Alle Kapitel von 契約恋愛には“毒条項”があります: Kapitel 11 – Kapitel 20

30 Kapitel

第11話 友達だった頃の記憶

その夜、紗月はリビングのテーブルで、青い傘の写真を開いていた。中学の新学期初日、友人が撮ってくれた古い写真だ。突然の雨の中、怜司は傘をほとんど紗月のほうへ傾け、自分の制服の肩は半分濡れていた。あの頃は、不器用な親切だとしか思わなかった。大学のコンペで3晩続けて徹夜したとき、机に置かれていた缶コーヒーとチョコレート。初めての会社面接の朝早くに来た『いつもどおりでいい』というメッセージ。紹介された相手に会う前日になると、不思議に発生した怜司の急用。たどるほど、真心と意図が同じ場面の中で絡まった。紗月は写真を拡大し、また戻した。傘を差してくれた気持ちまで罠だったのか。それとも、好きだから優しくて、好きだから一線を越えたのか。どちらも、心の休まる答えではなかった。「まだ持ってたんだな、その写真」背後から声がした。紗月は驚かなかった。電話を置き、向かいのソファを指した。「座って。聞きたいことがある」怜司は袖をまくったまま座った。いつもなら先に結論を予測している目が、今日は紗月の言葉だけを待っていた。「傘を差してくれたのは、本当の気持ちだった?」「本当だった」「どういう気持ち?」「風邪を引くと思った。それと、一緒に歩きたかった」「コンペのときのコーヒーは?」「また朝食を抜くと思って」「私が誰かと会うたび、連絡してきたのは?」初めて、返事が遅れた。「邪魔をするため」紗月は短く笑った。うれしくない笑いだった。「どこまでが友達だったのか聞きたいのに、答えを聞くほど、わからなくなる」怜司は両手を組んだ。「行動は友人でも、理由は違った」「かっこいい話にしないで」紗月はすぐ遮った。「よくしてくれた思い出を、自分の執着の証拠にしないでよ。あのとき私が幸せだったことまで、奪われる気がする」怜司の目が下がった。「ごめん」「一度謝って、片付けようともしないで」「片付けない」紗月はもう一度画面をつけた。写真の中の14歳の怜司は、今よりずっと細い肩で傘を持っていた。「いつからだったの?」「好きだとわかったのは19歳の春。でも、それより前から、ほかの誰より先にお前が目に入った」「だったら、どうして告白しなかった?」「断られたら、友人の立場も失う気がした」「断るかどうかは、私が決めることだったでしょ」「ああ」怜司は言い訳せずに認
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第12話 ワイン一杯の隙

週末の夜、リビングのテーブルには、怜司が用意した赤ワインとクリスタルグラスが二つ並んでいた。紗月は1杯目をあまりに早く飲み干し、止められる前に2杯目も半分ほど飲んだ。喉が温まると、一日中押し込めていた問いが、かえって鮮明になった。怜司は止めてと言えば止まり、過去に手を回したことも隠さないと言った。それでも契約書は金庫にあり、二人は同じ家で、互いの次の動きをうかがっていた。「空腹でそんなに飲んだら、すぐ酔う」シャワーを終えた怜司が、黒いリネンシャツ姿で向かいに座った。濡れた髪の先から、水が一滴ずつ落ちる。彼はグラスより先に、紗月の顔を見た。「酔わなきゃ、こんな状況、やってられないよ。怜司に監視されて、息が詰まる生活なんて!」紗月は頬を赤くしたまま、鋭く言い返した。酔いの回った頬は熱かった。シャツのボタンが一つゆるんでいることにも気づかず、グラスを置こうとして指が滑った。ワインの滴が唇の端から顎を伝い、鎖骨に落ちた。ぽたり。白い肌で赤い点が広がった。怜司の視線が止まる。グラスを持つ指も、呼吸も、同時に止まったようだった。彼は紗月の手からグラスを受け取り、テーブルの遠くへ置いた。急いだ動きだったが、ガラスはぶつからなかった。「れ、怜司……?」紗月が驚いて身を引くと、両肩をつかまれ、ソファの背にもたせかけられた。革の座面が沈み、怜司の影が紗月にかかった。「わざとじゃないのはわかってる。でも今は、落ち着くのが難しい」熱い吐息が、唇のそばに触れた。怜司が鎖骨のワインへ顔を寄せると、紗月は胸を押した。「やめて」怜司はすぐに止まった。肩からも手を離し、一歩下がる。「本当に嫌?」答えられなかった。嫌だとはもう言った。けれど、いざ離れられると、空いた距離が妙に冷たかった。「怖いの」紗月は正直に言った。「どこまで行くのか、わからないから」怜司の顎がこわばった。「なら、俺が決めるのはやめる。お前が望むところまでにする」彼は向かいのソファまで下がり、両手を膝に置いた。紗月は鎖骨のワインを指先でぬぐった。怜司の目は追ってきても、体は動かなかった。「キスは?」紗月が聞くと、彼の目が熱を帯びた。「したい。でも、お前がいいと言わないと」少しためらい、紗月は怜司のシャツの襟を引いた。今度は自分から唇を重ねた。怜司はすぐ深く求めてはこなかった。
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第13話 見合い相手の執着

