All Chapters of あなたの子を産みました。七年経った今さら、優しくしないでください: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 明日の学校

「じゃあ、なんでみんな変な顔したの?」 答えを選ぶのに、数歩ぶん時間がかかった。玲司とのことを説明するには、この子はまだ小さすぎる。だからといって「気にしなくていい」と片づけたくもなかった。傷ついたのは陽菜なのだから、分からないまま我慢させるのも違う気がした。 私はすぐに答えられなかった。「大人って、知らないことを勝手に想像する時があるの」 陽菜は納得していない顔だったが、「じゃあ陽菜は悪くない?」ともう一度聞いた。私は今度は迷わず「悪くない」と言った。 頬に残った涙の筋を親指で拭うと、陽菜は私の手を引いて歩き出した。道端の花にも、いつものようには足を止めなかった。◇ ペントハウスに戻った後も、私の心は休まらなかった。 陽菜は疲れたようにソファで眠ってしまった。 夕方。 玄関のドアが開き、玲司が帰ってきた。 ネクタイはわずかに緩み、眉間には深い皺が刻まれていた。「……記事の件は、法務に削除要請を出させている」 玲司は上着も脱がずに続けた。「明日、会社からも抗議の声明を出す。事実と違う記事だとはっきり伝えるつもりだ」 玲司の言葉は力強かったが、私の耳には空虚にしか響かなかった。「……捏造だと発表して、それでどうなるんですか」 記事の削除は必要なのだろう。けれど学校の先生が話した女は、確認を求められると車に戻って去ったという。今どこにいるのかも分からない。玲司はまだ、そのことを知らない。私は膝の上で指を組み、いったんほどいた。 私の声は、低く、震えていた。「記事が消えても、一度広まった噂は消えません。陽菜の学校では、もうみんなが知っているんです。それに、今日は知らない人が、あの子を迎えに来たんです。学校が止めてくれなければ……!」 私は玲司を睨みつけた。「陽菜が今日、学校でどんな思いをしたか分かりますか? 何も知らないあの子が、好奇の目に晒されて……泣いていたんですよ」 玲司は奥歯を噛んだように黙っ
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第62話 三日だけ離れます

 自分でも刺のある言い方だと思った。それでも、先生が一度確認してくれたことだけが、今日の陽菜をここへ帰してくれた。玲司は頷き、電話を握ったまま私へ向き直った。 玲司の声には、彼自身も気づいていないような、無力感が滲んでいた。「少し……少しの間だけ、ここから離れます」 口にした途端、七年前の自分が一瞬だけ頭をよぎった。あの時は戻る日を決めず、誰にも居場所を告げずに消えた。今は違う。明日の時間割も、陽菜の学校も、この仕事も捨てない。逃げたいのではなく、この子が普通に眠れる夜を三日ぶん確保したいだけだ。 玲司の顔を見ていると、また心が揺らぎそうだった。私は、眠る陽菜へ目を戻した。 玲司の目が、大きく見開かれる。「逃げるというのか。また、七年前のように」「違います。陽菜を連れて、ほんの少し離れるだけです」 私は玲司の視線を真っ直ぐに受け止めた。「湊先輩に頼んで、しばらく別のところで過ごそうと思います。陽菜が少し落ち着くまで……」「あの男を頼るのか」 玲司の声が、氷のように冷たくなる。「湊先輩なら、余計なことを聞かずに手を貸してくれるからです」「俺では、君たちを守れないと?」 玲司の怒りが、私の肌をヒリヒリと刺す。 だが、私は引かなかった。「あの子を安心して眠らせたいんです。……三日だけでいいから」 私の言葉に、玲司の動きが止まった。「居場所は伝えます。電話にも出ます。勝手にいなくなったりしません。……今は、行かせてください」 私は踵を返し、陽菜の眠るソファへと向かった。 陽菜の小さなリュックサックに、着替えと、学校の宿題だけを詰め込む。 背後で、玲司が何かを言いかける気配がしたが、私は振り返らなかった。 三日だけ。 三日で何が変わるのかは分からない。ただ、今夜くらいは何も怖がらずに眠ってほしかった。 私は眠る陽菜を抱き上げ、玲司のいるペントハウスを後にした。 腕の
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第63話 今回は逃げない

