All Chapters of あなたの子を産みました。七年経った今さら、優しくしないでください: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話 父親という事実

 あの言葉を吐き捨てて自分を捨てた男が。 そして数日前、私が否定しても一枚の紙に縋るように距離を取り、泣きじゃくる陽菜を傷つけた男が。 今、目の前で、陽菜が自分の娘だという事実に打ちのめされている。 玲司はテーブルに両手を突き、深く頭を垂れた。 背広を着ているときはあれほど大きく見える肩が、今は目の前で縮こまっていた。背中が一度だけ強く揺れた。「俺は……俺は、何を……」 声は最後まで形にならず、部屋の静けさに途切れた。 私は彼を責める言葉を用意していた。けれど、何を言っても娘が流した涙の数が減るわけではない。 こうして頭を下げさせるために、一週間待ったのだろうか。もう一度顔を上げてほしいと思いかけて、自分に腹が立った。 私は彼の方へ行かなかった。あの子が「嫌いになったの」と聞いたとき、私だって何もできなかった。今ここで彼を慰めれば、陽菜の前で堪えた気持ちまで、なかったことになってしまう気がした。 洗面所から、バシャッと勢いよく水が流れる音が聞こえ、ドアが開く気配がした。「ママー! ピカピカに洗えたよー!」 陽菜の無邪気な声が、廊下に響き渡る。 その声を聞いた瞬間、玲司の身体が弾かれたように跳ね上がった。 彼は私に顔を向けることもできず、書斎へ歩いていった。扉が思いのほか大きな音を立てた。廊下で陽菜の足音が止まった。「あら、玲司さんは?」 洗面所から手を拭きながら出てきた陽菜が、首を傾げた。「……お仕事の電話みたいよ。さ、陽菜、お夕飯にしようね」 私は紙を畳み直して封筒の上に置いた。陽菜が椅子に上がろうとするので、手を添える。掌はまだ濡れていて、私の袖に小さな染みができた。 私は袖口を拭わなかった。◇ 深夜一時。 ペントハウス全体が、深い闇と静寂の中に沈んでいた。 主寝室の大きなベッドの上で、陽菜は掛け布団を蹴飛ばし、大の字になってすやすやと心地よい寝息を立てている。 その隣で、私は目を開
last updateLast Updated : 2026-10-25
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第82話 夜の廊下

 主寝室のドアから数メートル離れた、壁の影に、長身の影が立っているのに気づいた。 私は息を呑み、足の指先に力を込めて動きを止めた。 玲司だった。 彼はスーツの上着を脱ぎ、シャツのボタンを胸元まで外した姿で、壁に背中を預けてじっと佇んでいた。 その手には、何も握られていない。 ただ、少し開いたままになっていた主寝室の扉の隙間――陽菜が眠るベッドの方角を、暗闇の中でじっと見つめていたのだ。 彼がどれほどの時間、そこに立っていたのかは分からなかった。 月光に照らし出された彼の横顔は、恐ろしいほどに青ざめ、削ぎ落とされたように鋭く、そして、どこまでも切なかった。 中に入ろうとはしない。 扉の敷居を一枚隔てたその場所で、彼は自分に中へ入る資格がないとでも言うように、ただ固まっていた。 玲司の親指が、人差し指の腹を強く、強く擦り合わせているのが見えた。彼の昔からの癖。深く悩んでいる時や、感情を押し殺そうとしている時に見せる仕草。 その指先が、微かに震えている。 私は、影の中に佇む彼の姿から目を逸らすことができなかった。 強引で、すべてを自分の支配下に置こうとしていた男が。高遠グループの頂点に立ち、何不自由なく生きてきたはずの男が。 今、自分の娘が眠る部屋の前に立ち尽くし、敷居を跨ぐことすらできずに打ちのめされている。 私の胸が、ちくりと痛んだ。 彼を許したわけではない。七年間の孤独も、あの宴席の翌朝の冷たい拒絶も、消えてなくなったわけではない。 それでも、廊下に立つ玲司を見ていると、勝ったとも負けたとも思えなかった。私が一人で抱えてきた七年が、彼に渡ったから軽くなるわけではない。ただ、今日からこの事実を知っている人間が二人になった。それだけが妙に重かった。 けれど、今、暗闇の中で自分を責め続ける彼の背中に漂う孤独の深さに、私は無関心でいることができなかった。 私が声をかけようと、唇を微かに開いた、その時だった。◇「……ママ?」 私の後ろ、ベッドの方から小さく掠れた声がした。
last updateLast Updated : 2026-10-25
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第83話 ここで読んで

