Alle Kapitel von 契約恋愛には“毒条項”があります: Kapitel 21 – Kapitel 30

30 Kapitel

第21話 目覚めた朝

遮光カーテンの隙間から、細い光がベッドの端に落ちていた。紗月は馴染みの石けんの香りの中で目を覚ました。怜司の腕は腰ではなく、枕の横に置かれている。一晩中抱いていたかっただろうに、眠ったあと、勝手に引き寄せなかったらしい。寝返りを打つと、怜司はもう起きていた。「いつから見てたの?」「少し前から」「それは監視じゃないの?」彼の顔がこわばった。紗月の口元を見て、ようやく力が抜ける。「ごめん。次からは目を閉じてる」「冗談だよ」紗月は乱れた前髪を払った。眼鏡のない顔は、いつもより幼い。15年間見慣れた顔なのに、関係が変わると、まるで別人のように見えた。怜司が慎重に聞いた。「後悔してる?」すぐには答えなかった。昨夜の選択を後悔してはいない。だからといって、裏切られた気持ちが全部消えたわけでもなかった。「してない。でも、今日から全部大丈夫になったわけじゃないよ」「わかってる」「私が怒ったとき、弁護士みたいに反論しないで」「努力する……いや、しない」言い直す姿に、紗月は少し笑った。怜司の目が、その笑みに長く止まった。手を伸ばす前に、もう一度尋ねる。「抱いてもいい?」「うん」そこで初めて腕の中に引き寄せられた。昨日までの息の詰まる力とは違う。少し動けば抜け出せる抱擁だった。「こうやって抱いてくれるほうが、いいね」つぶやくと、頭の上に顎が触れた。「出ていけないようにつかまえるほうが、安心できると思ってた」「今は?」「出ていっても、戻ってきてくれると信じてみたい」紗月はシャツの裾を軽く握った。指に力を入れれば近づき、ゆるめればそこで止まる。その単純な反応が、昨日までと違っていた。「信じるのは、契約より時間がかかるよ」「それでもやる」しばらく、黙って横になっていた。平穏はまだ見慣れなかったが、居心地は悪くなかった。ベッド脇には、昨日解除した権限の一覧と、紗月の電話が置かれていた。画面を開き、位置共有が切れていることを自分で確かめる。怜司は何を見ているか聞かず、画面へ顔も向けなかった。紗月が確認を終えて置くまで、冷却パックの袋を開けていた。「今日は会社?」「うん。昨日の契約の件で、次の打ち合わせがある」「手首は?」「無理はするなって言われたけど、休めとは言われてない」怜司は『行くな』の代わりに、新しい冷却パックを置いた
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-16
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第22話 家という圧力

手を押し返された橘社長は、信じられないものを見る顔をした。「今、父親の手を払ったのか?」「私の腕をつかもうとしたでしょう」紗月は怜司より半歩前に立った。膝は震えても、足は引かなかった。「家には帰りません。大槻さんとも結婚しない。会社の借金のために、私の人生を渡すつもりもありません」母が鋭く割って入った。「あなたが勝手なことをするから、京栄物産があんなことになったんでしょう! 昨日までは、この縁談さえまとまれば全部解決するはずだったのに」「横領と裏金で捜索されたのが、どうして私のせいになるの?」母は黙って、紗月の服と乱れた髪を眺めた。「一晩中ここにいたの? 結婚もしていない娘が、男の家で何をしていたの」紗月の顔が硬くなった。「私生活を使って侮辱しないで。どこで誰と暮らすかは、成人した私が決めることです」怜司の顎が動いたが、口は挟まなかった。紗月が自分で話せるよう、待っていた。「篠宮先生が、事を大きくしたからだろう!」紗月は隣を一度見た。前もって準備していた方法には、今も腹が立つ。けれど、京栄物産の犯罪も両親の選択も、彼のせいにするつもりはなかった。「告発しなくても、いつかは明るみに出たことです。それに、お父さんがあの家の息子と会えと言ったのは事実でしょう」父の顔が赤くなった。「全部お前のためだ! 家が潰れても、今のように会社へ通っていられると思ってるのか!」「私の会社は、お父さんの会社じゃありません。自分の給料で暮らせるし、自分の経歴でやり直せます」「その給料で、18億円を返せるのか!」怜司の目が父に固定された。18億円という数字で、紗月の指先が冷えた。父は反応を見逃さず、続けた。「京栄物産の資金が止まった。今日の午後2時までに18億円を入れなければ、橘エンジニアリングは倒産だ。従業員が何百人も路頭に迷う。お前が責任を取れるのか!」家族、社員、生活。父はいつも三つをまとめて出した。その言葉を聞くと、紗月は自分の予定を諦め、家が決めた答えに名前を書くのだった。指先は冷たくなった。それでも、今度はうつむかなかった。「経営に失敗した責任は、社長であるお父さんにあります。娘が結婚して返す借金じゃない」「この恩知らずが!」父が手を振り上げた。怜司がすぐ動いたが、先に紗月が手首をつかんだ。「殴ったら、すぐ通報します」父
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第23話 私が選んだ人