「ママ、どこいくの?」 陽菜が、私の引く手の力に少しだけ抵抗するように立ち止まった。 その顔は不安げで、まだ学校でのショックを引きずっている。「……少しだけ、お出かけしようか。新しいお部屋に、お泊まり」 陽菜には「避難」という言葉を使いたくなかった。大人が作った騒ぎのせいで、住む場所まで追われたと思わせたくない。なるべく普段どおりの調子で話したつもりだったが、握った手の力だけはごまかせなかった。 私が持ってきた荷物は驚くほど少なかった。陽菜の着替え、学校の連絡帳、歯ブラシ、常備薬。それから、明日の時間割。七年前に家を出た時は、戻る日を決めなかった。今回はランドセルまで持っている。 ランドセルの留め金が、歩くたびに小さく鳴った。水曜日には同じ道を帰る。そう決めていても、通りの向こうに濃い色の車が見えるたび、私は思わず娘を車道と反対側へ寄せていた。「図工あるから、青い絵の具もいる」 陽菜に言われ、私はバッグの中を探した。入れたつもりが見つからない。玄関を出る前にテーブルへ置いたままだ。 戻るか迷っていると、レジデンスのスタッフが小走りで追ってきた。透明な袋に、青い絵の具と陽菜の筆箱が入っている。「高遠様からです。忘れ物だと」 私は袋を受け取り、何も言えなくなった。玲司は追いかけて来ないと言ったわけではない。それでも、忘れ物だけを先に届けさせたことが妙に胸に残った。 袋の中の青いチューブを見たら、昨日の文房具店が浮かんだ。百二十色の箱を真顔で勧めた人が、今日は一本だけの絵の具を忘れ物として届けている。そのちぐはぐさが玲司らしくて、こんな時なのに喉の奥が少し痛くなった。「あたらしいおへや? 玲司さんのところ、かえらないの?」 陽菜の問いに、私は言葉に詰まった。 玲司のペントハウスなら、警備は万全だろう。それでも、外へ一歩出た先まで守ってもらえるわけではない。陽菜がまた、知らない人にカメラを向けられるかもしれない。 私は無理に笑顔を作り、陽菜の目線に合わせてしゃがみ込んだ。「三日だけ、別のお部屋に泊まるの。玲司さんにも、ちゃんと伝えてあるから
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第64話 連絡だけは

「……結!」 鋭く、怒気を押し殺した声が、雑踏の中で響いた。 私はビクッと肩を跳ねさせ、振り返った。 駅前広場の人混みを掻き分けるようにして、玲司が近づいてくる。 完璧なスリーピーススーツは乱れ、ネクタイは少し緩んでいる。額には微かに汗が浮かび、淡い瞳は私たちを捉えたまま離れなかった。 彼がなぜ、ここに。 名前を呼ばれた瞬間、身体のどこかが「止められる」と身構えた。七年前なら、彼に強く言われればそれだけで足がすくんだと思う。けれど今、私の手の中には陽菜の手がある。逃げるためではなく、決めた三日を守るために、私はその場へ踏みとどまった。 陽菜の肩に掛かった小さな鞄がずり落ちた。直してやろうと腰をかがめたところで、玲司の革靴が目の前に止まった。彼の革靴のつま先には、駅前の濡れた舗道で跳ねた汚れがついていた。そんなことに目が行く自分が情けなかった。 玲司の視線が、私と陽菜、そして、少し離れた場所に停まったハイヤーから降りてきた湊へと向けられた。 湊が、私たちの荷物を受け取ろうと近づいてくる。 玲司の口元が、固く結ばれた。「……彼の手配か」 玲司は湊の方を見たまま、私に尋ねた。「俺の家を出て、あの男のもとへ行くのか」 玲司の視線は、湊から私へ戻った。「違います。湊先輩は、ただ部屋を手配してくれただけで……」「だったら、どうして俺に頼まない。高遠の施設なら、記者なんか入れさせない」 玲司が一歩、私へと踏み出す。「今日、陽菜は学校で泣いたんです」 私は声を荒らげた。「明日も学校があります。三日だけ、カメラも記者もいない場所で寝かせたい。それだけです」 玲司の足が、止まった。 声はうまく安定しなかったが、私は真っ直ぐに玲司を見据えた。「……お願いです。陽菜の前で、これ以上言い争いたくありません」 私の言葉に、玲司の顎からふっと力が抜けた。 彼は何かを言い返そうと口を開き
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第65話 黒いセダン

