All Chapters of あなたの子を産みました。七年経った今さら、優しくしないでください: Chapter 71 - Chapter 80

100 Chapters

第71話 嫌いになった?

 その言い方が胸に刺さった。陽菜は玲司を責める代わりに、自分で理由を作って納得しようとしている。「忙しいなら仕方ない」と思えば、嫌われたのではないことにできる。七歳の子にそんな逃げ道を作らせてしまったことが、情けなかった。 陽菜は顔を上げず、画用紙を見つめたまま答えた。「そうかな。でも、前は忙しくても一緒にご飯食べてくれたじゃない」「……」 陽菜は色鉛筆を転がし、両手を膝の上でぎゅっと握り合わせた。「陽菜、なんか悪いことしたのかな」 震える小さな声。 私の胸が、ぎゅっと締め付けられた。「悪いことなんてしてないよ。どうしてそう思うの?」「だって、玲司さん、陽菜の顔見なくなった。お話ししても、すぐあっち行っちゃう」 陽菜の瞳に、薄っすらと涙が浮かんでいた。 私は何も言えず、ただ陽菜の頭を撫でた。 玲司が引いた倫理的な距離は、陽菜にとってはただの「拒絶」でしかなかったのだ。◇ その日の夜。 玲司はいつもより少し早くペントハウスへ帰ってきた。 私がキッチンで夕食の準備をしていると、彼はリビングのソファに腰を下ろし、タブレットで資料に目を通し始めた。 ネクタイは少し緩められているが、その表情は硬く、仕事の延長戦のような空気を纏っている。 陽菜は少し離れたダイニングテーブルで宿題のプリントを広げていたが、鉛筆の動きは止まっていた。 彼女の視線は、プリントとソファの玲司の間を行ったり来たりしている。 私は野菜を切る手を止め、蛇口の水を細く絞った。 陽菜が、意を決したように椅子から滑り降りる。 スリッパのパタパタという音が、リビングの分厚い絨毯に吸い込まれていく。 玲司の数歩手前で、陽菜は立ち止まった。 玲司は画面から視線を上げず、ただページをスクロールする指だけを動かしている。「……玲司さん」 陽菜の細い声が、静かな部屋に落ちた。 玲司の指が止まる。 彼はゆっくりと顔を上げ、陽菜を
last updateLast Updated : 2026-10-20
Read more

第72話 大人の悪い癖

 陽菜の目から、ぽろりと大きな涙がこぼれ落ちた。「ごめんなさい。もうわがまま言わないから。……だから、嫌いって言わないで」 私は堪えきれず、エプロンの端を強く握りしめた。 玲司は何も言えず、ただ呆然と陽菜の涙を見下ろしていた。 私も口を挟めなかった。ここで「そんなことないよ」と代わりに答えたら、陽菜が聞きたい相手の言葉を奪ってしまう。キッチンから数歩の距離がやけに遠く感じた。私は握っていた菜箸を、音を立てないように台へ置いた。 彼が「父親の資格がない」と身を引いた結果が、罪のない子供をこれほどまでに傷つけていた。 その事実が、玲司の表情からすべての余裕を奪い去った。◇ 玲司はゆっくりとソファから立ち上がり、陽菜の目の前で片膝をついた。 彼の高い鼻梁と、陽菜の小さな顔が、同じ高さになる。 玲司は躊躇うように空中で手を少しだけ動かし、やがて陽菜の小さな肩に、不器用な手つきで触れた。「……嫌いなわけがない」 絞り出すような、ひどく掠れた声だった。 陽菜はしゃくり上げながら、玲司の目を見た。「ほんと……?」「ああ。本当だ」 玲司は陽菜の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。 DNA鑑定の紙切れがどうであろうと、彼が陽菜に向けた感情までもが嘘だったわけではない。「なら、なんで……」 陽菜の問いに、玲司は言葉を探すように少しだけ目を伏せた。 玲司は一度息をつき、再び陽菜を見た。「俺が、勝手に難しく考えていただけだ」 それは、玲司が口にできる精一杯の、そして嘘のない言葉だった。「俺は、子供とどう接すればいいか分からない。距離の取り方を間違えた。……すまなかった」 高遠グループのCEOとして、誰かに頭を下げることなど滅多にない男が、七歳の少女に向かって、自分の非を認めて真摯に謝罪している。 私はキッチンのカウンター越しに、その横顔をじっと見つめた
last updateLast Updated : 2026-10-20
Read more

