All Chapters of 愛も、復讐さえも、置いていくことにした: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

鋭い耳鳴りが、唐突に頭に響いた。医師の言葉が、また耳の奥で蘇る。「破片が神経を圧迫しています。記憶障害は、今後も進行していくでしょう」彼女は目を閉じ、込み上げる鋭い痛みをこらえ、冷酷な事実を飲み込んだ。その沈黙は、和久の目には無言の抵抗と映ったらしい。彼は吸い殻を揉み消し、苛立ちの滲んだ声で言う。「何度言わせるんだ。麗子とは何もない。あの晩、あいつは高熱を出して一人で寝込んでいた。だから、少しそばにいただけだ。そもそも、お前が我儘を言って飛び出さなければ、俺たちがあの連中に出くわすこともなかった。お前が撃たれることもなかったんだ」彼は立ち上がり、その影が江津子を覆い隠した。「近いうちに、麗子に謝っておけ」謝る?無数の氷の針を心臓に突き刺されたように、痺れるほど痛んだ。銃弾で死にかけた自分が、よりにもよってこの「事故」のきっかけを作った女に頭を下げろというのか。激しい頭痛が、江津子の言い返す最後の気力さえ奪い去っていく。残るのは、果てしない疲労だけだった。「……わかった」自分の声が、やけに空ろに聞こえた。和久は眉をひそめた。いつから、こんなに従順になったのだろう。まるで別人のようにさえ感じられた。考え込む間もなく、彼のそばに置かれた、麗子との連絡用にしている電話が鳴り響いた。麗子との連絡のためだけに使われているその電話は、静まり返った部屋の中でひときわ耳障りだった。彼は急いで受話器を取る。受話器の向こうの声は小さかったが、すぐそばに立っていた江津子の耳にははっきりと届いた。「和久さん、ひどくめまいがするの。また熱が上がってきたみたい」「行ってあげたら?」彼が口を開くより先に、江津子はもう背を向けていた。和久は一瞬固まり、何か言いかけたようだったが、彼女はすでに寝室へ入り、扉を閉めてしまっていた。扉越しにも、彼がすぐさま上着を羽織る気配と、これまで見せたことのないような焦りが伝わってきた。「今すぐ行く。腹減ってないか?食堂で何か食べやすいもの、買っていくよ」慌ただしい足音が、遠ざかっていく。和久が出ていってすぐ、家の電話がまた鳴った。同僚医師である高橋久美(たかはし くみ)の声は、心配を隠しきれていなかった。「江津子、西京市の大学病院の専門医による診察と手術の日程が決
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第2話

「わかりました。須賀和久隊長が結婚に際して本部へ提出した誓約書を確認しました。そこには、婚姻関係を破綻させる原因を作った側が責任を負う旨が記されています。証拠としても使えます。手続きにはひと月ほどかかるそうです。順調に進めば、その後、慰謝料や財産分与の請求も進められますよ」江津子は電話を切ると、静かに受話器を置いた。瞳の奥には、少しの揺らぎもなかった。かつて彼の「本気」の証だったはずのその誓約書が、今では彼女にとって唯一の頼みの綱になっている。彼女は荷造りを始めた。5年間暮らしたこの家に、自分の痕跡と呼べるものは驚くほど少なかった。普段着のポリエステルのブラウスを最後の一枚、トランクの底に押し込んだところで、部屋の扉が開いた。和久の視線がトランクをなぞり、口元にいつもの嘲るような笑みが浮かぶ。「またその手か。今度は何日家出するつもりだ?」彼女が答える前に、彼は冷たく言い放った。「この前のことがあってから、麗子を寮に置いておくのは危ない。こっちに越してこさせる。あいつはひどい喘息持ちだ、日当たりのいい一番広い寝室がいちばんいい。お前は隣の小部屋に移れ」彼の肩越しに、江津子は麗子が拾ってきた白い子犬を抱きしめ、怯えた目で、か細い声で訴えるのを見た。「和久さん、やめて。私、どこでもいいから。江津子さんを困らせたくないの」「困ってなんかいない」和久はそう言って、江津子のトランクをぞんざいに脇へ押しやった。