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21. 好きだからですよ

初めてだった。病院という公的な空間を離れ、白衣もなしに二人きりで向かい合って座るのは。スヨンが出ていったあと、広い個室に気まずくも甘い静寂が降りた。ミレはティーカップを持ち上げて唇を湿らせ、ジニはその細い指先を見つめてから、遅れて視線を逸らした。病院で見ていたアン・ミレとは、また違っていた。患者でも、グラビアの中の完璧な妻でもない、一人の女と向かい合っている。その事実が改めて胸を打った。ミレもまた、ジニをじっと見つめていた。白衣を脱いだ彼は、思っていたよりずっと若く、くつろいで見えた。きちんとまくり上げたシャツの袖から覗く手首と、ティーカップを包む長い指が、不思議なほど目に入った。視線を上げると、自分を見つめていたジニと目が合った。二人とも、すぐには目を逸らせなかった。ほんの数秒だった。けれどその間に、また会えたという喜びと、二人きりになったときめき、そしてこの瞬間を密かに待っていたという、決して知られてはいけない気持ちまで、すべてが行き交った。ミレが先に目を伏せた。ティーカップの縁を指先でゆっくりとなぞった。白かった耳の先が赤く染まっていくのを見て、ジニの口元には思わず微笑みが浮かんだ。彼はティーカップを置き、低い声で尋ねた。「膝はもう、完全に大丈夫ですか?」ミレがふっと笑った。「会うたびに膝の話ですね?」「僕にとっては、とても重要な問題です」「どうして?」冗談めいた問いに、ジニの返事が一瞬遅れた。彼は、笑みを含んだ目元とわずかに上がった唇、そして答えを待ちながら自分だけにまっすぐ向けられた澄んだ瞳を、ゆっくりと目に焼きつけた。「模範患者ですから」いかにも医者らしい答えだった。けれど、その声は医者のものではなかった。ミレも、それに気づいた。ジニはティーカップを持ち上げた。だが、茶を飲みはしなかった。ミレに向けた視線を隠すように、しばらく口元へ運んだだけだった。二人の視線が、再び絡み合った。ジニの瞳が、少しだけ深くなった。ミレは目を逸らさなければと思いながらも、視線を外せなかった。その瞳の中で、自分がどれほど美しく映っているのか、言葉にされなくてもわかった。会話が途切れても、どちらも先に視線を逸らさなかった。テーブルの下で、ミレのつま先が無意識に内側へ縮こまった。ジニは乾いた唾を飲み込み、ティーカッ
last updateLast Updated : 2026-10-01
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22. 瞳の中の男

朝の静けさを破って、グループチャットの通知が鳴った。[チェ・スジン:皆さん、ちょっと聞きたいことがあるんですが😊 サッカーの個人レッスンって、普通どこで受けてますか? ジホが、友達はみんなサッカーもバスケも個人レッスンを受けてるって言うんです。勉強する時間もないのに、本当にみんなそれをこなしてるんですか?😭 うちは今回やっと英語塾に入れたんですけど、宿題だけでも夜が短すぎる気がして。][既読 7][既読 31]けれど、返信はなかった。スジンはスマートフォンを手にしたまま、しばらく画面だけを見つめていた。既読の数字は増えていくのに、誰一人として親指一本動かさなかった。まるで全員が、同じ合図を待っているかのように。三分ほど経ったころ、会長のお母さんが仕方なさそうに短い返信を残した。[会長の母:サッカーの個人レッスンなら、キム○○先生、パク○○先生にお願いしてる人が多いです。必要なら個別チャットで番号送りますね。]その一文が上がると、スジンは慌てて返信した。[チェ・スジン:わあ、ありがとうございます! 私、何も知らずに聞いちゃいましたねㅠㅠ 個別チャットします。]けれど、そのあとのグループチャットは再び深い水の底のように静まり返った。サッカーのレッスンについて尋ねること自体が、悪いわけではなかった。ただ、この場所では「子どもたちが何をしているか」という情報が、単なる情報だけでは終わらなかった。誰がより早く始めたのか。誰がより良い先生を知っているのか。誰が子どもの時間をどれほど隙間なく埋めているのか。