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All Chapters of 再び妻を求め始めた: Chapter 41 - Chapter 50

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41. 私たちだけで

夜明け前だった。パク・ソンウンは、いつものようにアラームが鳴るより先に目を覚ました。腕の中では、妻が眠っていた。彼の手の甲に、自分の手を重ねたまま。ソンウンはしばらくの間、妻の顔を見下ろしていた。化粧気のない顔。目元には、うっすらと乾いた涙の跡が残っていた。十五年前、あの人を訪ねていった日のことが蘇った。ミレが、あの家で愛されて育った末娘ではなかったと知った日。一度も間違えたことのなかった自分の目が、間違っていたのだと知った日。あの日以来、彼は妻を見なくなった。妻を見るたびに、自分の汚点が見えたからだ。だが、汚点はミレではなかった。この女は、最初から何ひとつ偽ってはいなかった。ただ、言えなかっただけだ。聞かないことが礼儀とされる家で育った子どもが、何も言わないという方法しか学べなかっただけだった。間違っていたのは、あの日の判断ではなかった。そのあと背を向けた、自分自身の選択だった。数日前のエレベーターの中。見知らぬ犬にかけていた妻の声が蘇った。あんなに優しい声を、自分は最後にいつ聞いただろう。そして、「今日は嫌です」初めて自分の手を掴み、止めた妻の手。そのときになって、ようやく気づいた。自分が背を向けている間に、この女も少しずつ遠ざかっていたのだということに。まだ遅くない。遅くないはずだ。ソンウンは眠っている妻の額に、静かに唇を寄せた。元に戻そう。この女を、本来いた場所へ。そして今度こそ、思う存分愛そう。パク・ソンウンは、選択を間違えたことのない男だった。今回も、間違えるつもりはなかった。ソンウンは妻の肩まで布団を引き上げ、静かにベッドを抜け出した。彼は知らなかった。妻の耳の後ろに残っている温もりが、自分だけのものではなかったことを。ミレが目を覚ましたとき、隣はすでに空いていた。リビングから音が聞こえた。子どもたちの声だった。パク・ソンウンの声も聞こえる。笑い声。ミレはまだぼんやりとしたまま、その音を聞いていた。ただ、温かかった。そして、また眠りに落ちた。次に目を覚ましたとき、時計は九時を指していた。ミレは飛び起きた。髪を適当に整えてリビングへ出ると、ダイニングテーブルにはパク・ソンウンと子どもたちが座っていた。朝食の真っ最中だった。「あら、起こしてくれればよかったの
last updateLast Updated : 2026-10-05
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42. 考えてみます

新羅ホテルのプールだった。チェックインを済ませるとすぐ、キム・スヨンから電話がかかってきた。「オンニ、どこですか? 私たち、今からプールに入るところです」「私たちもすぐ行くね」子どもたちはもう更衣室へ駆けていった。ミレはプールバッグを持って後を追いながら思った。今日は一日が、妙に速く流れている。プールに入ると、ギュリがジヌォンのところへ駆けてきた。ソユンもギュリの手を握った。三人の子どもたちは、あっという間に水の中へ飛び込んだ。ミレとキム・スヨンは、サンベッドに並んで座った。ミレは笑った。久しぶりだった。シャンパンが運ばれてきた。冷たく、すっきりしていた。子どもたちが水を掛け合う音が聞こえる。陽射しが水面できらきらと輝いていた。久しぶりに感じる温度だった。スヨンがグラスを持ち上げて言った。「オンニ、乾杯。今日はゆっくり休みましょう」グラスが軽く触れ合った。しばらく二人は何も言わず、子どもたちを眺めていた。ジヌォンが水の中でギュリを高く持ち上げた。ギュリが声を上げた。ソユンが笑った。スヨンがユ・ジニに電話をかけた。「義弟さん、あとでビュッフェ来るでしょ? 予約しておいたよ。ジンスさんは学会が遅く終わるから、一緒に食べられないって。上の階のミレ・オンニたちと一緒にいるの。子どもたち泳いでるけど、今から来ない?」電話の向こうから、ジニの声が漏れ聞こえた。「義姉さん、僕にデートの予定がないからって、何もすることがないわけじゃないんですけど」少しして、笑いを含んだ声が続いた。「あとでご飯は食べに行きますよ。ギュリとボードゲームでもしてあげます、まあ」電話越しに聞こえるその声が、ミレにはなぜか新鮮に聞こえた。夕方だった。ビュッフェレストランの前。ユ・ジニは先に来ていた。ミレと目が合った。その瞬間、心臓が先に反応した。ドクン、と音がした気がした。ユ・ジニが照れくさそうに笑った。「またお会いしましたね」「はい」ミレが答えた。短く。けれど、声の最後がわずかに震えた。気づかれていなければいいと思った。ミレは心の中で戸惑っていた。昨夜だった。ソンウンがあんなふうに抱いてくれたのは、本当に久しぶりだった。恋人だった頃のように。新婚だった頃のように。十五年ぶりだった気がした。身体はまだ、そ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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43. 二人だけのプール

