風だけが、知っている彼がようやく異変に気づいたのは、若い恋人を連れて海外へ逃避行してから、私からの連絡が途絶えて、丸ひと月が経ったあとだった。
「千紗(ちさ)の脚の傷、もう治ったか?あいつの皮膚を美和(みわ)に移植させたが、怒ってはいないだろうな」
電話の向こうで、秘書は長く黙り込む。そして、ためらいがちな声で告げた。
「高瀬さんは一か月前に退院されました。もう、朝倉(あさくら)家にはいません」
その瞬間、彼の脳裏にあの日の光景がよみがえる。
ホテルの天井が崩れ落ちたあの瞬間、自分が反射的に抱き寄せたのは、彼女ではなく美和だった。
そして、がれきの向こうで見た――
千紗の瞳は、もう何も映していなかった。
それは悲しみではなく、静かに閉じていく光だった。