識別不能な愛に、身を任せ私、夏目萌衣(なつめ めい)には、人の顔を判別することができない――相貌失認という障害がある。
あの土砂降りの雨の夜。私は一人の男を救った。彼の名前には確か、「あきし」という響きがあった。
「恩返しがしたい」と乞う彼を前に、私は頭をよぎる現実を数えた。
滞納したままの家賃と、芽の出ないイラストレーターとしての私。
私はふっと自嘲気味に笑って、こう返した。「それなら、一生お金に困らず、安心して絵を描いていられる生活をさせて」
彼は真剣な眼差しで、私の目を見つめて言った。「分かった。必ず君を迎えに行く」
その後、私は安藤彰司(あんどう あきし)からプロポーズを受けた。
けれど結婚後、彰司は一冊のスケッチブック――あの雨の夜の情景を描いたページを見つけ、ひどく冷え切った声で私を問い詰めた。「君が今も忘れられずにいる、この『特別な男』は誰だ?」
私は困惑した。過去の自分自身に嫉妬する人なんて、この世にいるのだろうか。
だがある日。彼の宿敵である永井昭司(ながい あきし)が、私の元を訪ねてきた。
彼は目尻を赤く腫らし、今にも泣き出しそうな視線を私に向けた。
「俺と結婚する約束だっただろう?……それなのに、なぜあいつを選んだんだ?」