そこまでを露わにする、静かな競争になることがあった。スジンは、そのことを知らなかった。だからこそ、あんなにも澄んだ声で「勉強する時間もないのに、本当にみんなそれをやってるんですか?」と尋ねられる人だった。しばらくして、ミレのもとにスジンから個別メッセージが届いた。[チェ・スジン:ジヌォンのお母さん……私、また何か失敗しましたか? 誰もコメントしてくれなくて、今、冷や汗が出てますㅠㅠ]ミレは小さくため息をつき、返信した。[アン・ミレ:失敗したわけじゃないですよ。ただ、次から気になることがあったら、まず私に聞いてください。私が知ってることなら全部教えますから。][チェ・スジン:ああ……はい。なんだかグループチャットで余計に騒がしくし
last updateLast Updated : 2026-10-01
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23. バレてしまった眼差し

ジェシカは、ミレに続きを促さなかった。「夫は、自分が必要なときだけ私を求めるの。愛する妻だからじゃなくて……自分の欲を吐き出すために」生涯、夫の悪口など言ったことのない友人だった。ジェシカには、その一言を口にするまで、ミレがどれほど長い間ひとりだったのか、わかるような気がした。「私もキャビンとは、お互いによそ見したことがある」ミレが顔を上げた。「人がほかの誰かに目を向けるのって、必ずしも相手が悪いからじゃないの。自分の中にある部屋が、あまりにも長い間空っぽだったときにも、そうなることがある」ジェシカが尋ねた。「あなた、今そうなの?」ミレは答えられなかった。「そうだ、私を皮膚科に連れてってよ」空気を変えるように投げかけられた言葉に、ミレはスマートフォンを開いた。ワールドベストスキン皮膚科の予約画面を開き、迷うことなく時間を選んだ。ジェシカは、その指先をただ見つめていた。ジェシカは病院の扉を開けて入った瞬間から、その場を圧倒する特別な空気をまとっていた。ロビーを優雅にひと通り見渡した彼女は、ミレに向かってにっこりと笑った。「ここ、すごく雰囲気がいいわね、ミレ」そのとき、ミレを見つけた代表院長が嬉しそうな表情を隠しきれず、ロビーへ歩いてきた。「アン・ミレさん、いらっしゃったんですね」「はい、院長先生。今日はニューヨークから来た友人を連れてきました。ジェシカです」ジェシカが洗練された笑みを浮かべ、握手の手を差し出した。「うちのミレが、ここが一番だって褒めてたんですよ」「アン・ミレさんのお友達でしたら、なおさら最高のおもてなしをしないといけませんね」代表院長の愛想のいい歓迎に、ミレはただ、ふっと小さく笑った。診察室。ジェシカの肌を丁寧に診ていた代表院長が、カルテを見ながら提案した。「まずは色素の集中治療をして、そのあと幹細胞リフティングを受けてみることをおすすめします。最近、当院で一番人気の施術なんですが、効果がとてもはっきり出るんですよ。あ、ちょうど私が明日から一週間、日本出張なので……幹細胞の施術は、うちのユ・ジニ院長に特別にお願いしておきます。ユ院長は手先がとても繊細で、丁寧ですから」その名前を聞いた瞬間、ミレは何も言えなくなった。胸を痺れさせるような冷たさが押し寄せ、彼女は窓の外の景色へと心を隠した。ジェシカ
last updateLast Updated : 2026-10-01
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24. 五人が揃ったロビー

レーザー施術を終えたユジンママとミンソママは、パウダールームで最後の身支度を整えていた。「院長先生の手にかかるだけで、肌がもうツヤツヤになるんだから。ほほほ」「ほんとですね。お姉さん、今日すごく肌が明るくなった」二人は満足そうな笑みを浮かべながら、診察室のほうをあとにした。運命のいたずらのように、ロビーで五人の動線が重なった。ミンソママ、ユジンママ、アン・ミレ、ジェシカ、そしてユ・ジニ。息が詰まりそうな対峙の中、ユジンママがジニを見て目を輝かせた。「ユ院長先生! さっき私がお話ししたVVIPって、まさにこの方なんです」思いがけない紹介に、ミレは目を丸くした。「え……?」ユジンママが親しげに笑いながら、すぐに言葉を続けた。