All Chapters of 外傷センター ドクターE: Chapter 11 - Chapter 20

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11話. 先に交わした約束

「54歳の男性です。仕事中、急にお腹が痛くなって来院されました。ベッドに移るときから、体を伸ばせずにいます」絵里は看護師について、カーテンの内側へ入った。男性の作業着の胸に、冷凍倉庫の名前が刺繍されていた。片方のポケットは膨らんでいるが、手で押さえているのはその下のみぞおちだった。一緒に来た同僚が、小さな水のボトルを持ってベッドのそばに立っていた。「森田修司さん?」男性が目を上げた。こめかみから流れた汗が、耳にたまっていた。「何か、悪いものでも食べたみたいで」「いつから痛みますか?」「11時、少し前……」同僚が付け加えた。「10時50分です。点検表を書いていたら、急にしゃがみ込んで。機械にぶつけたわけではありません」今は午前11時40分だった。絵里は患者に触れる前に、呼吸と脈を見た。深く息を吸えずにおり、血圧も高くなかった。けがではないが、すぐに外科で評価すべき理由があった。「水は、まだ飲ませないでください」同僚がボトルの蓋を閉めた。どこがどう痛むかを聞いてから、絵里は診察した。腹部を大きく押して離す動作を繰り返す必要はなかった。手が触れると腹壁は硬く緊張し、ベッドが少し動くだけでも患者は顔をしかめた。毛布を整えてから、佐伯を呼んだ。「みぞおちから始まって、腹部全体へ広がっています。腹膜刺激の所見がはっきりしています」「私もそこが気になって、すぐお呼びしました。心電図は先に取って、血液検査も進めています」佐伯が初期評価を共有した。胸の不快感と重なる症状も確認していたが、今は腹部の急を要する問題を先に探す必要があった。絵里は高瀬に患者の状態を伝えた。返事は短かった。『輸液への反応を見ながら、画像の準備をして。私も下りる』看護師が点滴の管を整えている間、修司は目を閉じていた。絵里が飲んでいる薬を尋ねると、ポケットのほうへ手を動かした。「腰の薬しか、飲んでません」「処方された薬ですか?」「前にもらったのと、薬局で買ったのと」同僚が許可を得て、ポケットから薬の袋を取り出した。名前が残る包装と、字の消えた小袋が混じっていた。絵里は確認できる薬から記録し、残りは家族に確かめることにした。薬を多く飲んでいたから、それが原因だと決めつけるわけにはいかなかった。「何日か前から、胃が焼けるような感じもありましたか?」「少し。もともと
last updateLast Updated : 2026-10-21
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12話. 変えられない順番

「ですから、説明と準備を並行して進めます。説明が終わるまで、手術の準備を止めるわけにはいきません」絵里は手術室につないだ電話を切らなかった。調整担当が、麻酔チームの返事を待っていた。大槻と話している間も、修司の治療の準備が止まらないようにしなければならなかった。高瀬が戻り、電話を受け取った。「3番室の次は、森田修司さんに変更してください。宮園さんは麻酔開始前で、午前から状態が変わっていないと報告を受けています。私が直接診て、説明します」電話の向こうで、調整担当が変更後の名前を復唱した。高瀬は修司の患者番号まで照合し、通話を終えた。大槻は、高瀬が電話を下ろすまで待った。「高瀬先生、別の部屋を1つ開けられないか? あちらはもう、ご家族も向かっている」「部屋よりも、麻酔と手術を担当する人員が必要です。ほかの緊急手術から人を抜くわけにもいきません」「だから聞いているんだ。追加の人員を呼べるかどうか」「確認はしています。来られるまでは、この方から進めます」大槻は黙って、手術室の状況表を見直した。修司の手術を進めても、礼子を今日中に入れられる枠がないかと、欄を目で追っていた。絵里が紗季に患者の経過を伝えた。紗季は直接状態を確認し、麻酔の準備を続けた。修司は手術室に入る前に、娘と少し電話をしたいと言った。同僚が携帯を支えている間、絵里はそばで紗季の評価を待った。「今のように維持できるなら、腹腔鏡でのアプローチを検討できると思います。入室後に変化があれば、すぐ共有しましょう」紗季の言葉を受け、高瀬が方針を合わせた。残りの準備を湊に任せると、2人は同じ建物の上階にある礼子の病室へ向かった。修司のそばには、紗季と救急科のチームが残った。***病室の前には医事課の職員が立っていた。高瀬を見ると、まず室内に目をやった。「午前中に、お取りできそうな時間としてご案内したんですが、確定したものと受け取られて……」「私から説明します。ご家族には、手術室で新しく決まった内容だけを伝えてください」高瀬がノックして入った。絵里も続いた。宮園礼子は、ベッドを少し起こして座っていた。62歳。午前にあった痛みは落ち着いたと言うものの、手術を待つ顔は穏やかではなかった。隣の椅子には、スーツ姿の男性が書類を広げていた。「高瀬先生。どうして急に、明日へ変更になるんですか?」
last updateLast Updated : 2026-10-21
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13話. 小さな穴の重み