第73話 もう一度、図鑑を

「……じゃあ、読んで」 玲司は押し付けられた図鑑を受け取り、戸惑ったように陽菜と図鑑を交互に見比べた。「これをか?」「うん。こないだの続きから。ここ、漢字ばっかりで読めないの」 陽菜は付箋が貼られたページを指差した。そこには「動力伝達機構の最適化」という、七歳児には絶対に不要な見出しが踊っている。「……飛ばしていいんだったな」 玲司が確認するように聞くと、陽菜は首を横に振った。「今日は飛ばさないで。全部読んで」「意味が分からなくてもか」「玲司さんが読むのを聞いてるのがいいの」 その無邪気で絶対的な要求に、玲司は一瞬だけ言葉に詰まった。 だが、やがて彼は息を整え、「分かった」とだけ言って立ち上がり、ソファへ腰を下ろした。 陽菜は当然のようにその隣に潜り込み、玲司の腕にぴったりと身を寄せる。「『第三章。関節部における……サーボモーターの……』」 玲司の低く落ち着いた声が、リビングに響き始めた。 七歳児向けの読み聞かせとしては、あまりにも抑揚がなく、内容は絶望的に難解だ。 それでも、陽菜は玲司のシャツの袖を小さな手で握りしめ、満足そうに図鑑の図解を眺めている。 私はキッチンの壁に寄りかかりながら、その光景を静かに見つめていた。 玲司自身がまだ父親だと確信できなくても、今はまだ「父親」という肩書を持っていなくても。 陽菜が今、玲司の隣にいることを選んでいる。 玲司もまた、その小さな要求に応え、彼女の隣に座っている。 図鑑をめくる微かな紙の音と、玲司の低い声だけが、ペントハウスの夜を穏やかに満たしていた。 私は蛇口をひねり、野菜を洗う作業に戻った。 水音に混じる二人の気配が、今はただ、ひどく温かく感じられた。 振り返らなくても、ページをめくる音と陽菜の相槌で、どこまで読んでいるか分かる。私は人参の皮を剥きながら、家の中に誰かの声があることへ少しずつ慣れてきた自分に気づいた。慣れ
last updateLast Updated : 2026-10-21
Read more

第74話 すり替えの痕跡

 玲司の声は低く、淡々としていた。だが、デスクに置かれた親指が、人差し指の腹を強く擦りつけている。「先週の火曜日の記録です。社長のプライベートフロアへ、回収業者のIDを持たない人物が短時間出入りしています」 警備責任者がタブレットの画面を切り替え、玲司に見せた。「火曜日の午後二時前。設備点検の名目で入館した外部業者が、共用ゴミの回収ルートを外れ、一時的に専用エレベーターのサービスホールに入り込んでいます。ちょうど、黒瀬秘書が秘書室名義で手配した民間配送便の集荷時間と重なります」 火曜日。それは、玲司が結に黙って、陽菜の使った紙コップから検体を採取し、極秘のDNA鑑定機関へ発送させた日だった。「黒瀬には確認したのか」「本人は『集荷指定時間に正規便が遅れていたため、急遽手配した別便に引き渡した』と説明しております。ですが、その受け取り書類に記載された業者の住所は実在しないダミー会社でした」 執務室の空気が、じわじわと冷えていく。 玲司は目を閉じ、深く息を吐き出した。 一週間前。手元に届いた無機質な書類。そこに印刷されていた『父子関係を支持しない』という一文。 あの文字列を見た瞬間、自分の胸の中で何かが冷たく冷え固まった。結は、あの結果を受け入れなかった。それでも自分は彼女の言葉より検査結果の方へ逃げ、父親ではないかもしれないという可能性を理由に、あの小さな少女から距離を置いたのだ。期待を持たせ、後から突き放すような真似だけはしたくないという、自分本位で傲慢な理屈で。 だが、その検体自体が、手元を離れた直後にすり替えられていたのだとしたら。「……黒瀬には、この監査の意図を感づかせるな」「承知いたしました」「配送の足を辿れ。ダミー会社を使った指示役が誰なのか、黒瀬の口座の動きを含めて洗え」「かしこまりました」 警備責任者が一礼して部屋を出ていくと、静寂が再び執務室を包み込んだ。 玲司は革張りの重役椅子に深く背中を預け、天井を仰いだ。 玲司は両手で顔を覆った。 出所も不確かな紙切れ一枚を鵜呑みにし、結の言葉に耳を傾けず
last updateLast Updated : 2026-10-21
Read more