 陽菜の声が、静かな夜の空気に通った。 玲司の足が、止まる。 暗闇の中で、彼の全身が金縛りに遭ったかのように動かなくなった。陽菜に自らの姿を見られたことが、まるで罪を犯している最中を見咎められたかのように、彼の肩が小さく揺れた。「陽菜、喉が渇いたのよね。ママが……」 私が陽菜の前に立とうとしたが、陽菜はベッドから下りると、裸足のままトテトテとドアの方へ歩いていってしまった。 そのまま主寝室の敷居を跨ぎ、廊下の暗がりで立ち尽くす玲司の目の前まで行ってしまう。「玲司さん、なにしてるの? こんなところで」 陽菜が無邪気に首を傾げ、玲司を見上げる。 玲司は息を詰めたまま、ゆっくりと視線を下ろした。 自分の足元に立つ、小さな少女。自分と同じ茶色の髪、光の加減で緑がかる瞳。 自分の血を分けた、実の娘。「あ……」 玲司の喉から、かすれた声が漏れた。 彼は陽菜の目を見つめ返そうとしたが、あまりの眩しさと罪悪感に耐えかねたように、すぐに視線を泳がせた。「……何でもない。ただ、少し……目が冴えていただけだ」 掠れた、今にも消え入りそうな声。 いつもの命令口調も、冷徹な威圧感も、どこにもなかった。「喉が渇いたのか」「うん。お水」「……俺が、持ってこよう」 玲司は逃げるように口にし、ゆっくりとキッチンの方へ歩き出そうとした。 だが、その一歩を踏み出すより早く、陽菜の小さな手が伸ばされた。 パシッ、と小さな音がした。 陽菜の手が、玲司の履いているスラックスの裾を、ぎゅっと掴んでいた。 玲司の動きが、完全に止まった。 彼は足元を見下ろし、自分の服を掴む小さな指先を、恐ろしいものでも見つめるかのように凝視した。「陽菜?」 私が後ろから声をかけると、陽菜は振り返らずに、玲司の裾を引っ張った。「玲司さん、こっち来て」
last updateLast Updated : 2026-10-26
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第84話 静かな涙

 キッチンでグラスに冷水を注ぎ、主寝室へ戻ってきた私は、ドアの隙間から中の様子を覗き込んだ。 広いキングサイズのベッドの端。 そこに、スリーピースのズボンを穿いたままの玲司が、不格好に腰を下ろしていた。 大きな背中を丸め、ベッドの上に置かれた分厚いロボット図鑑を、慎重な手つきで開いている。 その隣で、陽菜は掛け布団を胸元まで引き上げ、満足そうな顔で玲司の横顔を見上げていた。「……どこまで読んだのだったか」 玲司の声は、まだ硬く震えていた。「きょうの、さんしょうのところ!」 陽菜が指差したページには、複雑な機械の構造図が描かれている。「……『第三章。駆動部における……油圧シリンダーの制御……』」 玲司は掠れた声で、文字を一つずつ拾うように読み始めた。 感情の起伏がない、まるで経文でも唱えているかのような低い声。だが、その声の底には、壊れ物を扱うかのような、恐ろしいほどの丁寧さと優しさが滲んでいた。 私は静かに部屋に入り、サイドテーブルの上に水の入ったグラスを置いた。 玲司は私の方を見ようともせず、ただ膝の上の図鑑に視線を落としたまま、難解な単語を一つずつ、律儀に読み上げている。 彼の大きな手が、ベッドのシーツの上に置かれていた。 陽菜の小さな手が、布団の中からそっと伸びてきて、その玲司の大きな掌の端っこに、触れるか触れないかの距離で添えられた。 私は置いた水のグラスのそばで手を止めたまま動けなかった。血が繋がっているから似ている、と言ってしまえば簡単だ。でも今、二人の間にあるのはそんな説明ではなく、眠る前に手を伸ばした子供と、その手を振り払わなかった大人だけだった。 玲司の読み上げる声が、一瞬だけ途切れた。 彼は膝の上の本から目線を外さず、自分の手に触れる小さな指先の温もりを感じながら、深く息を吸った。 そして、再び低く、穏やかな声で読み始める。 陽菜の瞼が、少しずつ重くなっていく。 難解な機械の用語が、
last updateLast Updated : 2026-10-26
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第85話 奪った七年