月曜日の午前。ルミナの大会議室では、海外家電ブランドのリブランディングの最終提案が行われていた。紗月はスクリーンの前で、最後の案を映した。週末ずっと頭から離れなかった怜司の口づけと契約条項は、会議室の外へ押し出してきた。仕事中くらいは、誰かの娘でも恋人でもない。チームを率いる橘紗月だった。「機能説明で終わらず、使う人の一日が変わる場面につなげています。本国のキャンペーンと日本でのローンチを、同じメッセージで結べる案です」バイヤーがうなずきかけたとき、テーブルの電話が短く震えた。[1階警備室です。大槻取締役と名乗る方が、お会いしたいと騒いでいます。警察に通報する前に、ご確認をお願いします]紗月の指先がこわばった。番号をブロックされた代わりに、会社へ来たらしい。「少し休憩を挟んでから、質疑応答に移ります」先方の担当者が心配そうに尋ねたが、紗月は表情を崩さなかった。「個人的な来訪者の問題です。案の説明はチームが続けますので、ご検討ください」メンバーにポインターを渡して扉を閉めた瞬間、初めて手のひらの汗に気づいた。それでも、自分の会社のロビーを避けて歩く気はない。本部長に進行を頼み、紗月はロビーへ下りた。エレベーターが開く前から怒鳴り声が聞こえた。「橘紗月を出せ! 篠宮の差し金だろう。俺の連絡を全部切りやがって!」大槻は酒臭い息をまき散らし、警備員二人の間でもがいていた。ネクタイは半ばほどけ、目は充血している。集まった社員が電話を構えると、指を突きつけた。「撮るな! 撮った奴、ただじゃ済まさないぞ」紗月は人前で背を丸めなかった。「大槻さん、ここは私の職場です。お帰りください。これ以上騒ぐなら、業務妨害とストーカー行為で通報します」「ストーカー?」鼻で笑った男が、大股で近づいた。「俺たちの金で食いつないでる家の娘が、偉そうに。篠宮がつけば、世の中全部お前のものか?」「実家と私は別です。それに、あなたとは一度見合いをしただけです」紗月は一語ずつ、はっきり線を引いた。「連絡しないでほしいとは、もう伝えました。ここから先の言動は、すべて録画されています」天井の防犯カメラを見上げると、大槻の顔がゆがんだ。警備員の腕を振り払い、紗月の手首をつかむ。「俺をなめやがって。来い。今日、お前の父親の前で決着をつける」指が肉に食い込んだ。紗月はか
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第14話 弁護士の冷酷さ

