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映画版を観て最初に気付いたのは、語りの“余白”が意図的に削られていることだった。原作の一番の特徴は、主人公の細かな内省や哲学的な往復が長々と続くところで、吸血鬼という存在に対する倫理的・存在論的な問いかけが積み重なる。その部分は編集でかなり圧縮され、結果として場面転換がスムーズになった代わりに、登場人物同士の微妙な心理的駆け引きや疑念の膨らみが薄くなっている。
映像のテンポ感を優先するため、原作に散在する短編的な回想や細部の説明、例えば血や痛みの描写に関する延々とした比喩や断片的エピソードは割愛された。だからこそ、映画は視覚的な迫力で魅せるけれど、読んだときに感じる重層性や余韻は少し薄れていると感じる。それでも映像として再構築された強度は別の魅力を生んでいて、どちらが優れているかは好みの問題だと思う。
語り口の順序変更が意図的に行われたことで、説明的な橋渡しの場面がまるごと消えた箇所がある。原作は時系列と語り手の回想が頻繁に入れ替わって、過去の断片が現在に差し込まれる構造を取っている。映画ではそれを一本の流れにまとめるため、細かな挿話や“起きた直後の細部”が省略され、読者が得られる因果の手触りが薄まっている。
具体的には、ある夜の出来事から翌朝に至るまでの身体的変化や、傷の描写に関する数ページ単位のモノローグが削られている。そうしたカットは映像のテンポを良くする反面、主人公の身体感覚と精神状態の連続性を感じ取る余地を奪ってしまう。個人的には、あの連続性が物語の不安定さを支えていただけに、編集で失われた部分は惜しまれる。
編集の都合でカットされた要素として、日常に根ざしたちょっとした“適応の描写”が挙げられる。原作では、吸血鬼になった後の食生活や傷の癒え方、夜の身体感覚の違和感といった細やかな描写が何ページにもわたって続き、主人公が新しい存在に慣れていく過程が丁寧に描かれている。映画はそうした日常性の積み重ねを簡略化して、核心となる事件やアクションに尺を割いた。
そのため、観客には二人の関係が急接近して見える場面がある一方で、微妙な距離感の変化や互いの習慣がすり合わされる瞬間が薄い。映像作品としての潔さはあるが、原作の“徐々に変わる生活感”を楽しんでいた身としては、そこが惜しく感じられた。
文体的な遊びや冗長な修辞が切り落とされている点に注目したい。原作には言葉遊びや繰り返しの修辞、長い比喩やリスト的な描写が多用されており、それらが独特のリズムを作っていた。映像化では音声やカットでリズムを補うため、そうした“言葉そのものの芸”はかなり短縮されている。
結果として、映画はより直線的で理解しやすい語りになったが、原作で感じられた言葉の重さや遊び心、読んでいるときに生まれる余白は減ってしまった。言語表現による高密度な情緒が好きな身としては、そこが最も編集での損失として感じる部分だ。
余韻を残す短いコーダ的な場面が映像版では削られていて、そこが個人的には惜しい。原作の最後近くには、主要な事件が解決した後に差し込まれる短い描写や、小さな会話、登場人物のその後を仄めかす断片がある。こうした余白は読者に余韻を投げかけて余韻を膨らませる役割を果たすのだが、編集によって物語を締めるための簡潔なラストに差し替えられた。
つまり、映画は終盤の強いイメージで観客を引き留めるが、原作のように静かな余情でページを閉じる体験は薄まっている。どちらも魅力的だが、静かな余韻を味わいたいときは原作に戻るのが良いと感じている。