湊がカメラを少し近づけた。画面の十二指腸壁が大きくなった。穴の縁は周囲より色が濁り、薄い膜のように浮いた部分もあった。絵里はもろくなった組織を無理につかまず、縫合に耐えられる範囲を見た。「三浦先生、もう少し引いてください。周囲まで見えるように」画面の視野が広がった。その中で、絵里は器具を動かした。小さな穴の脇で、組織がもろくなっていた。絵里は針をかけようとした場所より、少し外側へ目を移した。穴をふさいでも、弱い縁が裂ければ、またそこから漏れてしまう。高瀬が反対側の視野を確保した。絵里はどこまでを保てる組織と判断したか説明し、高瀬は直接確かめてから、進めるように言った。最初の縫合に入ると、器具の角度が窮屈だった。絵里は手首にさらに力を込める代わりに、少し止まった。「先生、こちらの視野を、もう少し開いていただけますか?」高瀬が位置を変えた。次の動きが、滑らかにつながった。以前は、そんな頼みをする数秒さえ惜しかった。本院では、ためらうそぶりを見せただけで、器具を渡せと言われることもあった。手に力を込めて、どうにかやり切ろうとする癖が残っていた。今、高瀬は器具を取り上げなかった。必要な空間を作り、絵里が終えるまで、自分の位置を保った。「その角度なら大丈夫?」「はい。今は見えます」絵里は、伝えたとおりに進めた。手先の感覚より先に、画面の中の組織の動きを見た。引く力が1か所に集中しないよう調整すると、浮いていた部分が落ち着いた。高瀬が同じ場所を確認する間、絵里は次の準備をした。手術室の音が、はっきり聞こえた。吸引が止まる瞬間。麻酔器から続く呼吸の音。器械出しの看護師が必要なものを置く音。絵里が説明しなくても通じることが、少しずつ増えていた。「循環は維持されています」紗季の報告があった。絵里は反射的に速度を上げなかった。患者が今は耐えられるからと、余計な時間を使っていいわけではない。だが、急いでやり直すことになるような仕事も作れなかった。縫合を終え、高瀬と閉鎖部を検討した。小さな穴は閉じた。残る問題は、その周囲の弱い組織だった。2人は状態を見て、大網で補強することにした。腹腔内にある脂肪組織の一部を使い、縫った場所を覆う方法だ。絵里はその組織を無理に引っ張っていないかも確かめながら、位置を決めた。湊が視野を追ってきた。カメラの揺れは、先
last updateLast Updated : 2026-10-21
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14話. 待っている人も、患者だから

