多重人格探偵サイコの結末を比べると、まず押さえておきたいのは公式な長編アニメ化がない点だ。僕はこの作品にずっと惹かれてきたので、原作の細かな伏線や人格の入れ替わり、狂気の積み重ねがどれだけ巧妙かをよく覚えている。原作マンガ『多重人格探偵サイコ』は長期にわたって複数の事件や組織の陰謀を描き、最終的にはアイデンティティや記憶、存在の根本に関わる大きな謎の層を露わにしていく。そのため、物語の終盤も単純な“解決”というよりは、複雑な残滓と解釈の余地を残すような形で締めくくられている印象が強い。僕にとって原作のラストは、冷たくて不穏だけど筋の通った結末で、登場人物それぞれの歪んだ選択が最後まで尾を引くタイプだった。
一方で、アニメ化が行われたと仮定したり、映像化された短期作品(例えばドラマ化など)を思い出して比較すると、映像作品は概して原作のディテールをかなり削る傾向がある。尺の制約からエピソードやサブプロットが整理され、幾つかの人格や事件が統合されたり、元の複雑な陰謀が単純化される。結果として結末も「わかりやすい決着」に改変されるケースが多い。僕が観る映像化で特に気になったのは、原作でじっくり描かれた心理の揺らぎや長期伏線が短絡的に処理され、ある登場人物の最期や真相が早めに提示されたり、逆にぼかされて曖昧にされたりする点だった。
映像化による具体的な違いとしては、登場人物の関係性の簡略化、暴力描写や猟奇的な要素の抑え、そしてラストに向けての「因果の整理」が挙げられる。原作は複数の人格が時間をかけて絡み合う過程そのものを見せるけれど、短い映像作品ではその過程をカットして“どの人格が核心か”だけを見せる。さらに、原作が残す解釈の余地を映像側が回収してしまい、視聴者に一つの結論を提示することもある。そういう改変は好みが分かれるが、個人的には原作の曖昧さや余白が好きだったので、端折られると少し寂しく感じる。
結局のところ、『多重人格探偵サイコ』の持つ魅力はその細やかな心理描写と長期にわたる謎の連鎖にあるため、映像化では必然的にトーンや結末の印象が変わる。原作のような余韻を残す結末を期待するならマンガを追うべきだし、短くはっきりした決着や映像的な見せ場を重視するなら映像化作品の改変にも納得できるだろう。個人的には、どちらにも良さがあると思っていて、原作の深さを味わった上で映像版のアレンジを受け入れるのが一番楽しめる観点だと感じている。