差し出された合意書には、債権行使を制限する条項があった。橘エンジニアリングへの取り立て、担保処分、経営権に関する議決は、独立した受託者の審査を経た上で、橘紗月の書面による同意なしには実行できない。受託する弁護士の選任権も、紗月にあった。最初から最後まで読んだ。「いつ作ったの?」「今日の明け方」「私が言ったあと?」「ああ。選択を代わりに決めないと、約束したあとだ」最後のページは空白だった。紗月の署名も、受託者の名前も、まだない。怜司だけで解除する権利も、迂回する条項も見当たらなかった。それでも、独立した検討を頼むつもりは変わらない。「私が選ぶ弁護士に見てもらってから、決める」「そうして」怜司は書類をまとめ、紗月に渡した。たまりかねた父が怒鳴った。「ふざけてるのか! 債権を買ったなら、今すぐ金を入れろ!」怜司が冷たく振り向いた。「なぜ私が、経営の失敗を無償で穴埋めしなければならないんです?」「紗月と結婚するつもりなんだろう。婿になる男が妻の実家を救うのは、当然だ!」「紗月さんとの関係を、取引条件にはしません」返事は揺らがなかった。「会社を救う方法はあります。代表取締役の辞任、創業家の個人資産拠出、外部からの再建責任者の選任、帳簿の全面開示。受け入れていただけるなら、一定期間の回収猶予と再生手続きの支援は可能です」「社員の賃金と取引先への支払いは、運転資金から優先するよう別管理にします。創業家への配当と、同家による仮払金の回収は停止。この条件は、私と紗月さんの関係がどうなっても変わりません」最後の一文を確かめるように、紗月は彼を見た。怜司は小さくうなずいた。父が鼻で笑った。「俺の会社を差し出せということか」「数百人の社員を救いたいなら、社長の椅子より会社が先でしょう」「全部、君の策略だったんだな。娘を手に入れるために、会社まで飲み込んだ!」怜司の顎が硬くなる。その言葉がすべて間違いではないことを、紗月は知っていた。彼も反論しなかった。「最初は、そうでした」リビングが静まった。「頼れる先を私一人にしようと、債権を確保しました。その判断は間違いです。だから今、自分の意思だけでは行使できないようにするんです」父はあざ笑った。「女に目がくらんだ男が、今さら善人ぶるのか?」「善人ぶっているのではありません。間違えた人間
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第24話 過去との決別