食事が終わったあと、キム・スヨンたちの客室だった。ギュリはもうベッドでぐっすり眠っていた。スヨンがティーカップを置き、また話を切り出した。「さっきのお見合い、本当に考えてみて。今日は私が救済してあげたでしょ」「今日、救済したのは僕のほうだと思いますけど」ユ・ジニがふっと笑った。「兄さんの学会がこんな時間まで終わらないんだから、僕がいなかったら義姉さん、一人で子どもの面倒を見るの大変だったでしょう」「はいはい、わかった、わかった」「兄さんの顔は見ないで帰ることになりそうですね。お腹がいっぱいすぎるから、少し泳いで、そのまま家に帰ります」ユ・ジニが立ち上がった。「おやすみなさい」キム・スヨンはしばらくユ・ジニを見た。何かを言いかけて、やめた。「気をつけて帰ってね」ユ・ジニが出ていった。同じ時刻、ミレたちの客室。ソユンとジヌォンは、それぞれスマートフォンを手にソファに寝転んでいた。ミレが立ち上がりながら言った。「ねえ、みんな。プールに行こう」ジヌォンがスマートフォンから目を離さずに言った。「やだ。僕、このゲームやらなきゃ」ソユンも同じだった。「ママ、私は読んでた本の続き読まなきゃ」ミレは一人で水着を持って部屋を出た。廊下は静かだった。エレベーターに乗り、プールのある階まで降りた。更衣室で水着に着替えた。四月の最終週だった。まだ空気は冷たかった。プールは静かだった。ユ・ジニはプールサイドに立ち、水を見つめていた。夜の照明が水面で揺れていた。四月の夜だった。まだ寒かった。人はいなかった。昨日、風になびいていたミレの髪を耳の後ろへかけてやったことが蘇った。ただ、思い出した。水がきらめくたびに。照明が水面に滲むたびに。この感情がどこへ向かっているのか、わかっていた。わかっていながら、止めずにいた。そのときだった。静寂を破り、プールのガラス扉が滑らかに開いた。ユ・ジニはゆっくりと顔を向けた。そして、息を止めた。たった今まで水面に幻のように浮かべていたミレが、嘘のようにそこに立っていた。ガウンを脱いで中へ入ってきたミレも、サンベッドのそばに立つユ・ジニを見つけ、一瞬、わずかに目を見開いた。夜の照明の下に浮かび上がるミレの姿は、ジニが想像していた以上に魅惑的だった。華奢な肩のラインとは対照
last updateLast Updated : 2026-10-05
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44. 心配してるんですか?

