舞台装置としての突然の解決を眺めると、古典から現代まで揺れ続ける議題だと感じる。私は物語の整合性を損なうような安易な手段としての
デウスエクスマキナには基本的に懐疑的だ。登場人物の行動や設定の蓄積があって初めて読者は感情移入し、結末に納得する。そこに外部からの“神様的介入”が入ると、積み重ねてきた緊張や葛藤が一瞬で薄まってしまう危険がある。
ただし、完全に否定するつもりはない。重要なのは使われ方だ。もし作品のテーマが「偶然の介入」や「運命と人間の無力さ」を扱うなら、意図的なデウスエクスマキナは強力な表現になり得る。例えば『ホビットの冒険』で鷲が救出に来る件については賛否両論だが、それが物語世界の神話性や運命観と繋がっていると読むと別の意味を持つ。
結局、私は作家に対してルールを押し付けるつもりはない。大事なのは読者に対する誠実さと内的整合性だ。伏線や世界観の約束を無視して便利に使うのは避けるべきで、もし使うならその選択が物語の主題や感情的な成果を深めるかを厳しく問うべきだと思う。