「ほら、私たち、ジヌォンのお母さんが普段どんな肌のお手入れをしてるから、あんなにツヤツヤなのか気になってたんですよ。ちょうどユ院長先生に、同じプログラムをやってくださいってお願いしようとしてたところなんです。ほほほ」張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。ミレはようやく安堵の息を吐き、恥ずかしそうにそっと視線を逸らして、にっこりと微笑んだ。ジニの深い瞳が、ゆっくりとミレに向けられ、そのまま止まった。二人の視線が絡み合った瞬間。まるで世界中が止まったかのような静寂の中、痺れるほど深く、胸が高鳴る眼差しが互いへ一気に溢れ出した。言葉では到底表しきれない切なさと恋しさを宿したその眼差しを、隣ですべてを見ていたジェシカは一瞬で捉えた。ミレが最近、偶然出会ったと言っていたあの男。たった一度、視線を交わしただけで、ジェシカの頭の中ではパズルのピースがぞっとするほど完璧に組み合わさった。まさか……あの男が、その人だったの?確信とともに心臓がドクンと沈み、その感覚がジェシカの背筋を走り抜けた。「あ……アン・ミレさんだったんですね」彼女の名前を呼ぶ声があまりにも柔らかく優しくて、まるで長い間、心の中で恋しく思い続けてきた人を呼んでいるようだった。ミレが話していた男がユ・ジニ院長なのだという事実が、今やジェシカの頭の中に疑う余地のない事実として刻み込まれた。ジェシカはにっこり笑って、ジニを見つめた。「あら、じゃあ私も来週、ユ・ジニ院長先生の手で完全に生まれ変わるってことかしら?」ジニはそこでようやく、ミレの隣にいる
last updateLast Updated : 2026-10-01
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25. 今日は嫌です

その瞬間、ミレの心臓がドクンと落ちた。あまりの驚きに、息が止まりそうだった。ミンソママとユジンママの顔に、怪訝そうな表情が浮かんだ。ジェシカが、ごく自然に、そしてウィットを利かせて言葉を付け加えた。「この前、私に保湿ケアがすごく上手だって褒めてた、あの院長先生でしょ?」「あ、そうですよ!」ミンソママが相槌を打ち、ユジンママも頷いた。「ユ院長先生、保湿ケアも本当にすごく上手なんですよ」凍りつきかけていた空気が、するすると溶けていった。ミレはまだ耳元を激しく打つ心臓の音を鎮めようと、必死に視線を床へ落としていた。けれどジェシカは、すでに確信していた。二人の間に流れる、この秘密めいて甘い空気を。走る車の中。サングラスを外したジェシカが、ハンドルを握るミレを振り返った。「いつから?」ミレは前だけを見つめ、平静を装った。「何が?」「さっきの医者。ユ・ジニ院長のことよ」ミレはしばらく運転だけに集中しているふりをしながら、唇を噛んだ。けれど、友人の深い眼差しの前では、結局すべての武装を解くしかなかった。止まってしまったエレベーターでの初めての出会い。自転車で怪我をした良才川の薬局。皮膚科で交わした密かな視線。傷の手当てをしてもらった診察室のカーテンの中。朝鮮パレスでの息が詰まりそうな時間。そして、今日まで。積み重なってきた時間の欠片を、すべて吐き出した。話を最後まで聞いたジェシカが、優しい声でミレの名前を呼んだ。「ミレ」「うん」「私、今ので確信した」ミレは顔を向け、友人を見た。「あなた、あの男が好きよ」ミレは、どうしても否定できなかった。ジェシカは窓の外へ視線を向けながら、淡々と、けれど確信に満ちた声で言った。「さっき病院で、あのユ・ジニ院長があなたを見る目、ただ事じゃなかった。あなたの名前を呼ぶときなんて、息遣いから違ってた。それに、あの人を見てたあなたの目……まるで私たちが二十歳だった頃みたいだった」ミレの胸の中で、波が揺れ始めた。ジェシカはミレの瞳が細かく揺れるのを見逃さず、さらに釘を刺した。「あの院長も、あなたに気がある。それに、あなたもあの男が好き。二人して目だけで映画一本撮ってたじゃない」「……」「私も昔、キャビンと暮らしながら、お互いによそ見したことがある。あなたも知ってるでしょ」「
last updateLast Updated : 2026-10-01
