5 回答
方言や俗語が文章の色を決めている場面では、僕が重視するのは機能の置換だ。つまり、原語の方言が持つ社会的情報——年齢、教育水準、地域性、親密さの度合い——をまず抽出し、それと同じ効果を与える表現を目標言語で探す。
中編作品(便宜上'中編の方言会話')の中で、ある老年の登場人物が特定の言い回しを繰り返していたときは、直訳ではなく近い訛り感を持つ語彙に置き換え、その上で注釈を一つ添えた。完全に等価な方言が存在しない場合、やや古めの口語表現や語尾の工夫でニュアンスを再現することが多い。注釈は控えめにして、読書の流れを妨げないよう気をつけているが、読み手に文化的手触りを残すことは諦めない。
注釈を最小限に留めたい場面もある。僕が悩むのは、読者の没入感を損ねずにどうやって難読表現の背景を伝えるかという点だ。解決策としては、章末に簡潔な用語集をつけることが有効だと感じている。
グロッサリー形式にすれば本文はすっきり保てるし、必要な読者は参照できる。さらに、重要な語句だけは短い括弧内の補足で済ませ、残りは一括で後ろにまとめる。編集者と相談して注の有無や量を決めることも多く、時には訳者序文で翻訳方針を明示して、読者の期待を整えるやり方も取る。読みやすさと忠実性の両立を常に念頭に置いている。
言葉遊びや漢字の字面そのものを楽しむ箇所に出会うと、俺はまず「遊び」の核を見定める。揶揄なのか多義性の提示なのか、あるいは音の響き自体が魅力なのか。そこを押さえると、翻訳で残すべき要素が見えてくる。
詩的で漢字の掛け合わせが多い章(ここでは'詩的章')では、原文の字義を注記に残しつつ、本文では音や印象を優先した訳を置くことがある。たとえば一語に二つの読みが込められているなら、訳文で別表現を並列的に置いて読者に「二重」になっている感覚を伝えることができる。また、訳注で原文の字面と可能な読みの一覧を示し、訳者がどの意味を選んだのかを透明にする。そうすることで、原文の遊び心を尊重しながら翻訳としての整合性も保てる。
最後に、手書き風や崩し字の表現に触れるときの考え方を書いておく。僕はまず視覚的効果と意味情報のどちらを優先するかを決める。原文が視覚的効果を主張しているなら、その雰囲気を訳文の表記や章内のレイアウトで反映させるが、意味の不確定さが物語上重要なら、注釈で不確かな読みを説明することにする。
たとえばある作品の手紙断片(便宜上'手紙の断片')では、判読できない部分に角括弧で[判読不能]を入れ、訳注で推定読みや別解を列挙した。この方法だと原文の不確かさを読者に共有でき、翻訳者の解釈も明確に伝わる。どの方法を選んでも、根底にあるのは原作の声を尊重する姿勢だ。
翻訳の現場でよく直面するのは、原文が一つの漢字に複数の読みや意味を込めているケースだ。僕はまず、その重層性を分析するところから始める。登場人物の年齢や文脈、直前の語句との関係を洗い出し、どの読みが物語上もっとも意味を持つかを判断する。
ある短編(ここでは便宜上'初期短編'と呼ぶ)の冒頭で見られるような、洒落や語感重視の表現は、一義的な訳語に落とし込むと色彩が失われがちだ。だからこそ本文には自然な訳語を置き、脚注や訳注で原字や掛詞の説明を添えることが多い。読みをわざと残すためにカッコ内に原語の読みを示す手法も有効で、読者が二重の意味に気付けるよう工夫する。
最終的には、翻訳は読者に体験を渡す作業だと考えていて、意味の層を保ちながら読みやすさを確保するバランスを常に意識している。翻訳メモを残しておくと、後の校正や再検討がずっと楽になる。納得できる落としどころを見つけたときの達成感はやはり大きい。