 ハイヤーの車内は、冷房が効いているはずなのに、私の掌はじっとりと汗ばんでいた。 陽菜は私の膝を枕にして、疲れ切ったように眠っている。 前髪が汗で額へ貼りついていた。私は指でそっと剥がし、ランドセルが足元にあることを確かめた。明日は学校へ行く。三日後には戻る。何度も頭の中で予定を繰り返す。予定表のある避難なら、七年前の失踪とは違うと、自分自身へ言い聞かせるためでもあった。 助手席に座る湊が、時折バックミラーで私の様子を気遣うように見ていた。「……結ちゃん、大丈夫?」 湊の穏やかな声に、私は小さく頷いた。「はい。……少し、言い過ぎたかもしれません」 そう口にしても、戻って謝りたいとは思わなかった。あの場で黙っていたら、また陽菜の気持ちより大人同士の事情を先にしていたと思う。ただ、背を向けた玲司の姿が、胸のどこかに引っかかっている。それと自分の判断が正しかったかどうかは、別の話だった。 玲司のあの傷ついたような顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。 彼なりに、自分たちを守ろうとしてくれていたことは分かっている。だが、その方法がどうしても受け入れられなかった。 ハイヤーは都心を抜け、郊外の静かな住宅街へと差し掛かっていた。 ふと、湊がバックミラーを険しい目で見つめた。「……おかしいな」 湊の呟きに、私は顔を上げた。「どうしたんですか?」「さっきから、後ろの黒いセダン……ずっとついてきてる」 私は息を呑み、後ろを振り返った。 数十メートル後ろを、目立たない黒いセダンが同じ車間距離で走っていた。 私の脳裏に、今日の記憶がフラッシュバックする。 陽菜の小学校の校門前で、フリーの記者がカメラを構えていた時のこと。 校門から離れたところに停まっていた車。先生が話していた、知らない迎えの女も濃い色の車に戻ったという。同じ車かどうか、私は見ていない。それなのに、窓に映る黒い輪郭から目が離せなかった。「…&hell
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第66話 雨の追跡

 灰色の雨雲が空を覆い、大粒の雨がフロントガラスを叩き始めた。後ろの黒いセダンは、車間を詰めも離しもせず、同じ距離を保ったままついてくる。「……先輩、まだいます」 なるべく声を低くした。陽菜に気づかせたくないのに、雨音のせいで自分の呼吸ばかり大きく聞こえる。窓ガラスを流れる水滴の向こうで、黒い車だけが何度曲がっても消えない。逃げ道を探すほど、車内が狭く感じた。 私は振り返るのをこらえ、窓越しに後方の車影をうかがった。膝を枕にしていた陽菜が目を覚まし、眠そうに私のカーディガンを握った。 湊は運転手に、住宅街へ入らず人目のある場所へ向かうよう頼んだ。続けて警察へ現在地と車の特徴を伝える。「次のコンビニに入ってください。明るいところで止まりましょう」 ハイヤーが大きなコンビニの駐車場へ入る。黒いセダンも入口までついてきたが、すぐには駐車枠へ入らず、出口寄りで速度を落とした。「ママ、あのくるま、ずっといっしょ?」 やっぱり気づいていた。子供は大人が思うほど何も見ていないわけではない。嘘をつけば、私の声の方を怖がらせてしまう気がして、私は「大丈夫」と言い切る代わりに陽菜の手を握った。「何をしに来たのか、まだ分からないの。でも、ここで待っていれば大丈夫。ママが警察に連絡するからね」 だが、セダンの助手席から男が一人降りた。傘も差さず、こちらの車を確認するように数歩近づいてくる。手にはカメラもマイクもない。記者には見えなかった。 湊がドアを開けずに窓越しで「何か御用ですか」と声を掛ける。男は答えず、ハイヤーの荷室へ視線をやった。 その時、駐車場の反対側から一台の車が滑り込んだ。玲司の警備チームだった。駅前では気づかなかったが、どうやら私たちから距離を置いたまま、後を追っていたらしい。 警備員が男との間に入り、所属と目的を尋ねる。男は短く舌打ちしてセダンへ戻ろうとしたが、出口側には到着した警察車両が見えた。 派手な衝突は起きなかった。男はその場で事情を聞かれ、車内からは望遠レンズと、私の勤務先・学校・旧住所を書き込んだ調査メモが見つかった。 私はその紙を遠目に見ただけで、
last updateLast Updated : 2026-10-17
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第67話 三つの選択肢