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26. アン・ミレの夫

ソンウンは黙ったまま彼女を見つめると、背を向けて横になった。ミレも背を向けたまま目を閉じた。夫の体温より先に、別の男の眼差しが浮かんだ。同じ夜、久しぶりに集まった医学部同期四人の酒席は、すっかり盛り上がっていた。眼科、形成外科、整形外科の院長をしている友人たちに囲まれ、ジニは薄い笑みを浮かべたまま座っていた。眼科院長がビールジョッキをぶつけ合わせながら、ため息をついた。「うちの息子、俺たちが医学部の本科にいた頃くらい勉強してる気がするよ。それに、やってることがものすごく多くてさ。もう今から人生に疲れてるように見える」整形外科院長が豪快に笑った。「どんだけスペック積ませてるんだよ?」眼科院長は指を一本ずつ折っていった。「勉強以外に、歯と顎の矯正、成長ホルモン注射、それに毎晩オルソケラトロジーレンズまで……もうフルコースだよ」「ハハハ! お前、息子一人をずいぶん人工的に育ててるな?」陽気な会話の中、酒のグラスが忙しく行き交った。形成外科院長が苦い顔でグラスを空け、話を続けた。「俺は付き合いが長すぎてから結婚したせいかな。結婚したら妙に性欲がガクッと落ちたんだよな」眼科院長がふざけた調子で返した。「家族同士って、もともとそんなもんじゃないのかよ」既婚男たちの子どもじみた笑い声が広がった。整形外科院長も一言加えた。「俺はどれだけ金があっても、顔とスタイルが好みじゃなきゃ、そもそも気持ちが動かないんだよな」にぎやかな笑い声の向こうで、ジニはただグラスを指先でもてあそんでいた。友人たちが口にする「結婚」「妻」「家族」というありふれた言葉が宙に散っていくたびに、ジニの胸にはたった一人、アン・ミレという名前だけが痛いほど深く食い込んでいった。自分の女にはなれない人。近づくことのできない、堅固な城壁の向こう側にいる人だということは、骨身に染みるほどわかっていた。けれど、心臓は理性よりも正直で、残酷だった。彼女をすべて自分のものにしたかった。狂おしいほど会いたかった。あの女が迎える朝はどんな色をしているのか。あの美しい唇からこぼれる笑顔は、どれほど瑞々しいのか。彼女が好きな些細なものまで、全部……ひとつ残らず知りたくて、胸が焼けつくようだった。集まりが終わると、友人たちはふらつきながらタクシーを拾った。「ジニ、乗らないのか?
last updateLast Updated : 2026-10-02
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27. うちの妻

パク・ソンウンは、ユ・ジニが想像していたよりもはるかに印象的な男だった。刃物のようにぴしりとアイロンのかかったシャツ、無駄のない立ち居振る舞い、手首の上で控えめに輝く腕時計。成功を証明しようとしなくても、すでにすべてを手にしている者の余裕が身体に染みついていた。「こんにちは。パク・ソンウンです」先に差し出された手の握力もしっかりしていた。「ユ・ジニです」「代表院長先生もそうですが、うちの妻もユ院長先生は腕がいいと褒めていました」うちの妻。この世で最もありふれた、ごく当たり前の呼び方だった。なのに不思議なことに、その言葉が錐のように飛んできて胸に突き刺さった。アン・ミレは、この男の妻だった。頭ではわかっていた当然の事実が、なぜ今になってむき出しの現実となり、息を締めつけてくるのかわからなかった。施術は至って無難に、滞りなく進んだ。ベッドに横たわったパク・ソンウンは清潔感があり、合理的で、礼儀が身体に染みついていた。いっそ無礼な人間だったなら、気が楽だったのだろうか。男が完璧であればあるほど、ジニの胸の内は妙に居心地が悪くなった。「お疲れさまでした」「出張前に、ちょうどいいタイミングで受けられましたね」「かなりご予定がおありのようですね」「ええ、出張が少し立て込んでいまして」自慢も、誇張もない淡々とした答え。だが、その態度が持つ重みが、かえってジニを押しつぶした。男が出ていき、ドアが閉まったあとも、ジニはしばらく次のカルテをめくることができなかった。アン・ミレは……こんな男と生きてきたんだ。その思いが残像のように残り、胸を重く沈ませた。