昔話の文脈で
とりもちを見ると、その物質性が語りの重心になっているように感じられる。粘りつく物質という具体性が、登場人物の行動や宿命を可視化するからだ。私は子どもの頃、祖父から田舎の猟具や捕り方の話を聞いた記憶があって、とりもちの匂いや手触りまでは伝わらないまでも「粘る」イメージが物語の陰影を深めることを覚えている。民話ではしばしば鳥や獣を捕らえる手段として描かれるが、同時に、人を引き止める比喩、逃れられない因果、あるいは関係性の
束縛を象徴する道具として機能することが多い。
民話解釈の観点からは二層に分けて考えると分かりやすい。ひとつは実用的・技術的意味で、とりもちは生活知や地域固有の技術を表している。狩猟や糧を得る知恵が物語に織り込まれることで、共同体の記憶と教訓が伝えられるのだ。もうひとつは象徴的意味で、粘着という属性が「逃げられない」「絡め取られる」といった感情や社会的拘束を象徴する。欲望に囚われる者、嘘や裏切りによって自らを動けなくする者、あるいは誰かを守ろうとして逆に縛られてしまう者──こうした人間像がとりもちの描写によって鮮明になる。
さらに興味深いのは、とりもちが善悪どちらの側面も担える点だ。
狩人の技として賛美される場合もあれば、他者を
陥れるための卑劣な罠として非難されることもある。物語の語り口や登場人物の位置づけによって、とりもちは道具としての中立性を失い、価値判断の媒体へと変わる。民話は場面を通じて共同体の倫理や恐れ、技術への畏怖を同時に伝える媒体だから、とりもちのような身近な物が象徴的に重ねられることで物語に深さが生まれると私は感じている。