「隊長の妻が、客への気遣いもできないとはな。話にならない」彼は彼女を見据え、いつもの言い争いや涙、あるいはとうに聞き飽きた「愛を分かち合うことはできない」という反論を待っていた。けれど、彼の耳に届いたのは、感情の起伏のない、ただ一言だけだった。「わかった」彼は一瞬、固まった。用意していた叱責の言葉が喉に突っかかった。彼女は押しやられたトランクを一瞥すらせず、ただ洗面用具を取りに行くために背を向けた。彼女が元の寝室よりずっと狭い小部屋へと歩いていくのを見ながら、和久の胸を違和感がよぎった。だが、それもすぐに「ようやく聞き分ける気になったか」という思いに塗りつぶされた。小部屋は狭いながらも、きちんと片付いていた。江津子は荷物を下ろした。激しい頭痛が吐き気とともに襲ってくる。医者か
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第3話

雪は止んだが、寒さは体の芯まで染み込んでいた。江津子が部屋へ運び込まれたとき、膝は青紫に腫れ上がり、唇は乾いてひび割れ、紫色に変色していた。こめかみの古傷が、低温の中でずきずきと脈打っている。目を覚ますと、和久が彼女の手を握り、温めようと息を吹きかけていた。手のひらから伝わる温もりに、彼女はかすかに身を震わせた。「気がついたか」彼はゆっくりと上体を起こした。声音には気遣いとも叱責ともつかないものが滲んでいる。「数時間も外に跪いただけで倒れるようじゃ、この先、隊長の妻としてどうする気だ」江津子はゆっくりと手を引いた。和久は自分の空になった手のひらを見つめ、一瞬、動きを止めた。再び口を開いたとき、声には硬い響きがあった。「今夜、本部主催の懇親会がある。支度しておけ」「わかった」あまりにも素直な返事に、彼の胸の奥に、何かがつかえるような感覚が生まれた。以前の彼女なら、きっと騒ぎ立て、涙目で「麗子も行くの?」と問い詰めてきただろう。それが今では、よどんだ水たまりのように静まり返っている。部屋の中で、江津子は鏡に映る青白い顔に安いクリームを塗り、口紅を引いた。和久は扉枠にもたれ、その姿を見つめながら、ふと5年前の結婚式を思い出した。鮮やかな色打掛に身を包み、振り返って幸せそうに笑いかけてきた、あの日の彼女の姿を。あのころ、彼女の目には光があった。今は、何もない。彼の視線が、彼女のがらんとした首元に落ち、眉がひそめられる。「俺があげた表彰章はどうした」江津子の反応はひと呼吸遅れた。彼女は目を上げ、鏡の中で茫然とした眼差しを彼と合わせた。「……表彰章?」和久の顎の線が、ぴくりと強張った。あの真鍮製の表彰章は値打ち物ではなかったが、彼が初めて手柄を立てたときに授かったものだった。彼女がそれを受け取ったとき、顔中を涙でぐしゃぐしゃにして「一生、身につけているから」と言ったのを、彼は覚えている。官舎でボヤがあったとき、彼女が狂ったように煙の中へ駆け戻ろうとして、「あれは、あの人がくれたものなの」と叫んでいたのも覚えている。それを、今の彼女は忘れている。「江津子」彼の声が低く沈む。「いい加減にしろ」ちょうどそのとき、麗子が目を赤くしながら扉を開けて入ってきた
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第4話

シロは死んだ。猛スピードで走ってきたトラックに撥ねられ、即死だった。麗子は血まみれの子犬の亡骸を抱きしめ、気を失わんばかりに泣き崩れた。和久は彼女を胸に抱き寄せ、暗く沈んだ目を戸口に立つ江津子へと向けた。彼女の腕は赤く腫れ、手の甲には犬の歯形がはっきりと残り、呼吸も荒い。アレルギー反応は誰の目にも明らかだった。「江津子」彼は一語一語、区切るように言った。「わざとか」「あの子が噛みついてきて、自分で飛び出していったの」彼女の声は、息が乱れて途切れがちだった。「嘘つき!」麗子が泣き叫ぶ。「私、ちゃんと見てたの。