警察官に手錠をかけられても、大槻はまだ状況をのみ込めていない顔だった。「俺が誰かわかってるのか? 京栄物産が白峰に、いくつ案件を回してると思ってる!」怜司は床に落ちた書類を一枚ずつ拾い、封筒へ戻した。動作はゆったりしていても、読み上げる言葉は刃のように正確だった。「物流子会社を使った架空仕入れ。海外のペーパーカンパニーへ流出した42億円。役員名義で隠された借名口座。白峰が受けていた民事案件は、利益相反の通知とともに辞任しています。その後、外部の通報資料と公表済みの会計資料を別途検討し、1か月前に捜査機関へ提出しました」大槻の顔が青ざめた。「でたらめを言うな。証拠はどこだ!」「先週、酒の席から専務へ送ったあなたの音声ファイルに、ほとんど入っていました。残りは内部通報者から」怜司が電話の画面を向けた。ニュース速報には、京栄物産本社と社長宅への同時捜索が始まったと表示されていた。「今朝、令状が執行されました。お父様は参考人ではなく、被疑者です。出国を防ぐ措置も済んでいます」「お前……うちの会社を狙ってたのか?」「狙ったのは会社ではなく、犯罪です」眼鏡を押し上げ、怜司は相手を見据えた。「橘紗月さんへの脅迫は、また別件です。示談に応じるかは被害者が決めます。直接連絡しないでください。接近禁止に向けた手続きも、今日中に始められるよう準備します」警察官が大槻を連れていくと、社員たちが道を空けた。最後までわめいていたが、ガラスの扉が閉まると声は途切れた。姿が消えて、紗月はようやく肩の力を抜いた。手首には赤い指の痕が残っている。怜司が手を伸ばしかけて、止めた。「見てもいい?」うなずくと、手首をそっと支えられた。さっき男の関節をひねった手とは思えないほど、力が弱かった。「腫れてる。病院へ行こう」「会議中。抜けられない」「バイヤーより、手のほうが先だ」「篠宮怜司」きっぱり名前を呼ぶと、彼が目を上げた。「仕事は私が決める。冷やして、会議が終わってから行く」短い沈黙のあと、手が離れた。「わかった。終わるまで下で待つ」「それと、警備以外から会議室に連絡しないで」「わかった」怜司は電話を取り、秘書にロビーで待機するとだけ伝えた。反論しないことを確かめ、紗月はエレベーターへ向き直った。助けてもらったことへの感謝と、彼の言うとおりに動くことは別
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第15話 秘密の書斎

病院で軽い打撲と診断されても、疑いは消えなかった。帰宅すると、怜司は京栄物産の件で緊急のオンライン会議に入った。書斎の奥の扉が閉まり、弁護士たちの低い声が聞こえる。紗月はリビングのソファで手首を冷やしながら、今日の出来事をたどった。1か月前に提出された告発状。助けを求める前から完成していた契約書。わざとベッドを置かなかった客室と、自分のサイズに合わせて用意されていた服。偶然と呼ぶには、向かう先が正確すぎた。紗月は冷却パックを置き、書斎の前へ行った。普段は生体認証で施錠されている扉が、今日は指一本入るほど開いている。会議で急いだせいか、鍵をかけ忘れたらしかった。入ってはいけない。確かめなくてはいけない。二つの思いが同時に浮かび、結局、扉を押した。ほのかに木の香る部屋は、怜司らしく隙なく整っていた。案件ごとのバインダー、日付順のメモ、施錠の印のある引き出し。机には京栄物産の捜索の進捗表が広がっている。ほかの案件の書類には触れなかった。目が止まったのは、本棚の最下段にある黒い革のバインダーだ。[PROJECT:TACHIBANA SATSUKI]自分の名前が、ローマ字で刻まれていた。手首の痛みも忘れて取り出した。最初のページには橘エンジニアリングの債務構造と、両親の個人保証の内訳が図にされていた。次には、ルミナのプロジェクト日程、紗月の通勤経路、両親が接触した見合い候補の身元まで続く。大槻の名前に、赤い印がついていた。脇には月ごとの更新履歴がある。紗月が親と電話した日、大槻の秘書がホテルを予約した日、怜司が初めて条文に手を入れた日。日付が隙間なく並んでいた。誰かの事件記録のように乾いた表だった。記録されているのは、自分の毎日なのに。[京栄物産長男。衝動性が高い。父親の裏金構造に接近可能。橘社長が最初に選ぶ可能性大]指先から血の気が引いた。ページをめくるほど呼吸が浅くなる。告発状の草稿の下には『橘紗月保護の名目を確保』『家族の圧力を遮断するカード』というメモ。契約書の草案には、作成日がはっきり記されていた。5月12日。見間違えようがない。見合いを飛び出して怜司に電話した日より、ちょうど1か月前だ。さらに奥には、『契約締結までの予測シナリオ』があった。1.橘エンジニアリングへの資金回収時期を前倒し。2.橘社長による婚姻圧力の増大。
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第16話 仕組まれた罠