玄関が閉まると、家は急に静かすぎる場所になった。鍵の音を聞いてからも、紗月はしばらく扉の前にいた。体の中で踏ん張っていた力が、一度に抜ける。指が震え、膝が崩れかけた。近づいてきた怜司は、すぐには抱かなかった。「支えてもいい?」紗月はシャツの胸元をつかんだ。慎重に背へ腕が回る。ようやく額を彼の胸に預けた。声より先に、肩が震えた。「私、間違ってないよね?」「間違ってない」「社員の人たちを思うと、苦しくて。冷たすぎるんじゃないかって、怖くなる」「会社を救う条件を受けるか拒むかは、橘社長が決めることだ。代わりに結婚しないからといって、社員を見捨てたことにはならない」説明は一度だけだった。怜司はその場に立ち、紗月が息を整える間、背中をゆっくりなでた。「子供の頃から、ずっとそうだったの」涙に濡れた声が出た。「お父さんが失敗するたび、お母さんは、私が頑張らないと家が駄目になるって。成績も、専攻も、就職も、全部、家に役立つものを選ばなきゃいけなかった。ルミナに入ることだけが、初めて自分で押し通した選択だった」「だから、仕事には触れちゃいけなかったんだな」「うん。やっと作れた、私の人生だから」怜司の腕に力が入り、すぐゆるんだ。「二度と、手を出さない」紗月は涙をぬぐい、腕の中から一歩下がった。「今日、味方でいてくれたことは、ありがとう」「うん」「でも、作った罠までなかったことにはしないよ」「それでいい」「選んだからって、したことが愛で包み直されるのも嫌」怜司はうなずいた。「間違いは、間違いのまま残しておいて。その上で、これから違う行動をして、信頼を積み直す」紗月が黙って見ても、理由や例外を足さなかった。次の言葉を待っている。「じゃあ、最初にすること」「言って」「私が選ぶ弁護士に、債権の資料を全部渡して。1ページでも抜けてたら、終わり」「今日中に、まず一覧を送る」「二つ目。会社の前で、予告なしに待たない。迎えに来たいなら聞いて」「わかった」「三つ目」少し間を置くと、怜司の顔に緊張が浮かんだ。「今日、出勤しないと」「手首が腫れてるのに?」「午後、契約締結の打ち合わせがある。私が終わらせる仕事なの」怜司は反論しかけ、口を閉じた。「車で送ってもいい?」「うん。今日は」短い許し一つで、その目が目に見えてやわらいだ
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第25話 逆転した主導権

両親が訪ねてきてから、3週間が過ぎた。橘エンジニアリングは外部の会計事務所による調査を受け入れ、父は再建期間中、経営の第一線から退いた。紗月が選んだ弁護士も、怜司の渡した債権資料に欠落はないと確認した。怜司は約束を守った。ただ、最初の数日は、新しく決めた距離まで弁護士らしく数値にしようとした。「どこまで、毎回聞けばいい?」真剣に聞かれ、紗月は目を細めた。「数字で決めようとする、その癖から直して」「承知しました」最初の1週間は、一日に何度も確認が来た。[夕食に誘ってもいい?][手をつないでもいい?][会社の前へ行ってもいい?]3日目、最後の問いに答えた。[今日は残業。来ないで、自分の夕食を先に食べて]怜司は理由を追及せず、『わかった』とだけ返した。紗月もあとから、会議が長引いた理由と終わる予定の時刻を送った。二人とも、一方的な通告と無言を減らし、必要なことをそのときに伝える練習をしていた。出勤時間を決めず、電話を見ず、会社へ来る前は必ず尋ねる。最初の数日は、慎重すぎて紗月のほうがじれったくなるほどだった。その朝も同じだった。怜司は主寝室の鏡の前でネクタイを結んでいた。紗月はベッドの端に座り、その姿を見ていた。紺のスーツ、銀縁眼鏡、乱れない手つき。契約書を出してきた日と同じ姿なのに、今は緊張より、いたずら心が先に湧いた。「今日の夜、予定ある?」怜司が鏡越しに目を合わせた。「夕方まで依頼人との面談。そのあとは、ない」「じゃあ、迎えに来てくれる?」結び目の上で手が止まった。「行ってもいい?」「こっちから聞いてるでしょ」「正門? 地下駐車場?」「正門」怜司の口元に笑みが浮かびかけたとき、紗月は立ち上がった。急がず鏡の前へ行く。近づく紗月を見ながらも、彼は手を出さない。待つことが少しずつ身についているのが、気に入った。丁寧に整えられた結び目を、指でつかむ。「でも、これが気に入らない」「色が?」「きちんとしすぎてて」紗月はネクタイを強く引いた。怜司の上体が下りてくる。いつもなら相手を壁へ追い込んでいた男が、今は素直に顔を近づけた。「紗月」「何?」「そんな引き方をすると、出勤できなくなる」「そこは自分で我慢して」結び目をゆるめ、先を指に巻く。怜司の目が熱を帯びても、手は宙で止まっていた。「ここまでして、じっと
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第26話 執着の裏側