第75話 最低の裏切り

 その日の夜。ペントハウスのリビングは、いつも以上に静まり返っていた。 主寝室では、遊び疲れた陽菜が穏やかな寝息を立てている。部屋のドアを数センチだけ開け、明かりが漏れないように配慮しながら、私はキッチンのカウンターで濡れた布巾を四角く畳んでいた。 背後で、ソファから立ち上がる衣擦れの音がした。 革靴が静かに大理石の床を叩き、玲司がキッチンへと歩み寄ってくる。 スーツの上着は脱がれ、シャツの袖が肘の下まで無造作にまくり上げられていた。その疲れた横顔には、仕事の電話に出る時に見せる冷徹な仮面はない。「……結」 玲司が声を落とした。 私は手を止めず、布巾の端を丁寧に揃えながら答えた。「なんですか。陽菜はもう寝ましたよ」「君に……話さなければならないことがある」 玲司の声に含まれた妙な重さに、私はゆっくりと顔を上げた。 玲司はカウンター越しではなく、回り込んで私の数歩手前で立ち止まった。アメリカ人の母親譲りの淡い瞳が、逃げ場を塞ぐように私を直視している。「先日、俺が君に伝えた検査のことだ。……陽菜が、俺の子供ではないという結果が出たと話した」 あの夜の記憶が、嫌な熱を伴って戻ってきた。「この結果が正しいなら」と、陽菜から距離を取ろうとした彼の横顔まで、はっきりと思い出せた。「あの紙は、先輩にも見てもらいました」 玲司の目が、わずかに動いた。「別の機関で調べる方法も、聞いています。でも、その前に教えてください。陽菜の何を、どうやって持ち出したんですか」 私は布巾を置いた。前に聞こうとして、陽菜が戻ってきてしまったことだ。「朝食の後に残っていた、紙コップだ。君が出た後、回収して採取させた」 流しの横へ目がいった。娘が飲み終えたものを、私は毎朝そこへ運んでいた。「……片づけてくれたと、思っていました」 玲司は答えなかった。私の向こうにある流し台へ、一度だけ目をやった。 あの朝、陽菜は食パンの耳を残して私
last updateLast Updated : 2026-10-22
Read more

第76話 私が決める検査

 玲司は視線を逸らさなかった。私がこれほど声を荒らげているのに、あの人は少しも近づこうとしない。それさえ、今はひどく腹立たしかった。「言い訳をするつもりはない。俺がやったことは、君と陽菜に対する最低の裏切りだ」「そうですよ! 最低です!」 私の声が、静かな部屋に鋭く響いた。「いつも、あなたが決めるんですね。私が違うと言っても、あの紙を信じて……陽菜から離れて。あの子が『嫌いになったの』って泣いたとき、私が何て答えたか分かりますか。……教えてくださいよ」 最後まで言い切る前に、涙が落ちた。陽菜の前では堪えていたのに、こんな時に限って止められない。拭おうとした手がうまく上がらず、私は黙って唇を噛んだ。 玲司が手を伸ばした。私の頬へ近づく指を反射的に払うと、彼の手が私の手首を掴んだ。掴んだ本人も驚いたらしく、二人とも動きを止めた。 強く握られてはいなかった。それでも、薄い皮膚に触れた親指の熱が、嫌になるほどはっきり分かった。玲司はすぐに力を緩めた。私が手を引けば、そこで終わる。「……放してください」 ようやく言うと、彼の指が離れた。手首には跡さえ残っていない。それなのに、私はそこを隠すように自分の胸元へ引き寄せた。七年前から知っている掌だった。許せない相手の温かさを、身体だけが覚えている。そのことが悔しかった。 玲司は唇を強く噛み締め、ゆっくりと頭を下げた。「……すまない」 低い、絞り出すような謝罪。 玲司のつむじを、私はただ見つめていた。 許せるわけがない。「謝られても、許せません」 私は頬を拭った。「今日は、もうあなたの顔も見たくありません」 私は玲司の横を通り抜け、足早に主寝室へ向かった。 背後で玲司が追ってくる気配はなかった。ドアを静かに閉め、鍵をかけると、私はベッドの端に腰を下ろし、眠る陽菜の柔らかい髪を撫でた。 陽菜が寝返りを打ち、指先で毛布の縁をつかんだ。私はその手を包み、眠りが深くなるのを待った。
last updateLast Updated : 2026-10-22
Read more