絵里はまず、理由を尋ねた。「患者さんの状態が変わったんですか?」「いえ、そうではありません。ご主人が、病院を移ることについてお尋ねでして」医事課の職員が、紙に書かれた病室番号を見せた。絵里は高瀬に連絡し、回復室から病棟へ引き継ぐ自分の仕事を終えてから上がると伝えた。手術の順番を決めるときには、ためらわなかった。けれど、無事に手術を終えてから、また同じ説明をしに行くとなると、肩が重かった。人事から電話が来るたび、落ち着いて話そうと言葉を選んでいた記憶がよぎった。先に、修司の経過を確認した。回復室での覚醒の様子や痛み、呼吸は安定していた。病棟には状態を見守れるベッドが用意され、変化があればすぐ報告する段取りも整っていた。患者に伝えるべきことを伝えてから、白衣を羽織った。***礼子の病室には、大槻も来ていた。隆文は電話を置くなり、絵里を見た。「ほかの病院なら、今日でも調整できるかもしれないそうですよ」絵里はまず、病棟の看護師が記録した直近の状態を読んだ。礼子は、今、痛みが強くなったわけではないと言った。ただ、何度も手術の時間が変わっているように感じて、不安だったと付け加えた。隆文が言った。「こちらは誰かの順番を奪いに来たわけじゃない。最初に案内されたとおりにしてほしいだけなのに、ここまで言わなきゃいけませんか?」「待ち時間が変わり、ご不便をおかけしていることは承知しています。ただ、ほかの病院ですぐ手術ができるかどうかは、そちらで診療と人員の状況を確認していただく必要があります」絵里は、移ったほうが危険だと脅すことも、さっさと移るよう突き放すこともしなかった。「転院をご希望でしたら、高瀬先生と、必要な記録や受け入れ先との連絡を確認します。こちらに残られる場合は、明日の午前の手術で調整しています」大槻が口を挟んだ。「藤崎先生、そうきっぱり言わなくても。今日の残りの時間で、できる方法も探してみようという話だよ」「追加の手術チームを実際に確保できるかは、調整担当と麻酔科で確認しています。確定していない時間を、先にお約束することはできません」声が硬くなりすぎているのを、絵里は感じた。患者の前でセンター長と対立する形になるのも、守れない約束をするのも嫌だった。そのとき、礼子が手を上げた。「私も、1つ聞いていいですか?」3人が同時に口を閉
last updateLast Updated : 2026-10-21
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15話. 隣の部屋の事情

「夕食は、まだです」『なら、外で食べましょう。キッチンの排水管の修理、終わるのは遅くなるそうです』絵里は、寮で温めて食べるつもりだった、冷蔵庫のおかずを思い浮かべた。「電子レンジは使えるんじゃないですか?」『食器を洗う場所がありません』「使い捨ての容器ならいいのに」『夕食のために、そこまでして何とかしなきゃいけませんか?』怜司の問いに、絵里は口を閉じた。今日1日にした質問が、まとめて頭に浮かんだ。次の手術はいつできるか。ほかの部屋は使えないか。担当は誰なのか。夕食のことまで、そんなふうに決めなくてもよかった。「どこへ行けばいいんですか?」病院の裏手の路地にある、小さなうどん屋だった。絵里が入口に着くと、怜司は店の外に貼られたメニューを見ていた。白衣の代わりに薄手のジャケットを着て、袖口から時計が少しのぞいていた。「よく来るんですか?」「たまに。席があるときは」「予約が必要なうどん屋ですか?」「椅子が5つしかないので」ドアを開けると、椅子は本当に5脚しかなかった。奥の2席が空いているのを見て、絵里は笑った。注文を聞かれると、怜司は先に彼女を見た。絵里は温かいうどんを選んだ。怜司も同じものを頼み、水を2人分受け取った。並んで座ると、向かい合わずに済んだ。絵里には、それが少し気楽だった。仕事が終わったあと、誰かと黙って座っている時間には、まだ慣れていなかった。店主が厨房で器を出す間、怜司が尋ねた。「今日は、終わるのが遅かったですね」「説明が、少し長くなって」患者の名前も、詳しい治療の内容も口にしなかった。人の出入りする店で話せることは、別にあった。「同じことを繰り返し説明してるつもりだったんです。でも、相手は違うことを聞いてたんですね」「何を?」「待ってる間、誰が診てくれるのかって。私は、どうして待つ必要があるのか、そればかり話してました」怜司は水のグラスを置いた。「そのあとは、聞けたんですか?」「はい」「なら、その説明もしたんでしょう」「取り繕えたってことですか?」「その場にいなかった私が、採点はできませんよ」絵里は彼を見た。評価してほしかったわけではない。なのに、答えを待っていたのだと、今さら気づいた。うどんが運ばれてきた。熱い湯気が、2人の間を抜けた。絵里が箸で麺を持ち上げて、また戻すと、怜司が小さな
last updateLast Updated : 2026-10-21
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16話. 同じ手で