翌朝、良才川。ジニは胸のつかえを振り払うように、いつもより少し速いペースで走っていた。川面に砕ける朝の陽射しが、ひときわ眩しかった。その時、遠くを走る見慣れたシルエットが目に入った。アン・ミレだった。ジニは無意識に足を緩めた。ちょうど息を整えていたミレも彼に気づき、顔を向けた。「あら」彼女がぱっと明るく笑った。「院長先生」ただ、その笑顔ひとつだけだった。それなのに、昨日一日中ジニを支配していた重苦しい澱が、一瞬ですべて蒸発してしまったような気がした。「朝早くから出ていらしたんですね」「はい。院長先生も?」「僕もです。毎日走っているコースなので」二人は自然と歩調
last updateLast Updated : 2026-10-02
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28. 傘を取りに行った二人 -1-

数分後、エレベーターの扉が開き、ジニが歩いて出てきた。ところが、彼の手にあるのは大きなスポーツタオル一枚だけだった。ミレは呆れたように目を見開いて笑った。「院長先生、傘は?」ジニは自分の手を見てから、力なく笑った。「本当ですね……。気が急いていたみたいです。タオルだけ持ってきちゃいました」あまりにも間の抜けた失敗がおかしくて、二人はしばらく顔を見合わせ、声を上げて笑った。ジニはタオルでミレの濡れた肩と髪をそっと包みながら、低く囁いた。「一緒に上がりませんか?」「傘を取りに?」「はい。一人でもう一度上がるのは……退屈なので」あまりにもわかりやすく、見え透いた口実だった。けれどミレは、その優しい口実が少しも嫌ではなかった。むしろ、心臓が心地よくくすぐったくなった。二人がエレベーターに乗り込んだ、その時だった。扉が閉まりかけた瞬間、遠くから慌てた声が聞こえてきた。「待ってください! 私たちも乗ります!」大きなベビーカーが二台、続けざまにエレベーターの中へ押し込まれてきた。ただでさえ狭い空間が、あっという間にベビーカーと赤ちゃんの荷物でいっぱいになった。「あ、すみません。もう少し奥に入りますね」空間が極端に狭くなった瞬間、ジニは反射的にミレの肩を抱き、彼女をエレベーターの隅の壁際へと導いた。そして扉が閉まった。「……!」ミレは息を呑んだ。近すぎた。逃げ場のない狭い隅。ジニはミレをベビーカーから守るかのように、彼女の背後を完全に包み込んだまま密着していた。彼の広い胸が、ミレの背中に隙間なく触れていた。まるで深くバックハグをしているような姿勢だった。二人とも全身が雨に濡れていたため、薄く湿った服越しに互いの体温がむき出しのまま絡み合ってきた。ミレの柔らかな背中の曲線に、ジニの硬く熱い胸板が重く密着した。少し大きく息をするだけでも、互いの身体の曲線が互いに食い込んでしまいそうな距離だった。サラッ――。濡れた布地が擦れ合う小さな音が、やけに大きく響いた。ジニはどうしても顔を伏せて彼女を見下ろすことができなかった。視線を落とせば、今すぐにでも白くあらわになった彼女の濡れたうなじに口づけたくなってしまいそうだった。心臓が破裂しそうなほど、ドクン、ドクン、と激しく鳴った。その鼓動がミレの背中を伝い、彼女の心臓にま
last updateLast Updated : 2026-10-02
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29. 傘を取りに行った二人 -2-

45階。ジニの家がある階だった。エレベーターの前には、良才川を一望できる巨大な窓があった。静かでひっそりとしたミニロビー。外部の人間が足を踏み入れることのない階なので、ソファがひとつと植木鉢がひとつあるだけだったが、不思議なほど居心地がよく、落ち着いた空間だった。「少しここに座って待っていてください。すぐに持ってきます」ジニの声は、いつもより少し低く落ち着いていた。彼が玄関の向こうへ消えると、ミレはソファに身体を預けたまま、ガラス窓の外を眺めた。激しい雨が良才川の上へ容赦なく降り注いでいた。ミレの寝室から見ていたのと同じ川の流れなのに、角度が変わるだけで、すべてが見慣れないものに感じられた。知らない場所なのに、不思議と知らない場所のようには思えなかった。