あなた、わざと手を離したでしょ。私のことも、シロのことも嫌いだったんだよね。和久さん、シロはまだ2歳だったのに……」和久は彼女の背を優しく撫でながら、再び目を上げたとき、その瞳にはもうわずかな温もりも残っていなかった。「お前がそれほど命を軽んじるというなら、罪滅ぼしをしてもらおうか」その夜、官舎裏の空き地に、小さな墓がひとつ増えた。和久は官舎の掲示板に告知を貼らせ、騒ぎを知った住人たちが、遠巻きに様子を見守っていた。和久は江津子を墓の前に立たせ、冷たく言い渡した。「跪け。みんなの前で、自分が動物を虐待し、シロをわざと逃がして死なせたことを認めて謝れ。二度と小さな命を傷つけないと誓え」江津子は寒風の中に立ち、全身が冷えきっていた。赤い発疹はすでに首元まで広がり、息をするたびに灼けるような痛みが走る。彼女は小さな墓を見つめ、遠くで和久に抱き寄せられている麗子を見つめ、後ろ指をさしてひそひそと囁き合う住人たちを見つめた。ふいに、笑った。悲しみに満ちた笑いだった。「跪け」和久が繰り返す。彼女はゆっくりと膝を折った。膝が冷たい泥の中に沈み込む。「私、須賀江津子は」彼女は見守る住人たちに向かって、平坦で機械的な声で言った。「本日、動物を虐待し、故意にシロを逃がして、車に撥ねられて死なせてしまいました。深く反省し、今後、二度と小さな命を傷つけないと誓います」一語発するたびに、喉が刃物で切られるようだった。言い終えると、和久は住人たちを帰らせたが、彼女を立たせようとはしなかった。「夜が明けるまで跪いていろ。よく反省するんだな」夕食時、麗子は目を赤く腫らし、食が進まない様子だ
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第5話

医師が立ち去ると、寝室には重苦しい静けさだけが残った。和久はベッドの端に腰掛け、江津子の包帯を巻かれた手に目を落としていた。傷は深く、包帯の端から薄黄色い滲出液がにじみ出て、消毒薬の鼻を突く匂いと混ざり合っている。腕の発疹はまだ引いておらず、青白い肌の上でひときわ痛々しく浮き上がっていた。彼はようやく、医師が口にした「命に関わる」という言葉を思い出した。「江津子……」彼の声は低かった。彼女の指先に触れようと手を伸ばしたが、触れる直前で止める。「麗子に手を上げるべきじゃなかった。あいつも、ただ少し我儘を言っただけだ」江津子はベッドの頭にもたれたまま虚空を見つめ、何も答えなかった。その沈黙はどんな言い争いよりも和久を苛立たせた。彼は立ち上がり、声をいつもの冷淡さに戻した。「2日後に、幹部懇親会がある。お前も来い。いつまでもそんな様子でいるな、俺に恥をかかせる気か」懇親会は大ホールで開かれた。会場は賑わい、和久は余裕たっぷりに人々と談笑し、麗子は「妹分」という立場でそばに付き添い、愛らしく微笑んでいた。誰も、須賀隊長の妻がまるで存在しないかのように静かにしていることを気に留めなかった。座が盛り上がり、誰かが余興の質問ゲームを提案したときのことだった。順が和久に回ってくると、酔った分隊長のひとりが笑いながら聞いた。「須賀隊長、最後に女性関係で問題を起こしたのは、いつ、誰とです?」どっと笑いが起こる中、和久はグラスを揺らしながら淡々と答えた。「5年前の、結婚初夜だ」空気が、ふっと静まり返った。誰もが、5年前に和久が江津子と結婚したことを知っていた。「あの夜」彼は続けた。視線は何気なく江津子に向けられた。「俺の寝室で、麗子とだ」死んだような沈黙。麗子は頬を染めて彼の肩を軽く叩いた。「和久さんったら、冗談ばっかり言って」「事実を言っただけだ」和久は笑いながら、彼女の手を握った。無数の視線が江津子に注がれる。同情、嘲り、見世物を眺めるような目。彼女はグラスを手にしたまま、指先は氷のように冷たく、顔にはこれといった表情もなかった。まるで今話されているのが、自分とは関係のない誰かの物語であるかのように。彼女の番が回ってくると、誰かがわざと尋ねた。「奥様、須賀隊