 陽菜の規則正しい寝息が、扉の向こうへと消えていく。 主寝室のドアを静かに閉め、私はリビングへと足を進めた。 大理石の床は夜の冷気を吸い上げ、裸足の足裏からじわりと体温を奪っていく。間接照明の薄橙色の光が、ガラス窓の向こうに広がる都心の夜景と混ざり合い、部屋の隅に長い影を作っていた。 ソファの前に、玲司が立っていた。 ネクタイは外され、シャツの第一ボタンが開けられている。先ほどまで陽菜のベッド脇で図鑑を読んでいた時の、あのどこか小さく丸まっていた背中は姿を消し、いつもの高い鼻梁と硬い顎のラインが、月光の下で険しく刻まれていた。 テーブルの上には、二人の血縁を99.999%の確率で肯定する鑑定書が、白々と置かれたままだ。「……眠ったか」 玲司が口を開いた。掠れた低い声が、静寂を微かに揺らす。「ええ。絵本を読んでもらって、すぐに」 私はテーブルから少し離れた位置で足を止めた。腕を組み、己の身体を抱きかかえるように指先に力を込める。 二人の間に、重苦しい沈黙が横たわった。 七年間。 この男の知らなかった時間。そして私が、たった一人で暗闇の中を手探りで歩き続けてきた時間。そのすべてが、この狭い空間に満ちているようだった。「……なぜ」 玲司がゆっくりと顔を上げた。 淡い瞳が、暗がりの中で私の顔を一直線に捉える。その奥に灯っているのは、鑑定結果を見た衝撃の残り火と、整理のつかない感情だった。「なぜ、俺に何も言わなかった。妊娠が分かった時、どうして連絡をしてこなかった」 静かな問いかけ。だが、その声の底には、押し殺しきれない苛立ちと焦燥が滲み出ていた。 私の胸の奥で、カチリ、と小さな音が鳴った。「……連絡?」「ああ。たとえ俺たちの関係があの朝で終わっていたとしても、腹の中に俺の子供がいると分かったなら、連絡してくるのが筋だろう。なぜ何も告げずに、家まで捨てて消えた」 玲司の手が、サイドテーブルの縁をきつく握りしめる。指の関節が白く浮き上がってい
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第86話 言えるはずがない

「……奪った?」 私の声が、低く震えた。 組み合わせた自分の腕に指先が深く食い込み、爪が皮膚を刺す。「今、あなた何て言いました?」「事実を言っている。俺には知る権利があったはずだ。あの子の父親として――」「ふざけないでっ!」 私の叫びが、静まり返ったリビングを切り裂いた。 自分でも驚くほど鋭い声だった。主寝室の方を一瞬振り返り、陽菜が起きていないことを確かめてから、私は一歩、玲司に向かって踏み出した。「何が『知る権利』ですか! 何が『奪った』ですか! あなたにそんなことを言う資格が、どこにあるんですか!」 玲司がわずかに眉をひそめ、言葉を詰まらせる。 私は抑えきれない感情の奔流に任せて、言葉を叩きつけた。「七年前のあの朝、私を冷たく突き放したのは誰ですか! 『昨夜のことは忘れろ、あれは間違いだった』って、私の顔も見ずに言い捨てたのは、あなたじゃないですか!」「それは……あの時は朝倉家の経営権の件があって、君を巻き込まないために――」「言い訳を聞きたいんじゃないわ!」 私は玲司の言葉を強く遮った。「あなたが私を捨てるように追い出したその数週間後に、私は妊娠に気づいたの! 震える手で買った検査薬で、真っ赤な二本の線を見た時の私の気持ちが、あなたに分かりますか!? たった二十一歳で、家も会社も混乱していて、誰にも相談できなくて……それでも、あなたにだけは言わなきゃいけないと思って、必死で連絡しようとしたわ!」 私の目から、溢れ出た涙が頬を伝い落ちる。 いくら拭っても、次から次へと溢れてくる。七年間、心の底に澱のように溜め込んでいた泥のような感情が、決壊したダムのように吐き出されていく。「何度も電話した! 何度もメッセージを送った! でもあなたは一度も出なかった! 留守番電話のアナウンスしか聞こえなかった! そしてその直後に……あなたが御堂莉央さんと婚約したってニュースを見たのよ!」 私は胸元を強く握りしめた。そこが、今でも痛むかのよ
last updateLast Updated : 2026-10-27
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第87話 届かなかった手紙