 陽菜は少し迷ってから頷いた。玲司が差し出したハンカチを受け取り、目元を自分で拭いた。  警察の説明では、男たちは民間の調査業者だという。ただ、依頼主も目的もまだ分かっておらず、連れ去りを企てていたと示す証拠も、今のところ見つかっていないらしい。  今すぐ連れ去られる危険があったと分かったわけではない。それでも安心はできなかった。何者かが私たちの行き先を追い、陽菜の通う学校にまで関心を向けている。雨に濡れた駐車場で、私は娘の手を離せずにいた。  事情聴取を待つ間、陽菜はコンビニで買った温かいココアを両手で持っていた。怖かったとは言わず、紙カップのふたを何度も指で押している。  玲司は「飲めるか」と一度だけ聞き、返事を急かさなかった。陽菜が小さく頷くと、ストローを袋から出して渡す。それだけのやり取りなのに、私は駅前で自分たちを追わずに退いた玲司の姿を思い出した。  湊は警察官との話を終えて戻り、「今夜は場所を変えた方がいい」と言った。玲司も反対しない。そこで初めて、誰の家へ行くかではなく、陽菜がどこなら眠れるかという話になった。  その言い方に変わっただけで、考えられることが増えた。私が玲司の家へ戻りたいかどうかではない。湊先輩に頼ることが正しいかどうかでもない。今夜、陽菜が靴を脱いだあとに肩の力を抜ける場所はどこか。私は眠そうな娘の横顔を見ながら、その一点だけを考えた。  雨は小降りになっていたが、空はまだ重く暗い。  玲司の用意した車の後部座席で、陽菜は玲司のジャケットを毛布代わりにかけられ、すっかり眠り込んでいた。  私は、陽菜の寝顔を見つめたまま、微動だにせずに座っている。 「……この後のことだが」  対面シートに座る玲司が、静寂を破った。  彼は内ポケットから一枚の紙を取り出し、そこに何かを書きつけると、私の前に置いた。 「三つの選択肢を用意した」  差し出されたのが鍵ではなく、紙だったことに少し驚いた。以前の玲司なら「ここへ行け」と一つだけ決めていたかもしれない。私はすぐに感謝する気にはなれなかったけれど、紙を裏返さず、三つとも最後まで読んだ。  私が視線を落とすと、そこには三つの箇条書きがあった。  一つ目は、高遠グループが所有する、セキュリティが最も強固なホテルの一室。  二つ目は、湊の手配したマンションではなく、高遠
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第68話 玲司さんのところ

「……玲司さんのところのおへやが、いい」 陽菜にとって、あそこはもう見知らぬ家ではなかった。図鑑を読んでもらい、焦げた卵焼きを笑った部屋。陽菜の「怖くない」は、大人の理屈よりずっと具体的だった。 陽菜の小さな手が、私の服の裾をぎゅっと握った。「あそこのおふとん、いいにおいしたから。……こわくない」 玲司のペントハウス。 あの広い主寝室で、陽菜は何度も安心して眠っていた。 私は、答えを探すように玲司の顔を見た。 玲司の瞳の奥が、微かに揺れている。 私はゆっくりと息を吐き出し、玲司の差し出した紙を静かに手元に引き寄せた。「……あなたのところに、戻ります」 自分で出てきて、数時間も経たずに戻る。その情けなさより、陽菜をまた知らない部屋で眠らせることの方が嫌だった。 声の揺れを抑えながら、しかしはっきりと答えた。「陽菜が落ち着くまででいいんです。……お願いします」 玲司は何も言わなかった。 ただ、小さく一度だけ頷き、私たちの濡れた荷物を無言で引き取った。◇ ペントハウスに戻ったのは、夜も更けた時間だった。 玄関のドアが開き、見慣れた大理石の床と、静かな空間が私たちを迎える。 玲司は眠ったままの陽菜を抱きかかえ、真っ直ぐに主寝室へと向かい、ベッドにそっと下ろした。 私はその背中を無言で見守る。 陽菜の額にかかった髪を払おうとした玲司の指が、途中で止まった。代わりに、掛け布団の端だけをそっと直す。私はその指先を見てしまった。あの人が何をためらっているのか、考えたくないのに分かる気がした。 リビングに戻ると、玲司は濡れたスーツの上着を脱ぎ、ソファに放り投げた。「……シャワーを浴びろ。風邪を引く」 玲司が短く言う。「ありがとうございます。高遠さんも、濡れているので……」「俺は後でいい」 すれ違う拍
last updateLast Updated : 2026-10-18
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第69話 シャツに残した皺