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第6話

江津子は2日間、意識を失ったままだった。目を覚ますと和久がベッドの脇に座っていて、目の下にはうっすらと隈ができていた。彼女が目を開けたのを見て、彼は珍しく柔らかな声を出した。「気がついたか。医者が、静養が必要だと言っていた」彼は温かい白湯を彼女の唇に運びながら言う。「しばらくは、俺がそばについている。それと、あの懇親会で言ったことはただの冗談だ。気にするな」江津子は白湯を受け取らず、ただ彼を見つめていた。その眼差しがあまりにも澄んでいて、あまりにも見知らぬもののようで、和久の胸の奥にわけもなくざわめきが広がった。「江津子」彼はふいに言った。「体が良くなったら、家に代々伝わる指輪をお前にやる」それは須賀家に代々、跡取りの妻だけに受け継がれる品だった。彼女はかつて、その指輪のことで彼と揉めたことがあった。「あなたは心の中で私を妻だと思っていない」と。今、彼はそれをくれるという。けれど彼女はただ茫然と尋ねた。「指輪……そんなに大事なものなの?」和久の動きが止まった。「前はあれほど欲しがっていたじゃないか」彼は彼女の目をじっと見つめた。「そうだったのね」彼女は小さく笑った。「ふふ……それなら、たぶん昔のことなんでしょうね」あの苛立ちがまた込み上げてくる。「お前さ」彼の声が沈んだ。「俺にそんな態度を取り続けるつもりか。指輪もやる、謝りもした。これ以上、何を望むんだ」彼女は答えず、ただ窓の外へ目をやった。退院した日、和久は彼女を連れてある医学会へ向かった。「お前は昔、こういう会がいちばん好きだったろう」彼は言った。「今日は、お前の母親が受賞した当時の研究を振り返る特別展示もある」江津子の目にようやく光が宿った。会場で、彼女は母のパネル展示の前に長い間立っていた。それは母が研究者として最も評価されていた時期に手がけた研究で、かつて大きな話題を呼んだものだった。だが、立ち去ろうとしたところで、最新成果の展示コーナーに見覚えのある症例分析報告が目に入った。署名、梅野麗子。論文名、「急性外傷感染に対する革新的治療法」。それは3年前、江津子自身が書いた研究原稿だった。ずっと研究室の机の引き出しに鍵をかけてしまい込み、誰にも見せたことのないものだ。
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第7話

麗子はあの論文で一躍脚光を浴び、総合病院の本院に異動し、輝かしい日々を送るようになった。和久は彼女を溺愛し、惜しみなく資金やコネをつぎ込んだ。誰もが、この「須賀家の妹」が医学界の新星になると噂していた。だが、医学界の重鎮である蒲生博士が記者会見を開き、麗子の最新論文「外傷治療体系」が、20年前の自身の研究成果をまるごと盗用したものだと告発するに至って、事態は一変した。動かぬ証拠が、容赦ないほど鮮明な比較図とともに示された。世間は一瞬で騒然となった。麗子はぽろぽろと大粒の涙をこぼし、和久の袖にすがりついた。「和久さん、私知らなかったの……!あの資料は人に頼んで探してもらったもので、オリジナルだって言われて!」「その相手とは誰だ」和久の顔が青ざめた。「それは……江津子さんが紹介してくれた人……」麗子は震えながら言った。「資料には問題ないって言われたから、私、信じてしまって……」和久は、はっと江津子を見た。彼女は窓辺に静かに立ち、まるでこのすべてが自分には関係ないことのように佇んでいた。「江津子」彼の声は凍てついていた。「麗子を陥れたのか」「していない」「あの資料はお前が彼女に渡したんじゃないのか」「彼女が私の研究室から持ち出したものよ」江津子は静かに言った。「証人が必要なら、あの日の当直看護師が見ているはず」麗子の顔が真っ青になった。ところが、和久は笑った。「当直看護師は先月もう異動になったのを知らないのか」江津子は彼を見つめ、ふいに悟った。