「泳ぐの、お好きなんですか?」ユ・ジニが先に尋ねた。ミレが一瞬、ユ・ジニを見た。「あ」ユ・ジニが気まずそうに笑った。「そうでした。水、お好きでしたよね」ヤンジェ川が浮かんだ。雨。ベンチ。風。二人とも同じ瞬間に同じ記憶がよぎったことを、お互いは知らなかった。ミレがふっと笑った。「私、水泳でも優等生だったんですよ」「え?」「すごく優秀な生徒だったんです。高校生のとき」そう言いながら、ミレはプールサイドへ歩いていった。ユ・ジニはその歩く姿を見ていた。歩くたびに、水着の上から身体のラインがそのまま浮かび上がった。肩から腰へと続くライン。腰からヒップへと続く曲線。柔らかく豊かでありながら、あるところでは引き締まった筋肉が覗いた。あんなに可愛らしい顔に、こんな身体が隠れていたのかと思うほどだった。目を離せなかった。ユ・ジニは視線を逸らした。ミレが水に入った。水しぶきの音さえ立てずに。まるで、そのまま水の中へ溶け込んでいくように。ユ・ジニも続いて水に入った。並んでレーンに立った。ミレが先にスタートした。クロールだった。ユ・ジニもあとを追って泳ぎ始めた。だが、一往復が終わる頃には、すでに違いがわかった。ターンして戻ってくる速さ。水を切る泳ぎ方。腕が水面から出て、再び水へ入るタイミング。キックのリズム。呼吸の間隔。無駄がなかった。長く鍛えてきた人の身体だった。二往復。三往復。ユ・ジニは、いつの間にか泳ぐのをやめていた。自分でも気づかないうちに。プールサイドの壁にもたれた。そして、ミレを見つめた。水面を切って進むミレ。腕が水の上へ上がるたび、肩の筋肉がわずかに浮かび上がった。ターンするたび、水面に現れる横顔。唇の間から漏れる呼吸。速く、短く、リズミカルだった。止まらなかった。乱れなかった。四往復。五往復。ユ・ジニは視線を外せなかった。最初は泳ぎの上手さに驚いた。次は、その集中力に驚いた。けれど今は、ただミレを見ていた。理由もなく。ただ。おかしかった。息が苦しくなってくるようだった。自分は泳いでもいないのに。あの人が水の中で息を止めて動いているように、ユ・ジニはあの人を見ながら息を止めていた。いつからなのかわからなかった。胸が締めつけられるようだった。水は冷た
last updateLast Updated : 2026-10-05
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45. 愛だった

ユ・ジニが先に視線を逸らした。「聞いてますよ」低く。落ち着いた声で。ミレが一瞬ユ・ジニを見てから、再び正面を向いた。「そうは聞こえないんですけど」「全部聞きましたよ。ニューヨークのインタースクールで二位」ミレがふっと笑った。「聞いてたんですね」ユ・ジニは答えなかった。水面で照明が揺れていた。四月の夜だった。プールには二人しかいなかった。ミレの呼吸は、もうすっかり整っていた。ユ・ジニはその呼吸の音を聞いた。もう遅いのだとわかった。この人の笑い声が聞こえる場所にいたかった。この人が水の中で息を切らしながら動く姿を見られる場所にいたかった。ただ、この距離にいたかった。それだけで、今は十分だった。そして、それだけでは十分ではなかった。「もう一回やりましょう」ユ・ジニが言った。「勝負ですか?」ミレが笑った。「勝ったら、私が何か買ってあげないといけないんですか?」「負ければいいんですよ」ミレがプールサイドへ歩いていった。ユ・ジニも続いて立ち上がった。並んでレーンの前に立った。ミレが顔を向けた。「準備できました?」「はい」二人は同時に水に入った。スタートした。ユ・ジニは全力で腕をかいた。一往復目は並んでいた。肘が触れそうな距離だった。水の中でミレの動きが感じられた。リズミカルだった。乱れなかった。ターン。二往復目だった。ミレが半拍ほど先に出始めた。ユ・ジニはスピードを上げた。けれど、水の中で妙な感覚がした。ミレと並んで泳いでいること自体が、おかしかった。この距離。この温度。水の中で感じるミレの動き。そのときだった。余計な考えが入り込んできた。照明が滲む水の中。ミレと並んでいるこの空間。今、この距離なら。今、この水の中なら。ミレを止める想像。水の中でミレが振り向く想像。火照ったその頬が、この距離にある想像。そして、ただ。キスする想像。水の中で。息を止めて。照明が滲む水の中で。ミレの唇に。深く。ユ・ジニは腕をかいた。だめだった。こんなことを考えてはいけなかった。けれど、泳ぐのをやめられなかった。止まってはいけなかった。今、水の外へ出ることはできなかった。身体が反応していた。ミレの隣で泳いでいるだけで。ミレの動きを感じているだけで。すで
last updateLast Updated : 2026-10-05
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46. Unfaithful

