」「じゃあ一番最後に」逃がしてくれない。最初のローズを試す。彼女が使い捨てのブラシに色を取る。「自分で塗ります?」「お願いします」椅
last updateLast Updated : 2026-10-19
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昔と同じの、飲む?

午前7時35分。駅前のジューススタンドで、私はバナナジュースを待っていた。火曜の朝。特別な理由はない。家を出るのが少し早かっただけ。カウンターの向こうでミキサーが回る。その音をぼんやり聞いていたら、隣から声がした。「まだそれ飲むんだ」振り向く。一瞬、誰か分からなかった。白いシャツ。ネイビーのジャケット。大学時代より髪は短い。でも、笑ったときに片方の口角だけ少し上がる。「あ……健太?」同じゼミだった男。大学4年の1年間、よく一緒にいた。恋人ではない。でも、飲み会の帰りに2人になることは多かった。卒業してからは、最初の数年だけ年賀メッセージ。そのあと自然に途切れた。「久しぶり」「何年?」「10年くらい?」「そんなに?」「たぶん」朝から急に時間が巻き戻る。店員さんが聞く。「ご注文は?」彼がメニューを見る。「バナナで」私は彼を見る。「そっちもまだそれ?」「昔、君が毎回飲んでたから思い出した」「真似?」「今日は」その言い方が少し懐かしい。大学の近くにも小さなジュース店があった。私はいつもバナナ。彼はオレンジ。「昔はオレンジだったでしょ」「覚えてるんだ」「そっちこそ」2人とも少し笑う。私のジュースが先に出る。冷たいカップ。ストローを差す。彼が横から見る。「朝から冷たいの平気になった?」止まる。「何でそれ覚えてるの?」「冬、毎回『寒い』って言いな
last updateLast Updated : 2026-10-20
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