 七年前にも、こんな近くで彼の呼吸を聞いた。思い出すたび、あの翌朝の冷たい言葉まで戻ってくる。それでも今は、その先を考えたくなかった。「……足は」「大丈夫、です」 答えた声が思いのほか小さくなった。玲司の目が、私の口元に落ちた気がした。確かめる勇気はなかった。顔を伏せれば済むのに、私は彼のシャツを掴んだまま、息を殺していた。 玲司の腕から、ゆっくり力が抜ける。それでも私の指はすぐには動かなかった。シャツに作ってしまった皺を見て、ようやく手を離す。「……もう大丈夫なら、先に着替えろ」 いつもの、何でもない口調だった。ただ、最後の言葉の前にわずかな間があった。 玲司はそれ以上私を見ず、書斎の方へと歩いていった。離れて初めて、腰に残っていた力が抜けた。私はカーディガンの裾を整えながら、彼を呼び止めなかった。今、何か言えば、聞かれたくないことまで口にしてしまいそうだった。 主寝室から、布団の擦れる音がした。私が覗くと、陽菜は半分眠ったままリュックを抱えている。「明日、学校……」「うん。朝になって、行けそうなら行こう」 バッグの外ポケットには、昼間忘れかけた青い絵の具のチューブが入っていた。私はそれを机の上へ置き、時間割を確認する。算数、国語、図工。今日の尾行とは何の関係もない文字が並んでいる。 陽菜は「図工、海のつづき」とだけ言って目を閉じた。私は枕元の水を替え、ドアを少しだけ開けたまま部屋を出た。 私は一人残されたリビングで、一度、息をついた。 玄関の方に目を向ける。 そこには、私と陽菜の濡れたスニーカーと、玲司の革靴が、並んで置かれている。 七年前、彼の隣にこんな靴が並ぶ未来を想像したことはなかった。泥のついた小さなスニーカーが、今は革靴の隣にある。 玲司の革靴の先に、陽菜の小さなスニーカーの紐が触れていた。 今日、追われる恐怖を陽菜にまで味わわせてしまった。 陽菜は黒い車のことをもう聞かなかった。忘れたわけではないだろう。私は濡れた靴底を拭きながら、明日は
last updateLast Updated : 2026-10-19
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第70話 ぎこちない朝

 触れたのは、指先だけだった。陶器の感触よりも先に彼の体温が伝わり、私は慌てて手を引いた。ずっと避けていた手に自分から触れかけたことが、急に気恥ずかしくなった。「……悪い」「いえ」 玲司はカップを取らず、手を下ろした。私は洗い物の方へ目を向けたまま、指先を布巾で拭った。濡れてなどいなかった。 そのとき、背後で小さく椅子が鳴った。 以前なら「玲司さん、おはよう!」と駆け寄っていた陽菜が、今はスケッチブックに視線を落としたまま、「おはようございます」とだけ言った。 玲司は「ああ」と短く応じた。さっき私の指に触れた手をポケットへ入れ、そのまま玄関に向かう。 ドアが閉まる音が響くと、陽菜は小さく息を吐き、再び色鉛筆を握った。 私は布巾を持つ手を止め、陽菜の後ろ姿を見つめた。 ここ数日、ずっとこの調子だ。 最初は、陽菜も気にしていないふりをしているのだと思っていた。けれど朝の「おはよう」が短くなり、食卓で玲司の席を見なくなり、図鑑をリビングへ持ってこなくなった。小さな変化が積み重なって、ようやく私は、この子なりに傷ついていることを認めざるを得なくなった。 さっき、触れた指を思わず拭った自分が恥ずかしくなった。陽菜は同じ部屋にいながら、玲司の顔を見ることさえためらっているというのに。 三人で文房具屋へ出かけた日には、あれほど不器用に陽菜へ付き合っていた。けれど、あの写真が記事になり、学校にまで記者が現れ、私たちが一度ペントハウスを離れて戻ってきてから、玲司はまた陽菜との間に明確な線を引き始めた。冷たく怒鳴ったり、無視したりするわけではない。ただ、必要以上に関わろうとしないのだ。会話は最低限になり、以前のように図鑑を読んだり、一緒に食卓を囲んで卵焼きの焦げを指摘されたりする時間は消えていた。 彼は、あの結果が正しいなら自分が入り込むのは違う、と言った。期待させないよう、自分の行動を律しているつもりなのだろう。 私も最初は、玲司が距離を置いてくれた方が楽だと思ったことがある。あの鑑定結果は間違っているはずだと思いながらも、確かめなければ、七年前の続きを今すぐ決めなくて済む。そんな大人
last updateLast Updated : 2026-10-19
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