宮園礼子は、麻酔がかかる直前まで絵里を見ていた。「昨日、説明してくださった先生ですよね?」「はい。藤崎絵里です」「白衣を脱ぐと、もっと若く見えるのね」絵里が笑うと、礼子も少し笑った。緊張でこわばっていた手が、手術台の上でゆっくり開いた。麻酔チームが患者の状態を確認する間、絵里は画像と準備された器具を照らし合わせた。胆嚢の中にある結石が原因で、痛みを繰り返していた患者だ。昨日は手術をしなくてもよいと判断したことと、手術そのものが必要ないということは、まったく別の話だった。高瀬真紀は絵里が担当する範囲を確認し、向かい側に立った。術前確認が終わると、手術が始まった。緊急事態のなかで急いで準備した部屋ではなかったが、誰も確認を省かなかった。絵里は初めて組む器械出し看護師に、自分が使いやすい器具をあらかじめ伝えておいた。モニターに胆嚢が映し出された。周囲に付着した組織を整理しながら、慎重に近づいていく。今すぐ大きく腫れた胆嚢に対処する手術ではなかったが、症状を繰り返してきたこととは別に、解剖学的な構造を1つずつ見分ける必要があった。湊は今日は別の手術の応援に入っていた。助手の医師と高瀬が、絵里の視野を一緒に確保してくれている。慣れた相手がいないからといって、指示を曖昧にするわけにはいかなかった。絵里は次に進める位置を短く伝え、器具を動かした。胆嚢につながる細い構造が見えてきた。表面の形だけを見れば、どちらなのか見当はつく。しかし、周囲の組織が視野の一部を遮っていた。クリップをかけるタイミングに見えたが、絵里は手を差し出さなかった。「下側をもう少し剥離します」高瀬がモニターを見た。「どこがまだ見えていないの?」「この奥です。今の角度だけで確定するのは避けたいです」絵里は隠れている部分をさらに確認した。胆嚢につながる管と血管を明確に見分け、周囲の構造を取り違えていないか、別の角度からも確かめる。高瀬も同じ視野を確認した。「もういいわ」それからようやく、絵里は次の段階へ進んだ。確認した管と血管の位置を手短に示してから、次の器具を受け取った。助手が視野を保つなか、絵里は手を動かした。さっきまで隠れていた構造が、モニターにはっきりと映っていた。高瀬も同じ箇所を見ながら、手順を確認している。手術は予定した範囲で終わった。出血や胆汁漏れが疑われ
last updateLast Updated : 2026-10-21
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17話. まだ抜きません

「自分で呼吸する力がどれくらい戻ったかを見て、判断します」絵里は達夫に説明した。「明日、もう一度評価する予定です。目が覚めたからといって、すぐに抜けるわけではありません」患者は少しの間、目を閉じた。そばに立つ和枝は、夫が同じ説明を理解したか確かめるように、その手を包み込んだ。絵里は、その日の状態と次の担当チームに伝える内容を整理した。今すぐ不快感を取り除くと約束すれば、夫も妻も少しは安心するだろう。けれど、翌日になって、その約束のせいで判断の幅を狭めるわけにはいかなかった。木曜日の夕方、引き継ぎを終えて帰宅したあと、呼び出しはなかった。***金曜日の午前、達夫は前日よりはっきりと目を開けた。循環動態は安定しており、呼吸をすべて機械に任せなくてもよいか、検討できる条件が整いつつあった。夜間の記録を確認した集中治療室のチームは、怜司と一緒に自発呼吸の評価を行うことにした。機械の補助を減らしたとき、患者がどのように呼吸するかを見る過程だ。そこで問題がなさそうに見えても、咳や痰の処理、気道を守る力については別に確認しなければならない。絵里は準備をしていた美穂から、夜のあいだの変化を聞いた。朝の勤務に入った美穂は、前の勤務者の記録と自分で見た状態を照らし合わせていた。「起きていられる時間は増えましたが、痰を出すときに少し苦しそうです」「痛みを抑えたあとも同じでしたか?」「少しは楽になっています。評価を始めたら、動きも一緒に見ますね」怜司が患者に、これから何をするのか説明した。達夫は目を開けたまま聞いていた。大きく首を動かすことはできなくても、医療スタッフが話すほうへ視線を向けていた。最初の数分は、目立った変化がないように見えた。絵里は血液中の酸素の状態を示す酸素飽和度だけでなく、呼吸の深さと速さも見ていた。胸が上下する幅はほぼ同じだった。指先も、搬送されたばかりのころのように冷たくはない。だが、時間がたつにつれて、息を吸う動きが変わってきた。首のあたりに力が入った。息を吸うと、間を置かず次の呼吸へ移る。患者の額に汗が浮かび、指がシーツの端を握りしめた。美穂が先に口を開いた。「さっきより肩を使っています」絵里も同じ変化を見ていた。「呼吸数が増えています。表情もつらそうです」怜司は数値と患者の様子を交互に確認した。酸素飽和度がまだ保
last updateLast Updated : 2026-10-21
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18話. 明日もここに住む