家に帰り、明かりをつけた。静かだった。いつものように。ユ・ジニは冷蔵庫からビールを取り出して缶を開け、ソファに座った。テレビをつけると、ヨーロッパのサッカーが流れていた。好きなチームが試合をしていた。ビールを一口飲んだ。冷たかった。画面では選手たちが走り、実況が聞こえ、観客の歓声が響いていた。けれど、そのどれも耳に入ってこなかった。代わりに、プールの光景がちらついた。水を切って泳ぐミレ。呼吸するたびに開いていた唇。勝負が終わり、壁にもたれて笑っていた顔。火照った頬も、額に張りついた濡れた髪も。ユ・ジニはビールの缶をテーブルに置いた。画面ではゴールが決まり、観客が歓声を上げたが、彼は何の反応も示さなかった。ミレが笑っていた姿が浮かんだ。「負けましたね」と言いながら。その笑顔が、何度も。ユ・ジニは背もたれに寄りかかったまま、目を閉じた。少しだけ。ほんの少しだけ目を閉じればいい気がした。テレビの音が徐々に遠ざかり、代わりに水の音が聞こえてきた。プールだった。四月の夜。夜の照明が水面で揺れていた。ユ・ジニはプールサイドに立っていて、その前にはミレがいた。火照った頬と濡れた髪。わずかに開いた唇で、ユ・ジニのほうを見ていた。ユ・ジニが手を伸ばした。ミレの濡れた頬へ。触れようとした、その瞬間だった。ビールの缶がテーブルから転がり落ちた。ユ・ジニが目を開けた。テレビではハーフタイムの笛が鳴っていた。ソファだった。家だった。ユ・ジニは天井を見つめた。ほんの少し目を閉じただけなのに。思春期でもあるまいし。そう思いながら、彼は手で顔を覆ったまま、しばらくそうしていた。立ち上がってベランダの扉を開けると、四月の夜気が冷たく入り込んできた。ヤンジェ川が見えた。夜景の中で灯りがきらめいていた。ユ・ジニは手すりにもたれながら、ミレを思い浮かべた。今度はプールで見た姿だけではなかった。今日一日のミレが、一気に押し寄せてきた。ビュッフェレストランで隣に座っていたこと。キム・スヨンがお見合いの話をしたとき、フォークを止めたこと。サンベッドで高校時代の水泳部の話をしながら笑っていたこと。水の中を泳いでいたこと。勝負が終わり、壁にもたれながら「負けましたね」と笑っていたことまで。ヤンジェ川の灯りが揺
last updateLast Updated : 2026-10-05
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47.「ジニさん……」

彼女はベッドの端に静かに腰掛けていた。プールにいたときと同じように、少しの乱れもない端正な姿で、何も言わず、ただジニだけを静かに見下ろしていた。ずっとこの瞬間を待ち続けていたかのような、切なくも澄んだ眼差しだった。ジニは目を離せなかった。「……どうして、ここに」かすれた声が、低くゆっくりとこぼれた。ミレは答えず、ただ静かにジニを見つめているだけだった。何かを言おうとしているようにも見えたし、ただ会いたかっただけのようにも見えた。ずっと待ち続けていた人の眼差しのようでもあった。ユ・ジニはゆっくりと身体を起こした。ミレは逃げもせず、後ずさりもしなかった。この距離だった。初めてエレベーターの暗闇の中で互いにつかまり合ったこと。二台のベビーカーの間で、背中越しに体温を感じたこと。雨に濡れながら一緒に走ったこと。ベンチで風が吹いていたこと。プールで水を切って泳いだこと。そのすべての瞬間が、今、この距離の中にあった。ユ・ジニの手がゆっくりと上がり、ミレの顔へ向かった。額、目、鼻、頬、唇、顎の先まで。ひとつずつ、ゆっくりと。この顔を、こんなに近くで見たことはなかった。こんなに長く見つめていてもいいのかわからなかった。ミレは目を閉じたまま、息を止めていた。その顔があまりにも美しかった。ユ・ジニはその瞬間、何も考えられなかった。ただ、この人だった。指先がミレの頬に触れると、ミレがそっと目を閉じた。ユ・ジニの唇がゆっくりと近づいていった。二人の間の距離が消えた。ユ・ジニの吐息が触れると、ミレはさらに深く息を吸った。けれど。ミレは押し返さなかった。むしろ近づいてきた。ほんの少し。けれど、はっきりと。ユ・ジニのほうへ。まるで、ずっと待っていたかのように。この瞬間を。この距離を。この唇を。ユ・ジニはその瞬間、わかった。この人も待っていたのだと。いつからだったのかはわからなかった。けれど今、この唇が語っていた。待っていた、と。ユ・ジニは止まらなかった。止まればミレが消えてしまいそうだった。この温もりが。この息遣いが。この人が。だから、止まることができなかった。さらに深く溶け込んでいった。互いの甘さに酔い、ミレの息遣いが変わり、ユ・ジニの心臓が激しく高鳴った。ユ・ジニの手が、そっとミレの
last updateLast Updated : 2026-10-05
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48. 身体が覚えているとき