紗月は怜司の顔に、冗談や大げさな言い回しの跡を探した。何もなかった。「どれだけ、やったの?」声が思うように出なかった。一度息を整え、聞き直した。「どこまで、怜司が作ったことなの?」怜司は床の書類を拾わなかった。「お父さんの会社は、もともと経営が悪かった。借金を作ったのは俺じゃない。ただ、債権者に返済の危険性が伝わるよう資料を流して、資金回収を早めさせた。危機をお前の前まで連れてきたのは、俺だ」「防げたのに、わざと?」「ああ」「京栄物産は?」「橘社長が縁談を探していると、大槻側に知らせた。あの家の不正に踏み込む口実が欲しかったし、お前の両親が最も強く結婚を勧める相手だともわかってた」頬から血の気が引いた。「あの人が、私に何をするかも知ってた?」怜司の顎がこわばった。「傲慢で暴力的だとは知ってた。今日のように直接手を出すとは、判断できなかった。俺の見誤りだ」「見誤り?」紗月は乾いた笑いを漏らした。「私は計画の中の変数だった? 怪我はしないって計算して、その計算が外れたの?」「紗月」「名前を呼ばないで」手が上がった。頬を打とうとした手首を、怜司が反射的につかむ。紗月の目が凍った瞬間、すぐに離した。「ごめん」「今、それを言う?」紗月はつかまれた手首を胸に抱えた。「誰より信じてたの。だから契約書も、ちゃんと読まずにサインした。それなのに、その信頼まで計算してたんでしょ」「そうだ」短い答えだった。「親から離れるには力が必要で、俺は、その力が自分であってほしかった。ほかの誰にも頼れないようにしたかった」「だから出口をなくした?」「ああ」「それが、愛なの?」声がかすれた。「私が選んだと思わせて、実際には決められた道しか歩けないようにすることが?」怜司はしばらく答えなかった。知っている篠宮怜司なら、どんな問いにも理屈を組み立てた。今は、それがなかった。「愛だと、思いたかった」彼は息を整えて続けた。「告白して断られるのは耐えられないくせに、お前が選ぶ権利を失うことからは目をそらした。自分がどれだけ卑怯だったか、今やっと見える」それを聞いても、心はほどけなかった。怜司は、自分のしたことを正確な文章で説明できる男だ。何を奪うのか知った上で進めていたのだと思うと、余計に残酷だった。やがて、彼が言った。「でも、お前が
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第17話 出ていかなかった理由

スーツケースの車輪が大理石をこする音が、長く続いた。紗月は玄関だけを見ていた。廊下の真ん中に怜司が立っている。道を完全に塞いではいない。一歩横へずれれば、通れる距離だった。「どいて」「出ていける」声はいつもより低かった。「玄関の番号も、エレベーターのキーもそのままだ。止めない」「だったら、どうしてそこにいるの?」「最後に、確かめたいことがあって」彼が持ち手に手を置いた。紗月が振り払うと、スーツケースが横へ倒れた。きちんと閉じていなかったポーチと書類が、カーペットにこぼれた。「触らないで」怜司はそのまま両手を上げて下がった。「ごめん」紗月はかがんで拾った。手が震え、小さな香水瓶を2回も落とした。動きかけて止まる怜司が、視界の端に見えた。「お前の電話のバックアップと、位置情報の共有権限は全部解除した」玄関のコンソールに、封筒と電話が置かれた。「指定していた運転手と警護も外した。どこへ行っても、調べない」「当たり前のものを返して、恩を売るようなこと言わないで」「わかってる」怜司は黙って立っていた。物を詰め直し、紗月はスーツケースを起こした。玄関まで来たところで、背後から声がした。「ただ、今日は実家へ帰らないで。大槻の件で記者が動いてる。橘エンジニアリングにも取材が入ってる」「それも、怜司が作った状況でしょ」「捜査のきっかけは俺だ。でも、取材を流したわけじゃない。安全のためにも、人の多いホテルか、ルミナの法務が手配する場所へ行って」紗月はドアノブを握ったまま止まった。「最後まで管理しようとするんだね」「管理じゃなく、注意してほしいんだ。選ぶのはお前だ」聞き慣れない言葉だった。数日前まで、怜司は選ばせるふりをして答えを決めていた。今は初めて、扉を開けたまま結果を受け入れようとしている。紗月は外へ出て、専用エレベーターのボタンを押した。背後から足音がついてこないか、耳を澄ませた。何も聞こえない。怜司は敷居の内側に残り、約束を守っていた。階数の表示が速く上がってくる。扉が開けば、この家を出る。持ち手を握る手は汗で滑り、車輪は敷居の溝に引っかかって小さく揺れた。そうすれば15年も、契約も、怜司の告白も、全部終わらせられるだろうか。本部長からメッセージが来ていた。必要なら会社が押さえたビジネスホテルを使ってほしい。会議は
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第18話 10年分の渇き