第77話 私の立ち会う場所で

『前の検査がどう行われたのか、資料をすべて相馬先生に渡してください。陽菜のものを黙って持ち出すのは、二度と許しません。調べ直すなら、陽菜にも分かるように話し、私が立ち会います』 送る前に一度読み返した。最後の一文を消そうかと迷い、残した。私があの場にいれば、もう勝手にはさせない。それで守り切れるものばかりではないとしても。 送信ボタンを押すと、すぐに『既読』がついた。 返信は短かった。『分かった。君の指示に従う』 私は相馬湊の連絡先を呼び出した。先日もらった案内を開きながら、前の鑑定書と配送記録について調べてほしいこと、必要なら私の同意のもとで改めて検査を行いたいことを伝えた。湊はすぐに答えなかった。少しして、「先に書類を確認させて」とだけ言った。 翌日、湊から電話があった。少し遅れて、紙をめくる音が聞こえた。「受領票の番号を運送会社に照会した。先方には、その番号の記録がない」 私は仕事の手を止めた。窓際で乾かしていた試作の布が、空調の風でわずかに揺れている。「誰が受け取ったのか、まだ分からない。改ざんされたと決まったわけじゃないけど、あの結果をそのまま信じることはできないよ」「結ちゃん。……昨日から、ちゃんと眠れてる?」 平気だと答えるつもりだった。けれど、試作布の端を握った指がほどけなくなり、私はしばらく黙った。湊も何も言わなかった。 週末の午後。 ペントハウスのリビングには、異様な光景が広がっていた。 普段は住人しかいない空間に、スーツ姿の湊が腰掛けている。テーブルの上には、医療用の透明なケースと、厳重に包装された綿棒、そして改ざん防止のホログラムシールが貼られた特殊な封筒が並べられていた。「今回の検査は、採取から発送まで第三者が立ち会い、各段階を記録して行います」 湊は落ち着いた声で説明を始めた。「前の検査は、途中で誰が検体を受け取ったのか、はっきりしていません。今回は採取から発送まで記録を残します。検査先も、高遠グループや御堂家と関わりのない機関を選びました」 湊の隣には、依頼した検査機関から来た看護師が座って
last updateLast Updated : 2026-10-23
Read more

第78話 第三者立ち会い

 湊はテーブルの書類を揃えた。紙の端がきちんと合うまで、指を離さなかった。それから玲司を見た。「高遠さん。最初の検査をするとき、結ちゃんに相談しましたか」「……していない」「結果が届いたときは、結ちゃんの話を聞いたんですか」「……聞こうともしなかった」 湊は二枚の写しを重ねずに並べた。片方は玲司から渡された受領票、もう片方は運送会社の照会回答だった。「高遠さんの会社が調べたこととは別に、僕からも確認しました。この番号で受け取った記録はないそうです」 湊の人差し指が、受領票の薄い印字を押さえる。玲司が紙へ手を伸ばしかけ、膝の上へ戻した。「この結果では、父親かどうかは決められない。なのに、あなたは決めたんですね。結ちゃんの話を聞く前に」 玲司は写しを見つめたまま、「ああ」と答えた。声が掠れていた。 玲司は口を開き、また閉じた。湊は答えを急かさなかった。「陽菜ちゃんは、あなたと図鑑を読むのが好きだったそうです」 湊の声は低かった。怒鳴られた方が、まだ玲司には楽だったかもしれない。「陽菜ちゃんは何も知らないのに、あなたが急によそよそしくなった。それで自分が嫌われたんじゃないかって、あの子は悩んだんです。……そこは、忘れないでください」 玲司の手が膝の上で固く握られた。「……言い訳はできない。あの子にどう謝ったらいいのかも、まだ分からない」 湊はそれ以上追わなかった。私の方へ一度だけ目を向ける。私も言いたかったことだった。けれど、それを聞いて胸が晴れたわけではなかった。テーブルの端から、陽菜の読んでいた絵本が半分はみ出している。私は落ちそうなその角を、そっと内側へ押した。「高遠さん、お願いします」 玲司は無言で頷き、看護師の方へ向き直った。 看護師が玲司にも手順を説明し、同じように検体を採った。 玲司の検体にも封がされる。彼は、自分の名前が書かれたラベルから目を離せずにいた。「これで二人分そろいました。封をすると
last updateLast Updated : 2026-10-23
Read more