その夜、怜司は約束より少し早く、ルミナの正門に着いた。会議の片付けが長引き、紗月が下りたのは5分遅れだった。怜司はドアを開けても、急かさなかった。ネクタイのないシャツ姿が、朝より少しだけくつろいで見えた。「俺のネクタイは?」「家に帰ったら返す」「違約の罰は?」「時間を守ったから免除」こんな軽いやり取りが自然になったことが、紗月には改めて不思議だった。「その調子で、逃げずに覚えていってね」「紗月が先生?」「授業料、高いよ」「いくら?」紗月は彼の胸を指で軽くたたいた。「正直でいること。一日でも滞納したら、延滞料がつきます」怜司が初めて、気負いなく笑った。笑ったあとも、表情を隠すように顔を背けなかった。紗月は助手席から、もう少しその顔を見た。グローブボックスには、先週、自分で持ってきたリップクリームと充電ケーブルがある。怜司は昼に誰と食べたかは聞かなかった。信号を待ちながら、代わりに尋ねた。「夕食は?」「まだ。チームの会議が長引いて」「家で一緒に食べようか?」紗月がうなずいてから、初めてナビの目的地がペントハウスになった。帰宅すると、紗月は朝に取り上げたネクタイをベッドに投げた。「どうぞ」怜司はネクタイではなく、紗月を見た。「今日は、俺が主導権を持ってもいい?」「先に聞いてくれたから、考えてみる」冗談めかして一歩下がると、怜司は待った。以前なら一瞬で詰めていた距離を、許しが出るまで動かなかった。紗月は結局、笑って腕を広げた。「おいで」近づいてきた怜司が抱きしめた。その夜の口づけと体温は熱くても、急がなかった。紗月が導けばついてきて、止まれば一緒に止まった。しばらくして、乱れた寝具に並んで横になった。紗月は怜司の髪を指でゆっくり梳いた。顔は、紗月の肩のそばにうずめられている。「怜司」「うん」「最近、大人しすぎて、かえって心配」彼が顔を上げた。「どういう意味?」「また我慢をためてるんじゃないかと思って。嫉妬したり、腹が立ったりしたら言ってって、話したでしょ」しばらく口は開かなかった。急かさずにいると、低い声が落ちた。「毎日、怖い」「何が?」「いつか、お前が我に返って、俺から離れていくこと」怜司は手の甲で目元を隠した。指先が細かく震えていた。やがて手を下ろし、赤い目で紗月を見た。いつものように、逃
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第27話 新しい誓い

それから2か月近くが過ぎ、初秋の雨が大きな窓を静かにたたく夜だった。退勤の直前、怜司から短いメッセージが来た。[今夜、家で食事にしてもいい? 用意したいことがある]昔の怜司なら、全部決めてから通告していただろう。紗月は会議を終えてから確認し、返した。[いいよ。少し遅くなる]ダイニングには派手な飾りではなく、小さなキャンドルと白いトルコキキョウがあった。紗月が何げなく好きだと言った花だ。濃いグレーのスーツを着た怜司が、テーブルのそばに立っていた。法廷でも揺らがない男が、何度も指を握っては開いている。「緊張してる?」バッグを置いて聞くと、正直な返事が来た。「かなり」「また、何をやらかしたの?」「まだ何も」怜司は椅子を引き、向かいへ座った。食事が終わるまで、普通の話をした。紗月の新しいプロジェクト、怜司が担当する控訴審、橘エンジニアリングの再建の進み具合。デザートを下げてから、ようやく彼が立ち上がった。テーブルの下で、靴の先が小さく動いていた。用意した言葉を頭の中で繰り返す癖だ。契約書を差し出した日の余裕はない。結果を支配できない人間だけが見せる緊張だった。怜司は跪かなかった。同じ目線の向かいの椅子へ戻り、小さなベルベットの箱と書類の封筒を出した。「紗月。先に言っておきたいことがある」「うん」「この書類は、今日サインしなくてもいい。書いたあとでも、提出する前なら、いつでもなかったことにできる」封筒から婚姻届が出てきた。証人や住所の欄は空白で、片方に怜司の名前だけが書かれていた。「区役所に出すまでは、何の効力もない。明日すぐ出さなくてもいいし、好きなだけ持っていていい」紗月は書類より先に、その説明を聞いた。「本当に、契約書じゃない?」「条項はない」「自動更新も?」「婚姻は更新する制度じゃない」「解約不可?」怜司の息が一瞬止まり、それから言った。「離れたくなったら、法律でも、実際にも妨げない。ただ、その日が来ないように毎日努力する」紗月は箱を開いた。シンプルな5カラットのソリテールが、キャンドルの光を受けて輝く。大きさより目を引いたのは、内側の小さな言葉だった。[今日も、君の意志で]「この言葉、怜司が選んだの?」「うん。永遠に俺のもの、と彫りたかったけど我慢した」紗月が吹き出すと、硬かった肩が少し下りた。「まだ
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第28話 同じ答え

