考え方をもっと素朴に整理すると、証拠薄弱なのに説が広まった理由は単純だと私は思う。夏目漱石の文章感覚が『あいまいで含みのある表現』を肯定していたこと、そして日本語文化が直接的な愛情表現を避ける傾向があること。この二つが組み合わさると、『I love you』を『月が綺麗ですね』と置き換える話は非常に魅力的に映る。
私が具体的に確認した範囲では、漱石本人の手による教科書や講義録の中に『月が綺麗ですね=I love you』と明記された断片は見つからなかった。代わりに、戦前・戦後の評論やエッセイにおける言及が幾つかあり、それらが連鎖して広まったらしい。要は、漱石の言語観と日本語文化の間に生まれた「納得のいく解釈」が噂を生み、それがいつしか事実のように語られるようになったのだ。