左胸の奥では、まだ心臓が激しく鳴っていた。ミレは、その奇妙な震えに気づかないふりをして、そっと胸の奥にしまっておくことにした。ほどなくして、ジニが大きな傘を持って出てきた。再び一緒に乗ったエレベーター。扉が開くと、ジニはごく自然にミレの細い手首を包むように掴み、中へと導いた。そして扉が完全に閉まってから、そっと手を離した。何も言わず、何事もなかったような顔で。けれどミレは、彼に掴まれていた手首が、まるで焼き印でも押されたかのように、まだ熱く火照っているのを感じていた。45階からロビーへ降りていく間、ミレは雨に濡れた自分の姿が今さら恥ずかしくなった。ぐしゃぐしゃになったスポーツウェア、頬に張りついた濡れた髪、すっぴんの顔。ジニは隣に立つミレに自分の荒い息遣いが聞こえてしまうのではないかと、何度も乾いた唾を飲み込んだ。チン――。ロビー。扉が開いた瞬間、二人の肩に張りつめていた緊張が、同時にすっと抜けていった。ところが、思わぬ展開が待っていた。ついさっきまで世界が崩れ落ちるかのように降っていた土砂降りの雨が、嘘のように止んでいた。雲の隙間からは、透き通るような陽射しまで差し込んでいた。二人は呆然と顔を見合わせた。そして示し合わせたかのように、同時に吹き出した。「傘を取りに上がった二人、完全にバカみたいですね」「本当ですね。完全に」ついさっきまでエレベーターを押しつぶすほど満ちていた息苦しい気まずさは、雪が溶けるように消えていた。その代わりに、二人だけが共有する密や
last updateLast Updated : 2026-10-02
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30. ミガ(味家)

言葉はそこで、ぷつりと途切れた。ジョンレは自分でも驚いたように手を止め、慌ててタオルを半分に畳んだ。今、自分の口から出た言葉こそ、ずっと隠してきた本音だったことを誰よりもよくわかっていたから、ジョンレは慌てて視線を床へ落とした。ミレは黙ったまま窓の外を見つめた。その言葉に込められた痛いほどの真実がわかっていた。ジョンレがどれほど長い間、そのやるせなさを胸の内に飲み込んできたのか。この冷たい家で、代表夫妻のショーウィンドウのような暮らしを誰よりも多く見てきたのが誰なのかも、わかっていた。慰めても、否定しても、すべてが欺瞞になってしまうような気がして、ミレは口を閉ざした。「おばさん」ミレは静かに席を立った。「今夜はソユンのお父さんもいないし、二人で開浦洞のミガに行って、熱々のタラ鍋でも食べてきませんか?」強張っていたジョンレの顔が、たちまち明るくほころんだ。「まあ、いいですね、奥様! 早めに夕飯を食べに行きましょう。ちょうど雨が降ってたから、アンコウ鍋でも作ろうかと思ってたんですけど、二人だけなんだから外でさっぱり食べましょう。さあ、行きましょう」行きつけの店、ミガの扉を開けた途端、厨房から店主の威勢のいい声が飛んできた。「あら、奥様! おばさん! いらっしゃい!」老舗の名店ならではの懐かしい匂いが鼻先をくすぐった。濃く煮出した出汁、甘みのある長ネギ、深みのある醤油の香り。いつ来ても同じ場所、同じ温もりで迎えてくれる店だった。ミレがこの店を愛しているのは、料理の味だけが理由ではなかった。昔から知る幼なじみのような心地よさ。どこにも馴染めずにいたミレの冷えた心を温かく包み込んでくれる、深い人情がこの空間の隅々に染み込んでいた。冷たい現実に疲れ、心の置き場を失った時、いつでも何も言わずに懐を開いてくれる、安息の場所のような店だった。ミガの店主がおしぼりを置きながら尋ねた。「今日はパク代表はご一緒じゃないんですね? この前みたいに、ご自宅で煮るだけにしてお持ち帰り用に包みましょうか?」ジョンレがミレの顔色をうかがった。「旦那様は今日は外で召し上がってくるとおっしゃってました。奥様、どうしましょう?」ミレは答えようとして、息を止めた。ついさっきまでユ・ジニという男の残像で埋め尽くされていた頭の中に、「夫」という容赦のない現実
last updateLast Updated : 2026-10-02
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