絵里が医局を出ると、廊下で森田由衣が待っていた。手には空の薬袋が握られていた。患者に何かあったのかと先に尋ねると、由衣は首を横に振った。「薬の名前を確認し終わったからって返してもらったんです。でも、これを家に持って帰っていいのかなと思って」絵里は袋に薬が残っていないか確かめた。中身はすでに担当チームが確認して別に管理しており、由衣が持っているのは包装だけだった。「家に同じ薬がほかにもあるなら、一覧にしておいてください。退院するときに、これから飲む薬と中止する薬をまとめて説明します。今は入院中の処方どおりに治療を続けます」「父、腰が痛いのは変わらないって言っていて」絵里はその言葉を聞いて足を止めた。潰瘍に影響する可能性がある薬を中止するよう説明するだけでは、修司の生活は変わらない。腰が痛めば、また薬に手を伸ばすかもしれなかった。「腰の痛みも治療チームに伝えてください。ずっと我慢する以外の方法を、一緒に相談したほうがいいです」「手術したお腹以外のことも、聞いていいんですか?」「薬をまた飲む理由になるんですから、知っておく必要があります」絵里はその内容を、まだ病棟にいる担当医に引き継いだ。修司の痛みと普段の薬の使い方も、今後の診療計画に反映することになった。由衣は薬袋をバッグにしまった。「父が、今日は帰ってもいいって」「家に戻るんですか?」「着替えを持ってこようと思って。ずっとここにいると、何が必要なのかもわからなくなってきて」絵里は病棟への連絡方法と、今の治療方針が説明されているかを確認した。家族が少し席を外しても、治療が止まるわけではない。その説明を聞いて、由衣はようやくバッグを肩にかけた。エレベーターの前で2人は別れた。絵里は担当医に伝えた内容を最後に確認してから、病院を出た。***職員寮に戻ったとき、まだ日が残っていた。机の上には光が差し込み、まだ荷ほどきできていないキャリーケースが壁に寄せてあった。絵里はファスナーを開け、残っていた服を取り出した。洗面台の下に置く収納かごも、小さな鏡も、まだ定位置が決まっていない。東京で片づけたワンルームの敷金の残額が振り込まれたという通知を確認した。一部をローンの返済に回すと、残高が少し変わった。借金がなくなったわけではない。それでも今月は家賃が引き落とされない。絵里は金融アプリを閉
last updateLast Updated : 2026-10-21
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19話. もう一度聞く声