「つまり」彼女は小さく言った。「彼女が盗むとあなたは最初からわかっていて、だからあらかじめ病院側に働きかけて、あの人を異動させておいたのね」「いい加減にしろ」和久が鋭く遮った。「江津子、麗子に嫉妬したからといって、こんな卑劣な手を使って彼女の将来を潰すのか。お前には本当に、呆れ果てる」和久は病院側に強く働きかけ、ただちに臨時の会議が開かれた。2時間後、院内掲示板に声明が掲示された。【総合病院勤務医・須賀江津子について、私怨から梅野麗子氏に不適切な資料を提供し、その名誉を著しく傷つけた疑いがあるため、当院は調査が終了するまで須賀江津子をすべての職務から外し、追って正式な処分を決定する】一夜にして、江津子は優秀な医師から業界の恥さ
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第8話

和久は麗子を部屋まで送り、長い時間をかけて宥めた。「ごめんなさい、全部私が悪いの。江津子さんにあんなに誤解させてしまって……」麗子は彼の肩にもたれ、目元をわずかに赤くしながら言った。「江津子さんのことが気になるなら、会いに行ってあげたら?一応、奥さんなんでしょ」和久は眉をひそめた。「必要ない。これは全部、あいつが自分で招いたことだ。頭を冷やせばそのうち戻ってくる」口ぶりは冷たかったが、胸の内ではわけもなく苛立ちがくすぶっていた。江津子が病院を出てから、書き置きも伝言も何ひとつ残されていなかった。これは、どう考えてもおかしい。以前の彼女なら、いくら機嫌を損ねても3時間も持たずに自分から折れて連絡してきたはずだ。彼はポケットベルを何度も確認した。表示されるのは仕事関係の番号ばかりで、江津子からと思われるものは何ひとつない。夜になり、和久はひとり書斎に座っていた。頭の中には、ここ最近の江津子の姿が次々と浮かんでは消えていった。目の前で倒れたときの蒼白さ。寒風の中で跪き、震えていた細い肩。鮭の骨を取っていたときの、血に染まった指先。そして、彼を見つめるたびにどんどん空っぽになっていったあの目……あの眼差しには、怒りもなければ悔しさもなかった。失望すらなかった。あったのは、ただ死んだような静けさだけだった。見慣れない罪悪感のようなものが、見えない針のように彼の胸を刺した。ちょうどそのとき、書斎の扉が静かに開いた。麗子が薄手のネグリジェ姿で入ってきた。手にはワイングラスを持ち、腰をくねらせ、わざとらしく媚を売るような視線を向けている。「和久さん、まだ江津子さんのこと考えてるのぉ?」彼女はグラスを彼の口元に差し出した。「もう忘れて。私と一緒に飲もうよ」和久ははっと我に返り、その姿に嫌悪の色をちらりと浮かべた。「麗子」彼の声は冷たかった。「まともな格好をしろ」「和久さん」麗子は悔しそうに唇を噛んだ。「そんなに私のこと、嫌い?本当は私のこと好きなくせに、認めたくないだけなんでしょう」「黙れ」和久は立ち上がり、差し出されたグラスを押しのけた。「俺は確かにお前のことを大切に思っている。だがそれはあくまで妹としてだ。お前を好きな女として見たことなど、一度もない」「嘘つ
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第9話

その夜、和久は生まれて初めて「不安」というものの味を知った。官舎へ戻る車の中で、彼は何度も自分に言い聞かせた。江津子はただ拗ねているだけだ。他にどこへ行くというのだ。彼女の健康保険証も、預金通帳も、印鑑も、生活に必要なものはほとんど自分が預かっている。頼れる友人も、身寄りもない。自分から離れて、一人でやっていけるはずがない。だが頭の中では、ここ最近の彼女の姿が勝手に明滅していた。静かに小部屋を明け渡した姿。寒風の中で跪きながら、一言も弁解しなかった姿。鮭の骨を取っていたときの、麻痺したような目。そして「指輪……そんなに大事なものなの?」と尋ねたときの、あの茫然とした表情。いや……そんなはずがない!