第79話 再鑑定へ

 それから、長く苦しい一週間が過ぎた。 待っている間、何度も「結果が届かなければいい」と思った。そうすれば、今の曖昧な生活をもう少し続けられる。けれど同じくらい、「今度こそ正しい結果を見たい」とも思った。相反する気持ちを抱えたまま、私はいつも通りシーツを伸ばし、夕飯を作り、陽菜の宿題に丸をつけた。 学校の門の前で、私はまだ時々、知らない車を目で追ってしまう。陽菜はランドセルを揺らして振り向き、いつもどおり手を振った。私はその姿が校舎に消えるまで立っていた。 再鑑定の結果が出ても、玲司があの子にしたことは消えない。 それなのに私は、彼が書類を見たときにどんな顔をするだろうと、何度も考えてしまった。 悔しかった。母親として怒っているのに、七年前から好きだった人の顔まで、まだ気にかけている。 そして、約束の金曜日の夜。 私が陽菜を連れてペントハウスへ帰宅すると、リビングの灯りが点いていた。 いつもならまだ会社にいるはずの玲司が、ソファの前に立っていた。 ダイニングテーブルの上に、一通の分厚い国際郵便の封筒が置かれている。 湊の事務所から、受け取り直後に警護の手で直接届けられたものだった。「ママ、玲司さん、お仕事終わったの?」 陽菜が不思議そうに尋ねる。「ええ……陽菜、先に手を洗っておいで」「はーい」 陽菜が洗面所へ走っていくのを見送り、私はゆっくりとテーブルに近づいた。 玲司はスーツの上着を脱ぎ、シャツの第一ボタンを外していたが、その全身からは尋常ではない緊張感が漂っていた。 彼はテーブルの上の封筒を一度も見ようとせず、ただ私が近づいてくるのを待っていた。「……届いたのですね」 私が問いかけると、玲司は重く頷いた。「ああ。先ほど、相馬先生の事務所から届いた」「あなたが、開ければよかったじゃないですか」 私が少し冷ややかに言うと、玲司は目を固く閉じ、静かに首を横に振った。「俺一人で開ける資格はない」 その声には、自らの過ちを深く恥
last updateLast Updated : 2026-10-24
Read more

第80話 白い封筒

 刃を滑らせると、封筒の糊付けされた縁が細く裂けた。 紙片がテーブルへ落ちる。玲司が拾いかけて、手を止めた。 私は指先に力を込め、切り開かれた隙間から、折り畳まれた厚手の書類を引っ張り出した。上部には海外の検査機関の英字ロゴが印刷され、改ざん防止用のホログラムが青く光っている。 テーブルの向かい側で、玲司が微動だにせず立っていた。 彼の視線は、私の手元にある白い紙片に吸い寄せられたまま動かない。呼吸すら止めているかのように、胸の上下運動が消えていた。 私は書類を開き、日本語の訳文が添えられた最下部の結論欄に目を走らせた。 結果欄の活字は、ほかの行と少しも変わらない大きさだった。なのに、その一文だけが目に入った。『被検者A(高遠玲司)と被検者B(朝倉陽菜)の間に、99.999%の確率で血縁関係(父子関係)が存在することを肯定する』 読み間違えたくなくて、最初からもう一度読んだ。 息を吐いたつもりだったが、うまく空気が出てこない。指の腹が紙の角を折りかけ、慌てて手を緩めた。 紙に並ぶ数字が、急に重みを持った気がした。驚きより先に、陽菜の顔が浮かんだ。寝癖のついた髪。怪獣の夢。タコさんウインナー。全部そのままなのに、私の中では七年間しまっていた箱の蓋が一気に開いたようだった。 やっぱり。 そうだと知っていた。知っていたのに、この文字を見てようやく、あの日の玲司の声が胸から少し離れた。陽菜が悪かったわけではない。あの子は生まれてから一度だって、誰かに謝るような存在ではなかった。「……高遠さん」 私は静かな声で呼びかけ、書類をテーブルの上にそっと置いた。 玲司の視線が、ゆっくりと紙面へと落ちる。 彼の瞳が、細かく揺れた。『父子関係が存在することを肯定する』 その一行を追った瞬間、玲司の顔から一切の血の気が引いた。完璧に整えられていた彼の輪郭が、まるで内側から崩れ去るかのように、微かに歪む。「……っ」 喉の奥から、掠れた吐息が漏れた。 玲司の手が伸ばされ、書類の端に触れ
last updateLast Updated : 2026-10-24
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status