「19歳の春。桜の下で、お前がほかの男に告白された日だった」怜司は両手を組んだまま続けた。「断ったあと、俺の隣に座って、何でもない顔でいちごミルクを飲んでた。そのとき、初めてわかった。お前が誰かを好きになるところを、俺は見ていられないんだと」紗月も覚えていた。怜司はいつもより口数が少なく、いちごミルクのストローを、意味もなく折り曲げていた。「それで、告白しなかった?」「友人でいれば、少なくとも会い続けられるから」怜司が乾いた笑いをこぼした。「卑怯だった。誰かを紹介されれば相手を調べて、危ない噂のある人間は、お前の友達を通して自然に遠ざけた。ルミナに入ろうとしていた、評判の悪い投資会社も止めた」「写真学科の先輩以外で、危険じゃない人に手を回したことは?」「連絡が途切れるようにしたのは、あの人だけだ。ただ、お前に黙って調べた相手は、ほかにもいる」「名簿は?」「書けと言われた一覧に、全員入れてある。調査の依頼履歴も元の資料も、確認できるよう渡す」覚えておくように、紗月は一度うなずいた。「仕事にまで手を出したんだ」「ルミナの決定には触れてない。お前が実力で得た立場だと知ってるから。ただ、損害を与えそうな相手を陰で調べた」「どうして、私に言わなかった?」「知ったら、警戒されるから」紗月は唇を結んだ。守るという名目で、怜司は関係の半分をひそかに占めていた。いい結果が出たからといって、方法まで正当になるわけではない。「見合いの話を聞いたときは?」「最初は断ると思った。でも、橘社長が会社の借金を盾に圧力をかけてると知って、冷静でいられなくなった」初めて声が荒くなった。「誰かの借金を返すために結婚して、その男の家で笑ったふりをして暮らすお前を想像した。その瞬間から、法律も原則も、道具にしか見えなくなった」「それで契約書を作った」「ああ」「効力もない条項を、もっともらしく書いて怖がらせた」怜司がうつむいた。「私生活の管理権も、身体的接触の義務も、強制はできないとわかっていた。問い詰められれば、すぐばれる程度のものだった。それなのにお前は俺を信じた。俺はそれを利用した」認め方は明確でも、傷は浅くならなかった。「怜司。好きだったことより、嫌だと言う機会さえなくしたことのほうが、腹が立つ」「わかってる」「ううん。まだ、わかってない
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第19話 契約書を破るとき