翌朝、二人は港区役所の戸籍届出の窓口に並んで座っていた。紗月は自分でバッグから婚姻届を出した。証人の署名は、紗月の大学時代の友人と、怜司の事務所の同僚にそれぞれ頼んであった。職員が書類を確かめる間、怜司は判決を待つ人のように、膝の上に両手を揃えていた。「お二人の本人確認書類をお願いします」手続きは驚くほど日常的だった。怜司があれほど固執した『法的な関係』は、豪華な印鑑も長い契約書もなく、同じ場所で同じ意思を確かめるところから始まる。職員が証人の署名、住所、記入漏れを順に確認した。手続きが完了したあとの案内についても説明があった。紗月がいくつか質問する間、怜司は隣で静かに待った。以前なら『同じ住所』という一語にも意味を見出しただろうに、今は質問が終わるまで口を挟まなかった。「こちらの内容で、お届けになりますね?」最後の確認に、二人は目を合わせた。紗月が先に答えた。「はい」怜司は半拍遅れて、同じ答えを返した。華やかな宣言も、法律用語もない。いくつかの確認と署名、受付の印。それだけだった。受領したことを示す控えを受け取り、紗月が立つと、怜司が聞いた。「実感、ある?」「まだ。怜司は?」「受け付けたという文字を、10回くらい読みたい」「また条項を作らないでね」「我慢してる」区役所を出て、階段で少し立ち止まった。紗月が手を出すと、怜司が指を絡める。近くの小さな食堂で、遅い朝食を取った。シャンパンもホテルも予約していなかった。大事な日ほど普通のごはんが食べたいと、紗月が言ったことを覚えていたのだ。会社へ戻る前に、紗月は控えを半分に折り、怜司の財布へ入れた。「これは、怜司が持ってて」「いいの?」「うん。契約書みたいに隠さなければ」怜司は財布を閉じて笑った。その夜の家には、キャンドルも花もなかった。紗月は会社でもらったお祝いのケーキをテーブルへ置いた。昼休みに、メンバーがささやかな会を開いてくれたのだ。怜司には冗談で『リーダーの残業を妨げない誓約書』まで届き、彼は丁寧に『同意します』と返していた。二人はいつもどおり、簡単な夕食を作った。怜司がパスタをゆですぎると紗月がトングを取り上げ、彼は法律意見書を書くより難しいと、おとなしく退いた。食後、紗月から手を取った。「寝室、行こうか」怜司の目に熱が宿る。「本当に?」「今日は何回聞く気
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-16
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第29話 今日も、あなたの意志で