目を覚ますと、部屋の中は白々と明るくなり始めていた。ベッドの端は空いていた。ジニはしばらく、その場所を見つめていた。誰かがそこに座っていて、立ち上がったあとのように、掛け布団の端がほんの少し沈んでいるように見えた。錯覚だった。一晩中寝返りを打ちながら、自分の足で押しやった跡にすぎなかった。床には空のワインボトルが倒れていた。一晩中つけっぱなしだったテレビでは、音のない早朝ニュースが流れていた。夢だった。ジニは手を上げ、自分の指先を見つめた。ミレの頬に触れた手。月明かりの下で、華奢な肩を抱いた手。まだ温かかった。ジニさん。耳元に残るその声を、彼は一度も聞いたことがなかった。ミレはいつも彼を「先生」と呼んでいた。けれど夢の中の声は、不思議なほど鮮明だった。まるで、いつか本当にそう呼ばれる日が来るかのように。ジニはもう一度目を閉じた。もう少しだけ。その声が消えてしまう前に。月曜日の朝、チョンダムドンのピラティススタジオだった。全面ガラスの向こうから、朝の日差しが差し込んでいた。ミレとジェシカが並んでプライベートスタジオの中へ入った。インストラクターのイ・ジヨンが二人を見て、明るく笑った。「あら、今日はお二人一緒なんですね。久しぶりの二対一レッスンです」イ・ジヨンがミレの骨盤に手を添えた。軽く。プロの手だった。すると、ふと動きを止めた。「あら」「どうしました?」「今日、コアが違いますね」イ・ジヨンが少し笑った。「弾力が違います。骨盤まわりの筋肉がほぐれているのに、むしろいつもより生きてます」動作をしながら目を閉じていたミレが、目を開けた。「え?」「こういうときってあるんですよ。身体がいい感覚を覚えているとき」イ・ジヨンが何気なく言った。「ミレさん、最近変わってきてますよ」隣でジェシカがリフォーマーを止めた。「ミレ」「……」「ねえ」イ・ジヨンがジェシカのほうへ行きながら言った。「お友達も本当にきちんと運動されてきた身体ですね。ラインが完璧です。アン・ミレさんもそうですし、お友達もそうですし、専門家から見てもお二人とも本当に完璧な身体ですよ」ジェシカがミレを見た。意味ありげな眼差しだった。レッスンが終わり、サウナに入った。熱い空気が肌を包んだ。ジェシカはタオルを巻き、木の椅子に
last updateLast Updated : 2026-10-05
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49. ペッコドン

