語り口を変えると、物語は悪意の個人化に走ることが多い。『三国志演義』では曹操の狡猾さや
劉備の義侠心がくっきり描かれていて、読者はひとりの策士が民衆を操る光景を想像しやすい。物語は対立と象徴性を求めるから、単純な善悪の線引きをするのが都合いいんだ。
史実を見ると、民衆を誑かす行為はもっと「分担」されている。地元の豪族、役人、僧侶や商人、場合によっては盗賊や徴募屋までが情報操作や利益誘導に関与する。飢饉や戦乱で不安が高まれば、噂や伝聞が暴走して民意が急変する。こうした集合的なメカニズムは、ひとりの天才的悪党による演説や陰謀劇とは根本的に趣が違う。
加えて史料そのものが偏っていることも忘れたくない。後世の編纂者や文学者が素材を脚色し、道徳的な教訓を付与する。だから物語で見せる「民衆を誑かす悪役」は、史実の断片と創作の混交だと僕は受け止めている。