婚姻届を出し、季節が変わってから、屋上ガーデンで小さな結婚式を挙げた。怜司は最初、ホテルを丸ごと借りると言い、紗月は招待客の名簿から減らしていった。準備中も何度もぶつかった。怜司は警護を三重に組み、紗月は式より保安検査のほうが長くなると半分消した。新婦控室の前に弁護士二人を立たせようとすると、紗月は二人を受付係へ回した。怜司の計画を紗月が半分消し、残った半分を二人で作り直した。結局、招かれたのはルミナの同僚と親しい友人、白峰で長く怜司を見てきた数人だけだった。両家の体面のための席は、一つもない。澄んだ冬空の下、透明なキャノピーが風を遮り、暖房の間に白い花と濃い緑の葉がバージンロードに沿って並んだ。紗月は飾りすぎないシルクのドレスを着ていた。鏡の前でベールを整えてくれたメンバーが、感嘆した。「本当にきれいです。でも、篠宮先生、さっきから入口ばっかり見てますよ。逃げられるのが怖いみたいに」「逃げても追ってこないように、教育は済んでるから」紗月が笑うと、相手も笑った。扉が開き、音楽が始まった。紗月は誰にも手を引かれず、一人で歩いた。親の代役は立てなかった。自分の人生を自分で選ぶ、その意味を込めた入場だった。道の先で、怜司が待っていた。隙のないタキシードなのに、表情は全然整っていない。目元はもう赤かった。前に立つと、手が差し出された。「つないでもいい?」列席者の間に笑いが広がった。紗月はその手を強く握った。「今日は、聞かなくてもよかったのに」「癖になった」誓いの言葉は、誰かに読み上げてもらうのではなかった。自分たちで書いた言葉を、互いに読んだ。怜司が先に紙を開いた。「私、篠宮怜司は、怖くてもあなたの道を塞ぎません。言えない気持ちを契約書の後ろに隠さず、嫉妬したら嫉妬したと、怖ければ怖いと、先に伝えます。あなたが戻ってきたいと思える人間になります」最初に契約書を読んだのと同じ、低く正確な声だった。けれど今の言葉には、相手を縛る条項が一つもなかった。紗月も誓いの紙を持った。「私、橘紗月は、あなたの間違いを愛という言葉で隠しません。その代わり、今のように変わっていく姿をきちんと見て、自分の足で隣に立ちます。怖いと言う日に、一人で耐えさせたりしません」怜司の目から、とうとう涙が落ちた。紗月は読むのを止め、親指でぬぐった。「泣いたら、写真に
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第30話 エピローグ――一生ものの独占条項

結婚式を終えた夜。寝室には、屋上から持ってきた白い花が数本だけ飾られていた。紗月は重いイヤリングを外して化粧台に置き、ベールを解いた。鏡の中で、怜司が近づいてくる。タキシードの上着は脱いでも、シャツのボタンはまだ首まで留まっていた。「新しい条項、聞かせて」紗月から言うと、怜司が小さな紙を出した。「本当に書いてきたの?」「審査を受けないと」広げると、題名は大げさだった。[永久独占条項]第1条。橘紗月は、一生、篠宮怜司の腕の中から1秒も離れてはならない。第2条。篠宮怜司も、橘紗月に呼ばれたら直ちに戻ること。第3条。鍵をかけたり、連絡を断ったりする方法で喧嘩をしないこと。違約金。その日のうちに先に謝り、仲直りするまで同じ食卓につくこと。最後まで読み、紗月は笑いをこらえられなかった。下には署名欄が二つあったが、印鑑の欄はなかった。怜司は万年筆も朱肉も用意していない。代わりに、鉛筆が一本置かれていた。いつでも消して書き直せるという意味だ。「違約金は、永遠の愛じゃなかったの?」「請求の基準が曖昧すぎる」「最後まで弁護士だね」「最終文言は、お前が決めて」紗月は鉛筆を取った。第1条の『橘紗月は』を消して『二人は』と書き、『篠宮怜司の腕の中』を『互いの腕の中』に変えた。[二人は、一生、互いの腕の中から1秒も離れてはならない]「これだと、水も飲みにいけないけど」怜司に言われ、紗月は第3条を指した。「第3条があるでしょ。水を飲むのを止めたら、そっちが違反」「見事な法解釈だ」「弁護士の夫に習いました」紗月は違約金の下に、もう一行書いた。[ただし、愛は違約金ではない。毎日、そうしたいと思うぶんだけ与えること]怜司は読み終え、長く黙った。「気に入らない?」「気に入りすぎてる」怜司は紗月の目の前で紙を折り、ベッド脇の一番上の引き出しに入れた。引き出しは閉めなかった。手を伸ばせば、紗月にもすぐ取れる場所だ。触れる前に、彼が聞いた。「妻を抱きしめてもよろしいでしょうか」「さっきまで、一日中抱いていたでしょう?」「あれは結婚式で、今は新婚初夜なので」紗月はネクタイを引いた。「では、審査通過です」腰に腕が回る。しっかりしていても、息は詰まらなかった。紗月は自分から深く、その中へ入った。「怜司」「うん」「15年前、傘を差して
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