 喉が焼き切れそうだった。 胸が上下し、荒い呼吸がリビングに響く。 玲司は、微動だにしなかった。 私の叩きつけるような言葉の一言一言が、鋭い刃となって彼の胸を抉り開いていくかのように、彼の顔から完全に血の気が引いていた。 彼は薄い唇を激しく震わせ、何かを言おうと口を開きかけたが、声にならなかった。◇「……手紙を、送った」 数秒の重苦しい沈黙の後、玲司の口から出たのは、掠れきった小さな声だった。「手紙……?」「会社名義の連絡先を避け、個人名で、君の実家へ手紙を送った。SNSの文面は広報が作ったもので俺の本心ではないこと、数週間後に赴任先から一度戻り、君に直接説明するという内容を書いた手紙だ」 私は涙で濡れた目を細め、信じられないものを見るような視線を玲司に向けた。「そんなもの……届いていません」「朝倉の家に届いているはずだ。俺は確かに投かんした」「届いてないと言っているでしょう! 私はあの日、着の身着のままで家を出たの! 父からも兄からも、そんな手紙の話なんて一度も聞いていないわ!」 二人の言葉が、平行線をたどる。 過去の擦れ違い。誰かが隠したのか、それとも届かなかったのか。今となっては真相など分かりようもない。だが、そんな「行き違い」の理由など、私にとってはどうでもよかった。「手紙を出したから何なんですか」 私は涙を乱暴に指で拭い、冷たい声で言った。「手紙を出したから、あなたの責任は消えるんですか? 届かなかった手紙一枚で、私の七年間がチャラになるとでも思っているんですか?」「そうは言っていない」「いいえ、あなたの言動は全部そうよ! 『奪われた七年』ですって? 欲しくて一人で産んだんじゃないわ! 誰の助けも借りず、一人で陣痛に耐えて、一人で陽菜を抱きしめて……『この子だけは私が命がけで守る』って誓って生き抜いてきたのよ! あなたが豪華なオフィスで仕事をしていた七年間、私は夜も寝ずに熱を出した陽菜を介抱して、
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第88話 適切な距離

 私はハッとして息を呑んだ。  湊先輩の顔が脳裏に浮かぶ。家を出る時、私自身が湊に「家族にも高遠さんにも、絶対に居場所を教えないで」と懇願したのだ。湊は、私のその願いを愚直なまでに守り抜いてくれたのだった。 「君が俺を拒んでいると知り、これ以上追えば君をさらに追い詰めることになると思った。……だがそれも、俺の都合のいい言い訳だったんだ」  玲司は顔を上げ、色素の薄い瞳に滲む涙を隠そうともせず、私を直視した。 「君の言う通り、俺には怒る資格も、権利を主張する資格もない。俺は……ただの最低な男だ」◇ 玲司の自責の言葉を聞いても、私の胸の奥の重い塊は消えなかった。  理由がどうあれ、すれ違いがどれほど残酷であれ、過ぎ去った七年間の年月は二度と戻ってこない。  陽菜が初めて歩いた日も、初めて喋った日も、熱を出してうなされていた夜も、この男は隣にいなかったのだ。その事実は、どんな言葉を使っても塗り替えることはできない。 「……謝らないでください」  私は掠れた声で言った。 「謝られても、許せません。今の私は、あなたを許すつもりも、やり直すつもりもありません」  玲司は静かに目を伏せ、一度だけ深く頷いた。 「ああ。許してくれとは言わない」 「……まず、陽菜のことを考えてください」  私は冷たく言い放った。 「あの子にどう説明するのか。あなたが父親だと知ったら、あの子がどう思うのか。私たちは、大人の勝手な感情で二度とあの子を傷つけちゃいけないんです」 「分かっている」  玲司は低く答え、ゆっくりと息を吐き出した。  そして、彼はテーブルの上に置かれていた自分の小さな革製の鞄を引き寄せると、中から最小限の書類とスマートフォンだけを取り出した。 「……俺は、ゲストスイートへ移る」  一瞬、聞き返しそうになった。出て行ってほしいと思ったのは私だ。それなのに、具体的な部屋の名前を聞くと、生活の音まで消えることが急に現実になる。もちろん引き止める理由にはならない。私は爪が掌へ食い込むのを感じながら、ただ続きを聞いた。  私は目を瞬かせた。 「え……?」 「このレジデンスの三階にある、高遠グループが管理しているゲストスイートだ。今夜から、俺はそこで泊まる」  玲司は私の顔を見ず、淡々と告げた。 「実父だと判明したからといって、このまま君たち
last updateLast Updated : 2026-10-28
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第89話 いない朝