怜司は両手で契約書を広げた。最初のページには『偽装恋人代行標準契約書』と、整った文字があった。その下に第3条、第7条、第9条。最初は専門用語に隠れて見えなかった文が、今はむき出しの欲にしか見えなかった。「待って」紗月が手を出すと、怜司は止まった。「破る前に教えて。ほかに、何部あるの?」「個人の暗号化ストレージにファイルが一つ。金庫に保管用の写しが一部。ファイルは今、削除した。削除履歴と金庫の写しは、明日、お前が選ぶ弁護士の前で確認する」「公証とか、別の認証は受けた?」「いや。署名のあとも、外部の手続きはしてない」「どうして?」彼の目が紙に落ちた。「効力がないと、誰よりわかっていたから。第三者が読めば、すぐ問題にされる」紗月は力なく笑った。「結局、私一人をだますための舞台だったんだ」「ああ」言い訳せず認め、怜司は1枚目を破った。びり、と紙が裂けた。音がリビングに長く響いた。怜司は止まらなかった。紗月の署名のある最後のページまで、一枚ずつ細かく破く。乱暴に丸めることも、怒りを見せつけることもない。自分の罠を自分で解体するように、条項と署名と印影を順に消していった。ガラスのテーブルに紙片が積もった。紗月は、自分の名前が半分だけ残った一片を拾った。署名したときの焦りが指に戻る。そっと置き直し、透明な袋を持ってきて、全部詰めた。「捨てないよ。また同じやり方に戻ろうとしたら、これを見せる」怜司は黙って袋の口を閉じた。最後の紙片を置くと、電話の画面を紗月に向けた。契約ファイルの削除と、位置共有アカウントへのアクセス権解除が、時系列に並んでいた。「明日の午前中までに記録を印刷して、弁護士へ渡す」「この資料を見た人は?」「俺と外部の調査担当者が二人。依頼の履歴と名簿も渡す。廃棄確認は、お前の弁護士から直接取ってもらう」紗月は最後まで確認して、電話を返した。「これで全部終わったと思わないで」「思ってない」「まだ、信じられない」「わかってる」「好きだからって、すぐ許せるわけじゃない」怜司の目が揺れた。それでも、うなずいた。「それも、わかってる」『好き』と自分から言ったことに、遅れて気づいた。取り消そうとしたが、怜司はその隙につけ込まなかった。いつもなら一音も聞き逃さず追及する男が、唇を閉じて待っている。「私が今、出てい
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第20話 鍵をかけなかった夜

怜司が扉を閉めた。鍵はかけなかった。紗月はその小さな違いを確かめ、ソファの前に立った。破れた契約書が、二人の間に残っている。「出ていかないからって、許したわけじゃない」「わかってる」「やり直すなら、ルールは私が決める」怜司は上着を椅子に掛け、法律相談でも受けるように姿勢を正した。「言って」「一つ。私の連絡や居場所を、黙って調べない。二つ。仕事や人付き合いに手を出さない。三つ。触る前に、私が嫌がっていないか確かめる」「全部守る」「四つ目」怜司は緊張したまま待った。紗月は契約の紙片が入った袋を指した。「問題が起きたら、その日のうちに話す。黙って罰を与えたり、相手が察するまで待ったりしない」「わかった」「私も守る」紗月はまっすぐ彼を見た。「不安になったら、契約書を作らずに口で言って。怖い、嫉妬してる、離れていくのが不安だって」怜司の表情が崩れた。長い間のあと、答えが来た。「それが一番難しいと思うけど、やってみる」「頑張るって言葉じゃなくて」「やる」紗月がうなずくと、彼の肩の力が少し抜けた。「今度は、怜司の番」「何が?」「私にしてほしいことを、聞いて」目が唇に止まり、また上がった。「今、キスしてもいい?」短い返事を待ち、怜司は動かなかった。契約と罰を盾にしてきた男が、何の仕掛けもなく、紗月の言葉だけを待っている。見慣れない姿だった。紗月は一歩近づいた。「いいよ」怜司は飛びつかなかった。手の甲で頬をなで、避けないことを確かめてから顔を寄せた。唇が触れた。最初は、息が混じるくらい軽かった。紗月がシャツの襟を引くと、口づけが少し深くなる。熱い体温と馴染みのウッディな香りが押し寄せても、今は壁も条項もない。望めばいつでも離れられる。そのことが、かえって足を止めた。怜司の手が腰のそばで止まる。「ここまで?」紗月はその手を、自分の腰にのせた。「私が、止めてって言うまで」許しが落ちると、怜司の抑えた息が漏れた。抱き寄せられても、力で閉じ込められはしない。紗月が首に腕を回すと、距離がなくなった。寝室へ向かう途中も、紗月の足が止まれば怜司も止まった。何度も聞き直さなくても、目と、待つ間で答えを確かめていた。主寝室の前で、紗月が先にノブを握った。「今度は、私が入るんだからね」「ああ」「怜司が連れていくんじゃな
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