考えてみると、慣れた筋や台詞が目新しく見えるかどうかは、語り手の“視点の重心”がどこにあるかでほとんど決まるように思える。
年季の入った古典を読み返すと、似たような場面でも語り手の細かな価値判断や風刺の入り方で全く別物になるのが分かる。自分がよくやるのは、既存の
常套句をそのまま流すのではなく、語り手にまるで小さな癖を与えることだ。語彙の選び方、時間感覚のズレ、あるいはその場でしか起きない微妙な誤訳めいた表現──そうした“欠け”や“歪み”が生まれると、読者は慣れたフレーズにも新しい光を当てられる。
例として、'吾輩は猫である'のように語りのトーンが全体を引っ張る作品を見ると、その声が周囲の
ありふれた描写を滑稽に、あるいは批評的に変換しているのが分かる。僕はこの手法を借りて、普段なら描き飛ばす背景の一部を意図的に強調したり、逆に重要な動機をあえて曖昧にすることで期待をずらす。そうするとクリシェだった表現が、登場人物の性格や世界観の匂いを帯びて生き返る。
最終的には技術よりも“読む側に小さな裏切りを仕掛けるセンス”が大事だと考えている。だからいつも、慣れた言い回しをどこでねじるかをじっくり考えてから書き始めるようにしている。