俺のために銃弾の前に飛び出すほど愛していた女が、本当に離れていくはずがない。和久はアクセルを踏み込み、車が深夜の街を切り裂くように走り抜けていく。官舎に駆け込むと、彼はまっすぐ2階へ上がり、主寝室の隣の小部屋の扉を開けた。部屋は不自然なほどきちんと片付いていた。ベッドは平らに整えられ、カーテンは開け放たれ、月の光が冷たく差し込んでいる。クローゼットの服はそのまま残り、机の上の化粧品もきちんと並んでいた。何もかもが、彼女がただ一時的に出かけているだけで、すぐに戻ってくるかのように見えた。和久はほっと息をついたが、同時に怒りが込み上げてきた。「はっ、江津子、ずいぶん腕を上げたじゃないか」彼は冷笑した。「隠れていれば俺が必死に探すとでも思っているのか。夢を見るのもいい加減にしろ」彼は電話機の受話器を取り、当直の部下に電話をかけた。「江津子が共済を通して購入したものの記録を全部調べろ。あいつがあれだけ不満を言うなら、今まで何を使って生活してきたのか確かめてやる」電話を切ると、彼は顔を洗い、無理やり目を閉じた。ところが未明、当直の部下から電話がかかってきた。「隊長、確認できました」部下の声には、どこか戸惑いが滲んでいた。「奥様について共済の購買記録を調べましたが、この数年間、隊長名義の枠を使って購入された形跡が一度もありません」和久はベッドから勢いよく身を起こした。「何だと?」「間違いありません。購買記録はすべて確認しました。奥様ご自身のお給料から日用品を買われた記録はあり
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第10話

江津子が姿を消した翌日、本部はかつてない混乱に陥っていた。午前9時、緊急会議が召集された。長テーブルの周りには、顔色を青ざめさせた幹部たちがずらりと座っていた。和久は上座に腰を下ろし、目の下には隈が浮き、表情は暗く沈んでいた。「須賀隊長、きちんと説明してもらおうか」古参の幹部のひとりがテーブルを叩いて立ち上がった。「本部長の視察に備えて作成していた救急対応計画は、今後5年間の本部の評価や予算配分にも関わる重要なものだ。それが梅野麗子の勝手な書き換えのせいで、まったく使い物にならなくなっている。上からはすでに正式な厳重注意が来ているぞ」「この件をうまく収められなければ、本部長の信頼を失うだけでは済まない。本部全体の問題として正式な指導対象になりかねん」別のひとりが続けた。「そうなれば、管内全体に影響が及ぶぞ」会議室は騒然となった。和久はこめかみを揉みながら、掠れた声で言った。「……私が対応します」「どう対応するんだ。視察まであと48時間しかないんだぞ」誰かが怒鳴った。「聞くところによると、須賀医師が以前、救急対応計画をまとめていたそうじゃないか。あれがまだ残っているなら……」和久ははっと顔を上げた。そうだ。あの救急対応計画だ。江津子は何をするにも抜かりがない女だった。きっと救急対応計画と手順書の控えを、どこかに残しているはずだ。「解散」彼は立ち上がり、周囲の驚いた視線を無視してまっすぐ会議室を出た。執務室に戻ると、彼はすぐに江津子と連絡がつきそうなあらゆる番号にかけ始めた。どれも、使われていないか応答がなかった。彼は彼女の親友であり、同僚でもある飯倉靖子(いいくら やすこ)にも電話をかけた。電話は長く鳴り続け、ようやく繋がった。「もしもし?」靖子の声は氷のように冷たかった。「何の用?」「江津子はどこだ。救急対応計画の控えはあいつが持っているのか」和久は早口で言った。「電話に出させるか、計画書をこっちに回してくれ。本部で今すぐ必要なんだ」「必要なときだけ思い出すのね」靖子は鼻で笑った。「あなたって、本当に滑稽な人ね。江津子があんたや須賀家の人たちのせいで死にかけてたとき、あんたは一度でも彼女が生きられるかどうか考えたことがあった?」「……お前」
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