 静まり返った広大なペントハウス。  一人残された私は、大理石の床の上にぽつんと立ち尽くしていた。  彼のシトラスの香りが、微かに空間に残っている。だが、いつもそこにあった圧倒的な威圧感と体温は、もうなかった。  静かな方がいいはずなのに、冷蔵庫の低い作動音まで耳についた。コーヒーカップが一つ減っただけで、ダイニングが広く見える。許していない。戻ってきてほしいとも、まだ言えない。それでも「いない」という事実だけは、思っていたよりはっきり分かった。  自分で望んだはずの距離だった。彼に出て行ってもらい、二人だけの静かな生活を取り戻したはずだった。  なのに、胸の奥に広がるこのぽっかりとした空洞は何なのだろう。  私はふぅ、と深い溜息をつき、空になったダイニングテーブルを見つめた。  その時。  私のバッグの中で、スマートフォンがブブッ、ブブッ、と短い振動音を立てた。  こんな深夜に、誰だろう。  私は涙の跡を指で拭いながらバッグへ歩み寄り、画面を取り出した。  画面に表示されていたのは、見知らぬ市外局番からの番号。そして、その下に添えられた、ホテル・グランツの代表番号からの転送通知だった。  私が不審に思いながら通話ボタンをスライドさせると、無機質な電子音の向こうから、懐かしく、そしてどこか怒りを孕んだ低い男の声が聞こえてきた。 『……結か』  私の息が止まった。  七年間、一度も聞いていなかった声。  かつて自分を可愛がり、そして実家の崩壊とともに遠く離れてしまった、実の兄――朝倉直哉の声だった。 『グランツのフロント経由で、お前の連絡先を聞いた。……お前たちのゴシップ記事を見たぞ』  直哉の声が、電話越しに低く響く。 『高遠の奴と、七歳のガキと一緒に写っていたのは……お前なんだな?』  私はスマートフォンを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。  消えたはずの過去が、切ったはずの縁が、怒涛の勢いで私の現在へと押し寄せてくる。  靴のなくなった玄関を見つめながら、私は震える唇を開いた。  昨夜遅くにかかってきた兄からの電話は、短いやり取りのまま途切れた。 『写真のガキは、誰の子だ』 『……今夜は話せない。また、ちゃんと連絡するから』  怒りを押し殺した直哉の呼吸が受話器越しに鼓膜を打ち、私がそれ以上を拒むと、兄はた
last updateLast Updated : 2026-10-29
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第90話 父親欄の空白

 いつものように空いている向かいの席を指差して、陽菜が首を傾げる。  私はフライパンを洗う手を一瞬止め、すぐに洗剤の泡を洗い流した。 「……玲司さんはね、今日から別の部屋でお泊まりすることになったの。でも、学校の送り迎えの時には下で待っててくれるから」 「ふーん。お仕事の部屋にお泊まり?」 「まあ、そんな感じかな」  陽菜は深く追求せず、「いただきまーす」と両手を合わせた。七歳の子供にとって、大人の移動の理由はそれほど重要ではないらしかった。  私は食卓の脇に置かれた陽菜の黄色いランドセルに目をやった。  雨の日に中身を移してから、きちんと整え直せていなかった。教科書や連絡帳が少し乱雑に押し込まれ、底には丸まったハンカチが残っている。  私は手拭きで指先を拭うと、ランドセルのカバーを開けた。  時間割に合わせて教科書を入れ直そうと奥に手を突っ込むと、くしゃくしゃに丸まった一枚のB4用紙が指先に触れた。 「陽菜、これなあに? またプリント出さずに丸めてたでしょう」 「あ、それこの前もらったやつ! わすれてた」  陽菜が口の端にケチャップをつけたまま振り返る。  私は破れないように慎重に紙を広げた。  プリントの頭には、丸みのあるフォントでこう印刷されていた。 『生活科:わたしの かぞくについて しらべよう』  枠の中には、家族の絵を描くスペースと、それぞれの名前、好きなもの、そして「かぞくの おしごと」を書く欄が並んでいた。  陽菜の力強い濃い筆圧で、左側の枠にはヘタクソな犬の絵と「おかあさん(朝倉結)」、右側には大きく跳ねた髪の自画像が描かれている。  しかし、その二つの枠の隣。 「おとうさん」と印刷された破線の枠内だけが、白いまま残されていた。  鉛筆で何かを書こうとしたのか、薄く黒い擦れ跡があり、それを消しゴムで何度も強く擦ったせいで、紙が少し毛羽立っている。  私の指先が、その毛羽立った紙の表面で止まった。 「……陽菜、これ」 「学校でね、みんなでお話ししながら書いたの」  陽菜は目玉焼きの黄身をフォークの先で突きながら、何でもないことのように言った。 「えりちゃん家はパパがサッカー教えてくれるんだって。でも陽菜、お父さんのこと何にも知らないから、書けなかった」  淡々とした声だった。泣くわけでも、寂しそうに
last updateLast Updated : 2026-10-29
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