子供の歌が一音ずつ狂っていく瞬間ほど、観客の背筋をぞくりとさせるものはない。日本の古い童謡『
通りゃんせ』は、その短い旋律と曖昧な歌詞が持つ不気味さを映像作家が巧みに利用して、ホラー演出の得意な道具に変えてきた。旋律そのものが記憶に残りやすく、しかも子供の無垢さと死や閉塞感をほのめかす歌詞が同居するため、視覚と結びつくと強烈な心理効果を生むのだ。
音響面では、まずメロディをアレンジして“不気味さ”を増幅する手法が多い。シンプルなオルゴールアレンジを遅く引き伸ばしたり、逆再生して断片的に聞かせたり、微妙にディソナントな和音を入れて不安定化させる。私が特に好きなのは、子供の声をフィルターでこもらせ、遠近感を大きく変えた後に突如フルレンジで鳴らす方法で、これだけで観客の注意を強制的に引き戻せる。さらに、心拍に合わせた低周波と組み合わせたり、高域を細かく削って“耳慣れたはずの曲”を違和感だらけにすることで、映像の中の時間感覚も歪ませられる。
映像的な使い方も工夫が多い。歌が遊具や古い鳥居、廃校のチャイムなどと同期すると、現実と記憶の境界が曖昧になる。長回しで徐々にメロディがフェードインしてくる演出、あるいは断続的に断片だけを挟むことでフラッシュバックのような効果を生むこともある。カット割りは歌のリズムを裏切るようにずらし、聴覚と視覚のタイミングズレで不安を増幅させるのが定石だ。映像作家はさらに色調やフォーカスを合わせて、歌が流れる瞬間に周囲の世界が“色を失う”ように見せることで、観客に主観的恐怖を体験させる。
文化的背景の活用も忘れてはならない。『通りゃんせ』にはそこに立つ者だけが知る郷愁と抑圧の物語が重なっており、視覚的メタファーと組み合わせることで、単なる怖さを越えた深みのある恐怖を作り出せる。個人的には、音と映像が相互に補完し合う瞬間、単純なジャンプスケアでは得られない長く残る不安が生まれるのを何度も目撃してきた。そうした演出の積み重ねが、現代ホラーにおける『通りゃんせ』の魅力と怖さの源泉になっているように感じる。