記憶の扱い方には静かな狡猾さがある。読んでいるうちに僕は何度も立ち止まり、さっきの描写が過去のどの断片に対応しているのか確かめたくなった。作者は直接的な背景説明を避け、会話の
言外や小さな習慣、他者とのすれ違いを通じて過去を示す。そうすることで主人公の過去は固定された事実ではなく、他人の視線や時間の経過によって揺らぐものとして表れる。
また、過去が持つ影は必ずしも暗くはない点が興味深い。痛みや後悔と並んで、誇らしい瞬間や無邪気な失敗も描かれることで、主人公は単なる被害者や英雄にならない。僕はその多面的な描写が人物像に厚みを与えていると思う。作者の手法は、記憶の断片をパズルのピースのように提示して読者に組み立てさせる部分があり、読後に人間関係の複雑さや時間の不均一さを強く意識させる。
構成上、過去はある種のテンポ調整にも使われている。緊張の場面で一瞬挿入される回想が読後感を深め、逆に長い静謐な描写が現在の行動に説得力を与える。似た手法を用いる作品としては『モノノ怪』のエピソード的な時間操作が思い出されるが、『いっしんふらん』はもっと日常寄りの細部にこだわる。だからこそ読んだ後に長く心に残るのだ。