土曜の朝は、共用キッチンで卵をゆでて食べる時間があった。絵里は使った食器を洗い、冷蔵庫の扉を閉めた。中の卵パックには「302号室」と書かれていた。その横にペンで何か書き足そうとして、やめた。食べてもいいと、もう聞いている。病院では、夜間の申し送りを先に受けた。田島達夫は必要な処置のあとも呼吸と循環が安定しており、痰などの分泌物を処理する状態も前日より改善していた。覚醒時に簡単な指示へ反応する様子も違っていた。集中治療室のチームは怜司と相談し、もう一度呼吸を評価することにした。絵里は患者のそばに立ち、今日行うことを説明した。昨日よりよくなっているからといって、必ず管を抜くと約束することはしなかった。「体がどれくらい耐えられるか、一緒に確認していきましょう」達夫は目を合わせた。前日の恐怖がまだ残っているのか、シーツを握る手に一瞬力が入った。今日の担当看護師は、美穂から引き継いだ観察内容を確認していた。昨日の評価で、いつから呼吸の様子が変わったのか。そのあと何を調整したのか。記録に残っているため、最初から推測し直す必要はなかった。呼吸補助を減らしても、患者の呼吸は前日のように速くならなかった。絵里は時間を確認してから患者へ視線を戻した。決めていた時間が過ぎれば終わりというものではない。呼吸が浅くならないか、顔に余計な力が入っていないか、苦しさを訴える様子がないか、注意深く見続けた。怜司は患者の反応と咳を確認した。痰があるというだけでなく、自分で処理できる力があるかも評価する。集中治療室の担当医も状態を検討し、次の方針に同意した。「今日は抜管する方向で進めます。抜いたあとの呼吸補助と、変化があったときの対応を先に整えましょう」怜司の言葉を受け、チームが動き始めた。患者にこれから行うことを説明し、必要な準備を済ませた。絵里は抜管後も観察が続くことを聞きながら、一歩横へ退いた。自分の役割ではない場面で、ベッド脇を占めている必要はなかった。口の中の管が抜かれた。達夫が咳き込んだ。長く、荒い音だった。担当チームが状態を確認しながら酸素を補った。絵里は彼が呼吸を整える様子を見守った。管のなくなった顔は、見慣れないものだった。初めて病院へ来たとき、彼は寒さで言葉を最後まで続けられなかった。そのあとは、機械が送り込む呼吸と、言葉の代わりに動く指先を見て
last updateLast Updated : 2026-10-21
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20話. 手術をしないという選択

月曜の朝、絵里はまず日曜日の経過記録を読んだ。休みの日に病院へは来なかった。部屋を片づけて眠り、たまっていた洗濯も済ませた。最初は静かな携帯電話に落ち着かなさを感じたが、午後には充電器に置いたまま忘れていた。その間も、病院では治療が続いていた。田島達夫は抜管後も安定して呼吸を保っていた。呼吸補助が急に増えたり、腹部で再出血を疑う変化が出たりはしていない。胸腔ドレーンは経過を見ながら留置中だった。担当チームは今日、病棟へ移れるか最終評価を行う予定だった。相沢美咲は術後の食事と活動を続けていた。森田修司も縫合部と感染の経過を見ながら治療を受けていた。2人とも退院や今後の方針を決める条件が少しずつ整ってきていたが、日程はそれぞれの状態に合わせる必要があった。短い朝のカンファレンスでは、先週の緊急手術の状況も議題に上がった。大槻和彦が共用手術室の調整記録を見ながら言った。「水曜の予定変更で、医事課への説明が食い違った件は、次から減らしていこう」絵里は自分の番でもないのに、先回りして口を挟まなかった。高瀬が当時の2人の患者の状態と、順番を決めた理由を説明した。麻酔チームから共有された稼働人員の状況も合わせて報告された。久世直樹が補足した。「宮園礼子さんは午前中に私が診ましたが、その時点では緊急手術の対象ではありませんでした。新しい患者が来れば予定が調整される状況でした」彼は絵里がまとめた時間表に目を通した。「森田修司さんの評価をしながら、手術チームの準備も進めたのはよかったですね。検査が終わってから初めて連絡していたら、もっと遅れていたでしょう」高瀬が顔を上げた。「藤崎先生が先に連絡をつないだの。手術でも自分の担当範囲をきちんと終えたわ」絵里は手にしていたペンを置いた。高瀬が指摘した時刻の横には、彼女が先に麻酔チームへ連絡した記録が残っていた。「患者さんの順番を変えた判断と、案内が食い違った問題は分けて記録してください」絵里が言った。大槻は切り替えようとしていた画面を一瞬止めた。「そうだな。優先順位は妥当だった。案内の問題は別に確認しよう。次の議題へ」大槻はそこでようやく次の資料を開いた。絵里もペンを持ち直し、会議の画面に目を向けた。次の議題に移るあいだ、隣に座っていたフェローが尋ねた。「来週の救急腹部症例の検討、一緒に見てもらえます
last updateLast Updated : 2026-10-21
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