ミレはしばらく、熱い木の床を見つめていた。箱の中の航空券。贈与の対象から消された名前。そして、あの日以来、自分を見なくなった夫の目。そのすべてを、この熱い空気の中で取り出すことはできなかった。ミレは顔を上げて笑った。「その話は……また今度」ジェシカはしばらくミレの顔を見つめた。その笑顔の裏に何かがあることに、気づかないはずがなかった。けれど、それ以上は聞かなかった。「うん。今度、絶対ね」ジェシカが勢いよく立ち上がった。「お腹すいた。ご飯食べに行こう」狎鴎亭ロデオのペッコドンだった。階段を下りると、見慣れた空間が現れた。三十年以上続く店だった。テーブルも、匂いも、店主の顔も、何ひとつ変わっていなかった。店主は二人を見るなり、嬉しそうに言った。「あれ? 今日は一緒に来たんだね?」「はい〜。私、これ食べたくてニューヨークから来たんですよ」ジェシカはメニューも見ずに言った。「ナクチプルコギとイカフライ。それから、チャーハンも絶対お願いします」しばらくして石板が運ばれ、味付けされたナクチがのせられた。ジュウジュウという音とともに、辛そうな香りが立ち上った。ジェシカが箸を持ちながら目を輝かせた。「来た」二人は真剣に食べ始めた。ナクチが石板の上で焼けていき、横に出されたイカフライはサクサクだった。ジェシカはフライを一口かじると、目を閉じた。「死にそう。ほんとに」ミレも笑いながら食べた。ジェシカがナクチを箸で返しながら言った。「そういえば、あんたの大学時代の彼氏、ソニーいたじゃない。めちゃくちゃハンサムだった黒人の彼氏、ソニー」「ソニー?」「私、ソニーの近況知ってるよ。マンハッタンでギャラリーやってるの。チェルシーのほうで。最近めちゃくちゃ成功してる。現代美術のオークションもやってるし、アートフェアにも出てる。アート・バーゼルにも出たんだって」ミレが目を丸くした。「ソニーが?」「ソニーが、なんとアート・バーゼルに出るディレクターになってたのよ。私たちの大学の同級生からアート・バーゼル級が出るなんて、誰が思った?」ミレが吹き出した。「ほんとだね」笑いながらも、胸の片隅がほんの一瞬、疼いた。チェルシーのギャラリー。アート・バーゼル。展覧会のオープニングの照明と、シャンパングラスが触れ合う音。箱の中
last updateLast Updated : 2026-10-05
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50. 会いたいって

ワールドベストスキン皮膚科のロビーだった。ミレとジェシカがドアを開けて入った、その瞬間だった。「あら、ソユンのお母様!」ユナのお母さんだった。「お母様、こんにちは」「ソユン、ウンミョンで頑張ってるでしょう? ソユンならきっと大丈夫よ」「ありがとうございます。ユナも元気ですか?」「ええ。外国語高校は大変だけど、よく頑張ってます」エレベーターが開き、三人は一緒に乗った。ユナのお母さんが先に降りながら挨拶した。「あとで帰る前に、またお会いしましょう〜」「はい、また〜」ドアが閉まると、ジェシカがミレを見た。「あとでどこでまた会うの?」「ここでは、こうやって最後の挨拶をするの」「あ〜、テチドン語?」廊下を歩きながら、ジェシカが小声で囁いた。「でも、あのお母さん、シャネルのジャケットとルイ・ヴィトンの靴、偽物ってバレバレすぎる」ミレは笑いを必死にこらえながら、ジェシカの腕をつかんだ。「シッ。聞こえるよ」「偽物ってバレてないと思ってるのかな。それも同時に二つも」「ジェシカ」ミレは腕を引っ張ったが、結局こらえきれず、肩を震わせた。二人はひそひそと笑いながら診察室の前に立った。スタッフが顔を上げた。「ジェシカ様〜、どうぞお入りください」まだ笑いの残る顔で、二人はドアを開けた。ユ・ジニはカルテを見ていた。いや、見ているふりをしていた。今日、ミレも来るということを、なんとなくわかっていた。プール以来、初めてだった。ジニさん。あの声が、今も耳元に残っていた。夢だった。間違いなく夢だった。けれど、夢から覚めたときでさえ、指先は温かかった。それが問題だった。ノックの音とともにドアが開いた。ミレだった。そして、ミレの隣にはジェシカ。けれど、ユ・ジニが見たのはそこではなかった。ミレが笑っていた。何かおかしな話をしながら入ってきたような顔だった。目尻が少し上がっていた。頬がほんのり赤かった。まだ笑いが完全には消えていない顔。診察室の空気が一瞬で変わった。「先生〜、お元気でしたか!」いつものとぼけたような笑みを浮かべながら大股で入ってきたジェシカが、手に持っていたコーヒーキャリアをユ・ジニの机の上にぽんと置いた。中からカラカラと、冷たい氷の音が響いた。「私たち、来る途中でコーヒーを飲んだんですけど、そ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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